ノート:元老

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元老西園寺の誕生[編集]

西園寺公望は、1913年の第三次桂内閣総辞職後の後継者選定に際して行われた元老会議に出席後、元老扱いとなったという話を聞いたことがあるのですが、明治天皇が西園寺を元老に指名したという根拠を示していただければと思います。--のりまき 2006年9月4日 (月) 11:30 (UTC)[返信]

要出典部分の削除予告[編集]

2005年4月22日の編集[1]で加筆された部分に対して、10月16日の編集[2]で要出典を付し、「特に宮中問題を執るのが元老の権威の源泉となっており[要出典]、このことは宮中某重大事件で敗退した山縣有朋が事実上失脚してしまったことからも明らかである。」としました。この部分について、11月末まで待って、脚注が付かなかった場合、削除します。そういう記述をしている研究や歴史叙述があれば示してください。

伊藤之雄『政党政治と天皇』講談社<日本の歴史22>、2002年を見ても、違うようです。元老の権威の源泉は、維新における勲功、元勲待遇の詔勅、天皇からの信任、などとされ、その3者の比重や時期による変化について論者による差があるのが研究の現状だと理解しています。--rshiba 2009年11月17日 (火) 11:22 (UTC)[返信]

こういう編集[3]をしたIPアドレスの方がいました。もしかしたら、伊藤之雄『昭和天皇と立憲君主制の崩壊』名古屋大学出版会、2005年、の28-29頁付近を誤読しているのではないでしょうか。山県有朋の宮中への影響力の衰退と、元老の権力の源泉が宮中への影響力であるか否は別件です。--rshiba 2009年11月19日 (木) 06:36 (UTC)[返信]

「特に宮中問題を執るのが元老の権威の源泉となっており、このことは宮中某重大事件で敗退した山縣有朋が事実上失脚してしまったことからも明らかである。」を削除。--rshiba 2009年12月1日 (火) 04:32 (UTC)[返信]

「憲政の常道」との関連は必要[編集]

現状では文脈を上手くつなげることができないので、どう入れたらいいかわからないのですが、内容上は一人元老として西園寺が後継首相を推薦した時代について、憲政の常道への論及は復活させる必要があります。--rshiba 2010年4月8日 (木) 12:19 (UTC)[返信]

テンプレートについて[編集]

Template:元老ですが、IP:122.135.80.196会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisが図示に拘泥しては差し戻されるという状態がほぼ一年前から起きています。「期間や構成に議論があるため表を差し替え」という要約で差し戻されていますが、議論はどこで行われているのでしょうか。あ、このIPの方法が正しいとは言っていません。何かコンセンサスが作られるといいのですが。--Alexander Poskrebyshev会話2017年2月2日 (木) 20:00 (UTC)[返信]

言葉足らずでしたが、「議論」は研究者内での元老の定義、時期についての議論を指しています。例えば表では桂太郎が加えられていますが、伊藤之雄(表が作成された時点で、唯一参考文献節の著者として挙がっている研究者)は、桂は元老ではないとしており、松方を推挙する元老会議に加わっていた井上馨が、松方より後に元老になったことになっているなど根拠も不明です。件の表の「元老の在任期間」に関する出典は一切明示されていない現状です。--Sube会話) 2017年2月25日 (土) 12:07 (UTC) (訂正)2008年に表がこのページに追加された際には参考文献説は存在しておらず、文中に明示された出典もありませんでした。--Sube会話2017年2月25日 (土) 12:22 (UTC)[返信]