ノート:久野久 (ピアニスト)

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あいまいさと誤り - 1915年の交通事故と1916(大正5)年「復帰」?[編集]

あいまいさと誤りの指摘をしたいと思います。事故の翌年に復帰としている点についてです。

久野久子が自動車に轢かれたのは1915(大正4)年1月21日深夜23:00-23:30頃(報知新聞 1915.01.23 & 24)で、復職は同年9月に果たしています(『音楽』1915.10「楽人動静」)。5か月の長期入院となり、退院したのは6月17日(『音楽』1915.07「楽人消息」)です。手術した記録は全くありません。

交通事故で久野久子は脳に激しいダメージを受けています。入院が長期にわたっていることは、怪我が単なる外傷ではなかったことを暗示しています。

久野久子は退院後、湯治に行くなどして(『音楽』1915.08「楽人消息」)、復職するために体調を整える努力をしたことが伺えます。

本文で「復帰」としているのは、「恢復祝賀音楽会」が翌1916(大正5)年12月3日に催されたために、そう記述しているのだと想像されます。

「恢復祝賀音楽会」のプログラムは以下のように組まれていました(『音楽』1916.大正5年11月巻頭広告より)。

ベートーヴェン 熱情ソナタ

グリーグ    春に寄す。

        那威の嫁入り行列

ショパン    コンチェルト第1番(第二ピアノ・ショルツ)

  (休憩)

リスト     歌劇「リゴレット」書き替へ曲

ブラームス   狂想(ママ)曲ト短調(ラプソディーOP.79-2)

ショパン    習作ハ短調(エチュードOP.10-12)

リスト     ウンガリカ(交響楽詩、第二ピアノ・ショルツ)


予定していたショルツは出演しませんでした。 ですのでショパンのコンチェルトは久野久子ひとりで弾き、最後のリストはひとりでも弾けるメンデルスゾーンの無言歌にさしかえています(『音楽』1917.01「学友会記事」、および大田黒元雄『第二音楽日記抄』39頁[1])。

こうした事態が起こっているので、「祝賀」あるいは「復帰」ということばを、無条件に受け入れることができるでしょうか。プログラミングの感性とともに考えるべきでしょう。

(若き大田黒元雄はヨーロッパから帰国後、久野久子の交通事故と闘病の時期に、東京音楽学校学友会『音楽』に健筆をふるっておりました。)


参照→久野久子略年譜・ http://blog.livedoor.jp/bookshell/archives/1286411.html

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明確な事実から出発せよ[編集]

《wikipedia》への記述は慎重でなければならない。 それに鑑みると、この久野久子にかんする本文記事は酷い。

たとえば「エミール・フォン・ザウアーの教えを受けたとき、基礎からのやり直しを言い渡されたことに絶望し」という記述は、まったく巷間の俗説(悪口の類)であって、学問的・資料的に裏付けされたものではない。

そうした巷間の説の背景にあるのは、宮本百合子の小説『道標』らしい。「某というコンセルバトワールの教授に、これから三四年みっちり稽古したら月光の曲ぐらいは一人前にひけるようになるだろうと云われた。そういう噂が伸子の耳にはいった。」(新日本文庫、第二部、240頁)。

フィクションの小説を記述の基礎にしてはならない。明確な事実から出発し考えよう。

久野久子が自死したのは現地日付1925.04.20である。4月20日は日本女子大学校の創立記念日だ。渡欧への道筋をつけ、欧州で久野久子の世話をおもにしたのは日本女子大学校桜楓会ネットワークである。

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