ノート:加藤民吉

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「逸話」について。[編集]

書かれている内容は確か『佐佐の悪魔、瀬戸の窯神』という歌舞伎で描かれたお話が元になっているようで、さも実話として記述するのは問題があるかと思われます。一応、{{要出典範囲}}を付与しました。こちらで『瀬戸市史』でも漁る時間が取れれば手を入れるかも知れませんが・・・--KAMUI 2010年5月21日 (金) 12:21 (UTC)[返信]

一寸時間が取れたので『瀬戸市史 陶磁史篇 三』などをざっと当たったところ「民吉が偽名を使って潜入した」「現地で技術を手に入れるため家庭を持った」「技術を手に入れたので夜逃げした」説については否定されるものと判断できるようです。民吉は東向寺の十五世・天中を頼って現地入りし、天中の世話で佐世保西方寺の十六世・洞水の元を訪れて、ここから高浜や市ノ瀬の窯への紹介を受けていますが、瀬戸から来た素性を隠していません。藩による窯の調査があって寺に逃げ帰ったことはあったようですが(^_^;
  1. 瀬戸に帰る際、天中が「東向寺の者を尾張に派遣する」旨で手形を取っているようで「偽名を云々」の元ネタかも知れません。
  2. 窯元の娘の一人といわゆる「いい仲」にはなっていたようで、この辺りが「家庭を~」の元ネタかな。
  3. 修行が終わった後に「お礼奉公」までしてるのに夜逃げも無いですわな。
また、上記説の根拠ともなっている「民吉が現地で焼いたとされる複数の銘入り作品」が偽物(瀬戸の技術を全く使っていない)上に、現地で窯を持っていたある人物が関与しており、文化財指定を解除された旨の記述もありました。「逸話」として記述されている内容についても上記作品を売り込む際の説明?が元になっているのでは信頼性もへったくれもない。もう少し調べないととても手が付けられませんが、大改稿になるのは必至ですな・・・--KAMUI 2010年6月5日 (土) 23:13 (UTC)[返信]

全面改稿しました。[編集]

下書きに取りかかって約3ヶ月、もう少し手を入れたい気持ちもあるのですが、明日からせともの祭でもありますし、この辺りで一旦、改稿しておこうと思います :)

民吉の旅程などについては資料にある日付に依るものですが、重要と思われるもの(生まれた日、瀬戸を出立した日、没した日)以外は敢えてリンクを有効にしていません。なお、佐々町自治体史として文中に『佐々町郷土』と『佐々町郷土』が出てきますが、前者は1956年、後者は1981年に刊行されたもので、書き間違いとかではありません。また、参考文献においては贋作に関与したとされる陶芸家の実名が挙げられていますが、存命と思われる・・・つーか、調べて見た限りでは現在も陶芸家として活動しておられたので、本記事では一応名前を伏せています。その点についてはご理解頂きたく思います。--KAMUI 2010年9月10日 (金) 12:09 (UTC)[返信]