ノート:アロー戦争

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

1853年 ペリー浦賀へ       ↓ 1854年 日米和親条約     ①下田・箱館の開港。     ②領事の駐在。     ③一方的な最恵国待遇をアメリカに認める。     ④食料・燃料を補給。

  千島列島:択捉島以南が日本領。   樺太等 :日露両国民の雑居地。

1856年 ハリス、下田に着任。(アロー号事件・第二次アヘン戦争) 1858年 日米修好通商条約     ①神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫、箱館を開港。(下田は6ヶ月後に閉鎖)

以上、2005年5月23日 (月) 15:32 利用者:219.176.90.16氏による。編集ページにすれば意味がわかりますが・・・。--Mackacka 2006年3月31日 (金) 10:54 (UTC)[返信]

記事内「開戦」部分に「英仏は自ら『野蛮』を演出することで、清を屈服させる算段に出たわけである。」という記述がありますが、 なんらかの根拠に基づいているものなのでしょうか。 文面のままにとらえていくと、英仏の掠奪行為が演じられたものかのようになってしまうとおもいます。 この一文は不要と考えます。 これについて、みなさんの意見をお伺いします。--sower05 2006年6月9日 (金) 05:33 (UTC)[返信]

根拠薄弱なので、この箇所を通常学説どおり書き換えて問題ないでしょう。--Dokuotou 2006年6月14日 (水) 10:46 (UTC)[返信]

アロー号の船籍登録について[編集]

「実際には、事件当時に既にアロー号の船籍登録は期限を数日過ぎており、アロー号にはイギリス国旗を掲げる権利は無いし、官憲によるアロー号船員の逮捕は全くの合法であった。しかし、清国側の葉名琛も基本的な事実関係の調査を全く行わず、この事実に気がつかなかった。もし調査していれば戦争を回避することが出来ていたのである。」

との記述がありますが、アロー号の船籍登録期限切れはイギリス国内での手続き上の問題ですよね。必要なのはイギリス当局が船籍を認める事と船舶がイギリス国旗を掲げる事の二点であり、アロー号の登録手続き上の瑕疵はイギリス当局がアロー号に対してイギリス国籍船舶としての権利を認めない材料にはなり得ますが、敢えてイギリス当局がアロー号のイギリス船籍を認めた場合に他国が口出しする余地はないと思われますが如何でしょうか。元記事のような解釈が一体どこから出てきたのか出典の明記を希望します。--hahiho

回答します。上記記事の内容は広く歴史学会で受け入れられている内容です。アロー戦争について学術論文を調べればほとんど書いています。たとえばこの時代の研究として著名な坂野正高『近代中国政治外交史』(東京大学出版会、1973、235頁)にはアロー号が数日前まで香港政庁の船籍登録を行っていたこと(つまり事件当時登録切れていた)、イギリス政府・パークスは当初船籍登録期間が過ぎていたことに気づかなかったが、気づいた後も隠し通したこと、イギリス下院でそのことについてコブデンが政府を「極悪非道」と非難したことが述べられています。
船籍登録が問題となるのは、香港政庁に登録したものでないとすると、中国領域でのことなので臨検の権利が清朝側に当然あることになり、イギリス側に無断勝手にイギリス船籍(正確には香港船籍)を臨検し、権利を侵害した、という理屈は成立しないことになります。それこそ「他国が口出しする余地はない」ということになります。--独頭 2010年8月1日 (日) 14:36 (UTC)[返信]
御回答ありがとうございます。ご紹介の資料の通り、「登録が切れていた」「切れていたことを隠した」「議会で問題になった」のは事実ですが、それは国際法上のアロー号の船籍登録の無効を意味しません。船籍登録手続きは各国家と船主の間の話であり、国家間では国旗の掲示と国家の認証が全てで、事務手続き上の瑕疵は当局が任意に処置出来る性質の問題です。国家間で船籍に関わるトラブルが発生した場合に、更新をサボって数日経過したと言う事務レベルの話は問題になりません。
「権利は無い」「全くの合法」等の法解釈が絡むような記述は避けて、「登録が切れていた」「切れていたことを隠した」「議会で問題になった」と言う歴史的事実のみ記載すればよいのではないでしょうか。
なお、私が指摘しているのは船籍の有効性に関してであり、臨検の正当性に関しては疑問視しておりません。パークスが抗議したのも、臨検そのものではなくその後の船員の拘束に対してであったように思います。「口出しする余地はない」の返し方が、どうも誤解に基づいているように感じましたので一応。
また、新たに疑問があるのですが、元記事には清国が調査していれば戦争を回避できたと書かれていますが、宣戦したのはイギリス側からであり、開戦を決定付けたのはアロー号事件への対応を争点とした総選挙における与党の勝利です。「船籍問題を清国が指摘すればイギリスの有権者が戦争反対に回った」と言う考えが歴史学会で広く受け入れられているのでしょうか。アヘン戦争での圧勝を知っている有権者が、アロー号が登録更新をサボってたという理由で投票行動を変えるとは個人的には信じがたいのですが・・・ --hahiho 2010年8月2日

テンプレートの戦争期間について[編集]

テンプレートの戦争期間について、2022年11月23日に61.206.243.223というIP利用者が、アロー戦争の戦争期間を1856年6月28日-1860年8月という記述から1856年6月28日-1860年8月9日と変更しました。この利用者の同日の別の変更がいたずらくさいので、この編集も根拠ないと考えていますが、元の記述「1856年6月28日 - 1860年8月」が、英語版の8 October 1856 – 24 October 1860や、中国語版の記述、是西元1856年至1860年9月22日とも異なっていることに気が付きました。その他の言語版は日付をいれていないようです。始まりの10月8日はアロー号の臨検のあった日付のようで、外国軍が攻撃を始めたのは少しあとで、英語版と中国語版の終わりの日付の根拠は僕はわかりません。一般的な開始終了の日付についてご存じの方がいればお教えください。私個人としましては、多くの他言語版のように日付なしにしてしまいたいのですが、意見ございますでしょうか。--Fuusenn会話2022年11月23日 (水) 04:24 (UTC)[返信]