ノート:イタリア王国

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「ムッソリーニが失脚、後継政権は連合国に無条件降伏した。」→王家とバドリオ政権は、連合国に休戦を申し込んだだけのはずです。しかし、ナチスドイツがイタリアを占領したため、王とバドリオは連合国側占領地に逃げ込み、ドイツに宣戦布告しています。従って、イタリアは敗戦国ではないという考えがイタリアでは強く、少なくとも国連の旧敵国条項の国には入っていません。 Zorac 2005年11月13日 (日) 16:28 (UTC)[返信]

ムッソリーニ失脚前後の流れをまとめてみました。
  • 1943年7月24日にファシスト党のファシズム大評議会が開催。党のディーノ・グランディが動議を提出。内容は国王に全権を渡すというもの。動議が可決されると国王に面会を求めたムッソリーニが逮捕される。
  • 後継のバドリオ首相は継戦を主張。これはドイツの介入を避けながら連合国と休戦を結ぶための隠れ蓑であった。
  • ところが手続きに時間がかかり、休戦協定が結ばれたのは9月3日。このときドイツ軍はイタリア全土に軍を配備し終わっていた。
  • 米軍がローマを攻撃するとイタリア軍も協力したが、イタリア軍はすぐさま崩壊した。---Redattore 2005年11月13日 (日) 16:47 (UTC)[返信]

日独伊防共協定[編集]

「1937年12月11日に国際連盟を脱退した。国際的に孤立したイタリアは、同じく国際社会で孤立していたドイツと日本に接近し、日独防共協定に参加する。」 この文章は、イタリアが1937年12月11日に国際連盟を脱退した後にドイツと日本に接近し、日独防共協定に参加したように解釈されますが、イタリアが防共協定に参加したのは1937年11月ですので国際連盟を脱退する前です。

イタリアの参戦[編集]

「第二次世界大戦には日独伊三国同盟(1940年)を結んだことによって枢軸国側として参戦する。」とありますがイタリアの参戦は1940年6月10日ですので、日独伊三国同盟締結(1940年9月27日)より前です。ただし、ドイツとの間に鋼鉄協約を締結(1939年5月22日)しています。