ノート:土持親成

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

土持親成の「良将」との表記への疑問提示

 親成について語られるとき、土持家累代に於いて文武両道の良将との記述に関して、確かに資料に書かれている事なのですが、これは間違っているのではないかという疑問です。

 親成が実際行った事柄から見ると、伊東家が凋落の一途を辿る中、援軍がほぼない状態の門川城攻略に失敗していますし、大友・島津・伊東各氏の状況を判断して行動したのでしょうが、見事にそれが悉く裏目にでてあっけなく家を滅亡させました。はたしてや、これが良将でしょうか?

 ならば何故、親成をして良将といわさしめるか。私は逆説の日本史などの著者・井沢元彦氏の複数の著書に言うところの状態、「日本人は言霊を重視し、怨霊を鎮めるために真実ではないことを言うことがある。」が親成にも当てはまる。つまり、親成が本当に祟った(そんなことはあるわけはないが)か、若しくは祟ったと周りが考えるのに足りるだけの状況があったので、親成を鎮魂するために優秀であったと持ち上げた。と考えた方が腑に落ちるのです。

 実際、親成が「祟るぞ」と言ったという様な記述も残されていますし、ものの見事に土持家を滅ぼした後の耳川の戦い(高城川の戦い)で敗北し、大友家はボロボロになりました。これではいかにも祟りが利いたように見えます。

 あとは「あれでは祟りたくなるな」と言う状況が事前にあったのであれば完全で、私が注目するのは「佐伯宗天が、親成は助命されると考えていた。」という点です。宗天程の武将がその様に考えていた。と、いう事は逆に言えば本当は助けるのが正しかったのではないでしょうか。それが処刑という事態になったのであれば正しく符合すると愚考しました。

 このあたり当時の慣習など詳しい方、是非ご教示願いたくお願いいたします。

--遊霊 2008年7月28日 (月) 12:04 (UTC)[返信]

質問の答えではありませんが、本日の削除理由とあわせ一言書きます。遊霊様の言う「土持親成の「良将」との表記への疑問」ですが、議論になっているという出典を示す必要があります。「「あれでは祟りたくなるな」と言う状況が事前にあったのであれば完全」と質問されていますが、状況があったとしても出典が無いと独自研究です。これが無いと単に遊霊様の独自研究になってしまいます。本文でも、井沢元彦氏の論法を土持親成に適用する出典が必須です。このため一旦削除しました。井沢元彦氏の著書で指摘されているなら題名を示してください。復帰時は出典をお願いします。Wikipedia:検証可能性wikipedia:独自研究は載せないを参照して見てください。投稿者自身が歴史研究する場ではありません。--KurmUmy 2008年11月7日 (金) 08:59 (UTC)[返信]