ノート:古賀政男

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1928年(昭和3年)秋の定期演奏会の会場について[編集]

古賀政男の自伝(『自伝 わが心の歌』 展望社、2001年)によれば会場は明大記念館ではなく、日本青年館明治神宮外苑に隣接)となっています(同書、96頁)。これは古賀の記憶違いですか? 念のために確認したいと思います。--ブルーメンタール会話2019年4月24日 (水) 01:07 (UTC)[返信]

厳密に言えば「日本青年館」ですね。

佐藤千夜子さんとの出合い

帰国してからの私たちは、すぐに秋の演奏会の準備にとりかかった。私にとっても、在学中最後の演奏会であったので、会場は日本青年会館を使うことにした。このホールは、その頃東京でも有数なコンサート会場として知られていたのである。

会場が大きくなれば、それだけ聴衆を集める企画を立てなくてはならない。その頃人気歌手に佐藤千夜子さんという方がビクターにおられた。『波浮の港』『東京行進曲』などを唄って、その頃の女性歌手では圧倒的な人気を誇っていたのであった。もし佐藤さんが出演されるなら日本青年会館でもたちどころに満員になってしまう。そこで、ものは試しとお願いに行ったところが、「え、よござんすとも」と、いとも気軽に引き受けて下さった。そこで私は演奏会の第三部に特別番組をつけて、『影を慕いて』を歌っていただくことにした。会場は大入り満員だった。明大マンドリン・クラブ創設以来のにぎやかさだった。

盛大な演奏会も無事終って、われわれはこの夜のヒロイン千夜子さんを囲んで新宿喫茶店に集まった。 — 『自伝 わが心の歌』 96-97頁

新宿の喫茶店打ち上げ…というのも変ですね。コンサート会場が明大講堂なら、わざわざ新宿に移動する必要はないはずです。

大正期から流行した喫茶店と大正末期以降に酒類・洋食を兼売することで「カフェー」の通称を得た風俗営業的喫茶店は、駿河台下のすずらん通りの南側一帯にネオンも眩い通称「喫茶街」を形成した。 — 『明治大学百年史』 第四巻、182頁

--ブルーメンタール会話2019年4月26日 (金) 01:10 (UTC)[返信]

ありがとうございます。菊池氏の記述に誤りがあることに同意します。--Hirewean会話2019年4月26日 (金) 01:45 (UTC)[返信]

ちょっと待ってください。別の文献によれば演奏会場はやはり明大講堂だったようです。

『誰か故郷を…』(茂木大輔、講談社、1979年)では

(なおこの時の会場が「日本青年会館」、「青山の日本館」などまちまちに伝えられているが、 プログラムに明大講堂であったことははっきり残っている)。 — 68頁

『青春よ永遠に:明治大学マンドリン倶楽部半世紀の歩み』(明治大学マンドリン倶楽部50年史編纂委員会、1972年)では

第13回 昭和3年11月25日(日) 明治大学記念館講堂 — 185頁

となっています。どうやら古賀の記憶ミスのようです。失礼しました。--ブルーメンタール会話2019年4月29日 (月) 00:37 (UTC)[返信]

  • 綿密な調査ありがとうございます。説得力のある古賀の証言内容が不思議ですが、もしかしたら会場を提案した事実と後年の佐藤出演の演奏会の記憶がごっちゃになっているのかも知れませんね。--Hirewean会話2019年4月29日 (月) 08:52 (UTC)[返信]