ノート:スバル・1000

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スバル・1000がアルファスッドとシトロエンGSに影響を与えたという件に関して[編集]

上記の件に関して疑問を投げかける投稿を消される方がおられますが、私は、その件を頭から否定しているのではなく、信じるに足るだけの材料が無いといっているつもりです。ですので、疑問を投げかける部分をただ消すだけでなく、信じるに足るだけの証拠(状況証拠的でない物)を示していただければ幸いです。--221.119.117.167 2008年2月25日 (月) 14:08 (UTC)[返信]

==むしろ、アルファロメオ「オタク」の「荒らし」だと考えていたのですが。のっけから他人に対する侮辱から始められるのは気分が良くありませんね。遡ってご自分のなさったスバル・1000の件の改変履歴なりアルファロメオの件のくだりを読み返してみご覧なさい。そこで展開されている論理は、自動車先進国ヨーロッパ・イタリアの名門、アルファロメオが後進国日本の弱小メーカー、富士重工業の「コピー」など「していない」という前提をもとに展開されています。ご自分では気づかれないかもしれませんが。そして「締め」は徳大寺有恒の広めた「デマ」だという。あなたは「そんなことは言っていない」というでしょう。でも第三者にはそういう論旨にしか取れない内容でしたよ。あなたの「前輪駆動」の記述も拝見しましたが、やはり1969年のフィアット128からしか記述がありませんね。私からすれば、世界的に自動車の歴史を正確にトレースしようという意識に欠けていると言わざる得ません。また、メーカーの開発担当者のコメントがいつも真実を語っているとは限りません。むしろ逆のことが多いくらいだということは知っておいた方がいいでしょう。次に「コピーはしていない」とおっしゃる。なるほど、「コピー」なら莫大な開発費を投入せずともノックダウン生産で事足ります。では、「参考」にすることはなかったのか。ダブル・オフセット・ジョイントの開発で関係のあったハーディー・スパイサー社経由で新開発のジョイント技術はすでに1966年の時点で欧州では公開されていました。スバル・1000は1965年に発表されて、1968年からすでにスバル・1000の欧州輸出は始まっています。スイスとイギリスに手探りで設立したちっぽけな現地法人を通して、当時実際に欧州のユーザーが手にしたスバル・1000の数など正式には10台に届かないと言われています。ほとんどが現地法人の営業車として天寿を全うしたと当時ヨーロッパ法人の運営に当たった元・富士重工業の方から伺ったことがあります。当時の欧州の一般ユーザーにとってスバル・1000とは、ほとんど広告宣伝する予算もなかったために、ディーラーはおろかメーカーとしての認知も全くなかったために「売れない商品」にもなりえなかったのです。欧州向け正式名称は「Fuji Stars Sedan(フジ・スターズ・セダン)」でしたが、クラシックカー・イベントが盛んな欧州でも、現存するスバル・1000はありません。私の知る限り、マイナーチェンジ版のスバル・ff-1がイギリスに3台現存するのみです。そんな「奇妙な」クルマを1970年までに辛うじてモノコックからスバル・1000と確認できるレベルにまで解体する必要性を感じた人々はごく限られます。そしてジャンクヤードに積み上げられたスバル・1000の写真が存在するのですから、興味レベルで「参考」にした「可能性」は大いにありえるでしょうし、エンジニアリングの流れとしてもごく自然なことだと考えます。いくら後発メーカーが自らの商品に投じた技術のオリジナリティを主張しても、すでにそれは先発のメーカーによって世に出ているものです。エンジニアリングで「既出」の技術を採用していながら、頑強にその技術のオリジナリティを主張する意味がどこにあるのでしょうか。それこそ、単なる「擁護者の立場の発言」に過ぎないのではありませんか。私は「スバリスト」としての視点から今回の件を見、あなたはアルフィスタ、あるいはイタリア車ファン的視点から同じ物事を眺める。したがってこの件で論点の一致を見ることはありえないと考えます。スバル・1000の記述に対する余計な記述の付加、削除、訂正は何度おやりになってもても同じことです。私はいまだにスバル・ff-1を所有しています。私はアルファロメオ・スッドにもう興味はありません。以前、高速道路走行中に鋳造のタイロッドエンドが破断して横転事故で大怪我をした経験がありますから。__a15ff11300g 2008年2月28日 (木) 09:43 (UTC)

はい。失礼致しました。

本文での「その他」の最後の一文は余分でした。 「ノート」での最後の一文は本当に失礼致しました。削除します。

信じていただけるかどうか分かりませんが 私は、アルファオタクではありません。

「前輪駆動」の項は内容が多岐にわたるので、とりあえずそれ以前に書いてあった内容を増強したつもりでした。 ま、ミニの話も少し増強してはいるんですがね。 キュニョーの三輪車からミニ登場までの歴史を簡潔に記述するなど、とても私の手に負えません。

これまた信じていただけるかどうか分かりませんが アルファスッドも、シトロエンGSも、また、スバル1000も、どれもすばらしい、歴史に残る車だと思っています。

私は、この3車の優劣、あるいは序列には興味無いですが、ある種、「伝説」と言えるこの説の真相には興味があります。

ま、変な言い方をすると、結論がどんな内容かということには「ある意味」興味ないんです。

「アルファ・ロメオ」のアルファスッドの項(と言う項はありませんが)の改定は見事だと思います。敬服いたしました。

しかし、失礼を申し上げれば、「スバル1000」の「影響を与えた・・・」の部分 ちょっと説明不足なような気もします。 「アルファロメオ」と同じぐらいの内容が必要ではないかと思いますが如何なものでしょう。(私の書いた部分は別としてですが) --221.119.117.167 2008年2月28日 (木) 15:40 (UTC)[返信]

追加です。 表題の説に関する貴殿の含蓄には敬服いたしました。 しかしながら、貴殿も私も(良くも悪くも)アルファスッドに対して思い入れが強いようで、その話に終始しております。

しかしながら、表題には、もう一台、語るべき車があるではないですか。 アルファスッド程はそれとの関係について語られる事は多くないですが。

そこで、改めて貴殿に伺いますが、この項で語るべきもう一台の車、シトロエンGSとスバル1000の関係について、貴殿はどのような見解をお持ちでありましょうか?

私の見解は、シトロエン・GSの「メカニズム」の最後の部分ですが アルファスッドは、当時のアルファロメオ車と隔絶したメカニズムが突如として出現したようなイメージである。と(私は)思う訳ですが、GSの場合は、当時のシトロエンが磨き上げてきたメカニズム(エンジンと駆動系は、パナール各車と2馬力系。サスペンション系はDSからという訳ですね。)の集大成のような所があり、スバル1000の影響を受けたにしても、アルファスッドよりはその影響は少なかろうと思う訳です。

影響を受けたのは、メカニズムよりも、むしろ、そのコンセプトではないかと、私は「憶測」する訳です。

DSと言えば、スバル1000のフロントのサスペンション周りは、素人考えですが、DSによく似ているように見えますね。もちろんスバル1000はハイドロではなく、スバル360譲り(?)のトーションバースプリングですが。

だから何って事も無いですが、技術と言う物は、影響を与えたり与えられたりしながら磨かれる物なのでしょうね。きっと。

ま、私の見解を踏まえても踏まえなくても結構ですが、シトロエンGSとスバル1000の関係についての貴殿の含蓄をうかがわせて頂ければ幸いです。

それでは失礼。--222.1.108.12 2008年2月29日 (金) 13:31 (UTC)[返信]


御丁寧なご返信、誠にありがとうございます。

個人的には、シトロエン・GSの開発において、スバル・1000の影響はあったとしてもごく小さいと思います。

60年代後半といえば、ヴァンケル・エンジンの実用化で、世界中のメーカーがしのぎを削っていた時期で、シトロエン・GSにもロータリー・エンジンの搭載が予定されていたというのは、かなり信憑性の高い話です。当時のシトロエンはマセラティからエンジンを拝借してSMというスーパーカーを作ってみたり、異端性を全面に押し出すという野望に燃えていたように感じるからです。

ですから、おっしゃるように2CVで培った経験とパナールの技術の融合からGSのメカニカル・コンポーネントが生まれた、というのが、時代的に見ても、当時の環境から見ても、一番自然だと思います。だとすれば、件の「スバル・1000からの影響」については、あったとしても、ごく小さなものであろうと思うのです。

GS登場後、1970年代中盤から1980年代まで、フランス車はアメリカ市場からの撤退などから経営不振に陥り、モデルライフが極端に長くなって、車種展開も思うに任せない、そうした時代背景の中、GSは長い天寿を不本意なメカニズムで全うせざる得なかったのではないでしょうか。ただ、新たに膨大な研究開発費や時間を投じるより、既に「自分たちに役立ちそうな技術を持ったもの」をつぶさに「観察」した方が企業経営からすれば望ましいのは明らかですから、やはりスバル・1000の研究分析は社内的に行っていたというのも確かだと思います。

もっと厳密に言えば、むしろシトロエンは、水平対向縦置きの前輪駆動というスバル・1000のメカニカル・パッケージより、当時、東洋ベアリングと富士重工業が、ハーディスパイサー社の協力を仰ぎながら完成させた、ダブル・オフセット・ジョイント(D.O.J)に関心があったのではないかと思います。

というのは、当時の富士重工業側からみると、スバル・1000の開発担当者数人から伺ったお話からすると、ハーディスパイサー社は東洋の名前も知らないようなメーカーのために、企業機密に属するような重要な研究情報は渡さなかった。そこから先は「自分たちで勝手にしなさい」と。実際、東洋ベアリングと富士重工業も1965年の発表直前までD.O.Jという画期的な答えが得られていなかった。このことは当時の開発担当の皆さんが口を揃えておっしゃいます。

自動車に使われるジョイント技術についての著述については、スバル・1000のD.O.Jの開発にも携わった影山 夙氏の[「図説 四輪駆動車」|http://www.amazon.co.jp/%E5%9B%B3%E8%AA%AC%E3%83%BB%E5%9B%9B%E8%BC%AA%E9%A7%86%E5%8B%95%E8%BB%8A%E2%80%95322%E7%82%B9%E3%81%AE%E5%9B%B3%E3%83%BB%E5%86%99%E7%9C%9F%E3%81%A7%E7%B6%B4%E3%82%8B4WD%E3%81%AE%E6%8A%80%E8%A1%93%E3%81%A8%E7%99%BA%E5%B1%95%E5%8F%B2-%E5%BD%B1%E5%B1%B1-%E5%A4%99/dp/4381077431]が決定版と呼べるもので、ぜひ、機会があればご覧頂きたいと存じますが、その中で、自動車の歴史の中で使われたジョイントは、カルダン・ジョイント、トラクタ・ジョイント、ワイス・ジョイント、ツェッパ・ジョイントの大きく分けて4種類で、キュニョーの三輪車の不合理な「前輪駆動」は例外としても、スバル・1000の記述の中に引用させて頂いた百瀬氏の言葉通り、、「合理的な駆動方式」である「前輪駆動」が広く一般化するのが第二次世界大戦後となってしまったのは、操舵と駆動を受け持つ前輪の要となる、このジョイントの耐久性、信頼性、の問題を克服できなかったからに他なりません。

シトロエンは戦前の1936年に既に「トラクシオン・アヴァン」で前輪駆動の優位性についての社会的認知を広めていましたが、使用されたジョイントはトラクタ・ジョイントで、定期的な分解整備を必要とするものでしたし、ミニではコストの関係もあって、新たなジョイントを開発せずに、スバル・1000ではホイール側のジョイントとして使われたコンスタント・ベロシティ・ジョイント(C.V.J)をインナー、アウター側に使用していました。ミニのサスペンションはストロークに乏しいゴムブッシュの弾性を利用したもので、車両自体の大きさから言っても、前輪の切れ角は大きくなくても良いから、伸縮可能なジョイントは不要、とイシゴニスは判断したのではないか、とミニの実車を見る度に思います。

ちなみに、1959年登場のミニをスバル・1000が参考にしたか、という問題については、当時の富士重工業にあった社内参考車両がシトロエンDS19と2CVで、ミニは代理店に通ったりや路上でためつすがめつ見ることはあったそうですが、予算の都合もあって、会社で購入することはなかったとのことでした。

これは「どちらがいい悪い」という話ではなく、登場年次が違うこと、イシゴニスの考える「合理性」と、富士重工業・百瀬氏の考える「合理性」の違いだと思います。メカニズムに明らかな共通性はなくとも、スバル・1000にはイシゴニスの考えた「合理性」のエッセンスは、富士重工業の技術者たちが咀嚼して、私たち知ることが出来ないほど「薄いもの」かも知れませんが、きっと溶け込んでいると思います。しかし今日、スバル・ff-1を目の前にして思うことは、先人であるシトロエン・2CVそしてDSとのより強い、「血縁関係」と言っても良いほどのメカニズムにおける「思想的共通性」です。それはスバル・1000の記述にも反映しました。

つまるところ、スバル・1000の先進性とは「D.O.J」の開発の成功に尽きると思います。とかく「部品の使いまわし」と「コスト的見切り」、さらに当時の道路事情や自動車製造に関する経験不足から、エンジニアリングやパッケージングはおろか、自動車として見るべきものがほとんどなかった当時の日本車の中にあって、ロング・ホイールベースにカーブド・グラス採用による室内空間の広さや、水平対向エンジン縦置きの前輪駆動という当時の日本車の中では例外的に、非常に理知的に煮詰められたパッケージングは注目に値するものですが、それ以上にD.O.Jの実用化が世界の自動車メーカーに与えた影響は非常に大きい。サスペンション・ストロークを長く取り、前輪転舵角を大きく取り、左右不等長のドライブシャフトで良く、なおかつ操縦性や耐久性、メンテナンス、コストなど、それまで前輪駆動車の普及の「足かせ」になってきた問題が解決されて、排気量、馬力、サイズに関係なく、「FF」を採用できることになったのですから。

ですから、スバル・1000を「理想主義的失敗作」という評価には賛同できません。それはスバル・1000の記述と上記の理由から、スバル・1000が高度な合理性に基づいて設計されたことに疑いはありませんし、1966年当時富士重工業のディーラーは東京・名古屋・大阪など主要都市にわずかしかなく、後は「スバル」の看板さえ上げていないような地方の商社と、ラビット以来の付き合いのある街中の整備工場が「販売拠点」だった状況で、1967年にはすでに月販2,000~3,000台をコンスタントに販売していたのですから、一般的な評価や認知もそれなりに進んでいたということです。

にも拘らず、私はこれまでのスバル・1000の開発に携わったエンジニアとの関わりの中で、そうしたエンジニアリング的・商品的価値よりも、スバル・1000というクルマに込められた当時のエンジニアたちの「魂」に強く惹きつけられるのです。私はそれを自らの手を油で汚して理解できるようになりました。そうした関わりでスッドについて語れば、スバル・ff-1に対する思い入れを差し引いても、どうしても「アルファロメオでこのメカニズム」の疑問符は残ります。

しかしそれは、スッドというクルマを自動車史的見地から見た場合で、スバリスト的主観、アルフィスタ的主観から眺めた場合では、重きを置いて語りたい部分の比重は異なるでしょうし、あとは読む人の主観と一般的な認識から著しく逸脱したものでなく、皆さんから異論を差し挟まれる記述でなければ、そのまま残るはずですし、共存しても問題はないと思います。

一方、富士重工業が「魂」を忘れ、アメリカ市場への過度の依存に陥っていく1970年代、「プラザ合意」以降の円高不況に倒産の危機に瀕し、防衛庁にカネをバラまいていた1980年代、リコール隠蔽に揺れた1990年代。自動車メーカーとしてのあり方やコンプライアンスの汚点は無論、忘れられてはならないことです。そうした事実は憤りを持って記述します。

スバリストとして、一消費者として、またエンスージアストとして、メーカーの実像を広く伝えるための自己研鑽、そしてこうした議論もこの場を借りて続けて行くことは社会一般にとって非常に有意義なことだと思います。

ありがとうございました。--a15ff11300g 2008年3月1日 (土) 13:28 (UTC)

スバル・1000のサスペンションはフロント、リヤとも当時の日本車では考えられない、サブフレーム・マウントという贅沢な作りとなっています。フロントのダブルウィッシュボーン・サスペンションは先に記述した理由から、おそらくDS19からの影響は決して小さくないと思います。リヤは「トー変化を消極的に利用して・・・」云々とかと小耳に挟んだことがあります。これはエンジンの性能向上にに伴って、ff-1 1300Gでトレーリングアームからセミトレーリングアームへ変更、剛性アップが図られます。

私はハイドロニューマティックもハイドラクティブもその進化版も乗りましたが、作動原理や理屈は分かっても、その技術的優位性や乗り心地・操縦性は理解できません。短期間所有したBXでは、修理で散々煮え湯を飲まされた苦い思い出があります。--a15ff11300g 3月1日(土)14:20(UTC)

貴重なお話ありがとうございました。 たいへん興味深く、また、勉強になります。

貴殿に比べれば私はまだまだ底が浅い、未熟者であると痛感しました。

数々の失礼重ねてお詫びいたします。

ところで、この項も長くなってしまいましたので、ここら辺りで終りにしたいと思います。

お付き合いいただきましてありがとうございました。

では失礼します。--222.1.108.12 2008年3月1日 (土) 15:15 (UTC)[返信]

スズキ・フロンテ800へのDOJの採用について[編集]

当時から東洋ベアリングがパーツサプライヤーとしてスズキと関係が深く、その関係は現在にまで続いているのは存じております。また、フロンテ800というクルマが、1962年の東京モーターショーでの初披露から、1965年12月の発売まで、3年もの開発期間を要した理由が、スズキ本体が軽自動車市場でのシェア拡大を狙ったRR方式の「フロンテ360」の開発と市場開拓にリソースを傾注することを決定したことのほかに、件のジョイントの不等速性がなかなか解決できなかったためだということも、少ない資料から知りました。ただ、フロンテ800は発売当初はスズライト・フロンテ360時代から使ってきた「L型ジョイント」を採用していて、1967年か1968年の一時期からDOJに移行したと理解しているのですが。なにしろイベントなどでもまずお目にかかる機会がない稀少車ですし、手元にあるカタログをみても、ジョイントについての記述がないために確認が取れません。フロンテ800が発売当初からDOJを採用していたことが確認できる現在入手可能な資料を教えて頂けないでしょうか?

また、スバル1000の開発に当たった富士重工業側の足回り開発担当責任者の方に伺った話なのですが、まず、DOJの開発の契機となったのが富士重工業からの東洋ベアリングへの「伸縮可能なジョイントが欲しい」という打診だったそうで、それ以前に富士重工業社内ではこの不等速性の解決のために、社内で研究開発用に所有していたシトロエンDS19のプランジャー(伸縮可能)ハブや、果てはフロントのハブベアリングをさらにベアリングで保持する「ベアリングハブ」なるものまで開発していたといいます(初期DSのプランジャーハブについては、各種解説書で確認できますし、「ベアリングハブ」については、記述中の参考文献「シックススターマガジン」に一面図が掲載されておりますので、よろしければご確認ください)。また、当時ジョイントの開発に参加した元・富士重工業の影山夙氏の著述によれば、「原案はバーフィールド社(ハーディスパイサー社)」とのことで、これをもとに試作を繰り返し、スバル1000の試作車に取り付けて走ってみるとまったくうまくいかず、試行錯誤の連続だったそうです。この「バーフィールド社の原案」をハーディスパイサーから入手したのは、同社と提携関係にあった東洋ベアリングであることは間違いのないところでしょうし、富士重工業がスバル1000の開発のために建設、1964年に完成した群馬製作所内の1.6kmのテストコース以外に発売前の試作車を持ち出してテストを行うことはまずありえないこと、さらに当時東洋ベアリングが走行テストができる本格的なテストコースを持っていなかったことから、部外者がDOJ開発に関する東洋ベアリングの収支決算書を確認することは不可能ですので、「DOJの開発費が全額東洋ベアリング負担だった」というのは明らかに間違いです。それに、戦後の日本の復興を支えてきたメーカーとパーツサプライヤーという形態では、パーツサプライヤー側からの技術提供と、メーカーによるテストや商品個々に合わせるフィッティング作業に両者から開発担当者が参加して、工夫と知恵を出し合って商品としての完成を目指し、パーツサプライヤーの量産手配、部品単価の決定という一般的な流れから見ても、パーツサプライヤー側が開発コストを一方的に負担したという記述は不自然ですし、正確ではないと思います。--a15ff11300g 2009年4月1日 (木) 8:32 (UTC)

こんにちは。フロンテ800のジョイントについての直接的な言及はないのですが、二玄社・カーグラフィック ウェブCGに、フロンテ800の下回りの写真があります。問題のインボード側のジョイントについてはサブフレームに隠れて見えないのですが、アウトボード側のジョイントは、やはりサイズ・形状的に見てCVJではなく、スズライト以来採用している、L型ジョイントようですね。時期的には東洋ベアリングがジョイントの供給先であるなら、仮にインボード側にDOJを採用したとすれば、アウトボード側ジョイントにも、すでに量産の目途は確立していたCVJを採用させるのが自然だとに思うのですがいかがですか?あくまでDOJは富士重工業ととうようベアリングの共同開発ですから、スズキ・フロンテ800が発売された1965年12月の時点で、そのDOJをフロンテ800に採用させるということは、企業姿勢から考えても問題があるように思われます。ご反論頂ければ幸いです。よろしくお願い致します。。--a15ff11300g 2009年4月3日 (金) 10:13 (UTC)

外部リンク修正[編集]

編集者の皆さんこんにちは、

スバル・1000」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

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ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年9月13日 (水) 18:14 (UTC)[返信]