ウィリアム・レッグ (第2代ダートマス伯爵)
イギリスの政治家 ウィリアム・レッグWilliam Legge | |
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Nathaniel Hone による肖像(1777年)。 | |
生年月日 | 1731年6月20日 |
没年月日 | 1801年7月15日(70歳没) |
死没地 | ブラックヒース (Blackheath)[1] |
出身校 | オックスフォード大学 |
配偶者 | フランシス・キャサリン |
親族 |
初代ダートマス伯爵ウィリアム・レッグ(祖父) ルイシャム子爵ジョージ・レッグ(父) |
在任期間 | 1765年7月20日 - 1766年8月16日 |
国王 | ジョージ3世 |
在任期間 | 1772年8月27日 - 1775年11月10日 |
国王 | ジョージ3世 |
第2代ダートマス伯爵ウィリアム・レッグ(William Legge 2nd Earl of Dartmouth PC, FRS[2]、1731年6月20日 - 1801年7月15日)は、アメリカ合衆国の独立前後の時期に、閣僚級の要職を歴任したグレートブリテン王国の政治家。1732年から1750年までは、ルイシャム子爵 (Viscount Lewisham) として知られていた。
出自[編集]
父は、初代ダートマス伯爵ウィリアム・レッグの息子で、1732年に没したルイシャム子爵ジョージ・レッグであった。母エリザベスは、第3代準男爵サー・アーサー・ケイの娘であった[3]。ウェストミンスター・スクールに学び[1]、1748年にオックスフォード大学トリニティ・カレッジ (Trinity College, Oxford) に入学し[4]、1750年に祖父から伯爵位を相続した。
政治経験[編集]
伯爵となったダートマス卿は、1754年に貴族院議員となった[1]。1764年には、トーマス・ホーウェイス (Thomas Haweis) の提案を受けて、元奴隷商人のジョン・ニュートンをチェスター主教 (Bishop of Chester) へ推薦し、ニュートンが聖公会の聖職者として受け入れられる途を開いた。
ダートマス卿は、1765年から1766年までロッキンガム侯の内閣で商務大臣[5]を務めた後、1772年から1775年までノース卿の内閣で植民地大臣 (Secretary of State for the Colonies) 兼商務大臣を務めた[1]。
1772年、イギリス領アメリカ北部インディアン関連局長官 (the Superintendent of Northern Indian Affairs in America) であった初代準男爵サー・ウィリアム・ジョンソンへの書簡の中で、ダートマス卿は、インディアンとの交易について新たな規則の導入は本国政府として得策ではないことを示唆した。ダートマス卿はジョンソンの主張に理解を示しながらも、どのような提案であれ、新しい規則は植民地側の同意を得られないだろうと述べた。
慈善活動[編集]
ダートマス卿は、インディアンに教育を与え、キリスト教に改宗させることを目的としてエリエザー・ウィーロック (Eleazar Wheelock) がコネチカット州レバノン (Lebanon) に設立しようとしていたインディアン慈善学校 (the Indian Charity School) に資金を提供するイングランドの信託財団に多額の寄付をするとともに、その理事として中心的な役割を果たした。後にウィーロックは、ニューハンプシャー州ハノーバーにダートマス大学を創設したが、これは、ダートマス卿を讃える形で命名することが、一層の経済的支援につながると期待してのことであった。しかし、ダートマス卿は大学への資金提供は拒んだ。ダートマス卿はロンドンで、孤児などの養育にあたる新たな慈善団体である捨子養育院 (Foundling Hospital) を支援した。ダートマス卿は1755年から、死去するまで、この団体の副会長の地位にあった。有名な画家であるサー・ジョシュア・レノルズは、ダートマス卿の肖像画を作成し、ホスピタルに寄贈した。この肖像画は現在もファウンドリング・ホスピタルが所蔵し、ロンドンの捨て子博物館 (Foundling Museum) に展示されている。ダートマス卿は、1754年11月7日に王立協会会員として承認された[6]。
家族[編集]
ダートマス卿は、1755年にサー・チャールズ・ガウンター・ニコル (Sir Charles Gounter Nicoll) の娘フランシス・キャサリン (Frances Catherine) と結婚した。息子たちのうち、六男アーサー (Sir Arthur Kaye Legge) は海軍提督、七男エドワード (Edward Legge) はオックスフォード主教 (Bishop of Oxford) となり、いずれも著名な人物となった。娘のシャーロット (Charlotte) は、初代フェバーシャム男爵チャールズ・ダンコム (Charles Duncombe, 1st Baron Feversham) に嫁いだ。ダートマス卿は、1801年7月に、70歳で死去し、長男のジョージが跡を継いだ。未亡人となった伯爵夫人が死去したのは、1805年7月であった。サンドウェル・バレー (Sandwell Valley) にあった一家の屋敷サンドウェル・ホール (Sandwell Hall) は、その後、解体された。
伝記[編集]
- R.H. Nichols and F A. Wray, The History of the Foundling Hospital (London: Oxford University Press, 1935).
- 「ブラック・カントリー・メソジズム (Black Country Methodism)」と称されたメソジスト運動におけるダートマス卿の位置づけについては、米国のメソジスト監督教会の監督であったフランシス・アズベリ (Francis Asbury) の母エリザ・アズベリ (Eliza Asbury) に関するデイヴィッド・ハラム (David Hallam) の著書『Eliza Asbury』に言及がある。
出典・脚注[編集]
- ^ a b c d “William Legge, 2nd earl of Dartmouth”. Britannica. 2013年11月4日閲覧。
- ^ 「IPC」は、枢密院議員、「FRS」は、王立協会フェローであることを示す。
- ^ Barker, George Fisher Russell (1892). Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 32. London: Smith, Elder & Co. pp. 417–419. . In
- ^ Hopkins, Clare (2005), Trinity: 450 years of an Oxford college community (2007 reprint ed.), Oxford, ISBN 978-0-19-951896-8
- ^ 現在のen:Secretary of State for Business, Innovation and Skills の起源にあたる President of the Board of Trade のこと。First Lord of Trade とも称される。
- ^ “Lists of Royal Society Fellows”. Royal Society. 2006年12月15日閲覧。
外部リンク[編集]
公職 | ||
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先代 初代ヒルズバラ伯爵 |
商務大臣 1765年 – 1766年 |
次代 初代ヒルズバラ伯爵 |
先代 初代ヒルズバラ伯爵 |
植民地大臣 1772年 – 1775年 |
次代 ジョージ・ジャーメイン卿 |
商務大臣 1772年 – 1775年 | ||
先代 グラフトン公 |
王璽尚書 1775年 – 1782年 |
次代 グラフトン公 |
先代 第4代ラトランド公爵 |
家政長官 1783年 |
次代 第3代シャンドス公爵 |
グレートブリテンの爵位 | ||
先代 ウィリアム・レッグ |
第2代ダートマス伯爵 1750年 – 1801年 |
次代 ジョージ・レッグ |
第3代ダートマス男爵 (繰上勅書により生前に爵位譲る) 1750年 – 1801年 |