ノート:プロイセン

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ブリキさん

Hartmannと申します。お尋ねしたいことがあります。できましたら48時間以内にご回答をお願いします。

1)1933年にパーペンのクーデターでプロイセン州内閣が解消したとは如何なる歴史的事実を指しているのでしょうか?

2)原文は必要はないと言われ、「Koenig in Preussen」と「Koenig von Preussen」を消されております。この原文があなたが良しと思われる「格下の王号」を「普通の王号」の違いです。原文があることで何か理解の手助けになると思われませんか?

2006年3月23日 Hartmann



>Hartmannさん
こんばんは。ブリキです。

1)1933年にパーペンのクーデターでプロイセン州内閣が解消したとはPreußenschlagまたはPreußenputschと呼ばれる歴史的事実の帰結を指しています。ヒンデンブルク大統領とシュライヒャー中将に支えられたフランツ・フォン・パーペンは1932年7月以降、恐喝と強権発動によって非民主的に政権を掌握し、プロイセン州内閣はパーペンとパーペンの意を汲んだプロイセン州内相ブラハトを代表とするライヒスコミッサールによって実権を奪われていましたが、1933年プロイセン州首相オットー・ブラウンがヒンデンブルクによって正式に解任されて亡命し、州内閣は法的にも消滅しました。詳しくは

Preußen ohne Legende, Sebastian Haffner, Hamburg, Gruner + Jahr, 1979

をお読みください。日本語訳もあるようです。また

http://de.wikipedia.org/wiki/Preußenschlag
http://www.dhm.de/lemo/html/weimar/innenpolitik/preussenschlag/index.html
http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/BraunOtto/index.html

もご覧ください。もしドイツ語を読むのが苦手でいらっしゃれば、または面倒をお感じになられるようでしたら、日本語では

http://redmole.m78.com/bunko/02/bunko025.html
http://www.marxists.org/nihon/trotsky/books/o-r/01.htm
http://www.marxists.org/nihon/trotsky/books/o-r/07.htm

も経緯の理解には役立つでしょう。歴史が専門ではないので申し訳ありませんが自分で参考にした書籍とサイトを挙げてさしあげることしかできません。簡単な調査法としては検索欄に「パーペン クーデター」と入力し、検索するとよいだろうと思います。その他にも資料は多いと思いますのでもし興味がおありでしたらご自分でお調べください。

2)何か理解の手助けになると思われます。ただ、それはプロイセン王国のほうにも書いてあります。原語が読める人は原語版を読めばいいし、原語が読めない人には邪魔なだけだと思うので、原語表記は記事名以外なるべく控えめにしたほうがいいと思います。特に人名など。


外国語の使用は控えめにしましょう。
本文にある外来語については、それが独立した別ページになりそうな場合、特にネイティブな表記を併記する必要はありません。


Wikipedia:外国語の使用は控えめにより


ブリキ 2006年3月23日 (木) 12:55 (UTC)[返信]


>ブリキさん
こんばんは。Hartmannです。 真摯なご回答を戴きまして安心いたしました。ありがとうございます。 ご回答を読ませていただきました。もう少し納得の出来ないところがあります。ご見解をお聞かせください。

1)「1933年フランツ・フォン・パーペンのクーデターによりプロイセン州内閣が解散・・・」と記述されております。「パーペンのクーデターにより」は、「Preussenschlag」(「Preussenputsch]とも呼ばれる)を翻訳されたものとと判断します。

  • ドイツ語をフランス語に置き換えて日本語訳とは言えないのではありませんか?
  • 先ず一般読者はパーペンという人物がクーデターを起こしてプロイセン州内閣を解散させたと理解しませんか?
  • パーペンがドイツ首相の名前と知っても、読者は、何故首相がクーデターを起こして、プロイセン州内閣を解散させるのか不思議に感じませんか?
  • 例え、首相がクーデターをやることが歴史上あるしても、一般読者がクーデターから想像することは南米やかっての東南アジアにおける軍部のそれを想像しませんか?もう少し親切に説明する必要がありませんか?

2)原文の表記についてですが、「Franz von Papen」、「Preussenputsch」と原文併記であれば、読者はスペルから外国語Wikipediaで検索することできます。最近の読者は外国語に強い人も多くおられます。少なくとも外国の事項を検索する人たちは。少なくともドイツのことを勉強しようという人は独和辞典はお持ちでしょう。例え、翻訳に時間がかかっても、また読めなくとも視覚データもあり、何かの手助けにはなります。素晴らしいことではありませんか?日本語Wikipediaから英語へ、また独語へ、そして日本語に戻る。リアル・タイムで世界の知性が利用できる。これこそWikipedia利用の真骨頂ではありませんか?

日本語Wikipediaの規則に外国語を規制する条項があるそうですが、読者に利便があるのなら、変更してもかまわないのではないでしょうか?アルファベットを使用する国のWikipediaにドイツ語の固有名詞がドイツ語のスペルのまま使われています。これを利用しない手はありません。このため日本では少なくとも原文併記が許されるべきです。何故に漢字、平かな、カタカナに限定する必要があるのですか?

3)事実と異なり、改悪されているとの指摘がありましたが参考までにどこの、何が、そうであるのかお教えください。

Hartmann 2006年3月24日


>Hartmannさん
ご質問が非常に多く、ご回答に時間のかかるものもありましたので遅くなってしまい申し訳ありません。

ドイツ語をフランス語に置き換えて日本語訳とは言えないのではありませんか?
三省堂現代新国語辞典によるとクーデターは「[権力者階級内部の者が〕武力などの非常手段によって、政府をたおし、政権を奪い取ること。(類)政変・革命」とありますが、もしかして一語でクーデターにあたる日本語をご存知でしたら教えていただけませんか?

先ず一般読者はパーペンという人物がクーデターを起こしてプロイセン州内閣を解散させたと理解しませんか?
パーペンという人物がクーデターを起こしてプロイセン州内閣を解散させました。

パーペンがドイツ首相の名前と知っても、読者は、何故首相がクーデターを起こして、プロイセン州内閣を解散させるのか不思議に感じませんか?
Hartmannさんが読者という語でどのような人を想定していらっしゃるのか分かりませんので、読者がどう思うかは申し訳ありませんが私にはわかりかねます。

例え、首相がクーデターをやることが歴史上あるしても、一般読者がクーデターから想像することは南米やかっての東南アジアにおける軍部のそれを想像しませんか?
クーデターとは南米やかっての東南アジアにおける軍部のそれです。

もう少し親切に説明する必要がありませんか?
もう少し親切に説明する必要があると思います。どのような事項であれ親切に説明する必要がありませんか?

2)素晴らしいことではありませんか?
素晴らしいことだと思います。

日本語Wikipediaから英語へ、また独語へ、そして日本語に戻る。リアル・タイムで世界の知性が利用できる。これこそWikipedia利用の真骨頂ではありませんか?
真骨頂だと思います。ただ、申し訳ありませんがこの2)でHartmannさんが何をおっしゃりたいのかあまりよくわかりません。理解力の足りないことをお詫び申し上げます。

日本語Wikipediaの規則に外国語を規制する条項があるそうですが、読者に利便があるのなら、変更してもかまわないのではないでしょうか?アルファベットを使用する国のWikipediaにドイツ語の固有名詞がドイツ語のスペルのまま使われています。これを利用しない手はありません。このため日本では少なくとも原文併記が許されるべきです。何故に漢字、平かな、カタカナに限定する必要があるのですか?

下記をお読みください。
原語は括弧書きで並記 - ただし、並記が必須なのはその外来語が項目名である場合のみです。

Wikipedia:外来語表記法

外国語の使用は控えめにしましょう。
本文にある外来語については、それが独立した別ページになりそうな場合、特にネイティブな表記を併記する必要はありません。

Wikipedia:外国語の使用は控えめにより

読者に利便があるのなら、変更してもかまわないのではないでしょうか?
7.ウィキペディアのことがよくわからないのに、独断でウィキペディアを変革させようとすること。
ウィキペディアは発展中の百科事典であって、たくさんの賢い人々がこれに取り組み、関心を持っているのをわかってください。こうした人たちはウィキペディアについてたくさん考えてきました。ウィキペディアに訪れて、仕組みを理解できずに、もっとしっかり管理するべきだと政治活動を始める人がいます。あるいは新しい、未完の、あるいは不適切な記事を根拠にウィキペディアを批判する人もいます。一般的に、ここでくつろいで過ごすためには、多少の(一時的な)欠陥には目をつぶってください。

Wikipedia:ウィキペディアで起こしがちな間違い

3)事実と異なり、改悪されているとの指摘がありましたが参考までにどこの、何が、そうであるのかお教えください。

プロイセン(Preusen)は第二次世界大戦まで700年間に渉りドイツ人が支配したバルト海沿岸の地域の名称。
ずっとドイツ人が支配していたわけでもないし、支配期間を通算しても700年にはならない。

聖地エルサレムから転じたドイツ騎士修道会
バルト海沿岸地域進出前にすでにハンガリーにいた。

征服戦争は東方十字軍とも呼ばれ、
ふつうの呼称は北方十字軍。東方十字軍は東欧。

北の十字軍―「ヨーロッパ」の北方拡大 、山内 進、講談社、1997 をご参考ください。

ドイツ騎士修道会員は修道士の戒律に従い私有財産の所有も妻帯も許されなかったために、子孫を残せずドイツ各地から人材を求めた。
子孫を残せないから人材を集めたのではない。人材は求めなくとも集まった。

ホーエンツォレルン家に繋がるアルプレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハは
アルプレヒトはホーエンツォレルン家の一員。

スウェーデン王国がバルト海を越え大陸にも勢力を伸ばし
スウェーデンはユーラシア大陸。

現在も旧プロイセン地方にはフランス系、イタリア系の苗字を持つドイツ人が多い。
当時もイタリア系の苗字を持つ人は多くない。ドイツ人はプロイセンから追放されたので現在ほとんどいない。

西プロイセンのドイツへの割譲
西プロイセンのドイツへの割譲は「再」ではない。

プロイセンの人々はソ連軍を恐れて大量の難民となってドイツ西部に逃れた。
ドイツ東部にも逃れた。

県庁所在地は旧ダンチッヒ
ふつうダンツィヒと表記。

旧ドイツ名はアレンシュタイン)
今もドイツ名はアレンシュタイン。

プロイセンのドイツ人住民は逃亡したり、追放されてドイツ西部に移住し、
接続助詞「たり」はふつう二回繰り返して使う。
例:誤:ジュースを飲んだりお菓子を食べた。
正:ジュースを飲んだりお菓子を食べたりした。

光村図書「国語2年 上 たんぽぽ」などが参考になると思われます。

事実誤認や文法・表記の誤りが非常に多いのではないかと存じます。参考までにどこの、何を参考に編集なさっているのかお教えください。

Wikipedia:あなたが精通していること、または学習しようとしていることについて寄稿する もご参考ください。

ブリキ 2006年3月25日 (土) 10:06 (UTC)[返信]

項目の統合[編集]

新項目プロイセン公が立てられましたが、これだけの内容なら本項目に追加すれば十分でしょう。--Uraios 2007年3月17日 (土) 23:38 (UTC)[返信]

統合の上で整理・追加しました。--Uraios 2007年3月23日 (金) 22:48 (UTC)[返信]