ノート:フランク王国

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ビザンツ帝国と東ローマ帝国[編集]

時代的・地理的範囲が多岐に渡っているためにこの記事の固有名詞カナ転写法は様々な表記法が混ざったものになっています。その名称が指し示す概念が同一のものであれば、カルルスだろうとカールだろうとシャルルだろうと構わないと個人的に思っているのですが、表記法によって微妙に意味合いが変わってくるものについてあまり良いアイデアがありません。 具体的に特に気になっているのはビザンツ帝国と東ローマ帝国についてです。現在日本語版Wikipedia上では東ローマ帝国と言う名前で記事が存在するため、一応本記事では東ローマ帝国表記で一貫させてあります。しかし、執筆する際に使用した書籍や論文を見る限り、少なくともピピンの寄進やカール大帝の時代の記述において東ローマ帝国と言う用語は一般的ではありません。通常はビザンツ帝国と呼ばれています。ところが、クロヴィス1世がコンスルに任命される下りでは東ローマ帝国と言う表記もまた普通に見ます。例えば『フランス史1』(世界歴史大系)では、西ゴート戦との関係(6世紀初頭)で言及される際には東ローマ帝国、ピピンの寄進の下り(8世紀半ば)ではビザンツ帝国と呼び名が変化しています。 ビザンツと東ローマの呼称問題はきちんと書こうとするとそれだけで単独の記事になってしまうので本記事で詳述すべきではないと思いますが、記事中で表記をビザンツもしくは東ローマに統一させておくべきか、途中から変更すべきかについて、どなたかの意見をうかがいたいです。--TEN会話2018年8月28日 (火) 10:09 (UTC)[返信]

東欧史などヨーロッパ史は基本的に門外漢ですが……以前学んだ知識ではヘラクレイオス王朝以降がビザンツ帝国と呼ばれるのが一般的と記憶しています。つまりおおよそ7世紀初頭以降がビザンツ帝国ということです。根拠としてはヘラクレイオス王朝の説明にも書いてある通り、公用語のギリシア語化、あとは皇帝の称号の変化(ビザンツ皇帝はギリシア語のバシレウス)などがあったと思います。歴史学の定説は結構変化いたしますので、現状はどうなのか少々おぼつかないこともあるのですが……6世紀までの記述をビザンツ帝国とすることだけは止めた方がよいと思います。私も呼称問題は結構アバウトな方かと思いますので、7世紀以降の記述を東ローマ帝国、ビザンツ帝国とするのはそれぞれ一長一短があり、正直どちらでも良いかなと思います。強いて言えば基本的に歴史学ではビザンツ帝国とする例の方が多数のような印象を持っていますので、7世紀以降はビザンツ帝国とする方が良さそうな気はします。--のりまき会話2018年8月28日 (火) 10:40 (UTC)[返信]
ご意見ありがとうございます。基本的に私もご指摘の内容のように考えてはいました。悩みどころは記事内での統一性と、「歴史学ではビザンツ帝国とする例の方が多数」(私の手持ちの本でもその通りです)と言う点の整合性なのですが・・・。初期の段階について東ローマ帝国と表記するべきという点も同感です。7世紀以降(本記事の場合ピピンの寄進周りとカール大帝時代ですが)についてやはりビザンツ表記にする方がやはり現状に即している感じですよね。8世紀の出来事について東ローマ帝国と表記している本がほとんど見つからないのでずっともやもやしていたのですが、(強いて言えば、と言うことではありますが)名称を途中でビザンツに切り替える方向で考えてみようと思います。--TEN会話2018年8月29日 (水) 04:28 (UTC)[返信]