ノート:内閣より 在台湾文武諸官員外征従軍者として取扱の件

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資料[編集]

下関条約 全文[編集]

「国立公文書館 アジア歴史資料センター[1]」および『日本外交年表竝主要文書』(原書房)より引用。

  • 件名標題(日本語) 御署名原本・明治二十八年・条約五月十日・日清両国媾和条約及別約
  • 階層 国立公文書館>内閣>御署名原本>明治>明治28年>条約>御署名原本・明治二十八年・条約五月十日・日清両*国媾和条約及別約
  • レファレンスコード A03020213100
  • 言語 jpn
  • 作成者名称 内閣
  • 資料作成年月日 明治28年05月10日
  • 規模 20
  • 組織歴/履歴 内閣


  • 内容

日清講和条約(下関条約)

[文書名] 日清媾和條約
[場所] 下関
[年月日] 1895年4月17日
[出典] 日本外交年表竝主要文書上巻,外務省,165-169頁.
[全文]
明治二八年(一八九五年)四月一七日下關ニ於テ調印
明治二八年(一八九五年)四月二〇日批准
明治二八年(一八九五年)五月八日芝罘ニ於テ批准書交換
明治二八年(一八九五年)五月一三日公布


大日本國皇帝陛下及大清國皇帝陛下ハ兩國及其ノ臣民ニ平和ノ幸福ヲ回復シ且將來紛議ノ端ヲ除クコトヲ欲シ媾和條約ヲ訂結スル爲メニ大日本國皇帝陛下ハ内閣總理大臣從二位勲一等伯爵伊藤博文外務大臣從二位勲一等子爵陸奧宗光ヲ大清國皇帝陛下ハ太子太傅文華殿大學士北洋大臣直隷總督一等肅毅伯李鴻章二品頂戴前出使大臣李經方ヲ各其ノ全權大臣ニ任命セリ因テ各全權大臣ハ互ニ其ノ委任状ヲ示シ其ノ良好妥當ナルヲ認メ以テ左ノ諸條款ヲ協議決定セリ


第一條 清國ハ朝鮮國ノ完全無●{缶へんに欠/ケツ}ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ清國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ


第二條 清國ハ左記ノ土地ノ主權竝ニ該地方ニ在ル城塁、兵器製造所及官有物ヲ永遠日本國ニ割與ス
 左ノ經界内ニ在ル奉天省南部ノ地
鴨緑江口ヨリ該江ヲ溯リ安平河口ニ至リ該河口ヨリ鳳凰城、海城、營口ニ亙リ遼河口ニ至ル折線以南ノ地併セテ前記ノ各城市ヲ包含ス而シテ遼河ヲ以テ界トスル處ハ該河ノ中央ヲ以テ經界トスルコトト知ルヘシ
遼東灣東岸及黄海北岸ニ在テ奉天省ニ屬スル諸島嶼
 臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼
 澎湖列島即英國「グリーンウィチ」東經百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度ノ間ニ在ル諸島嶼


第三條 前條ニ掲載シ附屬地圖ニ示ス所ノ經界線ハ本約批准交換後直チニ日清兩國ヨリ各二名以上ノ境界共同劃定委員ヲ任命シ實地ニ就テ確定スル所アルヘキモノトス而シテ若本約ニ掲記スル所ノ境界ニシテ地形上又ハ施政上ノ點ニ付完全ナラサルニ於テハ該境界劃定委員ハ之ヲ更正スルコトニ任スヘシ
該境界劃定委員ハ成ルヘク速ニ其ノ任務ニ從事シ其ノ任命後一箇年以内ニ之ヲ終了スヘシ
但シ該境界劃定委員ニ於テ更定スル所アルニ當リテ其ノ更定シタル所ニ對シ日清兩國政府ニ於テ可認スル迄ハ本約ニ掲記スル所ノ經界ヲ維持スヘシ


第四條 清國ハ軍費賠償金トシテ庫平銀二億兩ヲ日本國ニ支拂フヘキコトヲ約ス右金額ハ都合八回ニ分チ初回及次回ニハ毎回五千萬兩ヲ支拂フヘシ而シテ初回ノ拂込ハ本約批准交換後六箇月以内ニ次回ノ拂込ハ本約批准交換後十二箇月以内ニ於テスヘシ殘リノ金額ハ六箇年賦ニ分チ其ノ第一次ハ本約批准交換後二箇年以内ニ其ノ第二次ハ本約批准交換後三箇年以内ニ其ノ第三次ハ本約批准交換後四箇年以内ニ其ノ第四次ハ本約批准交換後五箇年以内ニ其ノ第五次ハ本約批准交換後六箇年以内ニ其ノ第六次ハ本約批准交換後七箇年以内ニ支拂フヘシ又初回拂込ノ期日ヨリ以後未タ拂込ヲ了ラサル額ニ對シテハ毎年百分ノ五ノ利子ヲ支拂フヘキモノトス但シ清國ハ何時タリトモ該賠償金ノ全額或ハ其ノ幾分ヲ前以テ一時ニ支拂フコトヲ得ヘシ如シ本約批准交換後三箇年以内ニ該賠償金ノ總額ヲ皆濟スルトキハ總テ利子ヲ免除スヘシ若夫迄ニ二箇年半若ハ更ニ短期ノ利子ヲ拂込ミタルモノアルトキハ之ヲ元金ニ編入スヘシ


第五條 日本國ヘ割興セラレタル地方ノ住民ニシテ右割與セラレタル地方ノ外ニ住居セムト欲スルモノハ自由ニ其ノ所有不動産ヲ賣却シテ退去スルコトヲ得ヘシ其ノ爲メ本約批准交換ノ日ヨリ二箇年間ヲ猶豫スヘシ但シ右年限ノ滿チタルトキハ未タ該地方ヲ去ラサル住民ヲ日本國ノ都合ニ因リ日本國臣民ト視爲スコトアルヘシ
日清兩國政府ハ本約批准交換後直チニ各一名以上ノ委員ヲ臺灣省ヘ派遣シ該省ノ受渡ヲ爲スヘシ而シテ本約批准交換後二箇月以内ニ右受渡ヲ完了スヘシ


第六條 日清兩國間ノ一切ノ條約ハ交戰ノ爲メ消滅シタレハ清國ハ本約批准交換ノ後速ニ全權委員ヲ任命シ日本國全權委員ト通商航海條約及陸路交通貿易ニ關スル約定ヲ締結スヘキコトヲ約ス而シテ現ニ清國ト歐洲各國トノ間ニ存在スル諸條約章程ヲ以テ該日清兩國間諸條約ノ基礎ト爲スヘシ又本約批准交換ノ日ヨリ該諸條約ノ實施ニ至ル迄ハ清國ハ日本國政府官吏商業航海陸路交通貿易工業船舶及臣民ニ對シ總テ最惠國待遇ヲ與フヘシ清國ハ右ノ外左ノ讓與ヲ爲シ而シテ該讓與ハ本約調印ノ日ヨリ六箇月ノ後有效ノモノトス


第一 清國ニ於テ現ニ各外國ニ向テ開キ居ル所ノ各市港ノ外ニ日本國臣民ノ商業住居工業及製造業ノ爲メニ左ノ市港ヲ開クヘシ但シ現ニ清國ノ開市場開港場ニ行ハルル所ト同一ノ條件ニ於テ同一ノ特典及便益ヲ享有スヘキモノトス
 湖北省荊州府沙市
 四川省重慶府
 江蘇省蘇州府
 浙江省杭州府
日本國政府ハ以上列記スル所ノ市港中何レノ處ニモ領事官ヲ置クノ權利アルモノトス


第二 旅客及貨物運送ノ爲メ日本國汽船ノ航路ヲ左記ノ場所ニ迄擴張スヘシ
 揚子江上流湖北省宜昌ヨリ四川省重慶ニ至ル
 上海ヨリ呉淞江及運河ニ入リ蘇州杭州ニ至ル
日清兩國ニ於テ新章程ヲ妥定スル迄ハ前記航路ニ關シ適用シ得ヘキ限ハ外國船舶清國内地水路航行ニ關スル現行章程ヲ施行スヘシ


第三 日本國臣民カ清國内地ニ於テ貨品及生産物ヲ購買シ又ハ其ノ輸入シタル商品ヲ清國内地ヘ運送スルニハ右購買品又ハ運送品ヲ倉入スル爲メ何等ノ税金取立金ヲモ納ムルコトナク一時倉庫ヲ借入ルルノ權利ヲ有スヘシ


第四 日本國臣民ハ清國各開市場開港場ニ於テ自由ニ各種ノ製造業ニ從事スルコトヲ得ヘク又所定ノ輸入税ヲ拂フノミニテ自由ニ各種ノ器械類ヲ清國ヘ輸入スルコトヲ得ヘシ
清國ニ於ケル日本國臣民ノ製造ニ係ル一切ノ貨品ハ各種ノ内國運送税内地賦課金取立金ニ關シ又清國内地ニ於ケル倉入上ノ便益ニ關シ日本國臣民カ清國ヘ輸入シタル商品ト同一ノ取扱ヲ受ケ且同一ノ特典免除ヲ享有スヘキモノトス
此等ノ讓與ニ關シ更ニ章程ヲ規定スルコトヲ要スル場合ニハ之ヲ本條ニ規定スル所ノ通商航海條約中ニ具載スヘキモノトス


第七條 現ニ清國版圖内ニ在ル日本國軍隊ノ撤回ハ本約批准交換後三箇月内ニ於テスヘシ但シ次條ニ載スル所ノ規定ニ從フヘキモノトス


第八條 清國ハ本約ノ規定ヲ誠實ニ施行スヘキ擔保トシテ日本國軍隊ノ一時山東省威海衛ヲ占領スルコトヲ承諾ス而シテ本約ニ規定シタル軍費賠償金ノ初回次回ノ拂込ヲ了リ通商航海條約ノ批准交換ヲ了リタル時ニ當リテ清國政府ニテ右賠償金ノ殘額ノ元利ニ對シ充分適當ナル取極ヲ立テ清國海關税ヲ以テ抵當ト爲スコトヲ承諾スルニ於テハ日本國ハ其ノ軍隊ヲ前記ノ場處ヨリ撤回スヘシ若又之ニ關シ充分適當ナル取極立タサル場合ニハ該賠償金ノ最終回ノ拂込ヲ了リタル時ニ非サレハ撤回セサルヘシ尤通商航海條約ノ批准交換ヲ了リタル後ニ非サレハ軍隊ノ撤回ヲ行ハサルモノト承知スヘシ


第九條 本約批准交換ノ上ハ直チニ其ノ時現ニ有ル所ノ俘虜ヲ還附スヘシ而シテ清國ハ日本國ヨリ斯ク還附セラレタル所ノ俘虜ヲ虐待若ハ處刑セサルヘキコトヲ約ス
日本國臣民ニシテ軍事上ノ間諜若ハ犯罪者ト認メラレタルモノハ清國ニ於テ直チニ解放スヘキコトヲ約シ清國ハ又交戰中日本國軍隊ト種々ノ關係ヲ有シタル清國臣民ニ對シ如何ナル處刑ヲモ爲サス又之ヲ爲サシメサルコトヲ約ス


第十條 本約批准交換ノ日ヨリ攻戰ヲ止息スヘシ


第十一條 本約ハ大日本國皇帝陛下及大清國皇帝陛下ニ於テ批准セラルヘク而シテ右批准ハ芝罘ニ於テ明治二十八年五月八日即光緒二十一年四月十四日ニ交換セラルヘシ
右證據トシテ兩帝國全權大臣ハ茲ニ記名調印スルモノナリ明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日下ノ關ニ於テ二通ヲ作ル


大日本帝國全權辨理大臣
内閣總理大臣從二位勲一等伯爵 伊藤博文 (記名) 印 
大日本帝國全權辨理大臣
外務大臣從二位勲一等子爵 陸奧宗光 (記名) 印
大清帝國欽差頭等全權大臣
太子太傅文華殿大學士北洋大臣
直隷總督一等肅毅伯 李鴻章 (記名) 印
大清帝國欽差全權大臣
二品頂戴前出使大臣 李經方 (記名) 印
(註)附屬地圖ハ之ヲ略ス


議定書

明治二八年(一八九五年)四月一七日下ノ關ニ於テ署名
明治二八年(一八九五年)五月一三日公布


大日本國皇帝陛下ノ政府及大清國皇帝陛下ノ政府ハ本日調印シタル媾和條約中ノ意義ニ付將來誤解ヲ生スルコトヲ避ケムト欲スル目的ヲ以テ雙方ノ全權大臣ハ左ノ約定ニ同意セリ
第一、本日調印セシ媾和條約ニ附スル所ノ英譯文ハ該條約ノ日本文本文及漢文本文ト同一ノ意義ヲ有スルモノタル事ヲ約ス
第二、若該條約ノ日本文本文ト漢文本文トノ間ニ解釋ヲ異ニシタルトキハ前記英譯文ニ依テ決裁スヘキコトヲ約ス
第三、左ニ記名スル所ノ全權大臣ハ本議定書ハ本日調印シタル媾和條約ト同時ニ各兩帝國政府ニ提供シ而シテ該條約批准セラルルトキハ本議定書ニ掲載スル所ノ諸約定モ別ニ正式ノ批准ヲ要セスシテ亦兩帝國政府ノ可認セシモノト看做スヘキコトヲ約ス
右證據トシテ兩帝國全權大臣ハ之ニ記名調印スルモノナリ
明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日下ノ關ニ於テ二通ヲ作ル


大日本帝國全權辨理大臣
内閣總理大臣從二位勲一等伯爵 伊藤博文 (記名) 印
大日本帝國全權辨理大臣
外務大臣從二位勲一等子爵 陸奧宗光 (記名) 印
大清帝國欽差頭等全權大臣
太子太傅文華殿大學士北洋
大臣直隷總督一等肅毅伯 李鴻章 (記名) 印
大清帝國欽差全權大臣
二品頂戴前出使大臣 李經方 (記名) 印


別約

明治二八年(一八九五年)四月一七日下ノ關二於テ調印
明治二八年(一八九五年)四月二〇日批准
明治二八年(一八九五年)五月八日芝罘ニ於テ批准書交換
明治二八年(一八九五年)五月一三日公布


第一條 本日調印シタル媾和條約第八條ノ規定ニ依リテ一時威海衛ヲ占領スヘキ日本國軍隊ハ一旅團ヲ超過セサルヘシ而シテ該條約批准交換ノ日ヨリ清國ハ毎年右一時占領ニ關スル費用ノ四分ノ一庫平銀五十萬兩ヲ支拂フヘシ
第二條 威海衛ニ於ケル一時占領地ハ劉公嶋及威海衛灣ノ全沿岸ヨリ日本里數五里ヲ以テ其ノ區域ト爲スヘシ
右一時占領地ノ經界線ヲ距ルコト日本里數五里ノ地内ニ在リテハ何レノ所タリトモ清國軍隊ノ之ニ近ツキ若ハ之ヲ占領スルコトヲ許ササルヘシ
第三條 一時占領地ノ行政事務ハ仍ホ清國官吏ノ管理ニ歸スルモノトス但シ清國官吏ハ常ニ日本國占領軍司令官カ其ノ軍隊ノ健康安全紀律ニ關シ又ハ之カ維持配置上ニ付必要ト認メ發スル所ノ命令ニ服從スヘキ義務アルモノトス
一時占領地内ニ於テ犯シタル一切ノ軍事上ノ罪科ハ日本國軍務官ノ裁判管轄ニ屬スルモノトス
此ノ別約ハ本日調印シタル媾和條約中ニ悉ク記入シタルト同一效力ヲ有スルモノトス
右證據トシテ兩帝国全權大臣ハ之ニ記名調印スルモノナリ
明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日下ノ關ニ於テ二通ヲ作ル


大日本帝國全權辨理大臣
内閣總理大臣從二位勲一等伯爵 伊藤博文 (記名) 印
大日本帝國全權辨理大臣
外務大臣從二位勲一等子爵 陸奧宗光 (記名) 印
大清帝國欽差頭等全權大臣
太子太傅文華殿大學士北洋
大臣直隷總督一等肅毅伯 李鴻章 (記名) 印
大清帝國欽差全權大臣
二品頂戴前出使大臣 李經方 (記名) 印


『近衛師團台湾征討史』「臺灣島の授受」関連部分(本文5-11ページ)[編集]

「国立公文書館 アジア歴史資料センター[2]」より引用。

  • タイトル : 近衛師団台湾征討史
  • タイトルよみ : コノエ シダン タイワン セイトウシ
  • 責任表示 : 松本正純(紀山)著
  • 出版事項 : 東京:長谷川書店,明29.5
  • 形態 : 341p;19cm
  • NDC分類 : 210.65
  • 著者標目 : 松本,正純
  • 著者標目よみ : マツモト,マサズミ
  • 全国書誌番号 : 40013956
  • 請求記号 : YDM2311
  • 西暦年 : 1896
  • 目次

http://webcatplus-equal.nii.ac.jp/libportal/DocDetail?txt_docid=NCID%3ABN15309813

  • 内容

『近衛師團台湾征討史』(五)-(十一)ページ(原文改行なしのため、可読性に配慮し、適宜改行を加えています)

■發端■

  近衛師團臺灣に向かふ

五月十三日遼東半島還付に係る詔勅出で、従って臺灣全島授受の議決す、是(ここ)に於いて乎(か)、我(わが)近衛師團に命ずるに臺灣征討の任を以てす、

既に消沈せる軍氣復(ま)た頓(とん)に鬱興し病むもの起ち仆(たおる)ゝもの躍(おど)り、眉を軒(あ)げ腕を攘(かゝ)げ、劍に刃し銃(じう)に丸(ぐわん)し曰(いは)く、南荒(なんかう)の孤嶼(こしょ)果たして羽林(うりん)の一蹴に直(あたひ)するに足るかと、

即(すなは)ち二十二日を以て旅順及び大連を發し、舳艫(じくろ)相(あひ)接して臺灣に向かふ、而(しこう)して樺山中將又臺灣總督を以て横濱丸に駕(が)し、廿四(24)日宇品(うじな)を開輪(かいりん)し、水野(みづの)公使以下諸(もろもろ)幕僚を率(ひきゐ)て赴任の途に上(のぼ)る。


■臺灣島(たいわんたう)の授受■

樺山總督五月二十四日宇品を解纜[1]し、廿七日午前八時琉球(りうきう)中城(ちうじやう)灣に抵(いた)る、近衛(このゑ)師團長北白川宮能久親王(きたしらかはのみや よしひさ しんわう)亦(また)薩摩丸に駕し己(すで)に旅順より來(きた)り會(くわい)す、樺山総督即ち薩摩丸に至り、近衛師團長有地(ありち)艦隊司令長官、その他陸海軍諸將に台湾授受に係る訓令を傳(つた)へ、終て先づ中城灣を發して臺灣に向かふ、

淸國欽差李經芳期(き)の如く又海上に在(あつ)て之を待つ、即ち六月二日横濱丸船中に於て李欽差と臺灣授受に關する第一回の商議を開く、我は總督の外(ほか)、水野公使島村書記官通譯(通訳)官仁禮敬之(にれ けいし)大久保利武等席に次す、彼は則(すなは)ち李欽差及(および)通譯官盧永銘(ろ えいめい)陶大均(とう たいきん)なり、

總督李に謂(いっ)て曰く、余(よ)曩(さき。以前)に軍艦を派し、余の來着報ぜむとせしに、港口(こうこう)より頻(しき)りに砲撃(はうげき)して止ます、又兵を三貂角[2]に上陸せしめたるに、亂徒(らんと。亂は乱の旧字)の爲に邀撃[3]せらる、勢ひ亦干戈[4]を動かさざるを得ざるに至れり、閣下(かくか)此際(このさい)將(は)た如何して授受を了せむとするか、

李欽差答(こたへ)て曰(い)ふ、臺灣の民皆(みな)以爲(おもへ)らく[5]、臺灣を帰國に割譲せしは余等父子が馬關談判の結果なりと、是より余等を厭悪(えんを)すること殊(こと)に甚だしく、故に余若(も )し上陸せば直ちに害せられむのみ、且つ島民暴起して政府の命を奉ぜざることは、既に己に家父(李鴻章)より伊藤伯に通牒したり、願はくは閣下上陸を罷(や)め、船中に在て授受の式を擧(あげ)られよ、

と總督云ふ、島民暴起の一事は己に伊藤總理の電報に據(よつ)て之を知る、授受必ずしも上陸を待(まつ)てせず、亦唯(た)だ閣下の所望に任せ船中に於いてすべしと、李欽差喜色満面に溢る、即ち伊藤伯李伯との間に往復せる電文に就(つい)て商議し、総督云ふ、馬關條約に據(よ)れば、城壘(じょうるい)其他(そのた)一切(いっせつ)官有物件悉(ことごと)く皆な目録を作り以て授受せざる可(べか)らず、然れども目下(もくか)の形勢此(この)正式を履(ふ)む能わざれば、寧(むし)ろ其細目を略し、大軆(だいたい)を以て授受するの外(ほか)なし、貴見如何(いかん)、

と李云ふ、誠に貴諭(きゆ)の如し、臺灣は條約によりに依り現に貴國に割譲したる者なれば、其(その)主権亦(また)己に貴國に移る、余は唯だ形式上の授受を爲すに止(とど)まる、且つ余病中を以て長く此地(このち)に留(とど)まり難し、故(ゆへ)に個人の資格を以て姑(しば)らく談話するを許さるれば、余は私交上一の草案を貴覧に供し、異議あらば幸(さいわひ)に示教(しきょう)を請ひ、若し異議なきに於いては、改めて公文と爲し以て速決(そくけつ)せむ、

と總督云ふ、事の速決を望むは同感と雖(いへ)ども、然(し)かも兩國使臣の公會豈に私談を許すべけむや、但(ただ)伊藤總理の訓令もあれば、事に害無き限りは閣下の爲に便宜措置(さち)すべし、

と即ち此(この)日午後二時を以て水野公使島村書記官を派し、李の随員と協議せしむることを約し、午前十時四十五分を以て散會す。

此日午前十一時二十分樺山總督、李の船公義號に至り、再會商議す、

李曰ふ、余病甚(はなはだ)し、余は只形式上授受の任を帯(おび)て來るなれば一刻も速(すみや)かに終局して歸養(きやう)せむことを望む、

と總督曰ふ、洵(まこと)に然り、此(こゝ)に一言(いちごん)すべきは、日來(ぢつらい)我(わが)兵に對し抵抗するは、唯(た)だ島民暴起の餘に出(いづ)と者と思惟(しい)したるに洩底(えいてい)兵營内に於て得たる告示文を見るに、正に是れ貴國官吏が兵勇及び土人に決死邀撃(けっしげいげき)すべしと諭告したるや最も証明なり、豈に怪訝(かいが)に堪ゆ可(べ)けむや、故に余は證(しょう)を擧(あげ)て之を本國政府に通報したり、

と李之を聞き頗(すこぶ)る色動く、眉を蹙(ひそ)めて云ふ、是れ決して弊國政府の與(あづか)り知る所にあらず、共和政府設立の事、亦た余着島(ちゃくとう)の後(のち)之を聞く、渠等(かれら)は己に文武官(ぶんぶかん)を抑留し、命に従ひ本國に還(かへ)ることを許さす、其(その)告示の如きも意(おも)ふに之を脅迫して作爲(さくゐ)せしめたるものなるや必せり、余も亦(また)上陸せば正に此(かく)の如くなるに至らむ、と百方瓣疏(ひゃくはうべんそ)して措(お)かす、

総督は十一時四十五分を以て本艦に還り、繼(つい)で水野公使島村書記官約の如く午後二時公義號に至(いたつ)て李に會す、

李即ち其草案を出(いだ)し示す、水野公使受(うけ)て之を見るに、臺灣紛擾の事を具陳したる一(いつ)の照會文の如き者に過ぎず、

公使云ふ、是れ既に總督の熟知する所なり、今之を公文として公(おうや)けに總督に致すときは両國(りょうごく)委員の間に於て其内亂(ないらん)及び新政府設立等(とう)を認識するの嫌(きらひ)ありて、總督は其鎮壓(ちんあつ)の後(のち)全島の授受を索(もと)むるに至る可し、果たして然らば閣下能(よ)く之に應ずるや否や、故に此(かく)の如き草案は初(はじめ)より提出せざるに如かず、

と李之を聞き大(おほひ)に然りとし、公使の説に從ふ、此時(このとき)公使は別に授受に關(かん)する公文の草案を出(いだ)し示す、李は之を見畢(おわ)りて云ふ、大綱に於て異議なし、その明細目録の調整に至りては、余未だ嘗て脚を臺地に投ぜざれば何(いづ)れの地に何(なん)の物あるやを審(つまびら)かにせず、願(ねがは)くは一(いつ)に閣下の査録するところに從はむのみ、

と公使之を諾す、公使曰ふ、淡水福州間の海底電線は元(も)と臺灣の爲に之を架設する者なれば、此際亦之を受けむ、

と李云ふ、既に海底に在れば素(もと)より余が委任の外に属す、且つ官有私有亦未だ之を審かにせず、と依って之を目録中に加(くわ)へ、異日(いじつ)更に議定することゝ明記するに決す、

李笑(わらつ)て曰く、既に臺灣一省を擧て貴國に付す、一條の海底電線豈に道(いふ)に足らむや、

と商議略(ほ)ぼ決定し、即ち公文書二通を作ることを約し、午後四時公義號を辭(じ)して歸(かへ)る、此夜(このや)九時島村書記官總督の盖印[6]したる公文書を携(たづさ)へ、再び李を公義號に訪問し、李の署名捺印(だいん)を得て即時歸艦す、

是(ここ)に於て臺灣授受の事全くその局を結ぶ、而して李欽差は總督の厚誼(こうぎ)に依り、速(すみやか)に使命を果(はた)したるを謝し、三日午前零時半匆々[7]上海に向(むかつ)て去る


「臺灣島の授受」(5-11ページ)現代語訳

1985年(明治28年)5月27日 午前8時、樺山資紀台湾総督が琉球中城湾に到着。参謀長大島久直少将、民政局長水野遵公使、学務部長伊沢修二らが同行。すでに旅順から薩摩丸で到着していた近衛師団長白川宮能久親王有地品之丞艦隊司令長官、その他陸海軍諸将と会見。台湾授受に関する訓令を伝え、中城湾を出発。 1985年(明治28年)6月2日、清国欽差李經方(芳)と台湾沿岸の海上で会見。台湾授受第一回商議が船中で開始された。会見場は日本側横濱丸、清国側公義号

出席者
  • 日本側:水野公使、島村書記官、通訳官 仁禮敬之(にれ けいし)、同 大久保利武
  • 清国側:李經芳欽差、通訳官 盧永銘、同 陶大均

樺山総督「私はまず軍艦を淡水に派遣して、私の来着を報告しようとしたところ、港口(こうこう)から盛んに砲撃され、それが止まることがありませんでした。また兵を三貂角に上陸させたところ、乱徒に迎撃されたため、やむを得ず再び武力行使をしなくてはならなくなりました。[8]李閣下はこのような状況でどのようにして台湾島の授受を完了させるおつもりですか?」

李欽差「台湾の民衆は、台湾を日本に割譲したのは私たち清国政府の締結した下関条約の結果だと思っています。そのことにより台湾の民衆は私たちを非常に憎んでいるため、もしも私が台湾に上陸したらすぐに殺されるでしょう。さらに、島民が暴動を起こして(島民暴起)政府の命令に従おうとしないことは、すでに、すでに李鴻章より伊藤総理にお知らせしています[9]。樺山閣下、お願いですから、(台湾授受のための)上陸は中止し、船中で台湾授受の手続きを行ってください」

樺山総督「島民暴起のことはすでに伊藤総理の電報で知っています。授受(の手続き)は必ずしも上陸を必要とはしません。李閣下の御希望通り船中で行いましょう」

李欽差は大変喜び(喜色満面に溢る)、事前に李鴻章と伊藤博文の間で交わされていた電報について商議した。

樺山総督「下関条約によれば、城塁その他の官有物の全てについて目録を作って授受しなければなりませんが、現在の状況(島民の暴動および目録作成のために上陸したら李經芳が暗殺される危険があること)ではこうした正式な手続きを踏むことは不可能です。むしろ、そうした細かい項目は省略して、大まかに授受を行う以外にはありません。あなたの御意見はいかがでしょうか?」

李欽差「誠にあなたの言われる通りです。台湾は下関条約により、現実に日本に割譲したものですから、その主権もまた、すでに日本に移っています。私はただ形式上の授受を行うことしかできません。さらに私は病気中で、長い間この地に留まることが難しいのです。ですから私が個人的にしばらくお話することをお許しいただけるなら、私個人の考えですが一つの草案をあなたにお見せして、(その李欽差の個人的な草案に)異議があればご指導いただき、もし異議がなければ(その李欽差の個人的な草案を)改めて公文書にして即決いたしましょう」

樺山総督「即決を望むのは同感ですが、日清両国の使節が公式の会見で私的な会話(私談)をすることはできません。ただ、伊藤総理の訓令もあることですので、内容に害がない限り、李閣下のために便宜をはかりましょう」

これにより、1985年6月2日午後2時に水野公使と島村書記官を派遣して、李欽差の随員と協議させることを約束して、午前10時45分に第一回商議は散会した。

同日午前11時20分、樺山総督が李欽差の船「公義号」に移り、第二回商議が行われた。

李欽差「私は病気もひどいし、ただ形式上台湾島授受の任務を果たすために来ただけですから、一刻も早く授受を終わらせて、帰国して養生したいのです」

樺山総督「まことにその通りです。ここで一つ言っておかなくてはならないことは、日本軍が台湾に来た日以来、我が兵に対して島民が抵抗するのは、単に暴動の余波だろうと考えていましたが、洩底の(清国)兵営内で入手した告示文を見ると、あなたの国の官吏が兵士と土地の住人に徹底抗戦(決死邀撃(げいげき))しろと宣伝したことは、これ以上なく明白です。非常におかしなことですので、私は証拠を提示して、これを日本政府に通報しました」

李欽差はこれを聞いて非常に動揺し(頗(すこぶ)る色動く)、眉をひそめて言った。

李欽差「これ(台湾の清国官吏が兵士や住人に告示文で徹底抗戦を呼びかけていること)は決して清国政府の関知するところではありません。共和政府(台湾民主国)設立のことも私は台湾に到着した後で聞きました。共和政府はすでに文武官を抑留して命令に従わせ、本国に帰ることを許さず、その告示文なども文武官を脅迫して作成させたに決まっています。私もまた上陸したらまさしくこのようになる(拘束され脅迫されて、台湾民主国に都合の良い行動を強制される)でしょう」

と、あらゆる言い訳をして止まらなかった(百方瓣(弁)疏して措(お)かず)。

樺山総督は11時45分に横濱丸に帰り、代わって水野公使と島村書記官が第一回商議で約束した通り、午後2時公義号に移って李欽差と会見した。

李欽差が草案を出したので水野公使が内容を確認したところ、台湾で暴動が起きている(臺灣紛擾)ことを述べた、一種の照会文のようなものでしかなかった。

水野公使「これはすでに樺山総督も良く御存じのことです。今この草案を公文書として公式に総督に提出した場合、日清両国の委員の間でその内乱および新政府(台湾民主国)設立を認めることとなり、樺山総督はその鎮圧の後で台湾の授受を請求することになります。そうなったなら、李閣下はこれ(台湾民主国による内乱を鎮圧した後で台湾島授受を行うこと)に応じますか? このような草案は最初から提出しない方がよろしいでしょう」

李欽差はこれを聞き、「まったくその通りです」として水野公使の説に従った。この時水野公使は、別に台湾島授受に関する公文の草案を提示した。李欽差はこれを見終わって言った。

李欽差「大綱においては異議はありません。その明細目録の調整については、私はまだ台湾に上陸したことがないので(余未だ嘗(かつ)て脚を臺地(台湾の地面)に投ぜざれば)、どこに何があるのか、詳しいことは明らかにしておりません。樺山閣下の査定や記録に一切お任せするということでお願いします(願わくば一(いつ)に閣下の査録するところに従はむのみ)」

水野公使はこれを承諾した。

水野公使「淡水福州間の海底電線はもともと台湾の為に架設したものなので、この際これを受領します」

李欽差「すでに海底にあるものですから、もともと私に任された権限以外のことです。なおかつ官有なのか私有なのかもまだはっきりしていません」

と言って、これを目録中に加えて、後日さらに議定すると明記しておくことに決定した。

李欽差は笑って言った。

李欽差「すでに台湾は全て(一省を挙げて)貴国に割譲されています。一本の海底電線など言うまでも無いことです」

商議はほぼ決定して、公文書二通を作ることを約束し、(水野公使たちは)午後4時に公義号を退出して帰った。この夜9時に、島村書記官が樺山総督の押印した公文書を携えて、再び李欽差を公義号に訪問し、李欽差の署名捺印をもらって即時帰艦した。ここに台湾授受はすべて終了した。そして李欽差は総督の配慮により、速やかに使命を果たしたことを感謝して、6月3日午前0時30分、あわただしく上海に向って去った。

脚注[編集]

  1. ^ (かいらん)纜は船のともづな。ともづなを解く。出帆する。
  2. ^ (さんちやうかく)。現・台北県貢寮郷三貂角。0935年建造の三貂角灯台は観光名所として有名。
  3. ^ (ようげき。えうげき)。待ち受けて撃つ。要撃。『角川新字源』1989年297版。原文では「げいげき」と読み仮名がふられている。
  4. ^ (1)盾とほこ。武器(2)戦争。『角川新国語辞典』昭和57年23版
  5. ^ おもえらく。以謂。おもうことには。『角川新字源』1968年。
  6. ^ (かいいん)押印する。盖=蓋。
  7. ^ (さうさう)あわただしく。
  8. ^ 近衛師団は本来宮中警護や儀礼式典に参加する師団であり、通常、近衛師団や皇族は最前線には送られない。資料文献等でも、これは日本政府が台湾の状況を甘く見ていたという証拠であることが指摘されている。
  9. ^ 明治28年5月22日、李鴻章が伊藤博文に出した電文。李鴻章はこの電文で、台湾で住民が暴動を起こして官吏の台湾退去を妨害していることを伝え、日本の「暴動の危険を避けるために、日本政府の護衛と一緒に行きましょう」という申し入れに感謝しつつ、台湾授受の会見場を「台湾沿岸の沖合か、澎湖列島の一港」にしてほしいと伊藤博文に申し入れている。国立公文書館アジア歴史資料センター 外務省外交史料館 外務省記録 日清戦役関係台湾澎湖島授受一件「2 明治28年5月22日から明治28年7月12日」(ref:B03041169100)5コマ目。
    『台湾人民の激昂非常にして 一向に説諭を聞入れず 群を為して集合し官吏を脅迫し 唐巡撫其他台湾退去の妨碍(ぼうがい)を為せり 清国全権弁理大臣は不慮の危険を冒すべきに非れば 之を避くる為に 先つ以て長崎に立ち寄り 日本政府●舷の護衛を得て進航すべしとの●忠先は深く感謝する処なれども 斯くては甚だ不便利なれば 閣下は更に樺山大将へ電報し 台湾沿岸の沖合か 又は澎湖列島の一港を撰び出會の場●と定めらるる様●●●あらん●を希望す』(原文カタカナ)

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