トライローキャ・ビクラム・シャハ

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トライローキャ・ビクラム・シャハ
ネパール王太子
トライローキャ・ビクラム・シャハ

出生 (1847-11-30) 1847年11月30日
ネパール王国 カトマンズ ハヌマン・ドーカ宮殿
死去 (1878-03-30) 1878年3月30日(30歳没)
配偶者 ラリト・ラジェシュワリー・ラージャ・ラクシュミー・デビー
子女 プリトビ・ビール・ビクラム・シャハ
父親 スレンドラ・ビクラム・シャハ
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トライローキャ・ビクラム・シャハ(Trailokya Bikram Shah、1847年11月30日 - 1878年3月30日)は、ネパール王国の王太子。第6代君主スレンドラ・ビクラム・シャハの息子、第7代君主プリトビ・ビール・ビクラム・シャハの父にあたる。

生涯[編集]

1847年11月30日、トライローキャ・ビクラム・シャハはネパール王スレンドラ・ビクラム・シャハの息子として、カトマンズハヌマン・ドーカ宮殿で生まれた[1]

1877年、強力な首相ジャンガ・バハドゥル・ラナが死亡すると、トライローキャはその息子ジャガット・ジャンガ・ラナを擁立し、王権の奪還を狙った[2]。だが、計画を察知したジャンガ・バハドゥルの末弟ディール・シャムシェル・ラナにより、王太子とジャガット・ジャンガの留守中に、ラノッディープ・シンハ・ラナが首相の地位に就けられた[3]

計画に失敗したトライローキャはその後、弟ナレンドラ・ビクラム・シャハ、王族、タパ、パンデ、バスネット、ビシュタなど貴族らと組み、ディール・シャムシェルの追い落としを計画した[3]

1878年3月30日、トライローキャはカトマンズのハヌマン・ドーカ宮殿で急死した[1][3]。ディール・シャムシェルによって暗殺されたという説もある[3]

トライローキャが急死したのち、ディール・シャムシェルはナレンドラ王子を追放、味方した大勢の貴族を殺害、追放、財産没収し、絶大な権力を手にした[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b Nepal 8
  2. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.563
  3. ^ a b c d 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.564
  4. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、pp.564-565

参考文献[編集]

  • 佐伯和彦『世界歴史叢書 ネパール全史』明石書店、2003年。 

関連項目[編集]