ノート:エイリアン (映画)

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フェイスハガーのモデルはカブトガニじゃないかという話を聞きますが、確かなことがわかる人はいますか。どちらにしても、エイリアンとカブトガニ両方の項目に書き加えたいと思うのですが。- Hamichan 2006年8月21日 (月) 15:42 (UTC)[返信]


『強酸の体液と真空中でも生存可能な外骨格を…』

原作の小説「エイリアン」では脱出船から放り出された後、破裂しています。--61.193.97.155 2007年12月1日 (土) 02:00 (UTC)[返信]

改名・分割の提案[編集]

生物としてのエイリアンはエイリアンシリーズ共通のものですので、エイリアン (架空の生物)へ分割、その後、第一作「エイリアン」についてはエイリアン (映画)に改名を提案します。--Tr-909 2008年2月4日 (月) 13:45 (UTC)[返信]

賛成です。--夜飛/ 2008年2月5日 (火) 12:50 (UTC)[返信]
有り難うございます。一週間ほど様子を見て作業の方に移りたいと思います。--Tr-909 2008年2月5日 (火) 13:15 (UTC)[返信]

(追加提案)フェイスハガーチェストバスター‎ビッグチャップエイリアン・クイーン‎ドッグ・エイリアン‎、ニュー・ウォーリアーバトル・エイリアン‎、プレデリアンの単独記事もエイリアン (架空の生物)へ統合、整理を提案します。--Tr-909 2008年2月5日 (火) 13:15 (UTC)[返信]

(報告)先ほどエッグチェンバーの記事が作成されていましたのでこちらに報告しておきます。--Web comic 2008年2月6日 (水) 07:12 (UTC)[返信]

報告有り難うございます。該当の項目にも統合テンプレートを貼らせていただきました。--Tr-909 2008年2月6日 (水) 11:50 (UTC)[返信]

(報告)一週間以上経ちましたが、賛成一票、反対無しとなりましたので合意を得られたと判断し、生物としてのエイリアンはエイリアン (架空の生物)へ分割、第一作「エイリアン」についてはエイリアン (映画)に改名を行い、

の単独記事はすべてエイリアン (架空の生物)に統合を行いました。--Tr-909 2008年2月14日 (木) 18:02 (UTC)[返信]

差し戻しの説明[編集]

「2010年11月21日 (日) 12:43」の編集(差分)にて「製作側の意見ならともかく、赤の他人一人の意見をここまで載せる必要は無いのでは?」との要約欄とともに「フェミニズムとの関連」の節がまるごと除去されていたのですが、百科事典では制作側の意見だけでなくそれが外部からどう評価されたかを記述する必要があるので「2010年10月28日 (木) 17:38」の版まで戻しました(差分)。本作のリプリーの旧来的ではないヒロイン像は以降のアメリカ映画のヒロイン像に大きな影響を与えている面があると思いますので、フェミニズムとの関連についての言及は避けるべきではないと思います(現在の記載が1人の著書のみに依存している点は今後別の記述が加筆されていくことによって改善が望まれるとは思いますが)。なお、「2010年11月20日 (土) 22:46」の編集(差分)で追記された部分については、出典が示されていないので復帰していません(正確にはこの記述が追加されていない版へ戻しています)。もしこの部分を復帰しようという方がいらっしゃいましたらこの記述を裏付ける情報源の提示をお願いします(WP:Vも参照)。--貿易風 2010年11月23日 (火) 03:40 (UTC)[返信]

「2011年5月31日 (火) 01:16」の編集(差分)では「関連が無い」という要約欄とともに除去されていましたが、該当部分にも記述されている通り本作はフェミニズムと関連付けて論じられることが多く、関連性が無いということはありません。ということで差し戻しましたので(差分)、もし除去を希望される場合はなるべく事前にこちらで提案をお願いします。--貿易風 2011年5月31日 (火) 04:15 (UTC)[返信]

というか、本項記事中で持ち上げるべき要素なんですかね。まあギーガーのデザインが性的だというのは周知の事実(関連文献を当たれば相当数に上る)とはいえ、フェミニズム論との結合は内田樹氏の主張以上のモノがあるかどうかによって特筆性を判じたほうが良さそうであり、逆に内田樹氏の論にのみ立つのであれば、「内田樹」の項の側で書く必要はあっても、映画作品評としては些か微妙(作品評の例示レベルなら兎も角として全般論としては書けない)、架空の生物であるエイリアンの項においては完全に脱線余事(フェミニズム論云々は映画作品評であって架空の生物のそれの解説ではない)かと考えます。また現状の記述も内田樹氏の論にのみ立つのであれば、内田樹の論をかくも一般論化するのではなく、複数論者の視点に立って一般論から入り、内田樹氏の論も紹介するなど、脱内田樹POVを目指さない限りは中立性に難を抱えると考えます。--夜飛/ 2011年5月31日 (火) 09:24 (UTC)映画作品記事とエイリアン (架空の生物)の項とを取り違えていたので一部取り消し。2011年5月31日 (火) 12:21 (UTC)[返信]
内田樹さんが嘘をついているのでなければ、『エイリアン』はフェミニズムの勝利と解釈されたと説明している映画研究家は複数確認できるはずなので、「映画『エイリアン』とフェミニズムの関係」というトピック自体の特筆性はあると思います(現時点ではそのへんは詳しく加筆されていないので、{{中立的な観点|section=1}}なり{{単一の出典|section=1}}なり{{節stub}}なりを貼って改善を求めたほうがいいかもしれませんが)。
ちなみに前回のコメントで「なるべく事前に提案を」と書いたのは節をまるごと消す場合の話なので、とりあえず現時点で(少しでもWP:NPOV化を目指すために)説明の順序や書き方をかえたほうがいいということであれば、直接編集してもらってかまいません。--貿易風 2011年6月4日 (土) 01:19 (UTC)[返信]

(メモ)小谷真理さんの『女性状無意識(テクノガイネーシス)―女性SF論序説』(ISBN 978-4326152896)の150-152頁あたりで『エイリアン』への言及を確認。--貿易風 2011年6月7日 (火) 04:58 (UTC)[返信]

夜飛氏に全面同意、「「内田樹」の項の側で書く必要はあっても」と書かれているように該当項目は内田氏のページに移動して、このページにおいてはリンクを張って対処するというのが妥当かと思われます。何より、その内田氏のページにおいて「特に映画「エイリアン」についてフェミニズム論、映画論などテーマを変えて何度も論じているが」として触れられていることから内田氏のページに記述するのが最も相応しいと考えますが如何ですか?--111.102.92.245 2012年3月15日 (木) 13:52 (UTC)[返信]
まず手続き上の話として、もしこの記事の一部内容を別の記事(内田樹)にまるごと転記するというような作業を想定されているのであれば、Wikipedia:ページの分割と統合#項目一部転記で定められている告知(両記事へのテンプレ設置とWikipedia:分割提案への掲載)を事前に行っておく必要があります。
で、ぼくは内田樹の記事で彼のエイリアンへの作品評の内容を詳細に説明する必要があるとはあまり思えないのですが、いずれにせよIPさんがこの記事と内田樹を具体的にどういう形に編集するべきだと考えているのかがよくわからないので、もう少し詳しく説明していただければと思います。
この記事についていえば、少なくともこの映画が公開当時にフェミニズムと関連付けて論じられた(リプリーが男性優位社会に反旗を翻す女性の象徴と捉えられた)ということ自体は「内田樹個人の批評」ではないので、『エイリアン』が社会にどう受容・解釈されたかということについての無視できない情報のひとつとして、あくまでこの記事の中で書いておくべきことだと思います。「内田樹個人の批評」の部分を削減すべきということであれば、最終的には具体的にどういう文面にするのがいいとお考えでしょうか。
また、内田樹の記事についていうと、現在のエイリアン (映画)の記事の「フェミニズムとの関連」の節に書かれている内容をそのまま掲載するのが適当な場所が内田樹の記事の中に見当たらないように思います。もちろん「特に映画「エイリアン」について…」で始まる一文はあるのですが、この箇所はあくまで「ブログの再構成をはじめとして、内田樹は似たような話を異なる媒体で何度も取り上げることがある」という事実やそれに対する内田さん本人のスタンスについて読者に理解を促すための補足的情報としてたまたまエイリアンの話が例として出ているだけなので、ここに具体的なエイリアン評の詳細を載せると文脈を破壊してしまい不適当です。IPさんは内田樹の記事のどの箇所にどういうように載せるのが適当だとお考えでしょうか。--貿易風会話2012年3月16日 (金) 04:37 (UTC)[返信]

内田樹氏による考察について[編集]

(上にも同様の議論がありますが、タイムラグが3カ月ほどあるため、仕切りなおします。)

本文に「内田樹による考察」という節がありますが、私は、これは不要であると考えます。節ごと削除したいと思いますが、いかがでしょうか?個人的には、「ヒロインがエイリアンから徹底的に陵辱される」という描写が非フェミニストの男性に受けたという論などは、凄いこじつけに思えます。物語において、エイリアンに殺されたのはリプリーを除くメンバーであり、リプリーは、生き残った人ですよね?彼女は「徹底的に凌辱された人」なんでしょうか?個人的な印象としては、一番最初の被害者男性のお腹からエイリアンの赤ちゃんが出てくるシーンが、一番、「凌辱」っぽいという印象でした。内田氏が感想を述べる前提として客観的情報であるかのように書かれている「女性たちはフェミニズムの勝利の物語として賞賛したのだ、と評価されることが多い。」という一文にしたところで、物事の一面にすぎないと思います。リプリー役が男性だったとしても、この映画は同じくらい面白いのでは?客観的には、内田樹氏の映画評というのは、第一に取り上げられるほどメジャーなものなのかなという懸念があります。--Lentejas553会話2012年6月16日 (土) 13:42 (UTC)[返信]
「女性たちはフェミニズムの勝利の物語として賞賛したのだ、と評価されることが多い。」という文について、要出典を付記しました。この件について出典を付け特筆性を主張される方があるならば、節削除の主張は考え直す所存です。--Lentejas553会話2012年6月16日 (土) 13:53 (UTC)[返信]
  • コメント 小生の見解は上2011年5月31日の時点から同じです。まあ件のセクション維持に躍起熱心な利用者:貿易風会話 / 投稿記録さんは、「記事の内容に深く関わりがあるが典拠が明示されていない記述」を独自研究として除去する活動に精力的な一方で、「記事主題に関係性が薄いが典拠が示され過剰に取り沙汰されている(その総体は関係付けて扱えば情報の合成に差し掛かりかねない中立性に難のある)記述」を保護したり自ら書き込むことにも情熱を持って当たる方でもありますので、やや厄介な事態に陥っている案件もちらほら…個人攻撃は本意ではありませんから他の項で氏がどうだというのはこの際置いておいても、2010年から利用者:SAW会話 / 投稿記録さん・利用者:Arisens会話 / 投稿記録・IP:211.131.222.138会話 / 投稿記録(愛知県)さん・IP:219.41.8.7会話 / 投稿記録(北海道)さんに不要とみなされ除去されても氏が差し戻してしまっておりますので、もう少し多くの方から客観的見解を得るために、本項のコメント依頼を提出してはいかがでしょうか。なお小生としては、予め「記述の除去や移動に賛成寄り」の見解を示しておきます。--夜飛/ 2012年6月16日 (土) 14:22 (UTC)[返信]
事前に先入観を持ちたくないので、貿易風さんの他の記事での対応についての夜飛さんの評は聞き流させていただきますが、コメント依頼を勧めるアドバイスは、ありがたく受けとめさせて頂きました。先ほど、コメント依頼を提出しました。--Lentejas553会話2012年6月16日 (土) 14:55 (UTC)[返信]
  • コメント コメント依頼から来ました。日本語版での考え方は違うのかもしれませんが、例えば英語版では、原則として信頼できる二次資料がなければ「検証可能性」を満たさないということになっています。「内田樹による考察」について書きたいなら、内田樹自身の著作(一次資料)ではなく、内田樹による考察について第三者が評価・分析を加えた二次資料が必要ということです。そういう二次資料が存在しないのなら、ウィキペディアが率先して「内田樹による考察」に脚光を当てる必要もないのではないかと私は思います。--Dwy会話2012年6月16日 (土) 16:34 (UTC)[返信]
Lentejas553さんへのレス)
現在要出典範囲のタグが貼られている箇所の出典は、すでに本文に示されている通り、『現代思想のパフォーマンス』の137-142頁の範囲のどこかです(脚注3は段落全体に対しての出典です)。今現在この本が手元にあるわけではないので、さらに詳しいページ数までは特定できませんが。
「2012年3月16日 (金) 04:37」のコメントにも書きましたが、仮にくだんの節の内容のうち「内田樹個人の考察・批評」の部分を削減するにしても、映画作品が公開当時に評論家・社会からどう受容・解釈されたかということについての情報(≒要出典範囲が貼られた部分)は、作品と社会の関係にかかわる有用な情報として記事の中に残しておくべきでは、というのがぼくの意見です。この部分は内田樹の書籍を出典としていますが、彼の個人的意見としてではなく事実確認的に記述された部分なので。
Dwyさんへのレス)
まず、この節は現在は「内田樹による考察」というタイトルになっていますがこれは最近変更されたもので(差分)、もともとは「フェミニズムとの関連」というタイトルでした。そして、この節の内容は「内田樹個人の考察についての説明」「内田樹の意見の一部としてではなく、公開当時の映画の受容のされ方を事実確認的に述べた部分」の2つの要素を含んでいます。Dwyさんの上の発言はこれらのうち前者についてのものだと思いますが、後者についてはいかがでしょうか(Lentejas553さんへのレスとかぶりますが、ぼくはむしろ後者のほうについてその有用性を強調しているのです)。公開当時にこの作品がフェミニズムと関連付けて解釈されたという情報について、このことを事実確認的に記述した出典は、「内田樹の批評についての一次資料」ではなく「映画作品への社会の反応について言及した二次資料」ではないでしょうか(もし公開当時のそういった映画評自体を出典としているなら、映画への反応に関しての一次資料という見方もできますが)。
それから前者についてももう少し書きます。今回の個別ケースについて内田樹による考察の部分は有用性が低いから削減すべきという主張であれば別として、一般論として
  • 作品記事において「○○(←評論家の名前)から××と評価された」と書くためには、○○の著作ではなく○○の批評自体を取り上げた(別人による)より高次な資料を出典として確保することが必要条件である。
ということをDwyさんが主張されているのであれば、そのような方針解釈が一般的になされているとは思えません。例えば良質な記事に認定されている能動的三分間の「批評家の反応」の節では数名の批評家のコメントが紹介されていますがその出典となっているのは本人が執筆した文章そのものであり、こういったスタイルは多くの記事で見かけるものです。また、自分が議論or記事にかかわった例でいうと、AIR (ゲーム)CLANNAD (ゲーム)Fate/stay nightAKB48フライングゲット (曲)といった記事のノートで論評の掲載の是非をめぐって議論があり、いずれも現時点で掲載する状態で落ち着いていますが、「批評の出典がその批評主体の人物によって書かれたもの自体だったらダメ」というような話にはなりませんでした。
もしこれらもすべて「見過ごされているだけで本当はダメな例」であるという前提での話なら、まずはここではなくWikipedia‐ノート:中立的な観点などでより一般的な話としてその解釈の是非について議論するべきかと思います。
ちなみにぼくはWikipedia英語版をよく見るわけではありませんが、おそらく英語版でもそのような運用にはなっていないと思います(例えば英語版で良質な記事に認定されているen:Azumanga Daiohの「Reception」の節は、Mark ThomasやらMarc Hairstonといった人からの論評が、本人の執筆した文章を出典として掲載されています)。--貿易風会話2012年6月17日 (日) 02:32 (UTC)[返信]
英語版の話は、en:Wikipedia:No original research#Primary, secondary and tertiary sourcesにおいて、「ウィキペディアの記事は二次資料と三次資料に基づいて執筆されるべきです。注意して使えば一次資料も使用できますが、その話題に記述に値する重要性があることを確認するためにも、一次資料の新規の解釈(独自研究)を避けるためにも、二次・三次資料が必要です」と言っていることを指摘したかったものです(「検証可能性」の問題だと言ったのは間違いでした。お詫びして訂正いたします)。日本語版は日本語版ですから、必ずしも英語版のルールに従う必要はありませんが、日本語版のルールがはっきりしない場面では、英語版のルールを参考にするのは悪くない考えだと思います。
もっとも、貿易風さんがご指摘の通り、「内田樹の批評についての一次資料」と見るべきか「映画作品への社会の反応について言及した二次資料」と見るべきかは、微妙な問題だと思います。また、「内田樹による考察」ではなく「フェミニズムとの関連」というタイトルであれば、私としても受け取り方がかなり変わってきます。ただ、出典があれば全部記事に加えてよいというわけではないはずなので、何らかの基準でスクリーニングをかける必要はあると思います。
en:Azumanga Daiohでは、良質な記事に上げるときのレビュー時にen:Talk:Azumanga Daioh#Reception workで「Reception」の節の記述を検討していますが、「あずまんが大王」に関する様々な論評をノートに集めてきて、そのうちの代表的なものを記事に記載するという手順がとられたようです。仮にこちらの記事でも同様の手順を踏むとすると、複数の人の評価が一致していればその評価を記載する、一人の評論家だけの説は載せない、というようなことになると思います。必ずこれでやらなければならないというわけではないでしょうが、参考にはなるかと…。--Dwy会話2012年6月17日 (日) 07:44 (UTC)[返信]
ほとんど内田樹による考察のみが書かれているという印象から、内容に相応しい節タイトルは「内田樹による考察」であるとみなして改題しましたが、それは良い編集ではなかったと反省します。直すべきは、タイトルではなく、ほとんど内田樹による考察だけが書かれているという内容の方であったと思います。とりあえず、タイトルをもとの「フェミニズムとの関連」に戻しますが、個人的には、より中立的な「作品への評価」のようなタイトルがより良いのではないかと思います。中立的なタイトルのもとでフェミニズムの視点からの論が書かれていても問題ないですし、フェミニズム視点以外からの加筆もされやすいように思います。--Lentejas553会話2012年6月17日 (日) 08:39 (UTC)[返信]
「フェミニズムの勝利の物語として賞賛したのだ、と評価」についての要出典タグは、節を存続する場合は、既にある内田氏の出典以外からも出典があった方が良いなと思って貼らせて頂きました。説明不足でした。すみません。--Lentejas553会話2012年6月17日 (日) 09:02 (UTC)[返信]

「シュールリアリズムのデザイナー」についた要出典タグ[編集]

はじめまして。冒頭に「要出典」があるのも美的に気になったので出典追加し「要出典範囲」タグを除去しました[1]。ただし、この「要出典」は[2]において「要出典範囲」タグを「現代シュールリアリズムの鬼才」の箇所につけたものが、のちに「要出典範囲」はそのままで中身だけ「シュールリアリズムのデザイナー」に変更された結果、【当たり前のようなことに「要出典」が付いている】状態になっていたもののようです。無くてもよいとおもうので、そう思われる方が他にいらした場合は出典除去には反対いたしません。--Mizuhara gumi会話2013年4月7日 (日) 10:46 (UTC)[返信]

東京から帰るB-17[編集]

"オバノンは『メモリー』とは別に『グレムリン』という脚本を構想していた。それは「東京から帰るB-17の中にグレムリンが侵入し、乗組員を一人、また一人と殺していく。怪物を倒さない限り乗組員は故郷へ帰れない」という骨子であった。" とありますがB-29ではなくてB-17なのでしょうか? 脚本ではあえて事実を避けて意図的にB-17としたのか、それともB-17とB-29を取り違えているのかどちらでしょうか?--220.211.170.131 2014年6月4日 (水) 02:57 (UTC)[返信]

エイリアン・コンプリートブックのその部分にはB-17と書かれているんですよね……意図的にせよバノンの勘違いにせよ、こちらで勝手に断定するわけにもいきませんし、脚注で「執筆者が意図的に変更したか、機種名を取り違えているかは不明」と付記するのが適当かと思われますが、いかがでしょう。Oppo会話2014年9月2日 (火) 10:11 (UTC)[返信]
はじめまして。現在のように出典そのままで良いと思いました。出典なしで「○○は不明」と記載することは「B29であるべき」という前提(執筆者の意見)に基づく記述になってしまうのではないかと思います。というのは……、確かに東京に飛来した爆撃機というとB29が有名ですが、B17は東京に1機たりとも飛来してないのでしょうか?という疑問がわきます。これは出典なしの記述なので全く信用できないですが、現在のB-17の項目には「戦争後半には偵察や救難などに従事している機体を除きB-17は姿を消した。偵察や救難などに従事している機体は日本本土空襲の支援を行った。」という記述もあります(途中で引き返したかもしれないし、本土まで来たかもしれない。本土は必ずしも東京じゃないかもしれない、などなどまた別の疑問もありますが)。もし1機たりとも東京に飛来していないという出典(これは悪魔の証明というレベルじゃなく、この手の資料はありそうと思ってます)があれば、それを使って「B-17」の部分につけた脚注に記載することは可能と考えます。「実際には東京に飛来したB-17は1機も存在しない(出典)。」のように。--Mizuhara gumi会話2014年9月2日 (火) 11:31 (UTC)[返信]