ストロベリー・フィールド

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ストロベリー・フィールド
Strawberry Field
ビートルズ・ファンの落書きで埋め尽くされた門扉(2002年撮影)
地図
概要
所在地 イングランドの旗 イングランドリヴァプール市ウールトン英語版、ビーコンズフィールド通り[1]
座標 北緯53度22分49秒 西経2度53分2秒 / 北緯53.38028度 西経2.88389度 / 53.38028; -2.88389座標: 北緯53度22分49秒 西経2度53分2秒 / 北緯53.38028度 西経2.88389度 / 53.38028; -2.88389
所有者 救世軍
著名な点ストロベリー・フィールズ・フォーエバー
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ストロベリー・フィールド(英語: Strawberry Field)は、リヴァプール郊外のウールトン英語版の観光名所で、救世軍の所有地である。この家は、1936年から2005年まで孤児院として使用されていた。この家と敷地はビクトリア時代に個人の屋敷として建てられたものだったが、1930年代に救世軍に買い取られた。1973年に構造上の問題により家は取り壊され、用途に合ったものに建て直された。孤児院としての運用が終わった後、この施設は他の用途で救世軍が引き続き使用している。

この場所は、ビートルズが1967年に発表した「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」で世界的な名声を博した。歌の作者であるジョン・レノンはこの近くで育ち、子ども時代はこの施設の敷地内で遊んでいた。やがて、ビーコンズフィールド・ロードの古い赤いペンキを塗られた門扉は、ビートルズのファンの巡礼の場所となった。2019年には、ストロベリー・フィールドは、その歴史、カフェ、ショップに関する展示と、特別な教育を必要とする若者向けのトレーニングセンターを含めて初めて一般公開された。

門扉は、2000年5月11日に伝えられているところでは、配送車に乗った二人の男により盗難にあった。門扉は骨董品屋に売られたが、業者はまさかそれがストロベリー・フィールドから盗まれた本物とは思ってもいなかった。骨董品屋は、要求に応じて門扉を警察に返却。門扉は再びストロベリー・フィールドの元の場所に戻されている。

歴史[編集]

ゴシック復古調の大邸宅であったストロベリー・フィールドに関する最初期の言及は1870年に遡るもので、当時は富裕な海運界の大立者ジョージ・ウォーレンが所有していた。1891年陸地測量地図英語版では、施設名が「ストロベリー・フィール」と複数形で示されているが、1905年の調査では変更されていた。1912年に別の富裕な商人アレクサンダー・C・ミッチェルへ譲渡され、その未亡人が1934年に地所を救世軍へ売却した。1936年7月7日、救世軍創設者ウィリアム・ブースの娘であるエヴァンジェリン・ブース英語版大将の臨席の下で、レディ・ベイツが児童施設としての開場を行った。女子児童40名までの対応能力を備えており、1950年代には5歳未満の男子児童が招き入れられた。後には、さらに年長の男子もまた住人となった。

ビートルズ[編集]

1891年の陸地測量地図(2500分の1)上に示された、「ストロベリー・フィールズ」

当家の名は1967年ザ・ビートルズがシングル「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」を発表したことで有名になり、この曲を書いたのは、近所のメンローブ街251番地で育ったジョン・レノンであった。ストロベリー・フィールドが位置するビーコンズフィールド通りは、メンローブ街からの脇道であった。少年時代のレノンにとって愉しみの一つが、夏毎にストロベリー・フィールドの地所で開かれる庭園パーティーだった。レノンの伯母ミミは、「救世軍の楽隊英語版が演奏を始めるところを私たちが耳にすると、すぐにジョンは飛び上がって、『ミミ、行こうよ。遅れてしまうよ』と叫んだものです」と回想した[2]

レノンは度々、ストロベリー・フィールドの塀をよじ登っては、救世軍の屋敷にいる子供たちと遊んでいた。持ち主側は彼の振る舞いについて学校に苦情を出したものの、無駄に終わった[要出典]。遂には彼を、同居の伯母ミミのところへ連れて行った。彼女は、そのような行いを続ければ、彼らが貴方を吊るしてしまう(hang)と言って聞かせた。それでも彼は行動を続け、「思いわずらう(get hung around)こともない、永遠のストロベリー・フィールズ」という歌詞となった[要出典]

継承[編集]

ストロベリー・フィールドの門扉

ストロベリー・フィールドは、ニコラウス・ペヴズナー1969年に南ランカシャーで行った建物調査によって認知された[3]。しかしその頃には、建物が目的のためには不適当となってきていた。1973年には乾燥腐敗といった構造上の問題により、建物を取り壊し、特定目的のために建てられた児童施設に置き換える方が費用対効果が高いとされた。新たな施設は3棟の関連建築を備え、それぞれが12名の児童に対応できた[4]。建物に入るための私道入口はビーコンズフィールド通りに沿ってさらに西側へと移されたので、ストロベリー・フィールドの名を備えた門柱はもはや利用されなくなった。1970年代とそれ以降を通じて、使われなくなった入口とその門とが、世界中のビートルズ・ファンにとってのメッカとなった。その結果、門は明るい赤色の塗装を保たれた。色鮮やかな表札もまた維持された。

児童施設は2005年1月に閉鎖され、建物は救世軍が教会や祈祷用施設として用いた。入口を示す名高い門は、2011年5月に外されて複製に入れ替えられた[5]2019年9月に、救世軍は初めてストロベリー・フィールドを一般に開放し、地所の探策を訪問者に認めた[6]。地所では若年世代向けの特殊教育用トレーニングセンターと当地の来歴に捧げられた展示が一体となり、カフェやショップも備えられている[7]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Above and Beyond Productions (2021年1月). “ストロベリー・フィールド”. Google_ストリートビュー. Google. 2023年6月4日閲覧。
  2. ^ デイヴィス (上), pp. 125, 127.
  3. ^ Pevsner (1969).
  4. ^ Strawberry Fields in Liverpool - Home of the Beatles childhood.” (英語). www.bedand-breakfastliverpool.co.uk. 2020年4月18日閲覧。
  5. ^ “Beatles' Strawberry Fields gates removed” (英語). BBC News. (2011年5月10日). https://www.bbc.co.uk/news/uk-england-merseyside-13344102 2018年8月15日閲覧。 
  6. ^ ジョン・レノンゆかりの地「ストロベリー・フィールズ」、一般公開”. AFPBB News (2019年9月19日). 2023年6月10日閲覧。
  7. ^ Strawberry Field Forever - Restoration - Liverpool” (英語). www.strawberryfieldliverpool.com. 2020年4月18日閲覧。

参考文献[編集]

  • ハンター・デイヴィス『増補完全版 ビートルズ』 上巻、小笠原豊樹中田耕治(訳)、河出書房新社、2010年。ISBN 978-4309463353 
  • ハンター・デイヴィス『増補完全版 ビートルズ』 下巻、小笠原豊樹、中田耕治(訳)、河出書房新社、2010年。ISBN 978-4309463360 
    • (Davies, Hunter (2009) [1968]. The Beatles: The Only Ever Authorised Biography. Ebury Press. OCLC 645668675 )
  • Pevsner, Nikolaus (1969). South Lancashire (1st ed.). Penguin. OCLC 41749568 

外部リンク[編集]