ノート:オットー・ワーグナー

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  • Palais Hoyos 英語版によると、ホヨース家がユーゴスラビア大使館に売却(1957)、その後セルビア大使館となり、現在(2011-)はクロアチアが所有と。
  • Joseph August Lux(1871-1947) ウィーン生まれの文学者。ワーグナーの晩年に評伝を刊行(1914)。その後、オルブリッヒや、シューベルト、ベートーベン、リスト等の本を執筆。  --忠太会話2016年10月9日 (日) 00:38 (UTC)[返信]

分離派とワーグナー[編集]

  • ゲレーツェッガー『オットー・ワーグナー』によるとワーグナーがウィーン分離派に参加したのは1899年ということだが、文献によっては1898年としている。
    • 1898年の「ヴェール・サクルム」(分離派の機関誌)にワーグナーの名前が載っている(ネーベハイ『クリムト』)。
    • 『ウィーン分離派 1898-1918』(宮城県美術館、2001年)の年譜によると、 1898.11…第2回分離派展に出品、装飾。  1899.10…分離派の総会で正規会員になる。
--2016年11月1日 (火) 15:24 (UTC) 2016年11月6日 (日) 14:19 (UTC) --忠太会話2016年12月19日 (月) 14:30 (UTC)(記述を整理) [返信]
  • 伊藤哲夫氏(ゲレーツェッガー『オットー・ワーグナー』の訳者)は、分離派に「ワーグナーが加入したのは(略)優秀な弟子達であるオルブリッヒやホフマンへの連帯からであろう。あるいはこの二人によって担ぎ出されたというのが真相だろうか。ゼツェシオーンとワーグナーの関係については、未だ不明な部分が多い」と言っている。木村直司編『ウィーン世紀末の文化』(東洋出版、1990年)p104   --忠太会話2016年12月19日 (月) 14:30 (UTC)[返信]
  • 「ヴェール・サクルム」8号(1899年)はワーグナー特集。バロック的な皇帝専用駅舎(1897)が大きく掲載された。『ウィーン世紀末の文化』p104
  • 1905年の分離派展で「ワーグナー展」の計画があったが、脱退したため実現しなかったとのこと。 --忠太会話2016年12月23日 (金) 02:51 (UTC)[返信]

出自[編集]

上野伊三郎は『ヨセフ ホフマン』(1955)の中でワグナーはハンガリー系と書いているが、根拠は示していない(初期作品にブダペストのシナゴーグがあるためか?)。
ドイツ人のみという条件で実施された(ベルリン)ドイツ国会議事堂コンペ(1882年)に指名されているので、やはりハンガリー系ではないのでは?  --忠太会話2017年1月9日 (月) 14:58 (UTC)[返信]