ノート:保守合同

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保守合同で、自由民主党となったときに、衆議院議員で、吉田茂・佐藤栄作・橋本登美三郎の3名は、その11月15日のときは院内会派で無所属となっていますが、どうして無所属になったのかの理由が知りたいのです。 よろしく。 「自由民主党30年史」「議会制度100年史」を参照しました。--210.226.6.11 2004年4月22日 (木) 04:38(UTC)(署名付記)--経済準学士 2006年4月10日 (月) 17:32 (UTC)[返信]

一番最初の「日本自由党」の総裁は鳩山一郎でしたが、戦後最初の総選挙で自由党が第一党になったにも拘らず、鳩山と主要幹部が公職追放されてしまったためにとりあえずGHQの受けの良い現職外相の吉田茂を総裁に迎えて、吉田も鳩山の公職追放解除の暁には鳩山に政権を譲ると約束しました。その後、鳩山が公職追放を解除されると、吉田は新しい国家体制建設が未だ途中である事と追放直前に鳩山が脳梗塞で倒れた事を理由に、当面は自分が総理を続けて鳩山に代わる新しい次期総理を育てると言い出したのです。その後いろいろあって(詳しくは戸川猪佐武氏の「小説吉田学校」あたりを読まれた方が良いでしょう)、吉田茂(退陣後は緒方竹虎)率いる「自由党」と鳩山一郎を中心に非自由党系の保守政党と「反吉田」を唱えて自由党を脱党した政治家が合流して結成された「民主党」の保守2党に分裂しました。やがて鳩山は吉田に代わって政権を奪取します。

ところが、日本社会党が統一されて比較第一党になったことに危機感を抱いた鳩山側近の三木武吉(ぶきち)が、自由党に残っていた同じ鳩山側近の大野伴睦を通じて提案したのが「保守合同」です。これに吉田に後継者に指名されながら、吉田の政治手法に不快感を持って疎遠となった自由党総裁緒方竹虎がこの提案を受け入れて、吉田を無視する形で自由民主党結党で話が纏まってしまいます。吉田は今更自分を失脚させた鳩山の下では働けないと参加を拒否しましたが、自分の子分の政治家には新党参加を勧めました。これを知った側近の佐藤栄作は吉田を一人では放ってはおけないと参加を拒否し、初当選以来佐藤の世話になっていた橋本も佐藤が参加しない以上自分も参加しないとこれも拒絶します。

その後1957年に佐藤の実兄である岸信介が自民党総裁になると、鳩山が政界を退いた事もあって吉田は(岸の面子を重んじて)自民党入党を承諾し、他の二人も参加することになった訳です。もっとも、保守合同の際に既に後に「佐藤派」と呼ぶべき佐藤側近の若い政治家が多数自民党に参加しており、無所属であった2年間も吉田・佐藤は彼らを通じて党内での発言力をもっていた訳ですが…。

こうした鳩山追放以来の事情も概略だけでも記載しないと項目としては不十分かもしれませんね。--202.223.93.184 2005年9月7日 (水) 00:49 (UTC)[返信]