ノート:北白川宮能久親王

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以下の記述は、どうも憶測に過ぎると思われるので本文からノートに移します。Safkan 10:42 2003年10月16日 (UTC)

(北白川宮能久親王は)1882年千葉県八街で実施された陸軍大演習に参加し、この時、前山清一郎(戊辰戦争の奥羽鎮撫総督府参謀)の自宅(八街山田台)を宿とした。ところで、前山清一郎が秋田で奥羽鎮撫総督府参謀として、奥羽列藩と戦争をしていた時に、その奥羽列藩によって北白川宮能久(当時は輪王寺宮)は「東武天皇」に即位させられていたのである。当時の明治政府はそのような事情を知った上で、北白川宮の宿をかっての敵軍(官軍)の参謀を務めた前山清一郎の自宅と定めた。このことは、明治政府が北白川宮をまだ完全に許していないのだと言うことを、暗に宮に認識させようとしたのではなかろうか。

奥羽越列藩同盟を賊軍、薩長政府軍を官軍と書くのはおかしいと思います。 たまたま薩長の側が勝ったから勝手にそう言っているだけであり、同盟側が勝てば逆だったわけです。 戦争当時、そして現在でも片方に正義と正当性があって片方が悪で正当性がなかったと言うわけではありません。 原敬の言うように内戦は単に政見の異同のみが問題とされるべきであって、このような表記は不適切だと思います。 未だにこのような表記や観念がまかり通っていることに首を傾げざるを得ません。

暗殺説[編集]

台湾で実は戦闘死した、という話は聞いたことがありますが、それが「暗殺」だったかどうかは全く別です。--ポコポコ 2010年8月29日 (日) 01:07 (UTC)[返信]

あなたが個人的に聞いたことがあるかないかなんて全くなんの関係もないでしょうよ。暗殺があったのかどうかは不明ですが、「暗殺説」があったのは事実であり、削除された部分にもそのように書かれていたはずです。不当な削除でしょう。