ノート:原子爆弾/原子爆弾を巡る論争

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原子爆弾投下都市の選定経過[編集]

広島と長崎が原子爆弾の目標となった経過[1]は、以下のとおりである。

1943年5月5日軍事政策委員会、最初の原子爆弾使用について議論され、トラック島に集結する日本艦隊に投下するのがよいというのが大方の意見であった[2]

1944年11月24日~翌3月9日 空爆第一期。軍需工場を主要な目標とした精密爆撃の時期。ただし、カーティス・ルメイ陸軍少将による焼夷弾爆撃も実験的に始められている。

1945年1月16日京都市に対するB29単機空爆。当時、日本で大空襲の前触れ「悪魔の使い」と恐れられていたものである可能性がある[2]

1945年3月10日6月15日 空爆第二期。大都市の市街地に対する焼夷弾爆撃の時期。

1945年3月10日 東京大空襲

1945年3月12日 名古屋大空襲

1945年3月13日 大阪大空襲

1945年3月17日 神戸大空襲

1945年4月中旬~5月中旬 沖縄上陸作戦を支援するために九州と四国の飛行場を重点的に爆撃したので、大都市への焼夷弾爆撃が中断した時期。そのため京都大空襲が遅れた[2]

1945年4月27日第一回目標選定委員会で、日本本土への爆撃状況が報告された[2]

第20航空軍は、邪魔な石は残らず取り除くという第一の目的をもって次の都市を系統的に爆撃しつつある。東京市横浜市名古屋市大阪市京都市神戸市八幡市長崎市

1945年5月10日-11日第二回目標選定委員会、アメリカ合衆国ロスアラモスにあるオッペンハイマー博士の執務室で、8月初めに使用予定の2発の原子爆弾の投下目標として、次の4都市がはじめて選定された[2]

  1. 京都市 :AA級目標
  2. 広島市 :AA級目標
  3. 横浜市 :A級目標
  4. 小倉市 :A級目標

このとき、スターンズ博士は以下の3基準を示している[2]

  • 直径3マイルを超える大きな都市地域にある重要目標であること。
  • 爆風によって効果的に破壊しうむものであること。
  • 来る8月まで爆撃されないままでありそうなもの。

また、原子爆弾の投下作戦の成功のために全作戦の完全なリハーサルが必要とされ、パンプキン爆弾とよばれる原子爆弾と同じ形状の模擬爆弾を使って日本本土での練習が7月20日から始められた[2]

1945年5月28日第三回目標選定委員会、京都市広島市新潟市に投下する地点について重要な決定がされ、横浜市小倉市が目標から外された[2]

  • 投下地点は、気象条件によって都度、基地で決定する。
  • 投下地点は、工業地域の位置に限定しない。
  • 投下地点は、都市の中心に投下するよう努めて、1発で完全に破壊する。

原爆投下専門部隊(第509混成群団)の各搭乗員ごとに最高5回のリハーサルが望まれ、50発のパンプキン爆弾が投下された[2]

1945年5月29日横浜大空襲

1945年6月1日暫定委員会(委員長スチムソン陸軍長官)は、次の決定をした[2]

原爆は日本に対してできるだけ早期に使用すべきであり、それは労働者の住宅に囲まれた軍需工場に対して使用すべきである。その際、原爆について何らの事前警告もしてはならない。

この経過のなかで、4つの目標都市のうち京都は、次の理由から第一候補地とされていた[2]

  • 人口100万を超す大都市であること。
  • 日本の昔の首都であること。
  • 多数の避難民と罹災工業が流れ込みつつあったこと。
  • 小さな軍需工場が多数存在していること。
  • 原子爆弾の威力を正確に測定しうる十分な広さの市街地を持っていること。

これに対して、ヘンリー・スチムソン陸軍長官は、アメリカが戦後の国際政治で占める歴史的地位の優位を守るために京都案に反対した。本人の7月24日の日記には「もし(京都の)除外がなされなければ、かかる無茶な行為によって生ずるであろう残酷な事態のために、その地域において日本人を我々と和解させることが戦後長期間不可能となり、むしろロシア人に接近させることになるだろう(中略)満州でロシアの侵攻があった場合に、日本を合衆国に同調させることを妨げる手段となるであろう、と私は指摘した」とある[2]

1945年6月14日目標が小倉市、広島市、新潟市となり、京都市が除外される。ただし、京都の爆撃禁止は続いた[2]

1945年6月16日~終戦まで 空爆第三期。中小都市への焼夷弾爆撃の時期。

1945年6月30日アメリカ軍統合参謀長会議が、マッカーサー将軍、ニミッツ提督、アーノルド大将に宛てた指令。同様の指令はこれ以前から発せられていて、目標都市は原子爆弾の投下用に予約されていた。そして、この指令はほぼ完全に守られていた[2]

新しい指令が統合参謀長会議によって発せられないかぎり、貴官指揮下のいかなる部隊も、京都広島小倉新潟を攻撃してはならない。
右の指令の件は、この指令を実行するのに必要な最小限の者たちだけの知識にとどめておくこと。

これらの原爆投下目標に選ばれた都市には、ワシントンから爆撃禁止命令が出されて、予約されていた。

1945年7月3日軍部の巻き返しにより、京都が目標として復活した。

1945年7月20日初めてのパンプキン爆弾10発によるリハーサルの敢行。

1945年7月21日ポツダム会談に随行してドイツに滞在していたスチムソン陸軍長官に対して、京都を第一目標にすることの許可を求める電報があったが、スチムソンは直ちにそれを許可しない旨の返電を打ち、京都の除外が決定した[2]

1945年7月24日京都の変わりに長崎市が、地形的に不適当な問題があったが、目標に加えられた。

1945年8月6日 広島市への原子爆弾投下

1945年8月9日 長崎市への原子爆弾投下は、当初小倉市を目標に出撃したものであったが、天候不良のために、第2次目標である長崎市に投下されたものである。

1945年8月14日 7発のパンプキン爆弾が愛知県に投下されたが、これは京都市への原子爆弾投下のリハーサルであったと考えられる[2]

原子爆弾投下理由の論争[編集]

原子爆弾を投下した理由自体についても政治的な争点を含んだ様々な論議があり、今でも論争がかわされる部分である。実際には、これらの理由が複合されて日本への原子爆弾投下が実行されたと考えられる。

アメリカの公式理由[編集]

アメリカ政府筋は、戦後一貫して「日本本土決戦(オリンピック作戦)によって予想される日米双方の犠牲者を救うため、原子爆弾によって日本の抵抗意思を砕き、降伏に導いた」と主張している。

  • 確かに、1945年8月6日8月9日の2回の原子爆弾の投下により200万人を動員する決号作戦の計画が根底から打ち砕かれて、その直後の8月15日に日本は全面降伏した。
  • 反論としては、日本政府は戦争終結のための和平工作についてソ連に仲介を依頼していて、原子爆弾の投下がなくても戦争終結は時間の問題であった。ポツダム宣言受諾への直接的な動機は、8月9日ソ連の対日参戦であり、原子爆弾投下は副次的な動機であったという主張がある。

人体実験説[編集]

実戦での原子爆弾の威力を検証するための人体実験であったとする説[1][3][4]がある。

  • 原子爆弾の投下目標となる都市の選定において、「人類史上最初の原子爆弾を投下するにあたって、できるだけ正確にその威力を測定するため」に「まだ空襲被害をうけていない大都市」を条件とした[2]
  • 投下目標として予約された都市を、攻撃してはいけないという禁止命令が発令されている[2]
  • 原子爆弾の投下時から占領後まで、詳細な映像記録が撮影されている。
  • 占領後にアメリカ軍が行なったこと[5]
    1. 原爆の惨状についての報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占すること。
    2. 広島・長崎の医者たちが治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収すること。
    3. 日本政府に国際赤十字からの医薬品の支援を拒否させ、被爆治療を妨害すること。
    4. 被爆者を治療せず観察する原爆傷害調査委員会(ABCC)を広島・長崎に設置すること。
  • アメリカ国内でも、一般兵を対象に被爆実験を行った[6]

対ソ戦略説[編集]

日本に対する勝利が時間の問題になった時点でアメリカは占領後のことを考えはじめていた。戦後の極東アジアにおけるアメリカの主導権を確保するために、日本の交戦意思を即座に打ち砕き、日本の降伏へのソ連の寄与を下げ、日本を単独で占領するために原子爆弾を投下したという説[要出典]がある。

  • ヨーロッパ戦線でのドイツが、東西分割占領で大部分がソ連に占領された事実への反省があった。
  • 事実1950年には、ソ連と共産主義の脅威の南下から朝鮮戦争が勃発した。
  • このことについては、英米のいくつかの軍人が暴露している。

人種差別説[編集]

アメリカが、日本には原子爆弾を投下し、同じく報復能力の無かったドイツには投下しなかったことは有色人種に対する差別心からきたものであるという説[要出典]もある。

  • アメリカ軍は日本兵の遺骨を故郷への土産にしたり、ペンホルダーをつくるなどとしていた。
  • 反日キャンペーンを張っていた「ライフ」の表紙に、日本兵の遺骨をプレゼントされた少女が戦地の米兵に感謝の手紙を書いている写真が掲載された。

議会説明説[編集]

ある米国政府高官のメモからには、「巨費を投じたマンハッタン計画が原子爆弾を使用しないで終わらせると議会への説明に苦慮する」という別の理由[要出典]も記載されている。

原子爆弾投下の歴史認識[編集]

日本[編集]

日本では広島・長崎への原爆投下を知らない人はほとんどいない。社会科地歴の教材のほか、国語の説明文など、長年学校教育で触れられてきたこと、毎夏テレビのドキュメンタリー番組や平和式典などで報じられているので、少なくとも小学校を卒業する頃にはほとんどの児童が知っている。しかしながら、「核兵器廃絶運動に関心も参加したこともない」とする者が20代、30代の男女で23~25%あり、若年層の問題意識の希薄化が進行している[7]

世界で唯一原子爆弾の直接被害を受けた国ではあるが、この経験は反米感情や報復意識にはつながらず、なぜ惨事が起きたかの追求も行われず、単に2度と起きてはならない悲劇と受け止める傾向が一般的に見られる。被害の惨状を伝え原爆の死者の霊を弔い被爆者の労苦を思う事が、平和を願う行為であるという受け止め方が多い。

これに呼応する形で日本の仏教神道系の一部の宗教指導者が原爆投下を背教による「」と主張し[要出典]、被爆者や遺族の強い反発を受けたことがある。近年では、元長崎市長の本島等同様の発言を行って批判を浴びている。

なお、湾岸戦争以降にアメリカ軍などが使用している劣化ウラン弾については、その放射能による被害があるとして、原水禁などの反戦平和団体が厳重な抗議をおこなっている(詳細は項目参照)。

アメリカ[編集]

戦時中のアメリカ人の日本への敵愾心は強く、市民も含めて大量の死傷者を出した原爆使用には大多数が賛成した。しかし戦後、原爆の様相が明らかになるにつれ、過剰な殺戮ではないのかという懐疑論が一部の人々から表明された。

そのような状況下で、1946年スティムソン陸軍長官名での原爆投下に関する論文が発表された。そこでは、上陸作戦で予想される100万人の米兵の犠牲を避け、戦争の早期の終結のためという原爆投下の大義名分が説明されていた。これ以降、アメリカの大衆の間では、この認識が一般的となっていった。なお戦後の公文書公開に伴い、歴史研究者の間ではこの論文は宣伝の為の物であることは明確になったが、現在でも戦争を早く終わらす為の仕方のない作戦であったという認識は一般的である。

原爆開発はこうした認識以外に、成功した国家的巨大プロジェクト、先進的な科学技術開発の例、冷戦の開始といった様に見られている。なお通常爆弾による被害と原爆による被害は区別しない考え方が多勢で、被爆者という言葉は一般的とはいえない。

上記から原爆の被害を訴えることは、日本が起こした戦争の責任を回避しアメリカの加害の責任のみを不公正に問うことと認識される場合も多い。

中国・韓国[編集]

日本との交戦国であった中国や植民地であった韓国では「原子爆弾によって日本の支配から解放された」という歴史認識が主流であり、学校教育でもそのように教えているようだが、具体的にどのような記述があるかは不明[要出典]。原爆投下の犯罪性、悲惨な被害を省みる姿勢はほとんどなく、そうした点に言及するのは日本の戦争を美化する行為とされがちである。

英語版での議論[編集]

Wikipedia英語版では原爆投下の賛成派と反対派の論争がある。

(各論のディベートはen:Atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki参照)

脚注[編集]

  1. ^ a b 荒井信一「原爆投下への道」東京大学出版会、1985年11月。ISBN13 978-4130230339
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 吉田守男「日本の古都はなぜ空襲を免れたか」朝日文庫、2002年8月。ISBN 4-02-261353-X
  3. ^ 『原爆ホロコースト』の実態
  4. ^ 人体実験説-原爆を語るキーワード」自由主義史観研究会(特集:原爆をいかに語り継ぐべきか)
  5. ^ 芝田進午の寄稿文。毎日新聞1994年9月6日
  6. ^ アメリカ被爆兵士の告白
  7. ^ 中国新聞「『原爆の日』前に全国世論調査」(2001/7/16)