ノート:名鉄安城支線

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「新安城」について[編集]

南安城 - 安城間に設置された貨物駅[1]で、当初から書類上安城駅は別に存在するようです。1951年に旅客営業を始めたのは安城駅であって、新安城駅を改称したわけではないと思います。--210.48.133.123 2020年5月19日 (火) 07:29 (UTC)[返信]

関連文書を時系列順に並べると以下の通りです。
  • 1: 南安城安城間貨物連絡線敷設ノ件
    • 南安城停車場省安城間貨物連絡線敷設ノ件 (3/16)
    • 南安城停車場構外側線敷設ノ件 (4/16)(5/16)
    • 南安城停車場構外側貨物連絡線敷設認可申請書 (7/16)
  • 2: 省線連絡ニ付鉄道局長承認書写提出ノ件
  • 3: 停車場新設ノ件
    • 本停車場ハ別段設備ナキモ単ニ省・社貸切貨車ノ受渡ノ点トナサムトスルモノニシテ支障ナシ(1/4)
  • 4: 貨物運輸開始ノ件
    • 略図(3/20)
    • 碧海電気鉄道南安城・省安城間貨物連絡線敷設工事竣工監査報告(4/20)
    • 既設南安城停車場ヨリ…(中略)…新設新安城に至ル(4/20)
    • 停車場表(6/20)
    • 省安城停車場ノ省社連絡部分ニ…(9/20)
当初は南安城駅の構外側線として計画されていたものが1の段階で省線安城駅との貨物連絡線に変更され、3で新安城を置く形に変更したことが伺えます。ただし新安城 - 省線安城駅間は省社連絡の側線扱いなのか4の停車場表には南安城・新安城の2停車場しかなく、(省線)安城駅は碧海電鉄の所属ではないことになっています。以後は既存の資料(社史、地方鉄道及軌道一覧官報など)とも一致します。
したがって少なくとも貨物線時代は省線(→国鉄)安城駅に隣接する新安城駅のみが碧電(→名鉄)所属であったと言えるかと思いますが、1951年の旅客営業開始時に同時に国鉄と共同使用駅となった事を考えると、新安城駅の単純改称というより国鉄安城駅に統合されたと見ることもできますね。改めて使用した書籍を見返すと「乗り入れる」「統合」という表現も散見され、どちらともとれそうです。なお社史の記載は年表と各種統計データのみで本文では愛知国体に触れる場面でも言及なしでした。--ButuCC+Mtp 2020年5月19日 (火) 12:27 (UTC)[返信]

1951年以前は旅客ホームへの線路は存在しなかったわけですから、南安城から1059mとすると安城駅ホーム付近までを本線とせざるを得ないかと思います(南安城駅 - 安城駅東駐車場の距離は約800m)。碧電に安城が存在しないとすると、運輸開始時の新安城は安城駅東駐車場の位置ではなく安城駅ホーム付近に存在したことになり、旅客ホームへの線路が建設される1951年以前は存在しない部分に対して営業キロを設定して運賃を収受していたことになりますね。それとも安城駅ホーム付近まで600V電化されていて碧電の車両と乗務員が運行したのでしょうか。東海道本線の1500V電化は1953年なので、1951年以前に限れば不可能ではありません。愛知国体での旅客扱いが国鉄安城駅で行われたのか安城駅東駐車場の位置に仮設ホームを設置して行われたのかがわかれば判断材料として使えるかもしれません。--210.48.133.123 2020年5月20日 (水) 01:15 (UTC)[返信]

すみません、「安城駅東駐車場の位置」というのは私の方では全く意識してなかった位置情報なのですが、この地点が意味を持つ出典か何かございますか。私は「安城駅東駐車場の位置」は開業時から旅客化を経て廃止されるまで基準(駅中心)となったことは一度もないという認識です。
貨物運輸開始ノ件の橋梁表(7/20)に「下追田悪水橋梁」(0.957km地点)があるので貨物線時代より追田川以西まで線路が伸びていたのは確実です(新安城駅は1.05957km地点、住所は安城町大字安城字東明治17の3。当時の詳細な地名が分かれば白黒はっきりするのですが、「安城駅東駐車場の位置」の当時の地名が分かりません)。旅客化時の配線変更や設備改良については確認できていませんが(ホームも旅客化時に新設されたのか、従来からあった貨物ホームの流用かも不明。ただ、愛知国体の臨時輸送で「新安城駅にも駅名標が立った」と【白井昭「600V時代の名鉄西尾蒲郡線 (後編)」】に記載あるので、従前から駅名標が立てられるような場所があったのは確か)、線路自体は旅客化時にホームが置かれた地点とさほど変わらない所まで開業時からあったことになります。記事掲載の空中写真では「安城駅東駐車場の位置」付近まで構内が広がってそうに見えますが、新安城駅中心は開業時より追田川より西ですから営業キロの設定に矛盾はないでしょう。電気設備概要(8/20)にある電線延長も1.05kmとあるので電化も安城駅のすぐ傍まで行われています。
旅客化時の「新安城駅→安城駅」については先述した通り改称か統合か検討の余地があると思いますが、従来の記述で改称とされているのは駅中心の位置が移動していないことも理由の一つとしてあるでしょう。もし新安城駅が「安城駅東駐車場の位置」だったとしたら旅客化時に追田川以西に移転したことになりますが、1951年の出来事を移転と表現する資料は見かけたことがないです。--ButuCC+Mtp 2020年5月20日 (水) 15:14 (UTC)[返信]

安城駅東駐車場云々は、600V車の機回しが必要であることによる推測なので、確たる根拠があったわけではないです。ご指摘を参考にさらに調べてみました。

都市計画図を見ると線路敷だけ区画整理されずに安城町東明治のまま残っているのがわかりますが、17-1,17-2ともに踏切と用水(追田川は準用河川としての名称であり、正式名称は明治用水東井筋)の間にあり、17-3はない(おそらく朝日町に吸収)ものの貨物線の国鉄との境界に当たる可能性が高いです。航空写真を見ればわかりますが、安城駅1番線建設前はこのあたりで側線が分岐しており、安城駅東駐車場の位置で機回しをしてから用水を越えて200mほど推進運転で押し込んだのなら、営業キロに関しては理屈は通りますね。旅客ホームは安城町西明治→御幸本町でしょうから、「さほど変わらない」ものの踏切を挟んだ反対側で、位置は異なると言えます。

貨物ホームがないことは上の資料でわかりますし、1948年の航空写真で見ても駅名標が立った場所には達していなかったと考えるべきでしょうが、かつての東名古屋港駅同様、貨物の営業キロをベースに旅客営業を行っていたということならば、新安城→安城の改称としても問題はないことになります。--210.48.133.123 2020年5月21日 (木) 01:13 (UTC)[返信]