ノート:カン・ケク・イウ

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作業報告および文書・出典削除の理由について[編集]

文章を追加、出典をつけた他に、前の版の文章を削除した箇所があるので、念のためにコメントしておきます。 削除した文章は「妻が殺されたことがきっかけとなりキリスト教に入信」という箇所です。この部分には出典が付いていますが、削除して別の文章に差し替えました。 元の出典も削除しました。理由は以下の通りです。

はカンボジア特別法廷で訴追された被疑者の略歴を書いている記事ですが、 ドッチに関しては、キリスト教に入信したと書いてあるだけで、その原因が妻の殺害にあるとは書いていません。 よって、Wikipedia側に書かれていた「妻が殺されたことがきっかけとなりキリスト教に入信」という文章で確実なのはキリスト教入信の箇所のみです。

  • ドッチがキリスト教徒になった原因が妻が殺害されたことにあるというのは、誤りです。このようなことはありえません。なぜなら、妻が殺害されるよりも前に、ドッチはキリスト教徒になっているからです。ドッチがキリスト教徒になったのは、1993年12月25日、妻が殺害されたのが1995年11月11日です。これらの日にちはドッチ自身が述べたもので、そのことが書かれている文章(Far Eastern Economic Review, 6 May, 1999)は有名な記事で非常に信頼度の高い資料です。--亜顎十郎 2011年10月21日 (金) 20:10 (UTC)[返信]

党常任委員会メンバーとの記述を除去[編集]

コメント 「ドッチは民主カンプチア時代、カンボジア共産党常任委員会のメンバーであったが…」 以下の記述について。党のトップ5~7人で構成される常任委員会(政治局)に、治安関係の一役人が入っていることなど有り得ず、また「20位以内には入っていない」 との記述とも矛盾します。出典付ではありますが、こちらの編集にて除去させていただきました。--Ashtray (talk) 2013年9月12日 (木) 10:38 (UTC)[返信]

Ashtrayさん。私は、あなたが削除した文章を記述した者ですが、次の質問に答えていただけますか?
(1)ドッチがCPK常任委員会のメンバーではなかったと書いている文献をご存知ですか。または、ドッチが常任委員会のメンバーだったか否かはわかっていないという記述の文献でも結構です。
(2)ドッチの序列が何位だったかについて論じた文献をご存知ですか?
(3)あなたは、CPKの常任委員会が党のトップ5~7人で構成される、と書かれていますがその根拠は何ですか?出典があるなら教えてもらえませんか。
(4)民主カンプチア政権末期で結構ですので、常任委員会のメンバーの名前全部をあげてもらえますか?
(5)削除前に、出典として私が付しておいた文献(B.Kiernan, The Pol Pot Regime(3rd edition))の序文xx-xxiiiを読んで、その内容を確認しましたか?--亜顎十郎会話) 2013年9月25日 (水) 20:05 (UTC) (--質問事項を追加。亜顎十郎会話2013年9月27日 (金) 14:50 (UTC) )[返信]
コメント 亜顎十郎さん、こんばんは。はじめまして、Ashtrayです。諸々の事情から、ここ数日ウィキペディアを見ていなかったもので、ご返事が遅くなり申し訳ございません。また、先の私の除去編集でお気を悪くしたとすれば、こちらも申し訳ございません。
集めましたカンボジア関連文献の多くは、すでに図書館に返却済な為、手元の文献とメモ、記憶をもとにお答えさせていただきます。しばし、お待ち願います。--Ashtray (talk) 2013年9月27日 (金) 17:31 (UTC)[返信]
コメント まず(5)は、ノーです。英語文献はこれから当たるつもりでいたもので。出典付の記述の除去は、本来は文献を直接検証してから行うのが筋道でしょう。また、キールナン氏の文献当該ページには、ドッチが常任委員である旨が書かれているのでしょうし、そこを疑うつもりはございません。ただ、関連文献を読んだ限り、それは無いというのが私の結論です。
(1)(2)は、ノーです。ドッチの序列は分かりません。ただ、私の知る常任委員メンバーに彼の名前はありませんでした。
ドッチの地位は、亜顎十郎さんが既にお調べいただいたように、S21という公安組織の長であり、S21党支部書記を兼ね、ソン・セン(副首相兼国防相、参謀総長)に報告する立場にありました。
その他に、スティーブ・ヘダー氏による興味深い記述がございます。「S-21は運用上は軍の師団または独立連隊に相当するものとして参謀総長ソン・セン直接指揮下にあった[1]」「ドゥックや他の幹部がS-21を代表して、ソン・センが招集する参謀本部直属の師団や独立連隊の書記、副書記の会議に出席[2]」「1976年10月に…(中略)…全国の部隊から集まった300人の軍幹部のなかにドゥックほか11人のS-21幹部も混じっていた[3]」という記述です。つまり、軍の師団長・師団書記と同等の地位にあった、ということでしょう。--Ashtray (talk) 2013年9月27日 (金) 17:58 (UTC)[返信]
コメント (3)につきまして、「5」の数字はおそらく1963年党大会時の常任委員(政治局員)数ことが頭にあったのだと思います。①ポル・ポト、②ヌオン・チア、③イエン・サリ、④ソー・ピム、⑤ボン・ベト、ですね[4]
また(4)にも関連しますが、「7」の数字は1978年12月の党大会(おそらく政権時代最後の大会)の常任委員の数です。①ポル・ポト、②ヌオン・チア、③タ・モク、④イエン・サリ、⑤ボン・ベト、⑥ソン・セン、⑦コン・ソファル(別名コエ)、です[5][6]。他に、77年頃にロス・ニム、ケ(Ke) が常任委員会に入っていたとのことです。--Ashtray (talk) 2013年9月27日 (金) 18:09 (UTC)[返信]
コメント ケ(Ke) は、ケ・ポク (Kae Pok) の綴り間違い、又は カン・チャプ(Kang Chap)ことサエ(Sae) の綴り間違い、と見られるとのことです[7]。--Ashtray (talk) 2013年9月27日 (金) 18:19 (UTC)[返信]
コメント 注目していただきたいのは、これら既知の常任委員会メンバーの肩書です。閣僚ならば副首相以上であり、党職ならば7大地域(管区)書記のクラスです。地域書記は傘下に複数の師団を抱える強力な権限を持っていました。
逆に、地域書記でもコイ・トゥオンは中央委員でしたし、国家元首のキュー・サムファンも中央委員どまりでした。--Ashtray (talk) 2013年9月27日 (金) 18:27 (UTC)[返信]
コメント そして、ドッチの上官であるソン・センは、上述の通り、常任委員会の中では下位に位置していました。フィリップ・ショート氏は、1978年12月の大会で常任委員候補から正委員に昇格したと書いています[8]。つまり78年以前は、常任委員会の中では格下の候補委員に過ぎなかったという事でしょう。
一方で、78年大会時もソン・センは常任委員候補だったとの証言があります[9]
つまり、上官がこの位置にあって、その部下であるドッチまでもが常任委員会に含まれたとは、とても考え難いのです。
とまあ、とても長くなってしまったのですが、如何でしょうか?。--Ashtray (talk) 2013年9月27日 (金) 18:41 (UTC)[返信]

出典[編集]

  1. ^ ヘダー、97頁
  2. ^ ヘダー、98頁
  3. ^ ヘダー、98頁
  4. ^ 山田、28頁の表2
  5. ^ ヘダー、96頁
  6. ^ ショート、おそらく592-593頁
  7. ^ ヘダー、103頁の注釈188
  8. ^ ショート、おそらく592-593頁
  9. ^ ヘダー、103頁の注釈191
  • スティーブ・ヘダー、ブライアン・D・ティットモア 『カンボジア大虐殺は裁けるか-クメール・ルージュ国際法廷への道』 現代人文社、2005年。ISBN 9784877982652
  • 山田寛 『ポル・ポト<革命>史-虐殺と破壊の四年間』 講談社<講談社選書メチエ305>、2004年。
  • フィリップ・ショート 『ポル・ポト-ある悪夢の歴史』 白水社、2008年。ISBN 9784560026274
--Ashtray (talk) 2013年9月27日 (金) 17:58 (UTC)--Ashtray (talk) 2013年9月27日 (金) 18:09 (UTC)[返信]

(インデントを戻します。)Ashtrayさん、こんにちは。お返事承りました。議論に入る前に、前提条件を確定させたいので確認いたします。質問5項目に関するAshtrayさんの回答は以下の通りで間違いありませんか。

  • (1)そのような文献の存在は知らない。
  • (2)同上
  • (3)5人というのは1963年党大会時の数字。1978年段階で7人。出典はスティーヴ・へダーとフィリップ・ショートの本。
  • (4)1978年の段階で、ポル・ポト、ヌオン・チア、タ・モク、イエン・サリ、ヴォン・ヴェト、ソン・セン、コン・ソファル。1977年頃はそれ以外に、ロス・ニム、ケが入っていた。出典は、へダーとショートの著書。
  • (5)削除前の確認はしていない。

追加で質問なのですが、「ショート、おそらく592-593頁」と最後の方にありますね?私、訳本のほうは持っていないのですが11章のStalin's Microbesに以下のような記述があります。

On November 1 and 2 1978, the CPK had held its Fifth Congress. The meeting was unsually brief---normally CPK congresses, including the preliminary meetings, lasted several weeks--and its main, if not its only function seems to have been to elect a new leadership. Mok, who now headed both the North-Western and the South-Western Zones, became the third-ranking leader, behind Pol and Nuon Chea, with the rank of Second Deputy Secretary, responsible for Agriculture and Rural Affairs. He was also appointed Vice-Chairman of the Party's Military Comission. Ieng Sary ranked forth, and Vorn Vet, who was charge of military supplies to the EasternFront, fifth. Son Sen, who now finally moved up from being a candidate to a full member of the Standing Comitteee, was in sixth place;and Kong Sophal, the new Chief of the Army Logistics Department, seventh.

この部分(英語版だとp.392.)のことを指しているのでしょうか。(なお、当方、へダーは訳本・英語版ともに値段が高すぎて買えなかったので、そちらについては全くわかりません。)--亜顎十郎会話2013年9月27日 (金) 19:30 (UTC)[返信]

コメント 亜顎十郎さん、こんばんは。(1)-(5)は、そのとおりです。
補足しますと、(4)でロス・ニム、ケが入っていたときの77年名簿は、今数えてみたら9人でした。こちらの情報もお伝えいたしますか?
ショートの訳本は高いんで図書館から借り、もう返却済なのですが、おそらく英語原文はその部分でしょう。ちなみに、ヘダーの訳本は、つい最近Amazonの中古で数百円で入手しました。--Ashtray (talk) 2013年9月27日 (金) 19:54 (UTC)[返信]
コメント ところで、キールナンの「Pol Pot Regime」には、その「20位以内」の名簿が掲載されているのでしょうか?。だとすれば、ぜひ入手したいところです。--Ashtray (talk) 2013年9月27日 (金) 20:07 (UTC)[返信]
Ashtrayさん、こんにちは。確認の件とショートの件は了解しました。1977年の名簿に関しては不要です。78年のもので十分です。それから、B.Kiernanに関しては、序列1位から20位まで表になって書かれています。1975年から1979年までの常任委員会の名簿が載っています。おそらく2版には載っていません。3版なら載っています。要望があれば、ここに記載しても構いません。
さて、それで本題ですが、私はAshtrayさんに以下の5つを求めたいと思います。
(a)Wikipediaの記事で求められているのは、真実かどうかではなく、信頼できる情報源に基づいた検証可能性を満たした記事を書くことだということを再確認して欲しい。
(b)Ashtrayさんが削除した文章は、信頼できる情報源にもとづいた検証可能性を満たす文章だったことを認めて欲しい。
(c)Ashtrayさんが出典付きの文章を出典にあたらないまま削除したのは、やってはいけない行動だったと認めてほしい。
(d)Ashtrayさんが削除した文章を復帰させることに同意して欲しい。
(e)今後、出典がinline citationで明記されている文章を削除したり、改変する場合は、事前に必ず出典を読んで確認し、記事に書かれている内容と出典の内容が違わなければ削除を行わないことを、このノートで確約して欲しい。(出典が信頼できる情報源ではないとか、general referenceの形で書かれている場合には、そこまでのことは求めません。)
これらに同意してもらえますか。返事を急かせるつもりはありませんので都合のよい時にお返事ください。--亜顎十郎会話2013年9月28日 (土) 15:24 (UTC)[返信]
コメント こんばんは。Kiernanについては後で入手いたします。ありがとうございます。
しかし私としては、亜顎十郎さんからの質問に対し、昨晩は時間をかけ、誠意を持って対応させていただいたつもりなのですが。とても残念です。
昨夜の理由から、私は復帰をお勧めいたしません。しかし亜顎十郎さんが記述を復帰なさりたいというのならば、私には止める手立てはございません。ルールですので。そして、私がそれを再び除去することはないでしょう。
私からは以上です。--Ashtray (talk) 2013年9月28日 (土) 15:48 (UTC)[返信]
報告 リバートしておきました。失礼いたします。--Ashtray (talk) 2013年9月28日 (土) 15:55 (UTC)[返信]