ノート:るろうに剣心 (実写映画)/過去ログ1

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改名提案

新着記事としてるろうに剣心 (実写映画)を確認したため、プロジェクト:映画に則ってるろうに剣心 (映画)へ移動したところ、移動がマクガイアさんによって差し戻されました。ノート:るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-における分割提案の際に記事名の決定に関する議論があったようですが、現在の記事名はプロジェクト:映画における合意と他の既存の記事との整合性が取れないため適当でなく、ここに改めてるろうに剣心 (映画)への改名を提案します。マクガイアさんはノート:るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-において記事名をるろうに剣心 (実写映画)とすることのメリットとして「アニメ映画を検索したい初心者に対する負荷を減らせる」「アニメ映画の記事を期待して実写映画の記事を開く人がほぼいなくなると予想される」「結果、実写映画記事冒頭の曖昧さ回避テンプレが不要となる」を、るろうに剣心 (映画)とすることのメリットとして「WPの記事名慣習に添っている」を挙げていらっしゃいますが、ウィキペディアの記事名の慣習に沿っていること自体が、ウィキペディア全体の整合性に適うことにつながり、ひいては利用者の利便につながります。また、仮にるろうに剣心 (実写映画)の方が利用者にとってメリットが大きいのであれば、他の同様の事例においても同様の措置を取るべきということになり、すなわち既存のルールを覆すための新たな合意を形成することが必要となります。そうしないながらもこの記事に関してのみアニメ映画と区別できる記事名にするのであれば、少なくともるろうに剣心 (2012年の映画)とすべきです。--Purposefree会話2012年9月22日 (土) 07:36 (UTC)

加えて申せば、アニメ映画と区別するためにるろうに剣心 (実写映画)とするというマクガイアさんの論理は、将来「るろうに剣心」を題名に含む実写映画が作られた場合に通用しなくなるでしょう。--Purposefree会話2012年9月22日 (土) 07:46 (UTC)

反対 既に先行議論でも述べていますが「るろうに剣心 (映画)」は曖昧さ回避として根本的に失敗しています。わざわざ正式名称にはない曖昧さ回避を「(映画)」とつけた上で、さらに記事名上部に曖昧さ回避のためのOtherusesが必要というのは、「(映画)」が曖昧さ回避としてまともに機能していないということです。わざわざ迷い道を増やしてまでも慣習に従うというのは本末転倒であり明らかに害悪です。したがって「るろうに剣心 (映画)」への改名については強く強く反対致します。「るろうに剣心 (2012年の映画)」については賛成が集まる様でしたら強く反対は致しませんが、実写映画の方が直感的で分かりやすいと私は考えます。
メリットとして挙げられている整合性ですが、これはWPに慣れ記事名慣習を知っている人にとってのみメリットとなるものであり、メリットとしては非常に小さなものです。言ってしまえば「揃っている方が気持ちいい」程度のものであって揃うことによる明確な益がある類いではありません。想定すべき読者である初心者に対して明らかに害悪があるにも関わらず優先するようなものではないのです。
なお、発生するかどうかもわからない将来の問題を考えるのは全く無意味です。問題が発生した時点で改めて改名なりの対策を考えれば良いだけのことです。--マクガイア会話2012年9月22日 (土) 08:21 (UTC)
コメント 複数の実写映画を総括して扱う記事であるとすれば、現行の記事名に妥当性があります。2作目の制作が始まるか完全に企画が没になるまで、議論を保留することを提案します。--モンゴルの白い虎会話2012年9月22日 (土) 09:00 (UTC)

提案から2週間が経ち賛成意見皆無ですので、事後処理をしっかりと行って下さい。--マクガイア会話2012年10月6日 (土) 06:07 (UTC)

対応が遅くなり申し訳ありません。プロジェクト:映画#記事名に違反しないもうひとつの想定される記事名るろうに剣心 (2012年の映画)への改名には現時点で反対がありませんので、こちらを改名先の候補に追加した上で意見を待ち、これ以上他の方からの意見がなければるろうに剣心 (2012年の映画)への改名を行いたいと考えています。なお、モンゴルの白い虎さんのコメントは事実誤認に基づいていると思われますので、ここでは勘案することができません。--Purposefree会話2012年10月17日 (水) 09:33 (UTC)

反対「るろうに剣心 (2012年の映画)」については賛成が集まる様でしたら強く反対は致しませんが」と申し上げている通り、賛成が集まっていない現状では反対です。理由は前述の通り現状の名称の方が曖昧さ回避として優れていると考えるためです。--マクガイア会話2012年10月17日 (水) 12:11 (UTC)
コメント 事実誤認で片づけられてはたまらないので補足します。
アニメ映画と区別するためにるろうに剣心 (実写映画)とするというマクガイアさんの論理は、将来「るろうに剣心」を題名に含む実写映画が作られた場合に通用しなくなるでしょう。
というご意見がありましたので、「るろうに剣心 (実写映画)」ですべての実写映画を扱う、という解決案を示しました。そして、他の実写映画は別記事にするか、他の実写映画そのものが作られる可能性がなくなったとなれば、その時に改めて記事名を再考すれば良いのではないか、というのが私の意見です。--モンゴルの白い虎会話2012年10月18日 (木) 10:06 (UTC)
いえ、タイトルに「るろうに剣心」を冠する実写映画は現在では『るろうに剣心』の1本しかなく、そのような作品が今後作られる予定は現時点ではありませんし、また、その可能性がなくなることも未来永劫ありません。私が将来新たに「るろうに剣心」をタイトルに含む実写映画ができた場合について述べたのは、映画『るろうに剣心』に関するウィキペディアの記事の名前を、タイトルも、製作年も、実写かアニメかも異なる映画と区別するために、敢えてその最後だけをとってるろうに剣心 (実写映画)とすることの根拠について疑義を呈したものです。また、仮に記事を「複数の実写映画を総括して扱う」ものとするならば (現時点では違います)、そのときにはるろうに剣心 (実写映画)という単一の映画を指すようにもとれる記事名は必ずしも適切ではなくなってしまうのではないかと個人的には思います。--Purposefree会話2012年10月18日 (木) 10:52 (UTC)

この場にあったYasuさんによる賛成意見およびそれに付随する議論は、長くなったため節を独立させ下部へ移動しました。

賛成るろうに剣心 (映画)』でも『るろうに剣心 (2012年の映画)』でもどっちでもいいですけど、強いて言えば(2012年の映画)かなと思います。(映画)は今のところ、(実写映画)へのリダイレクトになってるんですよね?ということは基本的に『るろうに剣心 (映画)』への改名しても混乱は起きないです。--Bugandhoney会話2012年11月1日 (木) 19:48 (UTC)
コメント 「(映画)」が現状リダイレクトとなっているのは、Purposefreeさんが合意を無視して移動され、さらにリンク元まで全てを「(映画)」へと張り替えてしまったため、移動を戻した後もリンクを保全するための一時的な対処として「仕方なく」リダイレクを残しているものです。迷い道を増やすだけであり明らかに存在する事が害悪なリダイレクトですので、この議論が終われば当然削除しますよ。--マクガイア会話2012年11月3日 (土) 11:11 (UTC)
リダイレクトの削除は、「この議論が終われば」ではなく、削除するという合意が得られてからにしていただければと。--Bugandhoney会話2012年11月6日 (火) 18:47 (UTC)
コメント ご存じないのかもしれませんが、削除のためには削除依頼が必要であり、合意はその場で形成されるのですよ。--マクガイア会話2012年11月7日 (水) 16:21 (UTC)
了解です。この議論が終われば当然削除しますよという文言からは、削除依頼に出すのか、Wikipedia:ページの改名#その他を根拠に即時削除に出すのかで、判然としなかったので、コメントしました。--Bugandhoney会話2012年11月7日 (水) 18:27 (UTC)
コメント いや、条件が合うのであれば即時削除に出しますよ。しかし、即時削除は削除審議を省略する変わりに厳密にWikipedia:即時削除の方針に合致しなければなりません。本件はリダイレクト3-1の類例ではありますが、同文面と厳密には合致せず、即時削除の対象とはならないと考えます。--マクガイア会話2012年11月8日 (木) 12:41 (UTC)

Yasuさんによる賛成意見

賛成 プロジェクト‐ノート:映画#「他項目と同じタイトルの作品の場合」の改訂提案での告知を見て参りました。すでにPurposefreeさんが指摘されていますが、先んじて製作されたアニメ映画と区別する目的で「実写映画」という文言で曖昧さ回避を行うことが必ずしも適切とは思えません。アニメ・漫画の実写映画化作品一覧作品が映画化されたことがある漫画家一覧にもあるように、アニメ映画・実写映画の両方が作られた漫画・アニメの例は『るろうに剣心』に限ったことではなく、珍しいケースであるとはまったくいえませんので、わざわざ「実写」映画と明記する必要性があるものかどうか疑問です。マクガイアさんのご意見では「アニメと区別するために“実写”としたほうが分かりやすい」ということですが、すでに鉄人28号 (映画)キューティーハニー (映画)などの先例が存在し、いずれも記事名について議論があった様子がない以上、「映画」または「XXXX年の映画」の形式による曖昧さ回避でもその点は特に問題なく、マクガイアさんのおっしゃるような「明らかに害悪がある」ようなものではないように感じます。となれば、現行の記事名はPJのガイドラインを覆すだけに足る根拠があるとはいえないでしょう。
なお、モンゴルの虎さんの「るろうに剣心 (実写映画)」ですべての実写作品を取り扱うというご意見については、これまたブラック・ジャック (実写版)ゲゲゲの鬼太郎 (実写映画)という前例があることから一考の余地があるものと思いますが、それは将来『るろう〜』の実写映画がさらにもう1作品以上製作され、全実写作品を総括して扱う記事が必要になった場合に改めて考慮すればよいことです。いずれにしても本項目は「複数の実写作品を総括して扱う記事」ではありませんので、少なくとも現時点では「るろうに剣心 (2012年の映画)」への改名が適当であると判断します。--Yasu会話2012年10月18日 (木) 15:14 (UTC)
コメント 例示された『鉄人28号 (映画)』と『キューティーハニー (映画)』に関して言えば、Otherusesすら使っておらず初心者が迷い込んだらなかなか目的の記事へとたどり着くことは出来ないでしょう。はっきり申し上げましてあまりに酷い状態で、とても本件の参考になるとは思えません。また今回の様に「ガイドライン通りでは不都合がある」という問題提起に対し、「ガイドライン通りの記事がある」ことを根拠とすることは意味がありません。なぜならこれらはガイドラインがお墨付きを与えているために「問題はないはず」という前提になっており、実際に問題があったとしても本記事における当初のPurposefreeさんの編集の様に機械的にガイドラインに添った形へと改名されるからです。単に問題意識をもった方が現れなかっただけのことで、本記事以上に明確な害悪のある状態です。「害悪ではない」とご主張されるのであればガイドライン通りの記事があることを根拠にされるのではなく、「なぜ、初心者を迷わせるような記事名であっても害悪がないのか」あるいは「ガイドラインを守ることによって、初心者を迷わせることを上回るどのような益があるのか」ということをご説明願います。
  • 「るろうに剣心 (映画)」では1997年のアニメ映画『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 維新志士への鎮魂歌』と間違えて本記事をご覧になる方が現れる可能性が非常に高いです。これは先行議論において「(映画)」を採用した場合にはOtherusesを併用することが前提とされて議論されていることからも自明であると考えます。
  • 「るろうに剣心 (2012年の映画)」は、「るろうに剣心 (1997年の映画)」があってこそ対比から曖昧さ回避として機能するものです。「 (1997年の映画)」が選択肢としてあるのであれば、時代の前後から「(2012年の映画)」を取捨できますが(それでも私は分かり難いと思いますが)、「(2012年の映画)」単独では開始年を覚えていない限り役に立ちません。これに対し、「(実写映画)」であれば実写映画の記事を求めている人であればなんの迷いもなく記事を選べ、アニメ映画の記事を求めている人であれば目的の記事ではないとすぐに選択肢から除外できます(実写映画の利点についての詳細は次項で)。
  • 「るろうに剣心 (実写映画)」を私が推すのは、混同の虞のあるアニメ映画と対比しての本作品の説明として「実写映画」が最も端的で分かり易いものだと考えるからです。これはメディアミックス元である『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』の記事において分割前(=私が手を入れる前)から「実写映画」が節名として採用されていたことからも明らかであると考えますし、他のアニメ映画と実写映画がある作品においても、両者の対比としてはほぼ間違いなくアニメ映画と実写映画という軸で説明されているからです。少なくとも私は公開年を軸として説明されているものを見たことがありません。たとえばYasuさんが例示された作品の元となる「鉄人28号#映像作品」と「キューティーハニー#歴代作品」でも、またこれらの作品用のナビゲーションテンプレート{{鉄人28号シリーズ}}と{{キューティーハニー}}でもあくまで実写とアニメを軸として分類しています。
--マクガイア会話) 2012年10月19日 (金) 10:14 (UTC) 下線部追加。--マクガイア会話2012年10月20日 (土) 11:11 (UTC)
コメント 鉄人28号 (映画)キューティーハニー (映画) にはひとまずOtherusesテンプレートを付けました。報告まで。--モンゴルの白い虎会話2012年10月20日 (土) 02:04 (UTC)
コメント ご対応ありがとうございます。--マクガイア会話2012年10月20日 (土) 11:11 (UTC)
マクガイアさんがお尋ねの点について、どのような属性の人がどのような目的で記事を見ているのかという統計を取っているわけではない以上、「2012年の映画」で迷う人がいるかどうかはあくまで想像にすぎませんので、「初心者を迷わせる」という前提そのものが成り立ちません。実際に「私は迷いましたので、もっとわかりやすい記事名を望みます」といった声があれば別ですが、上で提示した2記事ともそのような意見は現に寄せられていませんので「害悪はない」と判断した次第です。
またそもそも、マクガイアさんのおっしゃる「初心者」とは、『るろう〜』に関してある程度の情報、少なくとも「実写映画とアニメ映画がある」くらいのことは知っている層を想定しているのだと思いますが、一方でそういった最低限の知識すらない、たとえば『るろうに剣心』というタイトルすら初めて聞くというような読者にとっては、「実写映画」という分類はそこまでメリットが大きいものか疑問です。その意味で、ガイドラインから積極的に外れるべき理由はないということです。--Yasu会話2012年10月20日 (土) 14:56 (UTC)
コメント アニメ映画の方だと、ガイドラインから外れた形で曖昧さ回避を行っている記事の一つに、時をかける少女 (アニメ映画) があります。ガイドライン的には時をかける少女 (2006年の映画) とすべきところですが放置されています。他にパプリカ (アニメ映画)走れメロス (アニメ映画)ジュノー (アニメ映画)魔女の宅急便 (スタジオジブリ作品) というのもあります。これらを肯定するつもりはありませんが、何がしか本件にリンクする要素がありそうな気もしますので、参考までに挙げておきます。--モンゴルの白い虎会話2012年10月21日 (日) 03:44 (UTC)
コメント やはり実写映画のままでいいでしょう もし次回作が翌年や再来年に公開されたら面倒です。またそうした場合、年から映画を探す人はあまりいないと思うし20年 30年後 にリメイクされたならともかく かえって混乱すると思います。次回作が公開されそれに副題が付いたとしても実写映画として、まとめておけばすっきりするでしょう。こういうものは5 6年たって 続編がないようなら2012年の映画とつけて改名すればいいわけで 一旦終了しませんか。 また別の役者で続編が作られた場合も2012年の映画とつけて改名すればいいわけですし。また次回作のタイトルをそのままつけようとしてもアニメ映画に副題が付いてるわけでそれと混同するでしょう。今後の様子をみてで十分だと思います。--Otohakusyu会話2012年10月21日 (日) 08:59 (UTC) 
コメント (長くなったのでインデント戻します)まず前提となる「初心者」の認識が私とYasuさんでずれている様に思いますので説明させて頂きます。私が想定している「初心者」とは『るろうに剣心』に関する知識が少ない「るろうに剣心の初心者」ではなく、WP独自の内部ルール(今回であれば曖昧さ回避の命名法など)をご存じない「WPの初心者」です。その上で『るろうに剣心』に対するスタンスとしては、アニメ実写に関わらず「少なくとも1作は『るろうに剣心』という(のをタイトル冒頭に持つ)映画がある」ということだけは最低限ご存知で、「『るろうに剣心』の映画の記事をご覧になりたい方」を想定しています。これは
  1. (xxx) での回避が可能となるのは、複数ある「るろうに剣心」の中だけに限定される
  2. 複数の「るろうに剣心」の中から記事名だけで選択するという状況は、検索のオートコンプリート使用時にほぼ限定される
  3. 映画の記事を望んでいるのでなければ、(xxx映画) は選択肢とならない
    • 自分が見たい記事が映画なのかどうかもわからないのであれば、開始年であろうと実写であろうと(xxx映画) での曖昧さ回避がそもそもとして無理です。
といったことを考慮しての想定です。また実写映画の記事を望んでいる方であれば、途中で判断に迷ったとしても正しい記事が表示されれば結果オーライとなりますので、迷い込んで害がある「1997年のアニメ映画を見たい方」が本記事へと迷い込む可能性を極力減らすことが特に重要であると考えます。
「2012年の映画」で迷う人がいるかどうかはあくまで想像にすぎません」とのことですが、想像ではありません。統計がなくても確実に言えることですが、「2012年の映画」で迷わない人は(おぼろげであろうとも)どちらかの映画の公開年を覚えている人だけです。「『るろうに剣心』の映画の記事を見たい方」にとって「るろうに剣心 (2012年の映画)」が自分の望んでいる記事かどうかの判断材料は「2012年」しかないのですから、この情報を持っていない限りは全く判断のしようがありません。
もちろん「実写映画」で全く迷わない人も、自分の見たい記事がアニメor実写であるということをご存知の方のみです。しかし前回の箇条書きの2つめで申し上げましたように、開始年では対比するものがなければ取捨する基準がなく完全に勘のみになりますが、実写映画では実際には選択肢がなかったとしても対比できるものがアニメ映画くらいしかありませんのである程度は判断がしやすくなります。
また、個人的な経験則になりますが、一応は題名がわかる(=検索が可能な)映画であれば「アニメか実写かがわからない映画」よりも「公開年がわからない映画」の方が圧倒的に多いです(Yasuさんはいかがでしょうか?)。というより名前がわかる映画でアニメなのか実写なのかがわからない映画ってちょっと思いつきません。もちろんこんな経験則は根拠にはなりませんが、そう言う状況がある程度普遍性があるからこそ、前回の箇条書きの3つ目の状況となると考えるのが妥当ではないでしょうか。--マクガイア会話2012年10月25日 (木) 11:35 (UTC)
ご説明ありがとうございます。「初心者」の定義については了解しました。しかしながらこの記事の読者は、マクガイアさんのおっしゃる「ウィキペディア初心者」かつ「少なくとも1作は『るろうに剣心』というタイトルの映画があることを知っている」かつ「『るろうに剣心』の映画の記事を読みたい」という限定された層ばかりとは限りません。マクガイアさんご自身が示されている通り「(おぼろげであろうとも)どちらかの映画の公開年を覚えている」人も想定できます。そうではない読者層にとっては「2012年の映画」よりも「実写映画」という分類のほうが分かりやすいと仮定しても、その層だけの都合を優先することのメリットがそこまで大きいものだろうか、ということです。また、現時点では「1997年のアニメ映画の記事」はまだ作成されていませんから、存在しない記事との間で迷う迷わないという話になっていることがそもそもおかしいのではないかとも感じます。--Yasu会話2012年10月25日 (木) 17:00 (UTC)
コメント 「この記事の読者」ということであれば、おっしゃる通り「ウィキペディア初心者」かつ「少なくとも1作は『るろうに剣心』というタイトルの映画があることを知っている」かつ「『るろうに剣心』の映画の記事を読みたい」で限定される人々には限りません。しかし「(xxx) を手がかりとして本記事にたどり着ける人」ということであれば後者2つの条件を満たす方のみに限定できます(初心者にも分かり易くするのは目標であって対象を絞るための条件ではありません)。というのも、前述の通りWPで「記事名に付加された (xxx) を判断材料として自分の見たい記事がどれかを選ぶ」という状況はかなり限定されているからです。
他の記事からのリンクを辿ってということであれば前後の文章からかなり多くの判断材料を見つけることが出来るでしょうし、さらにはほとんどの場合でパイプを使って非表示とされているため、(xxx) は記事選択という点では役に立ちません。また目次に関しても最低限の説明が添えられるため、そちらを判断材料として記事を選ぶことが出来ます(タイトルがあやふやで開始年だけはっきりと覚えているというのであればxxxx年の映画から辿ってくれば良いでしょう)。こうした方々には (xxx) なんかよりもよっぽど役に立つ判断材料があるわけですから (xxx) の中身が何であろうと影響はなく、(xxx) の中身を何にすべきかを考える上では完全に無視して問題がありません。しかし、検索のオートコンプリートから本記事あるいはアニメ映画の記事へと向かいたい方に取って (xxx) は、重要な判断材料となります。たとえ、オートコンプリートでいらっしゃる方が少数であったとしましても彼らに関しては明確にメリットがあり、バーターとなるデメリットもないのですから、そのメリットを追求するのが最善の方法ではありませんか?
迷う迷わないという話になっていることがそもそもおかしい」というご意見はちょっと私には良くわかりません。「1997年のアニメ映画の記事」は独立記事としてはありませんが、るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (アニメ)内でそれなりにしっかりと説明されています。「1997年のアニメ映画」に関する記述を見たい人が「るろうに剣心 (2012年の映画)」と「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (アニメ)」を選択肢として出されれば、(開始年に関する記憶がない限りは)確実に迷います。もし迷う人がいないのであれば、「(映画)」ならOtherusesを使用しなければならない、というような意見が先行議論で出てくることはないでしょう。--マクガイア会話2012年10月27日 (土) 12:16 (UTC)
検索のオートコンプリートについては、比較対象が「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (アニメ)」であるなら、そちらに「アニメ」と付いている以上、少なくとも「確実に」迷うとは言いきれないと思います。また一方で、たとえば「今年公開された『るろうに剣心』という映画について知りたい」という人なら、むしろ「2012年の映画」のほうが分かりやすいでしょう。従って、「実写映画」という分類にはマクガイアさんのおっしゃるほどのメリットはないと判断します。
逆に、映画記事全体を見渡してみれば、「実写映画」という分類を採用することのデメリットは確実に存在します。上記のプロジェクト‐ノート:映画#「他項目と同じタイトルの作品の場合」の改訂提案で述べようと思っていましたが、現行の「XXXX年の映画」という分類ルールから外れた基準を用いることが認められるのであれば、「実写映画」以外にも様々な分類が生まれ(たとえば「白黒映画」、「サイレント映画」、あるいは「3D映画」などでしょうか)、「XXXX年の映画」という分類方法のほうが便利という読者にとっては、かえって不便になってしまいます。もちろん編集者の側にとっても、例外が増えるということは記事名を付ける際に(また、付けた後でも)混乱のもとになります。いずれにしても、「実写映画」という分類方法には、そういったデメリットを上回るだけのメリットは残念ながら見いだせないということです。--Yasu会話2012年10月27日 (土) 14:58 (UTC)
コメント「迷う」という言葉が問題ならば、「判断できない」と言い換えましょうか。アニメ映画を望んでいる方が、「(アニメ)」と「(映画)」のどちらを選択するかは完全に勘でしかなく、判断基準として機能していません。「たまたま」迷わなかった人が居たとしても、それがこの欠点が問題ではないという話にはなりません。「今年公開された〜」という方に関してはWikipedia:すぐに古くなる表現は使わないから対応不要です。厳密に言えば同ガイドラインは記事名について述べたものではありませんが、記事名ならなおさら10年後や50年後に確実に意味がなくなるようなことを考慮すべきではありません。
いや、「「XXXX年の映画」という分類方法のほうが便利という読者にとっては、かえって不便」なのは当たり前ですよ。それは「「実写映画」などの分類法が便利という読者にとっては、かえって不便」と完全にバーターの関係にあることなのですから……。それを大前提とした上で、「(1997年の映画)」がなければ「(2012年の映画)」映画では全く役に立たないが「(アニメ映画)」がなくても「(実写映画)」は機能する、少なくとも私が確認できた範囲ではアニメか映画かを軸として説明した記事はあっても公開年を軸として説明した記事はない、といったことから「(実写映画)」の優位性を述べているのです。
根本的なこととして、編集者の利便のために読者の利便を疎かにするというのは論外であると私は考えます。念のため申し上げておきますが、これは編集者の利便を考えなくても良いということではなく、編集者の利便は読者の利便を犯さない範囲内で追求しなければならないということです。そもそも判断が着かなければ今まで通りにすればいいだけのことであり、混乱するというのが全く私には理解できません。はっきり言ってしまえば、揃っていることの意味は「そろえたい人が揃ってて気持ちいい」だけですよ。--マクガイア会話2012年10月28日 (日) 09:56 (UTC)
どうも若干の誤解があるようです。そもそもここでWikipedia:すぐに古くなる表現は使わないに言及するのは筋が違うように思うのですが、「今年公開された〜」云々というのは、作品そのものに関する知識はないが公開年の情報は持っている、という人を指して述べたつもりです。「今年」を「2012年に」と置き換えるとお分かりいただけるかもしれませんが、何年に公開されたかという情報は10年後や50年後になっても変わらないのですから、「確実に意味がなくなる」ということはありえません。また、そのような「XXXX年に公開された作品」という情報だけをもとに記事を探している人がいるならば、「(アニメ映画)」がなくても「(実写映画)」は機能する、というご意見も成り立たないように思います。
そして、分類方法を揃えておく意味は「そろえたい人が揃ってて気持ちいい」だけにあるわけではありません。PJのノートでご提案のように「映画」さえ付ければどのような形でも構わないとするならば、「実写映画」のみならずあらゆる分類方法が可能になります。このように統一が取れなくなると、読者にとっては目的の記事の探し方が一件一件違ってくることになり、また編集者にとっては「どういった分類を用いるか」で迷うおそれが出てきますから、そういった意味で「混乱のもとになる」と述べました。いくつか例外を設けるのは避けられないにしても、なるべくその例外が少なくなるような方法が最も分かりやすい記事名になると思いますし、そして現状では「XXXX年の映画」という分類が一番例外が少なくなる方法であると考えています。
最後に念のため、もし上記発言が「編集者の利便のために読者の利便を疎かに」してもよい、という趣旨であると受け取られたのでしたら、それは間違いであると申し上げておきます。上で述べたのは、どちらかの都合を優先するとかしないとかいった話ではなく、あくまで「実写映画」のような分類は読者にも編集者にも(上述のような)デメリットが存在するということですので、ご理解いただきたいと思います。--Yasu会話2012年10月28日 (日) 16:10 (UTC)
コメント作品そのものに関する知識はないが公開年の情報は持っている、という人」については前回の発言でも第二段落で説明していますし、それ以前から何度も申し上げています。しかし今までにない「今年公開された〜」という発言が出て来たため、Wikipedia:すぐに古くなる表現は使わないに触れ、説明させていただきました。「公開年での回避が役に立つ人もいる」というような主語を変えればそのまま反対意見となるような水掛け論はそろそろやめて、「公開年での回避が、実写映画等に比べて優れている点」をご説明して頂けないでしょうか?
読者にとっては目的の記事の探し方が一件一件違ってくることにな」ることのには全く問題がありません。何故なら既に説明している様に、1) そもそもとして記事名の曖昧さ回避で記事を捜すという状況は極めて限定的であり、2) 公開年を軸として説明することがほぼないように、公開年以外の情報で区別を付ける方が圧倒的に多いと想像されるからです。公開年で統一して、読者にメリットがあるとすれば、「WPが開始年で曖昧さ回避しているというルールを知っており、そのために事前に開始年を調べるのが習慣となっている」という極めて限定的な場合のみです。繰り返しますが、公開年で統一してメリットのある読者は極々稀な方に限られ、ほとんどの方に取っては全くメリットとなっていません。言い換えれば、公開年を採用しないことによるデメリットは極々稀な方に限られ、ほとんどの方に取っては全くデメリットではありません。
明確に「どちらかの都合を優先するとかしないとかいった話」です。前述の通り、執筆者の利便は読者の利便を犯さない範囲に限定されるべきです。そしてYasuさんの挙げられている読者のデメリットは、どれを採用しても必ず発生するデメリットか、極々限定的な条件の方にしか発生しないデメリットであり、公開年の優位性の説明とは全くなっておりません。--マクガイア会話2012年10月30日 (火) 13:22 (UTC)
「公開年での回避が、実写映画等に比べて優れている点」についてはすぐ上のコメントで説明したつもりですが、ご理解いただけていないとのことですので改めてお話しします。以前に申し上げたように、どんな読者層がどんな目的で記事を読みにくるかという統計があるわけではありませんから、大部分の読者にとって「実写映画」という分類のほうが分かりやすいはずだというのはあくまで憶測にすぎません。もちろん、公開年での分類のほうが便利という読者が多数派であるともいえませんが、逆に「公開年で統一してメリットのある読者は極々稀な方に限られ、ほとんどの方に取っては全くメリットとなっていません」と断言できる根拠もないことになります。また、上で述べたように「実写映画」という分類では区別できない状況が存在する以上、「公開年を採用しないことによるデメリットは極々稀な方に限られ、ほとんどの方に取っては全くデメリットではありません」とのご意見も成り立ちません。どちらの分類にも一長一短ある(少なくとも「実写映画」が優れているという証拠はない)なら、あえて現行のルールを外れて無駄に例外を増やす理由はないということです。--Yasu会話2012年10月30日 (火) 15:45 (UTC)
コメント あるわけのない統計がないことを根拠にしても話にならないから、きちんと推測の根拠を示しているわけですが、これを推測だからで切り捨てるのであれば、何でも最初に決めたもの勝ちになりますよね……。そもそも最初の発言で鉄人28号 (映画)などの先例があることを根拠とされた方が、記事の状態を根拠とした「開始年を軸とはされておらず一般的な分類ではない」ことを推測と切り捨てるものどうなのでしょうか? もう一度言いますが、アニメ実写の区別より開始年が区分として優れているのであれば、それを軸として分類している記事が大多数となるはずです。しかしそのような記事を少なくとも私は1つたりとも見たことがありませんし、Yasuさんも一つたりとも例示できておりません。だいたい常識的な日本語では「1997年のアニメ映画」とは言っても、まず「アニメで制作された1997年の映画」とは言いませんよ。
また「公開年で統一してメリットのある読者は極々稀な方に限られ、ほとんどの方に取っては全くメリットとなっていません」と断言できる根拠は示しています。これは統計を取るまでもなく「その名前の仕組み」から役に立つ状況というのが極めて限られているからです。「極めて限定的な状況でしか役に立たない」にも関わらず少数ではないと言えるのであれば、それこそ統計が必要です。
そして「2012年の映画」は「1997年の映画」という比較対象がなければ取捨が出来ないのに対し、「実写映画」は「アニメ映画」がなくても取捨できるという点は、推測などなくても明らかに実写映画の方のメリットとなっています。--マクガイア会話2012年11月1日 (木) 11:59 (UTC)
鉄人28号 (映画)などの例については、「鉄人28号 (実写映画)」にすべきというような意見が現に出ていないことから、あえて実写かアニメかという軸で記事名を区分する必要がないことを示したものです。記事の内容が実写かアニメかで区分された記述になっているとしても、それを記事名にも反映させなくてはいけないということはありません。そして、繰り返しになりますが、「『実写映画』は『アニメ映画』がなくても取捨できる」という状況が成り立たない場合がある一方で、2012年という公開年が分かるなら「1997年の映画」という比較対象がなくても記事にたどりつくことは可能です。従って「実写映画」のほうが明らかに優位にあるとはいえず、プロジェクトの規定を外れる命名方法を採用するまでの理由はない、と申し上げているのですが、これでも納得していただけないようであればおそらく議論はこのまま平行線のままだろうと思います。提案ですが、このあたりでコメント依頼を出すなりPJで告知するなりして、新しいご意見を募ってみるのはいかがでしょうか。--Yasu会話2012年11月1日 (木) 15:34 (UTC)
コメント「鉄人28号 (映画)」についてはYasuさんの理屈で言うと、「そのような意見が出て来ていないから、実写かアニメかという軸で記事名を区分する必要があるかどうかはわからない」にしかならないと思いますけど……。
記事の構成は分かり易さを追求して行われるものです。したがって、記事構成での区分の軸として圧倒的大多数(なお、年代別の区分を採用した記事ははこれまでに1つも例示されていません)で採用されている実写とアニメの区分は、分かり易い区分であると考えるのが妥当です。(ここまでの前提を否定されるならそれでも結構ですが、その場合は圧倒的多数で採用され区分が分かり易い方法ではない根拠をしっかりとご説明願います。)
そしてこのような区分は記事名の下層に位置する(記事名とは、記事全体の見出しであり、実際にマークアップ的にも「レベル1の見出し」です)見出し(節名)でも、多くの記事で採用されています。レベル2や3の見出しで多く採用され分かり易いと考えられる区分方法が、レベル1の見出しである記事名になると突然そうとは限らないとなる理由を、しっかりとご説明願います
「『実写映画』は『アニメ映画』がなくても取捨できる」という状況が成り立たない場合」は理論上はあっても実際にはほぼありえません。なぜなら
  1. 名前を検索できる映画がアニメか実写かがわからないという状況はかなり不自然であり、
  2. たとえそのような状況があったとしても、「実写映画」によって見えない選択肢「アニメ映画」の存在が暗示されており、不自由ではあってもアニメか実写かという分かり易い判断材料が存在する
からです。
一方で「2012年の映画」の場合は、
  1. 名前の検索が出来ようとも公開年がわからないという状況は特に不自然ではなく、
  2. 1997年あるいは2012年という公開年のどちらかが分からない限り、見えない選択肢は無数に存在して(もう一つの候補は19世紀の作品の可能性もあれば、今後作られる予定の作品かもしれない)「2012年の映画」が比較対象と比べて新しいのか古いのかさえわからず、読者の判断材料がありません
    • 今現在であれば、「最近の映画」という事で「2012年」で判断できる方も多いでしょうが、これは経年と共に確実に消え去るメリットであり、Wikipedia:すぐに古くなる表現は使わないからメリットとして考慮すべきではありません。
もう一度言いますが、「実写映画」は例え実写orアニメを知らなかったとしても、不自由ながらも2択で読者が判断できます。しかし「2012年の映画」は公開年を知らない限り、選択肢は無数となり、読者の判断できる材料とはなれません。どちらの場合であっても選択可能な人・不可能な人がそれぞれ一定数いるのは当たり前ですが、どちらの方が選択の自由があるかは明確です。
コメント依頼等を出すというのであれば特に反対はしませんが、ここまで長い議論となりますと新規で来て下さった方に大きなご負担を強いることになりますので、依頼等を出す事前にまとめを用意しておくのが最低限の礼儀かと。--マクガイア会話2012年11月3日 (土) 11:11 (UTC)
上で述べたように、また今回も下で述べていますが、記事内容が「実写/アニメ」を軸に記述されているからといってそれを記事名にも反映させるべきということにはなりません。ですから、「実写/アニメの区別より開始年が区分として優れている」ことを証明するために「実写/アニメの区分でなく公開年を軸として記述されている記事」の例を示す必要はないと考えています。しかし、もしそれではご不満なのでしたら、少し探しましたところ新造人間キャシャーンという例が見つかったことを参考までに報告しておきます。
見出し云々の件について、記事名はその記事の「レベル1」の見出しであるというご意見自体は興味深いと思いました。しかし、ある程度自由に記述できる記事内の見出し(節)と違い、記事名に関しては独自の基準が設けられていますから、節分けで採用されている分類方法が必ずしもそのまま記事名にも適用できるとは限りません。そもそも、記事内の節は本文同様に編集して改変することができるが、記事名の場合は移動という操作を行う必要があるという点からいっても、記事名と節とを同列に扱うこと自体に無理があります。
「『実写映画』は『アニメ映画』がなくても取捨できる」が成り立たない場合について。原作が漫画であること、アニメが先行して制作(製作)されていることを知らない読者であれば、そもそも本作が実写かアニメかを特に意識していないということもあり得ますから、そういった状況が「かなり不自然」とは言い切れません。また「実写映画」があるなら「アニメ映画」もあるのだろうと予測できるような勘のいい読者は、皆無とはいいませんが100 %でもないはずです。一方、「公開年のどちらかが分からない限り」「判断材料がない」ということは、逆に言えば「公開年のどちらかが分かれば判断材料がある」ということですから、「2012年の映画」に「選択の自由がない」ことの証明にはなりません。
そして、以前にも指摘しましたが、今回のケースでWikipedia:すぐに古くなる表現は使わないを持ち出すのは適当ではありません。このガイドラインは、記事内容に「最近」「現在」「近年」といった相対的な時間の記述を用いないように、という趣旨です。これが記事内容だけでなく記事名にも適用されるかどうかはガイドラインに記載がありませんが、もし適用されるにせよ、「るろうに剣心 (最近の映画)」などではなく「2012年の映画」と明確に時期を特定している以上、「すぐに古くなる」要素はありません。なお、もし当該ガイドラインが「明確に時期を特定した記述は、経年とともに読者が分かりにくくなるので避けるように」と規定しているとお考えなのであれば、それはガイドラインの記載内容を明らかに超えていますので、誤解あるいは拡大解釈でしょう。今一度、よくガイドラインを読み直すことをお勧めします。
結論としては、「2012年の映画」にもデメリットがあることは否定しませんし、マクガイアさんのおっしゃる通り「どちらの場合であっても選択可能な人・不可能な人がそれぞれ一定数いる」のは確かですが、少なくとも「実写映画」のほうが明らかに選択可能な場合が多いという断言はできません。どちらによりメリットがあるのか判断がつかないのなら、PJの規定通り「2012年の映画」を使うべきだということです。
さて、コメント依頼には反対はされないとのことですので、あとは新しいご意見を待ちたいと思います。そこで、依頼提出前にまとめを用意すべしとおっしゃるマクガイアさんにもご協力をお願いしたいのですが、どちらか一方がすべての意見をまとめるのは中立的でなくなる可能性もありますので、マクガイアさんのこれまでの主張および改名賛成意見への反論については、できればご自身でまとめをご用意いただければと思います。よろしいでしょうか。--Yasu会話2012年11月5日 (月) 17:00 (UTC)
コメント あなたの反論は「主張」と「根拠」に因果関係がないため、結局は全く根拠がないただの感想になってしまっているんですよ。別に、「記事内容が「実写/アニメ」を軸に記述されているからといってそれを記事名にも反映させるべきということにはなりません。」とご主張されるのはそれで結構なんですが、「何故そのように考えられるのか」というその根拠をしっかりと示して下さい。あるいは私が示している両者を同じ基準で考える根拠を否定して下さい。どちらもせずにただ「自分がそう思う」というだけの感想だけ述べられても、そりゃ議論になりませんからいつまでたっても平行線のままで当然です。まとめを作る事は吝かではありませんが、こうした点をしっかりして頂けないとまとめるのも難しいのですが。
記事名がレベル1の見出しであることは「意見」などではなく、HTMLソースをご覧頂ければ誰にでもすぐに確認できるれっきとした「事実」です。
技術的な問題などから記事名と記事内容を同列に扱えない一面はありますし(まあ「実写映画」も「2012年の映画」も技術的な問題はなく、今回の議論内容と技術とは全く関係がありませんけどね。)、「節分けで採用されている分類方法が必ずしもそのまま記事名にも適用できるとは限りません」というだけであれば、おっしゃることは正しいです。しかし根拠では「必ずしも」と部分否定であったものを、いきなり飛躍させて「記事名と節とを同列に扱うこと自体に無理があります。」と全否定をご主張されるのはあまりに無理筋です。実際、技術的な問題に関するものを除けばWikipedia:記事名の付け方のほとんどは本文中でも十分に通用します。そもそも私は必ずしも同列には扱えないからこそ、「端的に少しでも分かり易くその内容を示すことが求められる節名において採用されている分類方法は、同じく端的に少しでもその内容を示すことが求められる曖昧さ回避の括弧内においても有用である。」と「同列に扱う根拠」と共に主張しているのです。そしてあなたの反論理由である「記事名に独自の基準が設けられている事」や「改変の難易度」は、この私の「同列に扱う根拠」とは全く関係がないんですよ。別に記事名に独自の基準が設けられていたり、改名が難しいからといって、「端的に少しでも分かり易くその内容を示す」という曖昧さ回避および節名の本質が変わることはないですよね?
そうやって、「詳しく可能性に可能性を重ねて説明しなければならない」という時点で「かなり不自然」だと言う事に気付きませんか?「「選択の自由がない」ことの証明にはなりません。」って何を言ってるんですか?? なりますよ。「2012年の映画」は「公開年のどちらかを知っている」という唯一の条件を満たさない限り選択の自由はありません。それに対して「実写映画」は「実写orアニメのどちらかを知っている」という「公開年のどちらかを知っている」と(大きく譲って)同等の条件を満たした方々に加え、同条件を満たさずとも「実写とアニメの対比に気付く」というもう一つの条件に気付いた人にも選択の自由があります。
  • 「実写映画」で選択の自由がある人
    1. 実写orアニメのどちらであるかをわかっている人
    2. 「実写映画」が「アニメ映画」との対比である事に気付けた人。
  • 「2012年の映画」で選択の自由がある人
    1. どちらかの公開年をわかっている人
箇条書きで列べれば一目瞭然ですよね。さらに1の条件は全く同等ではありません。(唯一の例外は出てきましたが)圧倒的多数の記事において、分類の軸が実写かアニメかにおかれているのはこちらの方が理解されやすいからです。
2012年10月28日 (日) 09:56 (UTC)の最初に同ガイドラインを呈示した時点でその点に着いては触れています。「厳密に言えば同ガイドラインは記事名について述べたものではありませんが、記事名ならなおさら10年後や50年後に確実に意味がなくなるようなことを考慮すべきではありません。」--マクガイア会話2012年11月7日 (水) 16:21 (UTC)
こちらの意見が「根拠がないただの感想」とのご批判をいただきましたが、失礼ながらマクガイアさんのご意見も同様であるように感じられます。以前から申し上げているように、統計を取っているわけではない以上、どの条件に当てはまる人がどれだけいるかは分かりません。すなわち「実写orアニメのどちらであるかをわかっている人」+「『実写映画』が『アニメ映画』との対比である事に気付けた人」よりも「どちらかの公開年をわかっている人」のほうが多い可能性もあるわけで、少なくとも前者のほうが数が多いとする根拠はないということです。また「分類の軸が実写かアニメかにおかれている」のは単に編集者にとってそのほうが都合がいいだけなのかもしれず、「こちらの方が(読者に)理解されやすいから」と断言するだけの根拠があるようには思えません。そして、繰り返しますが「2012年の映画」という情報は10年後50年後になっても不変のものであり、「確実に意味がなくなる」ということはありえませんから、「すぐに古くなる表現」とは関係のない話であり、いずれにしてもこのガイドラインを持ち出すのは不適切です。
これでご理解いただけるかどうかは分かりませんが、これを「根拠がないただの感想」とお考えになるのであればそれはそれで結構ですし、「Yasuの意見は根拠がないただの感想である」とまとめて下さっても構いませんので、新たなご意見を募るためにご協力を改めてお願いする次第です。ご検討ください。--Yasu会話2012年11月8日 (木) 14:58 (UTC)
まずは以下の質問に御回答願います。
  1. 「節分けで採用されている分類方法が必ずしもそのまま記事名にも適用できるとは限りません」と部分否定であったものを、主張で飛躍させて「記事名と節とを同列に扱うこと自体に無理があります。」と全否定をご主張されるのは無理筋であるということはご納得頂けたのでしょうか? 納得頂けない場合は、「何故そのような飛躍が可能なのか?」をご説明願います。
  2. 前回の発言では「記事名に独自の基準が設けられている事」や「改変の難易度」等といったことを私の主張を否定する根拠とされていましたが、今回では突如「分類の軸が、読者に取って分かりやすかどうかで決まっているとは限らない」という今まで出てこなかったものに変更されていました。これは「前回の根拠が根拠となっていなかったこと」にはご納得頂けたということでよろしいでしょうか? ご納得頂けていない場合は、全く関係のない「記事名に独自の基準が設けられている事」や「改変の難易度」でなぜ、前述の私の根拠を否定できるとお考えなのかをご説明願います。
「すぐ古くなる」については、今現在であればそれなりにいるであろう「今年の映画」の様な曖昧な記憶でいらっしゃる人を配慮しなくて良い、という話でのみ言っているのであり、「2012年の映画」という言葉そのものが古くなるなどということは一度たりとも言っていないはずですが……。
「『そもそもあるはずのない統計』がないこと」と「理論上では有り得る可能性」だけを根拠として、「可能性を絞り込むための状況判断」を無視するというのは単なる議論拒否であり思考停止です。
まとめに関しては、テーブルを使い、
改名理由 反論 再反論 再々反論
理由1 反論1 再反論1 再々反論1
理由2 反論2 再反論2 再々反論2


というような形でまとめてはどうでしょうか。--マクガイア会話2012年11月13日 (火) 22:33 (UTC)
「記事名と節とを同列に扱うことができない」からこそ「節分けの分類方法は必ずしもそのまま記事名にも適用できない」のであって、飛躍とは思いませんし特におかしな主張をしているつもりはありません。なぜ「記事名と節とを同列に扱えない」かはすでに説明しました。「記事内容が実写/アニメで分類されているのは編集者の都合かもしれない」との発言は「圧倒的多数の記事において、分類の軸が実写かアニメかにおかれているのはこちらの方が理解されやすいからです」というご意見に根拠がない(少なくとも証明はされていない)ことを指摘するためです。
「すぐに古くなる」に関しては、当該ガイドラインの趣旨はたとえば「最近公開された映画」のような表現を使ってはいけないということに過ぎず、「2012年の映画」のように明確に指定された時点も経年とともに(一部の)読者にとって分かりにくくなるなどとと述べたものではありません。「記事名をつける際に『今年の映画』のような曖昧な記憶の読者への配慮は不要」というご意見自体の正当性はともかく、その根拠として当該ガイドラインを用いることはできないということです。
最後にまとめについて。以前にお願いしましたように、それぞれの意見および相手への反論については各自でまとめるというやり方にしたいと思いますので、「理由>反論>再反論>…」のような形式は難しい気がします。改名賛成意見・反対意見の2つに大きく分けて、それぞれに各自がまとめた内容を書き込むというのが簡単でよいだろうと思います。--Yasu会話2012年11月14日 (水) 14:58 (UTC)
いいえ飛躍です。あなたの言ってることは例えるならば、「マンゴーは日本原産ではないから、果物は全て日本原産ではない」というレベルのお話なんですよ。前述の通り「記事名と節とを同列に扱うことができない」ということの根拠の「記事名に独自の基準が設けられている事」や「改変の難易度」は、「記事名と節とを同列に扱えない」場合があることのの説明にすぎず、「端的に少しでも分かり易くその内容を示すことが求められる節名において採用されている分類方法は、同じく端的に少しでもその内容を示すことが求められる曖昧さ回避の括弧内においても有用である。」という私の発言への反論とはなっておりません。
「圧倒的多数の記事において、分類の軸が実写かアニメかにおかれているのはこちらの方が理解されやすいから」ということについては正直説明するまでもないことだと思っておりましたが、必要な様ですので改めて説明します。それはWPが啓蒙書である百科事典として、「分かり易さを求める」ことは大前提だからです。WPが百科事典である以上、その記述は分かり易さを求めているはずです。
「すぐに古くなる」については前回の発言に付け加えることはありません。「「2012年の映画」のように明確に指定された時点も経年とともに(一部の)読者にとって分かりにくくなるなど」とは私は全く言っておりません。
えーっと、なぜ「各自でまとめるというやり方にしたい」と決定次項のようにおっしゃるのでしょうか? これまでの議論から、そのやり方では論点がずらされるのが目に見えているため、「理由>反論>再反論>…」と言う形が適切であると申しております。--マクガイア会話2012年11月20日 (火) 11:10 (UTC)
百科事典であるウィキペディアは分かりやすくあるべきというご意見に対してはもちろん反対するものではありません。しかし、「だからウィキペディアの記事(名)は分かりやすく記述されているはず」というのであれば、それこそ飛躍であって、現実を見たご意見とは思えません。理想はともかく、必ずしもその理想の通りにはなっていない場合もあるということを認識していただきたいと思います。
「すぐに古くなる」云々は、上記のガイドラインの文脈内で話す限り、マクガイアさんのご意見は「『2012年の映画』のように明確に指定された時点も経年とともに(一部の)読者にとって分かりにくくなる」といったようにしか解釈ができませんでしたので、そのように申し上げました。この議論において重要な論点でないならば、この話はこのあたりで終わりにしましょう。
まとめを各自で行うという意見については、以前に申し上げたように中立性を確保するということが目的です。「…というやり方にしたい」と書いているように決定事項ではありませんが、こちらとしてはなるべくこの線で進めるのがよいし、また進めたいと考えています。このやり方では論点がずらされるというのはよくわかりませんが、まとめは新たに議論に加わる方が読むものですから、お互いに自分が主張するべきことをまとめれば、あとはそのまとめを読んだ方が判断されるのではないでしょうか。まとめの提案をしてから相応の時間が経っていることでもありますので、改めてご協力をお願いする次第です。--Yasu会話2012年11月26日 (月) 14:58 (UTC)
「百科事典が分かり易く」というのは「あるべき = should」ではなく「そうでなければならない = must」です。百科事典を名乗る以上は分かり易さが求められるのは当然であり、それを放棄しては百科事典を名乗ることは出来ません。(極一部の記事ではなく)大多数の記事で採用されている方法が、こうした根本的な目的である分かり易さを求めていないのであれば、それは大多数の執筆者が百科事典以外のものを執筆しているということであり、WPというプロジェクト自体を否定することです。
私のどの発言を読めば「『2012年の映画』のように明確に指定された時点も経年とともに(一部の)読者にとって分かりにくくなる」等と解釈できるのか、是非とも引用の上でご指摘ください。初めて同方針を示した時に「「今年公開された〜」という方に関しては」と限定を明言していますし、「『2012年の映画』のように明確に指定された時点も経年とともに(一部の)読者にとって分かりにくくなる」等ということは一度たりとも発言していないつもりです。
中立性を確保して新規の方に状況を理解して頂くためにこそ、何が論点となっているのかをはっきりと示せる形が適切です。論点を明確にするため「理由>反論>再反論>…」のような形式が適切です。--マクガイア会話2012年12月2日 (日) 12:34 (UTC)
「あるべき」と「そうでなければならない」の間にどれほどの違いがあるのか分かりかねますが、それはさて置き、「大多数の記事で採用されている」方法であるからといって、それが最良のものであるという保証はないでしょう。もちろん、もしかすると実際に最良なのかもしれませんが、根拠もなく「他の記事でもこうなっているからこれが最良に決まっているはず」と盲目的に信じ込んでいらっしゃるならば、それこそむしろウィキペディアにとってよろしくないことではありませんか。
そして「すぐに古くなる」の件、当該ガイドラインに「「今年公開された〜」という方」にとってのメリットは年々薄れる(だから配慮不要)」と解釈できるような内容は含まれておらず、従ってそのような考え方は勘違いか拡大解釈であると以前に申し上げました。ですから、あえて当該ガイドラインを根拠として同様の主張をされるのならば「『2012年の映画』のように明確に指定された時点も経年とともに(一部の)読者にとって分かりにくくなる」という結論になると考えました。が、それはマクガイアさんの本意でないことは承知しましたので、よろしければ先に書いた通りこの件については終了としたく思います。
なお、まとめに関して一点確認したいのですが、「理由>反論>再反論>…」の形式とは、改名賛成側が「理由」をまとめ、続いて反対側が「反論」をまとめ、さらに賛成側が「再反論」をまとめる(以下続く)、というやり方かと想像していますが、間違いないでしょうか。もしその通りなら、このやり方ではただ単に今までの議論を(若干形を変えたのみで)繰り返すことになるだけで、ここまで長くなった議論においてはまとめの効果は少ないのではないかと思います。また「理由」のまとめが投稿された後に「反論」のまとめが投稿され、そのまた後に「再反論」のまとめ……となると時間も相応にかかりますので、その意味でも双方がそれぞれに意見をまとめる方法のほうがよいと思い、改めて提案する次第です。お互いそれぞれの論点をきちんと盛り込んでまとめれば、中立性の点でも問題はないでしょう。私が最初にコメント依頼を提案してからすでに1か月経過しており、またマクガイアさんもお忙しいご様子で、さらに議論を続けるのはご負担でしょうから、新しい方々に議論をお任せするできるような態勢が早いうちに整うほうがよいのではと思います。繰り返しになりますが、どうかご協力をお願いします。--Yasu会話2012年12月2日 (日) 15:55 (UTC)

should と must の違いって高校入試レベルなんですけど……。そして私は、「「大多数の記事で採用されている」方法であるからといって、それが最良のものである」などとは一言も申し上げていません。

繰り返しになりますがWPは百科事典を作るためのプロジェクトですので、分かり易さを求めるということは最も根本的な目標です。したがって全ての記事は分かり易さを求めて執筆されており、多くの記事で採用されて異論も無い方法というのは分かり易い記事となっているはずです。言い換えればWPというプロジェクトの本質からして「大多数の記事で採用されている記事が分かり難い方法である」という状況は極めてイレギュラーな異常事態・例外なのです。もちろんどのような場合にも例外というものはありますので、今回が例外に該当するとご主張されるのは自由です。しかし、今回が例外に該当するということを説明する義務は例外だと主張する側にあり、その説明がなされないのであれば、「WP本来の状態を維持している」と考えるのが妥当です。

あなたの主張はずっとそうなのですが、0ではない(あるいは100ではない)可能性の存在を指摘するばかりで、その「0ではない可能性の高さ」に対する根拠が全くありません。元が人間の思考である限りどんな可能性も0ではなく、「いかにその可能性が高いか」という根拠の無い「可能性があるというだけの指摘」はナンセンスなんです。

なるほど。あなたの読解力に対する私の想定が高すぎた様です。すいませんでした。

いや、繰り返さなような形で簡潔にまとめましょうよ(^^;)。最初に示した通り、私は「改名理由 > 反論 > 再反論 > 再々反論」までで止めるつもりですよ。現状に対して変える理由から始まり、お互いの発言回数を平等にするということで「改名理由 > 反論 > 再反論 > 再々反論」と言う形にしましたが、なんなら「改名理由 > 反論 > 再反論 > 再々反論 > 再々々反論」と言う形にしても構いませんよ。私の方が発言回数が少なくなり不利にはなりますけど、まあ2回あれば十分な気はしますし。はっきり言ってしまうとあなたの発言は「一見しただけでは正しそうな詭弁」が多い(例えば部分否定を全否定にすり替えるなど)と私は捉えていますので、お互いの論点をまとめるという方法をとると私はあなたの発言の問題点を逐一指摘せねばならず、とてもとても負担が大きいのですよ。時間については既にここまで掛かっていますし、今更考えても仕方ないでしょう。私の時間や負担を気遣って頂けるのでしたら、あなたが反対賛成意見を取り下げて頂ければ瞬時に解決することです (^^)。--マクガイア会話) 2012年12月3日 (月) 14:47 (UTC) 一部修正--マクガイア会話2012年12月8日 (土) 12:26 (UTC)

まず、節を分けていただきありがとうございます。これで我々の議論以外の部分がすっきり見やすくなったと思います。しかしながら、とても長い議論になっているのでお忘れになっているのかもしれませんが、本来この議論は記事名を変更すべきではないかという提案であり、私はそれに賛成する立場から意見をしております。従って、私による「反対意見」というご発言や節名は、実態とは全く逆であり混乱を招きますので、これについてはぜひ訂正のほどお願いをしておきます。あるいは、お許しいただけるのでしたら節名だけでも私のほうで修正したいと思いますので、よろしくご配慮ください。
さて本題に戻りまして、大多数の記事がそうなっているのは「読者にとっての分かりやすさ」ではなく、たとえば「編集者の都合」を優先した結果であるかもしれない、と以前に指摘しました。繰り返しになりますが、ただ単に「そういう記事のほうが多い」からというだけでは、「読者にとって分かりやすい」ことの証明にはなりません。私の意見が「0ではない可能性の高さ」の根拠を欠くとおっしゃいますが、私にしてみればマクガイアさんのご意見も同様で、お言葉を借りるなら「100である可能性の高さ」の根拠がマクガイアさんのご意見からは見えてこないのです。そして、義務うんぬんということを言うなら、「るろうに剣心 (実写映画)」のほうが優れている理由として「記事内容が実写/アニメの区分を軸として記述されている」ことを挙げているのはマクガイアさんのほうですので、これを論点とするならば、私としてはむしろマクガイアさんのほうに「実写/アニメの区分を軸とするほうが分かりやすい」ことを(具体的な根拠をもって)実証する義務があると考えております。
また、まとめに関して、私が提案しているのは「お互いの論点をまとめる」のではなく「互いに自分の意見の論点をまとめる」というやり方です。その中で相手の意見内容に踏み込むこともあるでしょうが、“まとめ”なのですから問題点を逐一指摘する必要はありません。正直に申し上げますと、「繰り返さないような形でまとめ」るのは、これまでのやり取りから判断して非常に難しいと考えています。そもそもマクガイアさんが以前おっしゃっていた「論点がずらされる」という懸念は、「理由>反論>再反論>…」のやり方のほうが起こりやすいのではと思うのですが。
最後に、私が“反対意見”(これは最初に申し上げた通り、賛成意見とお呼びいただきたいと思います)を取り下げれば解決するとのことですが、やはり長期間の議論の間にお忘れになっていらっしゃるのでしょうか、提案者の Purposefree さんを含めますと改名に賛成の意見は3名おり、対して明確な反対意見は(現状維持寄りのコメント1件を除けば)マクガイアさんただお一人であるということを指摘しておきます。従いまして、むしろマクガイアさんが反対を撤回してくださることが最も円満な解決法というのが正しい現状認識ということです。また、マクガイアさんは以前に「(改名に)賛成意見が集まるなら強く反対はしない」という趣旨のご発言をされていることも付言しておきます。もっとも、3票だけでは「集まった」とはいえないというお考えなのかもしれませんし、今からそのご発言自体を撤回されるというのでしたら、それもマクガイアさんのご自由ではありますが。--Yasu会話2012年12月4日 (火) 16:05 (UTC)
その辺りは気を使っていたつもりだったのですが、整理作業で混乱してつい「現状への反対」と自分本位になってしまいました。この点に関しては完全に私のミスです。すいません。節名と私の発言に関しては私の方で訂正致しましたが、他者の発言をいじるのはなにかと問題がありますし、お手数ではありますがYasuさんの発言に関してはご自身でお願い致します。
もう一度繰り返しますが、「分かり易さ」というのはWPというプロジェクトの根本であり、原則として守られなければならないもの、言い換えれば守られていて当然のものです。つまり、WPが正常な状態であれば記事は分かり易さを求めており、分かり易さが求められていない記事というのは異常事態なのです。その上で私は問題視する程の異常状態は無い概ね正常な状態であると考えているのですから、異常状態が無いことを証明しろという悪魔の証明を求められても対応できかねます。分かり易さを求めるプロジェクトにおいて大多数の記事で採用されている方法は、そこに異常事態があることを説明できない限り、分かり易い方法であると考えるのが妥当です。ですから「たとえば『編集者の都合』を優先した結果であるかもしれない」という異常事態が原因であるというのであれば、その可能性の高さを示せとと申し上げております。
なお、前回「元が人間の思考である限りどんな可能性も0ではなく」と申し上げている通りどんなに圧倒的な場合であっても100であるなんて事は有り得ないと私は考えますし、そもそもとして「あなたが100であることを求めるのがおかしい」と申し上げているのですから、「可能性の高さ」を主張することはあっても「100である可能性の高さ」なんてものを私が主張することはありません。
最初から回数を区切ってるのですから繰り返しようが無いかと。「論点がずらされる」のはどのような方法であろうとも絶対に起きると考えます。したがってそのズレが分かり易くなる「理由 > 反論 > 再反論 > …」のやり方がよいと申し上げています。
モンゴルの白い虎さんもOtohakusyuさんも私とは異なり積極的に「(実写映画) の支持」はされていませんが、「現状のままでの保留」というご意見ですので「現時点での改名には反対」と捉えて問題ないかと。また賛成意見と呼べるものはYasuさんのみでしょう。提案者に関しては意図的に議論を放棄している様で放言としか言いようがありませんし、Bugandhoneyさんに関しては意見の前提が間違っていることを指摘済みです。前回「時間については既にここまで掛かっていますし、今更考えても仕方ないでしょう。」と申し上げているのは見落とされたのでしょうか。
しかしこれだけ議論を重ねても、「2012年の映画」の優位性を示すようなご意見が皆無ってのは何なんでしょうかね……。--マクガイア会話2012年12月8日 (土) 12:26 (UTC)
まずは、反対→賛成への修正ありがとうございました。
本題に入って、以前から申し上げている通り「分かりやすさ」が「守られなければならないもの」であることにはまったく同意します。が、ある特定の分類方法を採っている記事がたまたま多数派だからといって、これが守られているに違いないと根拠なしに考えることはそれこそ飛躍でしょう。多数派ではない記事においても、「実写/アニメ」の軸ではない区分方法が機能していないわけではない(分かりやすくないというわけではない)のですから、何が“正常”とか“異常”とかいうこと自体がおかしなことのように思えます。
まとめについて、私としては具体的に以下のような形式を想定していますので参考になさってください。
改名提案
(提案内容)
提案に 賛成 提案に 反対
(ここにYasuが賛成意見をまとめる) (ここにマクガイアさんが反対意見をまとめる)
実質的にはすでにマクガイアさんと私の2人による議論になっている以上、我々2人でまとめるならば、回数を区切る区切らないにかかわらず「繰り返し」になることは明らかだと思います。論点がずらされる云々という点も、上記のようにお互い1回でまとめてしまえば起こりにくいはずです。また、これなら時間もかからずに速やかに次の段階に進むことができます。「時間については……今更考えても仕方ない」、とのことですが、早いに越したことはないでしょう(正直に申し上げて、これ以上引き延ばす必要もないと思います)。あとは新たに議論に参加してくださる方がこれを読んで、どちらの意見に分があるか判断していただくのみです。
最後に、賛否について票数だけで判断しないというのであれば、現状維持というご意見の方々もその後は一度も発言されていませんので、先に述べた通り実質的には我々2人、1対1の議論ということになるでしょう。改名賛成/現状維持にかかわらず、今からでも付け加えたいことがあるという方がいらっしゃれば、ぜひご意見をいただきたいところです。議論内容だけでなくまとめの方法についてもご提案があれば承りたく思います。--Yasu会話2012年12月8日 (土) 14:56 (UTC)
「分かり易い記事を書くこと」を目的としたコミュニティにおいて、ある特定の分類方法を採っている記事が多数派なのであれば、(それを否定する根拠が無い限りにおいて)その分類方法が「分かり易い分類方法である」と捉えるのが妥当です。なぜなら、もしその分類方法が分かり易い分類方法ではないのであれば、それは大多数の記事がコミュニティとは異なる目的によって執筆されているということであり、つまりは執筆者の大多数が目的外利用者であるということになってしまい、コミュニティそのものを否定することになるからです。「コミュニティの参加者はコミュニティの目的のために活動している」という信頼がなければコミュニティは成り立ちません。あなたのように「コミュニティの目的通りに活動しているという証拠が無い限りは、コミュニティの参加者がコミュニティの目的とは異なる目的のために活動しているかもしれない」と疑うことは、コミュニティの参加者を基本として信頼しないということです。あなたのご主張は「疑わしきを罰せず」なんて全く論外で、「疑わしきは罰する」どころか「疑わしくない証拠が無い限りは有罪」という魔女裁判の様なご主張なのですよ。
えーっと、「これまでのまとめ」を作るのですから、たとえ1回でまとめる形にしようともこれまでの繰り返しになるのは当たり前です。前述の通り、どのような形であろうとも論点がずらされると考えていますので、1回でまとめると言う形はあなたの矛盾点を逐一私が指摘せねばならず、私の手間があなたの2倍以上になります。新たに議論に参加してくださる方に、これまでの議論がどのようなものであったのかを理解して頂くために、ズレが分かり易くなる「理由 > 反論 > 再反論 > …」のやり方がベターです。別にわざわざ引き延ばすつもりなんかは全くありませんが今更時間について考えるだけ無駄だと私は考えていますので、この議論で時間節約だけを目的として何かを譲歩するということは全く考えていません。
賛否について票数だけで判断するのであれば3対3で改名すべきという合意は得られておらず、現状維持すべきです。また票数だけで判断しない場合においても、Otohakusyuさんのご意見は誰からも反論が無い状態ですので普通に生きていますよね。--マクガイア会話2012年12月9日 (日) 05:07 (UTC)
やはり、飛躍(または誤解)があるようですね。「分かりやすさ」は目指すべき目標ではありますが、ウィキペディアの記事は常に分かりやすくなくてはならないということはありません。方針では完璧でない記事も認められています。ですから、たまたまある記事が分かりやすい内容でなかったとしても、それがただちに目的外利用であるということにはなりません。ですから、「コミュニティの目的通りに活動しているという証拠が無い限りは、コミュニティの参加者がコミュニティの目的とは異なる目的のために活動しているかもしれない」などという結論自体が飛躍であり、また私自身そのような趣旨で発言した覚えはないことも申し上げておきます。そもそもマクガイアさんのご意見は「ウィキペディアの記事は分かりやすくあるべき」という面からのみ論じられたものであり、その他の要素について考慮されているようには見受けられません。
……と、すでに記事名をどうすべきかという話し合いからは大きくかけ離れた議論になっているため、私としても早くまとめにかかりたいと思っていますので改めて説明します。以前にも申し上げていますように、こちらが提案しているやり方では、あくまで自分の意見をまとめるのですから相手の矛盾点を逐一指摘する必要はありません。しかし、どうしても逐一指摘する必要があるならば、1回でまとめようが「理由>反論>再反論>…」と複数回に分けようが同じことではありませんか。むしろ指摘するのが複数回になる分、こちらのほうがかえって手間は増えるともいえます。そもそもマクガイアさんは以前に「繰り返さない形でまとめましょう」とおっしゃっていたのに、今では「これまでの繰り返しになるのは当たり前」とご意見が変わっていたり、また「その(=私の提案する)やり方では論点がずらされる」というご意見の後で「どのような形であろうとも論点がずらされる」となったり、この点については失礼ながらご意見に一貫性が感じられません。従って、どうしても「理由>反論>再反論>…」の形式にするべき理由が明確ではなく、とても賛同はできかねます。
そして、落ち着いて数えていただきたいのですが、「票数だけで判断」するのであれば、 賛成 は2票(提案者を加えると3票)、 反対 はマクガイアさんの1票のみです。また、Otohakusyuさんのコメントに対して反論がないことについては、単にこのご意見の中に新たな論点がないからではないかと想像します。議論の趣旨に対する賛否は全体として判断すべきもので、個々の意見にすべて反論をつけなければいけない、ということはないと思いますが。--Yasu会話2012年12月9日 (日) 16:55 (UTC)
いいえ。百科事典である以上、常に分かり易くなければなりません。ただし、分かり易さというのはある程度主観的なものですから、執筆者としては分かり易い記事としたつもりではあっても結果として大多数の人からは分かり難い記事となってしまうことはもちろんあるでしょう(もっともこうしたものは自然と淘汰されていくということを前提としたのがwikiというシステムでしょうが)。このような形で「たまたまある記事が分かりやすい内容でなかったとしても」 、別に私はこうしたものを目的外利用とは言いません(もっとも今回話題となっている分類方法に関しては、膨大な数の記事で採用されている方法ですので「たまたま」とするにはあまりに無理がありますが)
しかしあなたの仮定は「分かり易さ以外を目的に執筆されているかもしれない」というものですので、それが実際になされているのであれば明確な目的外利用です。そして「WPの目的である分かり易さ」を目的として記事を書いていることが証明されない限りは、分かり易さを目的として記事が書かれているとは限らないとおっしゃっているのですから、「コミュニティの目的通りに活動しているという証拠が無い限りは、コミュニティの参加者がコミュニティの目的とは異なる目的のために活動しているかもしれない」という主張に他なりません。
はい、「ウィキペディアの記事は分かりやすくあるべき」という点からのみ論じております。これは簡単な話で、百科事典を作るというWPの根幹目的の一部である「分かり易さ」に優先されるものは原則として無いと考えるからです(技術的なこと等例外はもちろんあるでしょうが)。
いや、以前指摘した通りあなたの発言は「一見しただけでは正しそうな詭弁」が多いため逐一指摘する必要があるのですよ……。相手があなたでなければ逐一指定する必要も無く、ご提示の方法でも問題なかったでしょうね。全く同じではありませんね。あなたの矛盾点がどこかを私がまとめなくて済みますので、私の手間は確実に半分以下になります。回数と手間は必ずしも比例するものではありません。逐一前提を説明する手間が無いというのは回数が増えることによる手間を補ってなお余りあるものです。繰り返さないという点については、「理由 > 反論 > 再反論 > …」という方法を延々と続けるという意味でおっしゃっていると解釈していましたので、「回数を区切るから繰り返さない」と申し上げました。しかし、これまでの議論のまとめを作るのですからその内容がこれまでの議論の(要約された)繰り返しになるのは当たり前です。
「論点がずらされる」という点に着いては私の説明不足でした、すいません。途中で私の考えが変わっています。当初は論点が明確となる「理由 > 反論 > 再反論 > …」と言う形であればいくらなんでも論点はずらされないだろうと考えていましたが、議論を重ねる中でその考えが甘いものであると痛感致しました。それでもなお、ずれた場合にもズレが分かり易いという点で「理由 > 反論 > 再反論 > …」という方法の方が良いと申し上げています。
えーっと。「現状維持」を明言されていても、 反対 アイコンが無ければ反対ではないと……。でしたら是非とも現状維持したままで改名する方法をご提示ください。あなたの想像はどうでもいいのですが、「沈黙は同意」というのは議論での基本中の基本かと。--マクガイア会話2012年12月10日 (月) 12:56 (UTC)
ウィキペディアの記事は(常識として考えて)分かりやすくあるべきですが、それ以外にも守るべき事柄はあります。分かりやすさのみがこれらの事柄に優先するということはあり得ません。従って、たまたまある記事が分かりやすさを第一に追求したものでなくとも、それは他の事柄によるのかもしれません。そうした事情を勘案せずに「分かりやすさを目的としていなければ目的外利用」というのは飛躍である、と申し上げているわけです。しかし、このように本来の議論の本筋ではないことでこれ以上やり取りを続ける必要はないと思いますので、このあたりでそろそろ打ち切って、本格的にまとめの準備をしたいのですが、何度も書いていますように、私の提案する方法は「各自が自分の意見をまとめる」というものです。相手の意見の矛盾点をいちいち指摘するのが負担だということであれば、相手の意見にいっさい踏み込まずに、「実写映画」/「2012年の映画」のほうが優れている理由のみを語ればよいでしょう。そもそも新たに議論に参加する方々のためには、「論点のずれ」よりも「論点そのもの」のほうを明確にすべきであると思いますので、その意味でも改めて「各自が自分の意見をまとめる」方法を推したいと考えています。
なお、最終段については、 コメント賛否を付けずにコメントを書き込む際に使用するものですから、反対意見としてカウントされるためには本来 反対 を使うべきでしょう。もちろん、Otohakusyuさんが今からでもテンプレートを変更されるなら、その場合は当然、反対に1票追加と見なします。「沈黙は同意」云々に関しては、プロジェクト‐ノート:映画#「他項目と同じタイトルの作品の場合」の改訂提案の議論で述べましたのでそちらをご参照ください。--Yasu会話2012年12月10日 (月) 16:10 (UTC)
Yasuさんから指摘がありましたが、私の場合、単に意見を書き込まなくなっただけで(今のやり取りに参加することに意義が見出せないから)、別にマクガイアさんとのやり取りで意見が変わったわけでもなくて、(映画)か(2012年の映画)で曖昧さ回避するのがよいと思います。ちなみに、ノート:るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-#実写映画の分割で(映画)を推していた人たちも、意見を書き込まなくなってますけど、その後意見が変わったのかどうかはわかりません。--Bugandhoney会話2012年12月10日 (月) 14:09 (UTC)

(インデント戻します)長期間議論に参加できず、たいへん申し訳ありませんでした。私事で恐縮ですが、実生活のほうで少々変化があり、ウィキペディアの編集のために割ける時間が急減しました。今後も、残念ながら継続的な議論に加われる見込みがありません。今回の改名提案は議論停止から1か月経過のため失効となったようですが、もし改めて議論が起こることがありましても、関連するプロジェクト‐ノート:映画#「他項目と同じタイトルの作品の場合」の改訂提案を含め、これ以上の議論参加はできかねることご理解いただければと思います。あれこれと提案をしておきながら議論をまとめられなかったばかりか、それを放棄する形になってしまいますこと、重ねてお詫びいたします。--Yasu会話2013年1月25日 (金) 15:45 (UTC)