ノート:北条義時

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「流派」の項は必要でしょうか[編集]

「流派」の項は記事「北条氏」にあるものがほぼそのまま使われているようですが、北条義時個人の記事内の項として必要とは思われません。この項の全削除を提案します。--Nao Costas会話2020年10月13日 (火) 15:07 (UTC)[返信]

2023年4月3日の版までの問題点[編集]

通説と新説の混在[編集]

大ナタを振るい一旦ある程度は解消しましたが、『通説』と『新説』(とするのが正しいか分かりませんが、便宜上そう呼びます)が混在しているように感じました。以下従来の版[1]より。

『吾妻鏡』によれば義時は父に代わって政所別当の地位に就いたとされるが、岡田清一は承元3年(1209年)12月以前の政所文書に義時の署判が1通も見られないことを指摘して、元久2年(1205年)の執権就任記事を『吾妻鏡』編者の脚色として実際の就任は実朝が政所を設置する承元3年(1209年)としている。また、長又高夫は執権は評定衆とともに北条泰時によって創設された職で、時政・義時の執権記事は『吾妻鏡』が過去に遡らせた記述であって執権就任そのものが事実ではないとする説を提示している。

とあり、ここでは1205年に義時が執権に就いたというのが吾妻鏡に基づく通説で、それを否定する新説も出ている、という風に書かれています。

しかし後段の「この際(実朝将軍就任時)に義時は政所別当に就任している。」「義時は義盛に代わって侍所別当となり、政所別当と兼務するようになった、この地位は後に「執権」と呼ばれるようになる。」の件は、新説の方を既定事実として書かれていました。これを否定するものではありませんが書き方の上で問題があることと、前述の引用部分で先に記載されていることから、一旦は割愛しています。一方で経歴の項やテンプレートでは義時の執権就任が1205年として扱われており、新説が現在の主流の学説であるようなら何かしらの注釈はあって良いようにも思います。--narumi会話2023年4月5日 (水) 05:02 (UTC)[返信]

義時後継者の扱い[編集]

これも該当部分一旦割愛しましたが、「義時は21歳の時に長男・泰時をもうけており、建久5年(1194年)には元服して幕府行事に義時の後継者として参加するようになっている」との記述がありましたが、当初は北条朝時が嫡男として扱われていたことと矛盾します。出典となっていた呉座氏の著書の書かれ方にもよりますが、記述を復活させるならば時系列の確認("義時の後継者"となったのはいつからなのか)や、注釈の必要性などを慎重に検討する必要があると考えます。--narumi会話2023年4月5日 (水) 05:02 (UTC)[返信]