ノート:モンゴル帝国

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

純粋に興味からお訊きするんですが、「パックスモンゴリカ」の「モンゴリカ」って何ですか? ラテン語だったら「Mongoliana」か何か(?)になりそうな気がするんですが...... martin 16:33 2004年5月30日 (UTC)

ラテン語はちゃんと勉強してないので間違ってたらゴメンナサイですが、「Pax Mongoliana」だと、「モンゴリアの平和」ではありませんか? Pax Britannicaは「ブリテン(イギリス)の平和」という意味ですが、直訳すると「ブリテン人の平和」ですよね。「モンゴル人」はたぶん「Mongolus」なので、その形容詞形は「Mongolicus」、女性形に活用して「Mongolica」、じゃないでしょうか。Safkan 21:29 2004年6月1日 (UTC)
うぅ、知ったかぶりしてしまいました。おっしゃるとおりですね。言われてみれば「Pax Americana」だってそうだし......勉強になりました。お忙しい処恐縮です。martin 03:36 2004年6月2日 (UTC)

西暦年記事におけるモンゴル帝国の地域分類について[編集]

西暦年記事「他の紀年法」節(例:1212年#他の紀年法)に記入するモンゴル帝国ハーン在位紀年(チンギス・ハーン、オゴデイ、皇后ドレゲネ、グユク、皇后オグルガイミシュ、モンケ)の分類を「中国」にするか「中国周辺」にするかについて、Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 紀年法/ガイドラインで検討が続いていますが、とりあえず結論を保留とし、仮に「中国周辺」に分類することで妥結しました。議論は継続することになっておりますが、参加者が少ないため、まだ検討が十分行き届いていない部分もあるかと思います。詳しい方からのコメントをお待ちしております。またこのノートページへコメントいただいてもさしつかえありませんので、よろしくお願いいたします。--Novo 2007年6月2日 (土) 12:20 (UTC) 4字追加--Novo 2007年6月3日 (日) 08:34 (UTC)[返信]

発音表記の問題について[編集]

杉山正明先生は「クビライ」と記されています。しかし、これは、ペルシャ語で書かれた『集史』に拠るものであり、この表記に随えば、「クビライ・カーン」でなければなりません。もし、この方式を採用するとすれば、「チンギス・カーン」、「カーン位」など、全ての表記を統一しなければいけないと考えます。  記事全般に、「ハーン」を使用しているのであれば、「フビライ」、「ハイドゥ」に統一した方が良いと思いますが、如何でしょうか。--以上の署名のないコメントは、Aranshu会話投稿記録)さんが 2007年7月6日 (金) 13:07 (UTC) に投稿したものです。[返信]

クビライとフビライは単に表記の問題で両者は完全に同一ですが、カーン(カアン)とハーンは同一ではありません。ハーンの記事にそのことが書いています。これは確か杉山先生の説だと思いますが、読んだのも大分前なのであまり自信がないですね。であるので正確に統一するのであればクビライ・カーンあるいはフビライ・カーンとなるのであり、表記の統一という問題ではありません。チンギス・ハーンは正しくはチンギス・カンないしチンギス・ハンでしょうが、一般には馴染みが全く無いのでやはりチンギス・ハーンかジンギス・カンかのいずれかでしょう(これはこれでまた議論の余地があるでしょうが)。
ですので「ハーン」の表記はクビライかフビライかには関係しません。クビライ・フビライは単に表記の違いだけなのでどちらでも良いわけですが、杉山先生に倣った方が良いのではと思います。らりた 2007年7月6日 (金) 13:22 (UTC)[返信]


発音表記問題 ご意見を頂きまして、早速に、杉山先生の本を確認致しました。先生の『大モンゴルの世界』、角川選書、『モンゴル帝国の興亡』(全2巻)、講談社現代新書を見ますと、「チンギス・カン」、「クビライ・カアン」となっています。ほかにも、『クビライの挑戦』、朝日選書、『逆接のユーラシア史』、日本経済新聞社、『遊牧民から見た世界史』、日本経済新聞社、『世界史を変貌させたモンゴル』、角川叢書もすべてこの表記になっています。   それですので、「クビライ・カーン」に統一するか、現代モンゴル語にしたがって「フビライ・ハーン」に統一したほうが、よりよいのではないかと考えた次第です。さらに、『世界の歴史9 大モンゴルの時代』、中央公論社の110頁には、「カアン」と「カン」の違いまで出ています。もし、杉山先生に従うのであれば、「クビライ・カアン」にしたほうが、良いと思うのですが、如何でしょうか。aranshu--以上の署名のないコメントは、Aranshu会話投稿記録)さんが 2007年7月6日 (金) 13:52 (UTC) に投稿したものです。[返信]

私の言いたいことが今ひとつ伝わっていないようですが。ハーンはカンやハンやカーンやカアンなどの全てを含む言葉であり、カアンはいわゆる大ハーンのことのみを指します。ですのでより正確を期してカアンにするか、一般に通ったハーンで済ませるかの問題であり、発音表記の問題ではありません。
これに対してクビライとフビライは完全に発音表記だけの問題であり、どちらを選ぶのも好みの問題でしょう。
つまりクビライかフビライかという問題とカアンかハーンかという問題は完全に独立した問題であり、ハーンにするからフビライ、カアンにするからクビライということにはならないのです。
それでここでの議題であるフビライかクビライかに付いては好みの問題なのでどちらでも良いと思いますが、杉山先生が使っているのでクビライにしとくのが良いのではと思っています。なお、ハイドゥとカイドゥ、あるいはハイシャンとカイシャンも完全に発音表記だけの問題なのでフビライ・クビライと統一すべきでしょうね。らりた 2007年7月7日 (土) 09:27 (UTC)[返信]

発音表記だけの問題と言われればその通りですが、やはり、なるたけ正確な方が良いかと想います。 Qūbīlāī qā'ānであれば「クビライ・カアン」であり、Khubilai khaanのKhをカ行でとるか、ハ行でとるかだけですが、同じ文章内で、カ行でとったり、ハ行でとったりするのは、あまり、好ましいことと思えません。それですので、ハ行でとるのならば、ハ行で、カ行でとるのであるならば、カ行で統一した方がよろしいかと思っている次第です。aranshu 2007年7月10日(火)--以上の署名のないコメントは、210.128.89.4会話/Whois)さんが 2007年7月10日 (火) 02:24 (UTC) に投稿したものです。[返信]

どうも解ってもらえないようですが・・・。もう一度繰り返します。
カアンかハーンか発音表記だけの問題ではありません
クビライかフビライか発音表記だけの問題です
それを理解してください。その上で私が書いた文章をもう一度読み返してください。お願いします。らりた 2007年7月16日 (月) 12:07 (UTC)[返信]

どうも、議論がかみ合っていないようなのですが。 ご指摘の通り、「カアン」(qa'an)と「ハーン」(qan, khan)は違います。そして、この「カアン」のことを「カーン」と区別するために「大ハーン」と表記することもご指摘の通りです。  その上で、私が申し上げたいのは、発音表記の統一の話です。ペルシャ語のスペルですと、カ行の音で「カーン」に取らざるを得ませんが、現在では、モンゴル語の音を使用して「ハーン」を使っています。こうした時、先ほどの「カアン」も区別するために「大ハーン」の語を使用することが多くなっていることを考え、Khで綴られている語を日本ではハ行でとることに統一した方が、良いのではありませんか、という本当に発音の統一を申し上げているつもりです。  現在では、現地原音主義が言われておりますから、なるたけ忠実な音を採用した方が良いと思います。そうしますと、杉山先生の採用されております、「クビライ・カアン」が一番良いように思います。しかし、この方法を採用しますと、「大カーン」、「チャガタイ・カン国」の様に統一すべきであろうかと思います。しかし、他の項目ではKh音をハ行で取っておりますから、ここでも、その方針で「フビライ・ハアン」にしたほうが、良いのではないかと思っております。 aranshu 2007年7月17日(火) 17:03 (UTC)

ああ、そういうことでしたか。誤解をしていたようでその点失礼しました。
ハーンという言葉は元はモンゴル語ですが、その後広がりを見せて中央アジア一帯にその称号が見られます。それらカン・ハン・ハーン・カアンなどを全て一緒くたにして「ハーン」と記述するのが現在の日本では一般的です。そこからカアンを区別するために大ハーンの言葉が使われるようになったわけであり、大ハーンという言葉はいわば日本語です。ですので大カーンという言葉はありえません。またハアンという表記はほとんど見られない表記ですのでこれにしてしまうのは許容しかねます。
本当に正確を期すならばクビライ・カアンとチンギス・ハン(カン)のようにその時に使われていた称号を示すべきですし、チャガタイ・ハン国もチャガタイ・ウルスとするべできしょう。
正確性を期すか一般に通じている名前にするかは好みによるかもしれませんが。少なくともハーンとハンやカンやカアンと区別するのは一般には通じにくいでしょう。もしそうするのならば文中にいちいち説明を挟まないといけなくなります。それよりも一般に通じているハーンと大ハーンを使い、それらの違いに関する説明はハーンの記事中で一括してやるのが合理的と思われます。
逆にフビライ・クビライ(ハイドゥ・カイドゥ、ハイシャン・カイシャン)の表記は共に頻繁に見かけるものなので、これをどちらにするかは好みの問題です。私はどちらでも構いません。らりた 2007年7月17日 (火) 09:10 (UTC)[返信]

早速にご返事頂きましてありがとうございます。私の個人的な趣味からすると、現地原音主義にのっとり、「クビライ・カアン」、「チャガタイ・ウルス」の方が良いと思います。しかし、このウィキペディアは、一般の人々に広く知識を広めるためのものであると思いますので、一般的な表記にせざるを得ないのかなと思っております。しかし、その上で、表記はなるたけ統一した方が良いのではないかと思っている次第であります。  お陰様でいろいろ勉強させて頂きました。ありがとうございます。 aranshu 2007年7月17日 11:01 (UTC)

先ほどハイドゥの乱についてしらべていたら「カイドゥ」の見出しの記事のなかで彼の名前がことごとく「ハイドゥ」表記になっていたのですが…。

上述のようにハイドゥかカイドゥかで議論中です。どちらが良いと思うか、意見をお願いします。らりた 2007年8月8日 (水) 09:38 (UTC)[返信]


Haydarです。らりたさんからお誘いを受けておりましたが、それから早半年近く経ってしまい、まことに申し訳ありません(汗。議論の参加に甚だ遅れてしまいましたが(汗、遅まきながらいくつか自分の意見を述べさせて頂きたいと思います。以下は個人的な理解を含んでいますのでその点ご容赦下さい。
現行の日本語の文章において、モンゴル君主の称号を表記する場合ひとつとっても、「ハン」「ハーン」「カン」「カアン」などいくつもあって、人名だけとっても「フビライ」ではなくて「クビライ」だとか「カイドゥ」が「ハイドゥ」だったりと、端から見ていますとごちゃごちゃと甚だややこしく思えます。一応、これらの表記の揺れには理由がありまして、特に近年のモンゴル帝国史関連の進展と従来のモンゴル学や東洋史などの分野とのある種の「ギャップ」が原因していると思われます。
 ○近年の研究動向について
まず、ここ2、30年ほどで日本でもイスラーム関係をはじめ中央アジアイラン西アジアなどの地域での文献研究などが大きく進展し、実際の現地や歴史的な情報を直に精査する機会が増加し、従来の名称の表記について修正すべき点が多くなりました(とはいえ中央アジア研究は特に不明な点がまだまだあまりにも多すぎますが)。
モンゴル時代史関連で言いますと、近年、特に中国本土で発見されたモンゴル帝国大元朝時代に建立されたモンゴル皇帝聖旨碑文はじめ碑刻資料や明朝初期に編纂された多言語辞書『華夷訳語』など、13、14世紀のモンゴル帝国やその周辺で作成された同時代性の高い多言語資料の研究が本格化し、これらの研究から従来の歴史的な名称も修正が加えられて表記もされるようになりました。特に従来のモンゴル語の音韻については近現代のモンゴル語に基づくモンゴル時代のモンゴル文字資料の利用と同じく漢字音韻研究しか扱えませんでしたが、同時代性の高いペルシア語資料やパスパ文字モンゴル語碑文、『華夷訳語』などの辞書を総合的に使えるようになったことは言語史的な解明の上でも意味は大きい。これらの文字体系であれば、モンゴル時代に使用されたウイグル文字式モンゴル文字では表記しきれないモンゴル語やテュルク語本来の音素を多く表記できるからです。(これらアラビア文字によるペルシア語資料やパスパ文字資料は大元朝時代の漢字音韻の研究でも重要な位置を占めています)
この同時代性の高い資料というのは、イラン地域におけるモンゴル政権であるイルハン朝で製作されたペルシア語に拠る年代記資料である『集史』やモンゴル王族や諸部族の系譜資料である『五族譜(Shu'ab-i Panjgāna)』、続くティムール朝やシャイバーニー朝などで作成された諸資料も含まれます(勿論、モンゴル帝国より後の作品であるため、作成された時代や意図、状況固有の問題を抱えてはいますが)。特にモンゴル時代にモンゴル君主の意向のもと編纂されたイルハン朝の『集史』は、明代になってから編纂された『元史』や『元朝秘史』などに比べると本来別格的な位置付けにあったりしますが、言語史的な資料としても碑刻資料などと比較しても劣らぬ重要性を持っています。
近年のモンゴル時代史研究を言語の点でまとめると、
 1) アラビア語・ペルシア語資料の利用(同時代的な政権側資料であることと当時のモンゴル語などの音韻の基本資料のひとつになっていること)
 2) パスパ文字モンゴル語碑刻資料の積極的な利用(パスパ文字はモンゴル語や漢字音韻などの他言語ツールとして開発された文字なので、同時代の中期モンゴル語の音韻についても具体的な事例を採取できる基本資料として重要性をもつ)
 3) モンゴル時代また、そのため、より実際の発音や文字表記に近い日本語での表記にしようという方向性が出てきました。いわゆる「現地原音主義」の地盤はこれら近年の日本の人文学における各種分野の発展の結果と言えますが、「チンギス・カン」や「クビライ」、「カアン」という表記もこれら近年の研究動向と密接に関係しています。
 ○「カアン」と「ハーン」の違い
上述のように、90年代から特に中国本土で発掘された、モンゴル帝国・大元朝時代建立のモンゴル皇帝聖旨碑文はじめ碑刻資料が注目されるようになりました。近年のモンゴル時代史研究の大きな転機としては、本田實信先生によるペルシア語・漢語両資料を用いた研究に続き、碑刻資料と他の多言語併記資料を積極的に使用できるようになったのが大きいです。
さて、モンゴルの君主の称号について、「カアン」、「カン」、「ハーン」、「ハン」と様々に表記されますが、これらの違いの原因としては、
 1)モンゴル帝国の首長である(チンギスおよびグユクをのぞく)モンゴル皇帝が名乗った「カアン」(Q'Q'N / qa'an)と他のモンゴル王家の当主たちが名乗った「カン」(qan)の二種類あったことが第一点。
 2)また、この中期モンゴル語での「カン」(Q'N / qan )はテュルク語の君主号「ハン」(χan)と同義語であり、モンゴル時代前後の西方での主要典拠であるアラビア語・ペルシア語の文献では、「ハーン」( خان khān )と表記していたことが第二点。
そして、中期モンゴル語の 「カアン」はウイグル文字の綴りQ'Q'Nに表れているように本来古代のカガンのそれであり、文字の綴りの通りに書けば Q'Q'N / qaγan と書いて「カガン」と読まなければなりませんが、上述のパスパ文字モンゴル語文の綴り qa・anや『集史』のペルシア語の表記 قاآن qā'ān / قآنqa'ān などからモンゴル時代当時すでに一部の口蓋垂摩擦音(主に有声軟口蓋摩擦音) γ が弱化、無声化(有声口蓋垂破裂音など)、母音化し、実際の中期モンゴル語では「カアン」(Qa'an)と発音されていたようです。(言語学的な音韻変化の問題は詳しく無いので説明が間違っているかもしれません(汗)
これと似た現象としては、現代のテュルク諸語において、ユムシャック・ゲー Ğ が他のタタール語アゼルバイジャン語などが有声を保っているのに対してトルコ共和国トルコ語では弱化してしまいます。例えば「山」をdaγ/dağ などが前者では dağ 「ダグ」と発音されますが、トルコ語ではdağ : ダ となってしまいます。これらを踏まえて、
 3)近現代のモンゴル語では、中期モンゴル語でのq 音が q 〜 χという音変化と、母音連続が長母音化するため、中期モンゴル語の「カアン」Q'Q'N / qaγan > qa'an は近現代のモンゴル語において「ハーン」χa'an > χaːŋ/ хаанと発音、表記されるという第三点。
これら主に三点の問題がそれぞれ交錯し、論者の資料的に拠るべき立場によって「カアン」、「カン」、「ハーン」、「ハン」というばらつきが生じてしまいます。特に、第二点のアラビア語・ペルシア語による「カン」(qan)の表記 خان khān と、第三点の「カアン」の近現代のモンゴル語の発音 хаан は、カタカナで表記すると同じ「ハーン」になってしまい、モンゴル帝国のことを述べる時、実際には資料上でモンゴル皇帝である「カアン」と一般のモンゴル王家の当主たちが名乗った「カン」が区別されているのに、両者の称号が「ハーン」などで一緒にされるという弊害が出てしまいます。
近年の(主に日本の)モンゴル時代史研究では、当時の資料上で両者は基本的に厳然と区別されていたことを鑑みて、前者を「カアン」、後者を「カン」やペルシア語資料に表れる خان khān をもとのテュルク語形 χan に基づいて「ハン」などと表すようにしています。これら煩雑な事情のため、モンゴル皇帝を表す時に マルコ・ポーロなどヨーロッパからやって来た人々が呼んだ Grand Can に基づいて、一部では「大ハーン」や「大カアン」という表記もされています。
長くなりましたが、「カアン」、「カン」、「ハーン」、「ハン」の違いの原因についておおまかな概観を述べると以上のような感じになります。
また上記でらりたさん、aranshuさんが問題として取り上げておられた、「フビライ・クビライ(ハイドゥ・カイドゥ、ハイシャン・カイシャン)」も、「クビライ」「カイドゥ」「カイシャン」はモンゴル帝国や大元朝の時代の中期モンゴル語の表記および発音に基づく物であり、「フビライ」「ハイド(ゥ)」「ハイシャン」はどちらかというと近現代のモンゴル語の発音によるものと思われます。ちなみにそれぞれのパスパ文字モンゴル語による表記と『集史』などのペルシア語による表記は、
 クビライ(パスパ文字:Qubilai、ペルシア語: قوبيلاى قاآنQūbīlāī qā'ān / Qūbīlāy qā'ān , قبلاي قان Qubilāy qānなど)
 カイドゥ(パスパ文字:不明、ペルシア語: قايدو Qāīdū / Qāydū )
 カイシャン(パスパ文字:Hay-šan、ペルシア語: خايشانك Khāīshānk (『集史』)/ خيشنك Khayshank 『バナーカティー史』/ خيشان Khayshān『選史』 など)(モンゴル文字:Q'YYS'N/Qayišan(『アルタン・ハーン伝』)、


「クビライ」、「カイドゥ」などは間違い無くモンゴル語ですのでこの通りで良いと思います。(チンギス・カンの祖先のカイドゥ・カンと同じ綴り)ただ、「カイシャン」についてはペルシア語文献の読みからするとそのままだと「ハイシャング」〜「ハイシャン」となりそうですが、おそらくこれは、『集史』単語末の -nk の表記から考えて、『元史』「武宗本紀」の「諱海山」とあるようにモンゴル語では無く「海山」という漢語の発音を音写したものと思われます。同じモンゴル時代の人名で漢語で「海」を使われている例としてチンカイ Činqai (鎮海)が居ますが、彼はインノケンティウス4世から派遣されたプラノ・カルピニの旅行記では Chingay 、『世界征服者史』や『集史』では چينقاى Chīnqāī と表記されているようですのでチンハイよりもチンカイで良いと思います。カイシャンが皇子時代に発令したパスパ文字による命令文書に Hay-šan と書いている例があるようでして(G.Tucci, Tibetan Painted Scrolls収録のP.Pelliotの論文)、クビライやカイドゥとは事情が異なり、「ハイシャン」でも許容されるのではないかとも思われます。しかし、フレグ Hülegü がモンゴル文字で掛れる場合、モンゴル文字では h が書く事が出来ず "WL'KW と綴られる例(『五族譜』)があるとの話から考えますと、 カイシャンの場合、Q'YYS'N/Qayišan とあるように語頭は q で書かれ、 Hay-šan〜Ay-šan といった、用例は見られないため、中期モンゴル語では「カイシャン」qayišan〜χayišan と言っていた可能性も捨て切れないように思います。そのため、現行の「カイシャン」の項目を「ハイシャン」に移動したり、大元朝関係の記事で一律「ハイシャン」に改める必要もないかと個人的には思われます。

また、「チンギス・ハーン」と「チンギス・カン」という表記の違いには、実はこれらの問題に加えさらにもう一つの原因があるのですが、それについてはまた後日述べさせて頂きたいと思います。Haydar 2007年12月16日 (日) 10:09 (UTC)[返信]

ハーンとカン・カアンに付いて[編集]

 ご無沙汰しておりました。カアン、カンかハーンかの議論は、もともと、KH音の表記から関心を持っていて始めた物でした。ところで、最近、杉山正明先生が『興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後』(講談社、2008/2/18、358頁)を出版され、その中で、

「そうした人間集団(「ウルス」)の長をテゥルク語・モンゴル語で「カン」と呼び、さらに数多い君長たちの上に立つ至高の存在をカガンないしカアンといった。カガンの号は、五世紀の柔然や北魏で確認され、その後は突厥、ウイグル、キタイなどでも用いられ、モンゴルに至った。モンゴル帝国では、第二代皇帝オゴディのときからカアンと名乗り、帝国を構成する他のウルスにおいてはその当主はあくまでカンとのみ称した。ようするに、モンゴル帝国は、ひとりのカアンのもと、複数のカンが率いる二重構造の多元複合体であったのである。

 なお、従来しばしば、カアンとカンの違いと使い分けについて、研究者のなかで理解が不十分であったため、たとえばすべてをハーンと表記したりした。また、「カ」と「ハ」の違いは、おもに日本語表記の限界にもとづく。原音は「カ」と「ハ」の中間であり、時代と地域によっても異なるが、モンゴル時代に於いては、より「カ」に近い音だったとおもわれる。」(31~32頁)

とあります。さらに、本書のなかでは、「チンギス・カン」、「大カアン」の語が使われています。それですので、この「モンゴル帝国」の項目のなかにおいても、カアン、カンの表記に統一することを提案致します。もともと、ウィキペディアは個人研究の発表の場ではなく、既存の研究の紹介をすべきだと思いますし、現在モンゴル研究の成果が上記の用に出ておりますので、「ハーン」ではなく、「カアン」、「カン」の改めたほうが、より、皆のためになるかと思いますが、如何でしょうか。  ご異存がなければ、「ハーン」の表記を「カアン」、「カン」に改めようと思います。aranshu

 「ハーン」の表記を「カアン」、「カン」に改めるご提案をして一週間になりますが、皆様、同意いただいたものと諒解して宜しいでしょうか。  aranshu2008年3月4日 (水) 17:21 (UTC)[返信]

反応しなくてすいません。私は以前に述べたような理由とこれから述べる理由で反対です。
学術的な正確さを期するならば確かにハーン・カアン・カン・ハンなどの号を逐一使ってそれぞれ当時に使われていたと考えられる号を正確に表記していくべきでしょうが、しかし本当に「正確に」出来ますか?地域・時代によってどの称号が使われたか・発音はどれを採用すべきか、単にハーンを全てカアン・カンに代えれば良いという問題ではありません。少なくとも私には到底無理です。大ハーンをカアン、チンギス・ハーンをチンギス・カンに代えるというだけに留める手もあるかもしれませんが、それは学術的に正確とはいいがたいかと。
前にも言いましたとおり、一般的に通り易いハーンで通して、ハーンの項目でそれら学術的な呼称の違いを説明するというのがわかりやすくかつ不正確なことを避け、また作業的にも容易であるという意味で良いと思っています。らりた 2008年3月4日 (火) 09:34 (UTC)[返信]

ご意見ありがとうございます。以下の点から、表記を統一すべきと考えます。

1)同一の項目の中で、「ハーン」、「カアン」が混在するのは好ましくないこと。
2)「ウィキペディア」は、個人研究発表の場ではなく、既存の研究を紹介する場であること。
 それ故、杉山先生の最新の著書『モンゴル帝国と長いその後』を元に、表記を統一することを提案する次第です。
 もっとも、杉山先生だけが正しいと言うわけではありません。さまざまな意見があると思いますし、別の先生の著書のほうが、より良いというのであれば、それを元にするというのは、それでよいかと思います。
 百科事典の項目でありますから、最低限ある項目の中での表記は統一すべきであり、さらに、何らかの著書にもとづくことが、作業する者にも、使用する者にとってもよりよい選択と思いますが、如何でしょうかaranshu 2008年3月7日(金)10:00(UTC)


Haydarです。意見が遅れて申し訳ありません(汗 本来ならばもう少しちゃんとしたコメントを書かねばなりませんが、かいつまんでいくつか。「カアン」「カン」「ハーン」「ハン」の問題は、やはり一筋縄でいかない問題でして、一律全部「カン」と「カアン」に変えようというのは、保留すべきではないかと思います。勿論、現在の各項目の記事に表記の揺れが甚だしいため、事情を知らぬまま読まれる方には非常に不親切な状態であることは大いに問題ではあります。
○「カアン」「カン」と「皇帝」
モンゴル帝国・大元朝時代の漢語史料では『元朝秘史』を除くと「成吉思可罕(チンギス・カアン/チンギス・カハン)」や「成吉思罕(チンギス・カン)」という漢字表記は殆ど稀で、通常は皇帝聖旨(ジャルリグ)や中書省上奏文、他にも『長春真人西遊記』などでは「成吉思皇帝」ともっぱら書かれており、オゴデイは「哈罕皇帝/合罕皇帝」とも呼ばれ、グユクも「谷由皇帝」、モンケは「蒙哥皇帝」、クビライは死後「薛禪皇帝(セチェン・カアン)」と記述され、漢語表記ではモンゴル帝国の歴代宗主たちはそれぞれ「〜皇帝」と呼ばれていました。チンギスやグユクはモンゴル帝国時代には大元朝でもそれ以外の地域でも公的な記録では「カアン」と名乗ったような記録はやはり無いようですが(チンギスを「カアン」と呼んでいる公的資料は絶無では無いですが、書き誤りを含む数例しか無いそうで、主要な表現では無かったようです)、モンゴル帝国時代の漢文資料そのものでは、モンゴル語文やペルシア語文のようにモンゴル帝国の歴代宗主たちに対する「カン」〜「カアン」という違いについては、「〜皇帝」という表記があったため問題とされていないようです。
○各王家当主たちと「カン(ハン)」
『元史』宗室世系表などに見られる通り、通常の各王家の当主たちについては漢語表記では「〜大王」と書かれていますが、これは各王家の当主たちが「カン」と名乗っていたからその漢語訳だ、と見なせそうですが、これもそう簡単には行かないようです。イルハン朝の歴代君主たちと恐らくジョチ・ウルスの歴代君主たち、加えてジョチ、チャガタイ、トルイたちが「カン(ハン)」で(この3人については多分、諡的な意味合いで)呼ばれたことは記録があるのでほぼ間違い無いのですが、チャガタイ家やオゴデイ家の当主たちがティムールが出現した時期のように「カン(ハン)」と初めから呼ばれていたかはかなり怪しいようです。カイドゥを例に出すと、バラクやその他の項目で「「タラス会盟」でジョチ、チャガタイ、オゴデイ家はカイドゥを大ハーンに推戴した言われているがこれは事実か疑わしくノ」という話を引いていますが、実際矢島洋一先生のサイトで公開されている『集史』「アバカ・ハン紀」を読まれると分かりますとおり、所謂「タラス会盟」でカイドゥがバラクやジョチ家の王族たちと盟約したのは三者間で紛争になっていた中央アジアでの所領の配分であって、カイドゥを大ハーンに推戴したような話は出て来ません。「アバカ・ハン紀」でバラクが「カイドゥ・アカよ」と呼び掛けている場面がありますが、カイドゥやドゥアは年長者の敬称である「アカ(aqa)」で呼ばれていたようで、「カン(ハン)」で呼ばれている形跡はどうやら無いようです。
それでは、『集史』ではチャガタイ没後以降のチャガタイ家やオゴデイ家の当主たちが当主位を継承した時、どのように書かれているかと言うと、『集史』「チャガタイ・ハン紀」では、例えばモンケによってチャガタイ家の第4代当主として復位したチャガタイの後を継いでいた第二代当主カラ・フレグの場合、「後継者たることの道理によってそのウルスの君主(パードシャー)となった」と書かれ、チュベイの父アルグがアリクブケによってで第七代当主を継ぎクビライによって当主位を追認された場面でも「チャガタイのウルスの君主(パードシャー)」(pādshāh-i ūlūs-i Chaghatā'ī)という言い方をしており、いずれも「カン(ハン)」という単語で表現していないようです。ジョチ家の場合、バトゥが「サイン・カン」と呼ばれていた事は『集史』やバトゥの宮廷を訪れたフランスのルブルクの旅行記その他で言及がありますが、ジョチ・ハンの死によってバトゥがジョチの後を継いだ時、「自らのウルスにおいて、ハン位の玉座に即いた(ūlūs-i khwīsh bar takht-i khānī nishast)」という表現があり、オゴデイやモンケの即位の場合でもやはり「ハン位(またはカアン位)の玉座に即いた」という表現がされています。(クビライの開平府での即位では「クビライ・カアンは君主位の玉座に即いた」(Qūbīlā'ī Qā'ān rā bar takht-i pādshāhī nishāndand )というぼかした言い方をしており、杉山正明先生などが指摘する通りクビライが正式なクリルタイを経ぬまま即位したものだったことが文章表現上でも表れているようです。後で王族たちと将軍たちの全てが誓約書を提出してクビライを「カアンとして推戴した」(bi Qā'ān ī bar-dāshtand)と書いてはいますが。)
漢語表記の「皇帝」や「大王」「王」「太子」などは、実際にこれら王族たちが「カアン」や「カン」など呼ばれていたことをそのまま漢語に翻訳したものというよりも、勿論大元朝での文書行政や序列の問題も絡んでいますが、恐らくモンゴル語による呼称上での相違よりも「立場」に準拠する形に対応しているのでは無いかと思います。
ただ、個人的な意見を申し上げれば、「チンギス・ハーン」を「チンギス・カン」に改めるという話しであれば賛成です。(飽くまでも個人的にはですが) モンゴル帝国時代前後のモンゴル高原の考古学を専攻されておられる白石典之先生が中公新書の『チンギス・カン—"蒼き狼"の実像』で、モンゴルに滞在中現地のモンゴル人に「チンギス・カンが…」と話をすると、「違う!チンギス・ハーン(チンギス・カアン)だ!」と厳しい口調で叱られた、というような実体験を引いて書かれています。これは、モンゴル帝国時代や大元朝の皇帝聖旨(ジャルリグ)などには CYNKKYZ Q'N 「チンギス・カン」(チンギス・ハン)としか書かれていなかったものが、17世紀以降の『蒙古源流』や『アルタン・ハーン伝』などのモンゴル語の歴史書では、一律 CYNKKYZ Q'Q'N 「チンギス・カアン」と記述されており、大元朝が崩壊して以降、モンゴル高原周辺の歴史的な認識ではチンギス自身の君主号が「カン」から「カアン」へ遷移しているためです。(一般的に見られる「成吉思汗」という表記がいつ頃出現したのかは自分は良く知りませんが)
○モンゴル帝国関係での編集方針としてはどうすべきか
それでは、現状どういった表現が許容されるか考えますと、これは全く個人的な意見ではありますが、チンギス・カン以降の歴代のモンゴル帝国の最高君主は「モンゴル皇帝」という言い方が一番妥当ではないかと思います。「大カアン」や「大ハーン」でも(研究者自身が多用している)現在ならば意味的に通用すると思いますので記事に使うのは問題無いとは思いますが、実際の称号や名称としての厳密さを追求するとなると「大カアン」や「大ハーン」は厳しいかもしれません。クビライ以降の大元朝の当主を「カアン」と書くことは実際そう呼ばれていたので全く問題ありません。北元以降のアルタン・ハーンななどのクビライ裔についても「ハーン」を使っても問題ないと思います。Qaanの近世〜現代モンゴル語読みが「ハーン」ですので。(大元朝時代のカアンのことだと断り書きはどこかで必要だとは思いますが) 各王家の当主たちについては、イルハン朝はカンかハンで良さそうですが、テグデルやバイドゥなどは『集史』ではアバカ→アルグン→ガザン路線を正統とする考えのためか、単独で出てくる場合「アバカ・ハン」「アルグン・ハン」「ガザン・ハン」というのに対しわざと「テグデル・アフマド」や「バイドゥ」とのみ書かれ「ハン位に即いた」と書かれているにも関わらず「〜・ハン」で呼ばれない特徴があります。また、ジョチ・ウルスチャガタイ・ウルスイルハン朝の資料はペルシア語文献がメインになることが多く、アラビア文字の日本語転写では kh はハ行で記述する形式が現在では一般であるため、これらの地域の当主クラスの王族たちで「人名+ハン/カン」の場合は「ハン」を使った方が良いのかも知れません。(宇野伸浩先生はイルハン朝の君主でも「カン」で統一しておられるようですが)
杉山先生はチンギスもグユクもひっくるめて「大カアン」という言い方を推されていますが、やはり「大ハーン」にしろ「大カアン」にしろ、このふたりはモンゴル帝国時代には「カアン」と呼ばれていなかったことは否定しようがなく、そこが大きなネックだと思います。どちらにしろ特に「大ハーン」がそうですが、厳密に考えると「カアン」のことも含まれる的な苦し紛れな表現なので使うにしても今までの記事の表記の通り、添え書きするか断わり書きが必要かも知れません。「大ハーン」を「大カアン」に変えても、これは執筆者の好みの問題止りのような気がします。
これも全く個人的な考えですが、モンゴル帝国時代に「ハーン」という表記には違和感を捨て切れません。(汗 確かに「テュルク・モンゴル系の君主の称号の概念」として「ハーン」が項目名として存在する事は何ら問題ではありませんが、上記でも指摘した通り、「ハーン」だと「カアン」の近現代モンゴル語読みなのか、「カン」のアラビア文字表記に準拠した言い方なのか分かりづらく、モンゴル帝国時代の話をしているのに何故「カアン」の近現代モンゴル語読みをしなくてはならないのか理不尽さも感じます。(例えば、『鑑真和尚』を「ガンジンワジョウ」ではなくて「『和尚』は「オショウ」だからという理由で「ガンジンオショウ」で呼んでも問題ない」と言っているような感覚に近い気がすると言いますか)
チンギス裔のモンゴル諸王家の君主たちも、カイドゥがそうであるように、王家の当主であっても「カン(ハン)」と名乗っていたか怪しい人物もいるため、王族たちの誰を「カン(ハン)」と表記して良いのかについては、資料を踏査して個別に考えなければいけないようにと思います。定義部分でも本文中でも「カン(ハン)」を安易に一律に使用するのは控えて、「〜ウルスor〜家第何代当主」とか「第何代君主」のような書き方をした方が無難かも知れません。(『元史』や『集史』の記述の仕方に近い感じなってしまいますが) --Haydar 2008年3月7日 (金) 14:04 (UTC)[返信]

早速のご意見ありがとうございます。この「ハーン」、「カアン」・「カン」の呼称問題は一筋縄でいかない問題であることが良くわかりました。その上でのご提案なのですが、現在のこの「モンゴル帝国」の項目の中でやはり、表記は統一した方が良いと思います。それゆえ、「ハーン」、「カアン」を下手に統一するより、この呼称はいろいろ問題がありことを明示し、さらに「ハーン」の項目に説明があることを明示した上で、Haydarさんが提案されたように、、「〜ウルスor〜家第何代当主」とか「第何代君主」のような書き方をするやり方に賛成致します。とにかく、「Khubilai Khan」という、Khで始まる音をかたやハ行、かたやカ行でとるのは、百科事典の項目のなかでは、やはり不適当と思われます。日本語として、ハ行なり、カ行で統一する方が宜しいかと思われますし、それが難しいようであるならば、日本語の「当主」、「君主」で統一する方が、より良いように思われます(本当にこれは、日本語表記の問題であります)。他の方々はどう思われますか。ご意見をいただければと思います。aranshu 2008年3月8日(土)12:00(UTC)

Haydarです。> aranshuさん コメントありがとうございます。ご賛同頂いて恐縮です。提案について纏めますと、
  1. チンギスからクビライまでの五代は「モンゴル皇帝」(オゴデイ、モンケ、クビライについては「カアン」の称号について言及)、
  2. クビライ以降の大元ウルスの首長たちも同じく「モンゴル皇帝」(同じく「カアン」について言及)、ジョチ、チャガタイ、イルハン朝の当主たちについては「君主」「当主」を用い、「〜ウルス/〜家第何代当主」とか「第何代君主」のような書き方を行うこと、
    • はっきり名乗りに用いた事が分かる人物以外、「カン(ハン)」といった称号は記事内でみだりに使わない。
といった感じでどうでしょうか?
フォーマットとしてはこんな感じはどうでしょうか?
1)個人名(カタカナ(ラテン文字表記)、2)生没年、モンゴル帝国第何代皇帝ないし何々ウルス/何々家第何代君主/当主(在位年数)。3)(基本文献、原資料に表れる)各言語表記。4)諡、諱があれば。5)尊号など。6)補足説明など。
という風に。個人的にはクビライ以降の大元朝の皇帝たちにチベット語年代記などに出てくるチベット語表記などがあれば完璧なんですが、これは自分自身の能力に余るのでチベット史を専門にされている方たちに適宜補完して頂ければと思います。
例えばグユクの場合などは、
グユクGüyük, 1206年 - 1248年4月、在位1246年 - 1248年4月)は、モンゴル帝国の第3代皇帝漢語資料の表記では貴由谷由皇帝。ペルシア語資料での表記では كيك خان kuyuk khān ないし
 گيوك خان Guyūk khān など。大元ウルスによって贈られた廟号は定宗。

第2代皇帝オゴデイの長子で第6皇后・ドレゲネとの間に生まれた長男である。グユクは第3代モンゴル皇帝
であるが、先代のオゴデイがモンゴル皇帝として初めて「カアン」 Qaγan〜Qa'an を名乗ったものの、
グユクはこの「カアン」(哈罕皇帝/合罕皇帝)を父オゴデイのみの称号と考えたのか自らは名乗りとして
用いず、もっぱらカンハン) Qan/χan 〜 خان khān のみを名乗った。
クビライ以降の大元ウルスの皇帝の書き方として、例えば成宗テムルの場合、
テムルTemür, 1265年 - 1307年)は、モンゴル帝国第6代モンゴル皇帝であり、
大元ウルスの君主としては第2代カアン( Qaγan、大ハーン、大カアン 在位1294年 - 1307年)。
漢字表記は鉄穆耳。廟号成宗は欽明広孝皇帝。モンゴル語の尊号はオルジェイトゥ・カアン
(完者篤皇帝 Öljeitü Qa'an、 オルジェイト・ハーン)。
モンゴル諸王家の当主として、ジョチ・ウルスの当主バトゥの場合は、
バトゥ (Batu, 1207年 - 1256年) は、ジョチ家の第2代当主(ハン:在位1225年 - 1256年)で、
ジョチ・ウルスキプチャック・ハン国])の実質的な創設者。チンギス・カンの長男・ジョチの
次男である。漢語資料では抜都大王、巴禿、八都罕。ペルシア語資料では باتوbātūと書かれる。
同じく他のジョチ・ウルスチャガタイ・ウルスイルハン朝の君主たちの各々の項目では、現在「君主」「当主」で書かれていますので、今のままで良いのではないかと思います。
>「Khubilai Khan」
英語版やフランス語版、ドイツ語版では、Kublai Khan, Kubilai Khan, Kublai Khanなどとしているようですね。マルコ・ポーロ東方見聞録ではおおよそ Cublai と書かれてようですが、ウイグル文字やパスパ文字によるモンゴル皇帝聖旨や『集史』のペルシア語表記などによって、クブライではなくてクライQubilai であることはもはや動かし難いことですので考察の対象にしなくても良いと思います。ラテン文字表記の Kh が日本語表記のカ行かハ行かという以前に、そもそも各国語版のラテン文字表記が一体どういった根拠で採用されているのか良く分かりません。モンゴル帝国時代の資料に表れる表記ではなくて、現代モンゴル語での表記や中世ラテン語表記などを、現行の自分達の言語・発音でのラテン文字表記に無理矢理当て嵌めているのでは無いかと思われる部分もあるやに考えられ、欧米のKublaiなどの表記は定義部分で参考にしたり採用してもあまり意味が無いように思われます。モンゴル語版では Хубилай хаан と書かれてあって問題は全くありませんが、同じキリル文字のロシア語版ですら「Хубилай (1215—1294) — монгольский хан, 」とあるのが現状です。(マルコ・ポーロなどに出てくる表記は書かれた方が良い様に思いますが。)英語版などのモンゴル帝国関連の記事では「カアン」や「カン」の問題は記事として反映させようと言う雰囲気が無さそうで、そもそも各国語版のラテン文字表記も中世ラテン語文献など基づく歴史的な綴りを十分考慮するような、突っ込んだ議論の上で書かれているようにも見えません。(一応それらしい議論はあったようですが、議論らしい議論にならずに終わっている感じを受けます。 英語版のノートでの議論
モンゴル帝国関係の記事について他の言語の判を一通り見てみましたが、例えばクビラいは英語版の記事名がKublai Khanとなっていますが、恐らく「現在の欧米の」表記の仕方に過ぎず、 Gengis Khan などよりも歴史的・文献的根拠はあまり無いのではないかと思います。モンゴル帝国時代に関するテュルク語・モンゴル語、アラビア語、ペルシア語の表記は、日本語版での表記を考える上で他の言語版のラテン文字表記はさほど役には立たないと思います。aranshuさんも仰る通り、日本語版では日本語版なりの論拠をもって合意で形成し、これらの表記に関しては、実際のアルタイ学やテュルク・モンゴル学、モンゴル帝国関係の最近の著作や論文などを直接適宜参照して編集した方が、やはり良いのでは無いでしょうか。
自分が推す案ですと、「カン」だの「ハーン」だのが面にあまり出て来ず、従来の記事説明からすると味気ない印象を与えてしまうかも知れません。しかし厳密さと無難さを追求しますと、このようになります、ということで取り敢えず1.、2.のような案を提起したいと思います。 --Haydar 2008年3月9日 (日) 15:38 (UTC)[返信]

ご意見ありがとうございます。 Haydarさんのご意見に全面的に賛同致します。この方針にそって「モンゴル帝国」の項目ならびに関連の項目を訂正できればと思います。。aranshu 2008年3月10日(月)13:00(UTC)

私もHaydarさんのご意見に賛成いたします。らりた 2008年3月11日 (火) 14:11 (UTC)[返信]

正確性について[編集]

'そして、実務においてジャルグチやダルガチを助け、末端の文書・財務行政を担う重要な役職がビチクチ(書記)である。ビチクチは占領地の現地の言語に通じている必要があるので、漢民族、西夏人、契丹人、女真人などの漢人や、ウイグル人、ムスリム(イスラム教徒)などの色目人出身者が数多く参入した。'

と書かれておりますが、これらの民族の反乱がしばしば各地で起こっていて、殆どがモンゴル帝国の指示に従わなかった(特に漢民族)ですので上記の文挙げる必要は無し。Wiki8884 2009年7月4日 (土) 17:01 (UTC)[返信]

モンゴル帝国の滅亡について[編集]

モンゴル帝国が滅亡した年は1634年、つまり「天聡八年」です。しかし、清と改号されたのは崇徳元年(1636)年なので、「後金」と呼称するのが妥当だと思います。-- Lijiahao0410会話2018年3月4日 (日) 02:33 (UTC)[返信]

差し戻しについて[編集]

利用者:‎Big sausageさんの差し戻しを、取り消したところ、再度差し戻しが行われたのでコメントします。私見として、現行のバージョンより版番79757488をベースに参考文献を追加していった方が良いものと思います。現行のバージョンの冒頭部は英語版からの翻訳とのことですが、ref付きか否かという以前の話として内容的に問題があります。翻訳に絞って問題点を指摘すると以下のような例です。

  • 単純な用語・訳語不統一の問題:冒頭部だけでもチンギス・ハーンとチンギス・カンが混在しており不統一になっています。また、khanatesという英単語をハンナートというカナ書きで用いるのも普通見ない方法です。
  • 誤訳:日本語文がおかしくなっている箇所もありますが、簡単な確認でも非常に単純な誤訳が複数見つかり、内容が不信の状態です。以下は例です。
    •  (英)...Originating in Mongolia in East Asia, the Mongol Empire eventually stretched from Eastern Europe and parts of Central Europe to the Sea of Japan,... ⇒ (日)モンゴル帝国は東アジアのモンゴルを起源とし、最終的には東ヨーロッパと中央ヨーロッパの一部から日本に広がり...
    •  (英)...In 1304 the three western khanates briefly accepted the nominal suzerainty of the Yuan dynasty,...(日)...1304年には西の3つの漢民族は元朝の名目上の宗主権を一時的に受け入れたが...

これらは日本語版Wikipediaの内容がおかしいことはモンゴル史についての概説書一冊でも確認すれば一見してすぐわかるものです。従って現在の記事冒頭部は単純におかしいです。他の部分もここまで決定的ではないにせよ問題があります。--TEN会話2020年10月1日 (木) 17:26 (UTC)[返信]

    • 反対 全て直しましたがまだ文句ありますか?自分の追記がより良い記述に置き換えられるのはかまいませんが、refなしの記述で置き換えられるのは問題外かと思います。後から追記するとかいう言い訳はWikipediaでは通らないかと思いますよ。ちなみにチンギス・ハーンやチンギス・ハンの混在はこの記事の他の箇所でもあったわけですが、あなたの主張ですとこの記事は全て信頼できないですね。Big sausage会話2020年10月1日 (木) 23:05 (UTC)[返信]
    • まだ文句ありますかと言われればまだまだ沢山あるのですが、ここでいちいちあげつらっても建設的ではないので、即時脚注をつける形での更新ならばBig sausage氏は納得できるということでよろしいでしょうか。とりあえずHaydar氏の文章を元にした試案を挙げますので、他の方の納得が得られればこちらに改訂いたします。--カラ会話2020年10月2日 (金) 13:23 (UTC)[返信]

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原遊牧民を統合したチンギス・カン1206年に創設した遊牧国家中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルスᠶᠡᠭᠡ
ᠮᠣᠩᠭᠣᠯ
ᠣᠯᠣᠰ
Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した[1]

モンゴル帝国の創始者チンギス・カンとその兄弟・子息たち、『四駿四狗』に代表される部将(ノヤン)たち、及びそれらの後継者たちはモンゴル高原から領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパアナトリア(現在のトルコ)・シリア、南はアフガニスタンチベットミャンマー、東は中国朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた[2]。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。二大洋に面していた。

モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、「アルタン・ウルク(「黄金の一族」の意味)」と呼ばれるチンギス・カンの子孫の王族たちと彼らに従属する部将(ノヤン)たちによって、主に戦功等に応じて各地に分与された領民と領国を支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした[3]。モンゴル帝国は、「千戸(ミンガン)制度」と呼ばれるテュルク・モンゴル系の騎馬軍団を基礎とし、皇帝の命によって分与されたそれら数十もの千戸軍団を各モンゴル王族や部将たちが管轄し、軍団や征服地域の租税や民政の管理を皇帝直属の財務官僚(ビチクチ)たちが担った。彼らの行動規範は「チンギス・カンの遺訓(ジャサク)」によって律せられ(これを職掌したのが「断事官、ジャルグチ」)、モンゴル皇帝はこの「チンギス・カンの遺訓」に基づき、これらの諸ウルスの存廃と租税管理を最終的に統御する存在でもあった[4]

しかし、1260年に、第4代皇帝モンケの死去に伴い皇位継承戦争が勃発し、その次弟クビライ上都で第5代皇帝としてこれを制して即位したが、当時の主要なモンゴル王族であったジョチ・ウルスベルケ、クビライの実弟フレグチャガタイ家アルグらが相次いで死去したため、モンゴル皇帝を正式に選出する全帝国的な統一クリルタイの開催が事実上不可能になってしまった[5]。そのため、クビライは自らが直接支配できていた中国とモンゴル高原チベットを中心とする、現在の区分でいう東アジア部分の統治機構を整え、あわせてモンケの死去によって中断されていた南宋遠征を完遂させる事で、モンケの後を継いだ事実上のモンゴル皇帝である事を内外にアピールした。この過程で、中央アジアのモンゴル王族たちとの紛争の前線基地と化していたカラコルムに替わり、1271年に帝国の中国方面支配の拠点のひとつであった金朝の旧都・中都の北隣に大都(現在の北京)を建設し、帝国の東半分の地域は事実上クビライとその子孫が領国として継承する体制ができあがった。他の地域もそれぞれの地域の主要な王族たちが領民と領国を囲い込むようになり、13世紀後半、帝国はモンゴル皇帝による全土支配の時代から、徐々にモンゴル皇帝を盟主としジョチ家チャガタイ家オゴデイ家フレグ家のような各地の主要王族を頂点とする諸ウルスの連合による緩やかな「連邦」化が進んで行った。このうち、クビライはモンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した[6]

この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カン末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる[7]
— User:カラ

  1. ^ 例えば、第3代皇帝グユクが教皇インノケンティウス4世に宛てた書簡にはウイグル文字で「大モンゴル・ウルスの大海のごとくのカン(yeke mongγol ulus-un dalay-in qan)」、第5代皇帝クビライが日本に宛てた漢文書簡には「大蒙古国皇帝」とそれぞれ記されており、「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」がこの国家の公的な自称であったことが確認される(川本2013,13-14頁/高田2019,100-102頁)。
  2. ^ モンゴル帝国の広大な版図は、モンゴル帝国とその後継国家が残した詳細な地図によって正確な形が現在まで伝えられている。とりわけ文宗トク・テムルの即位記念に編纂された『経世大典』「輿地図」はジョチ・ウルス、チャガタイ・ウルス、フレグ・ウルス、大元ウルスの4大ウルスの境界線を明確に示し、モンゴル系諸国家が西北は現ロシアのルーシ諸国(阿羅思)、西南はアナトリア半島からシリア、南は現アフガニスタンのガズニー(哥疾寧)・カーブル(何不里)まで及んでいたことを図示している(宮2007,115-118頁)
  3. ^ モンゴル史研究者の杉山正明は『集史』や『モンゴル秘史』などの検討により、即位直後のチンギス・カンによって諸子諸弟に与えられた6つのウルスと、その中央に位置するチンギス自身の中央ウルス(コルン・ウルス)の連合体こそが「モンゴル帝国の原像」であると論じている。そして、このような「チンギス・カン一族による共同領有の原理=モンゴル帝国の分有支配体制」はモンゴル帝国の急速な膨張を経ても変わらず、以後のモンゴル的伝統を引く諸国家のプロトタイプとなったと指摘している(杉山2004,53-57頁)。
  4. ^ 1996B,196-198頁
  5. ^ 1996A,198-203頁
  6. ^ とりわけ、武宗カイシャンの治世にはウルス間の活発な交流が行われ、全モンゴルの一体性が蘇った。しかし、そのカイシャンが弟アユルバルワダのクーデターによって死去すると、ウルス間の交流は断絶することはなかったものの低調となっていった。このような変化について、杉山正明は「(カイシャンの死によって)モンゴル帝国の東西和合の大流は、それでも押しとどめられることはなかった。しかし、決してそれ以上は進展しなかった」と論じている(杉山1996B,177-184頁)。
  7. ^ 杉山正明は15世紀以後を「ポスト・モンゴル時代」と称し、この時代特有の現象として「モンゴルほどではないが、モンゴル以前ではありえないような大帝国」、すなわち明朝/清朝、オスマン朝、ティムール朝/ムガル朝、ロシア帝国が相継いで誕生したこと、そしてその多くが20世紀に至るまで存続した「老帝国」であったことを指摘する。杉山はこれらの大帝国は直接・間接にモンゴル帝国の影響を受けた「モンゴルの遺産」であり、「陸」の時代から「海」の時代へ、中世から近現代への架橋の役割を果たしたと論じている(杉山1996B,226-231頁)。

(参考文献) 川本正知『モンゴル帝国の軍隊と戦争』山川出版社、2013年 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』講談社現代新書/講談社、1996年(杉山1996A) 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』講談社現代新書/講談社、1996年(杉山1996B) 高田英樹 『原典 中世ヨーロッパ東方記』名古屋大学出版会、2019年 宮紀子 『モンゴル帝国が生んだ世界図』日本経済新聞出版社、2007年

一週間経っても反対意見がなかったので、上記の試案に基づいて改稿しました。できれば本文全体に注釈をつけたかったのですが、あまりにも時間がかかり過ぎるため、今回は見送りました。後々節単位で注釈を少しずつ増やしていこうと思っています。--カラ会話2020年10月10日 (土) 04:54 (UTC)[返信]
  • 賛成 ろくに日本語書籍も読んでいない、訳語は誤りだらけ、日本語としてもおかしいと、正直どのような意図でこのレベルの文章を載せたのか理解に苦しむ所です。いつかどうにかしないといけないと思っていたので、Haydar氏とTEN氏には感謝です。個人的には利用者:‎Big sausage氏の加筆部分はまるまる削除でも良いと思いますが、Haydar氏の版で参考文献が加筆されるのならそれでも良いと思います。--カラ会話2020年10月1日 (木) 21:44 (UTC)[返信]
    書籍たくさん読まれていても出典を付けることすらできないのはなぜでしょう?この記事もほとんど出典が付いてないゴミ記事なので一度全部消した方が良いかもしれないですね!--Big sausage会話2020年10月2日 (金) 03:45 (UTC)[返信]