ノート:大山捨松

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改名提案[編集]

改名提案をしました。理由と改名案は以下の通りです:

  1. 明治以降の女性の人物伝では、当該人物が結婚している場合、記事名には旧姓ではなく結婚後の姓を使用することが通例となっている(例:下田歌子与謝野晶子野上弥生子三木睦子森山眞弓谷亮子など)。
  2. 捨松と一緒に米国留学した永井繁子も、結婚後の姓である「瓜生」を冠した瓜生繁子になっている。
  3. 久野明子著の『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』や、大山柏著の『金星の追憶 — 母の生涯と我が思い出』などでは「大山捨松」として紹介されている。
  4. 鹿鳴館を題材にしたさまざまな小説・舞台・映画・ドラマなどにも「大山捨松」が多く登場しており、その知名度は高い。
  5. ということで、記事名には「大山捨松」が適切ではないか。

ただしすでに大山捨松山川捨松へのリダイレクトとして存在するので、Wikipedia:移動依頼を行う必要があります。

いかがでしょうか。みなさまの御意見をお待ちいたします。PANYNJ 2007年8月22日 (水) 17:37 (UTC)[返信]

初めまして。改名提案の件拝読させていただきました。理由の1,2,3は最もその通りと思うのですが、4の知名度で言うと、googleの検索結果(2007年8月23日時点)では「山川捨松」で1650件、「大山捨松」で1530件、と、わずかに山川捨松の方が多い状況ですね。幕末会津藩を扱ったHPなどのほとんどが「山川捨松」で書いていることによると思われますが。他の方の意見も待ちたいと思います。 --こぶまき 2007年8月23日 (木) 08:40 (UTC)[返信]

前畑秀子吉行あぐり荻野吟子などは旧姓が使用されていますね。個人的には教科書に山川捨松が使われていたので、「山川」を推したいですが、公爵夫人としての功績も大きく難しいですね。女性の記事名については実家姓、婚家姓、名前のみ、通称、院号、候名とばらばらで統一されていないので、一度議論が必要かと思います。220.62.113.253 2007年8月24日 (金) 09:28 (UTC)[返信]

  • 吉行あぐりは旧姓というか最初の夫の姓ですが。

山川出版社の日本史用語集(高校教科書に準拠)では「山川捨松」、旺文社の百科事典では「大山捨松」でした。ご参考まで。(補足:日本史用語集においては、「女子留学生」の項目に統合されていることから考えても、日本初の女子留学生としての面に重きを置いているからかと思われます)--黒毛金眼九尾猫 2007年11月1日 (木) 15:33 (UTC)[返信]

再提案[編集]

大山捨松がいいです。116.80.217.189 2010年6月26日 (土) 07:27 (UTC)[返信]

3年前、なぜ改名まで至らずに終わったのか不明ですが、理由としてもっともなので再提案します。--rshiba 2010年6月26日 (土) 11:20 (UTC)[返信]
1週間経過し、反対が出なかったので、改名を実施しました。--rshiba 2010年7月3日 (土) 11:21 (UTC)[返信]
ShikiHでございます。本文中に「やまかわすてまつ」という読みが一箇所もなかったため、グーグルではこの読みで、この記事がヒットしなくなっていました。11月6日に記事を修正したところ、現在は検索できるようになったのでご報告します。編集者におかれては、検索されやすさを念頭においてくださると幸いです。--ShikiH 2010年11月10日 (水) 15:07 (UTC)[返信]

infobox[編集]

鹿両性証明さんの作成されたinfobox それなりに見やすいし、利便性を感じられますが、削除の対象となるものでしょうか?

再提案[編集]

以前は看護=女性 看護士=男性でしたが、現在は看護師で統一されています。 ですから、看護士という表記は誤りです。訂正を求めます。--利用者:小島恒二小島恒二 2011年1月15日 (土) 10:47 (UTC)[返信]

関連項目の看護士のことですね。これは、単に前の人が打ち間違っただけだと思うので、直しました。--ShikiH 2011年1月15日 (土) 12:32 (UTC)[返信]

会津戦争時について[編集]

まずよく書かれた記事であることに敬意を表したいと思います。さて「生い立ち」と「恋愛結婚」節の会津戦争時の記述ですが、予備知識なしでこの記事を読まれた方は、会津戦に際して大山巌(以下「大山」)が始終砲兵隊の指揮を執っていたと受け取ってしまうのではないでしょうか?大山は旧暦8月23日、つまり若松城攻撃の初日に負傷し翌日三春へ後送され入院。退院が9月21日で開城がその翌日。白河経由で会津に入らず帰還します。従って大山本人が砲撃を指揮したのは1日か2日です。山川大蔵の妻が戦死したのは山川入城後ですので、妻戦死の際大山は戦場を離れていたわけです。大山は先任砲兵指揮官ですから「大山指揮下の砲兵隊」が雨霰のごとく砲撃をしたという意味で書かれているかとは思いますが、脚注の形でも構いませんので、なんらかのフォローが必要かと思われます。いかがでしょうか?--Stingfield会話2012年8月21日 (火) 14:02 (UTC)[返信]

注釈を加えました。--Stingfield会話2012年9月7日 (金) 12:28 (UTC)[返信]

脚注に使用していない関連資料の分別(提案)[編集]

本文の脚注を非常に充実された匿名利用者の126.108.74.23さんには、なまなかでないご努力に頭が下がります。典拠が明らかになるとともに、列挙された資料が本文で使用されたか否か明確になったと考えます。記事の充実に期待して書誌を調べ「関連資料」節に加えたものの、残念ながら国会図書館内のみの閲覧資料あるいは遠隔の資料しか見つからず、お役に立たなかった点はご容赦ください。

そこで、周辺資料すなわち脚注に使わなかったものは「関連資料」節に移すよう提案します。具体的にはrefタグを解除された雑誌記事類です。もしそれらを加筆にご利用でしたら、お手隙のおりにぜひその箇所に脚注として記されるようお奨めします。

また編集要約欄に「要ページ番号」について提示され参照方法に言及されましたが、参照方法テンプレートが指摘する問題点は、脚注にて引用を示したものを「参考文献」節に置き、信頼性を担保するという点です。言い換えるなら、「関連資料」節の資料にページ番号が添えてありますので、記事執筆にご使用のものは参考文献欄に移して行く、そうでないものは関連資料節に寄せるという方向でいかがでしょうか。

2週間ほど待機して分別をしたく、よろしくご検討願います。

--Omotecho会話2021年2月19日 (金) 06:11 (UTC)[返信]

移動については私の方では特に異存はありません。よろしくおねがいいたします。なお要出典が貼付けされました洋風夫妻の節の大半と「ママちゃん」の呼称は児島襄『大山巌』で読んだ記憶があります。原本が手元にないためはっきりしたことは言えませんが。--126.108.74.23 2021年2月20日 (土) 17:29 (UTC)[返信]