アンヘル・コミッツォ

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アンヘル・コミッツォ
名前
本名 アンヘル・ダビド・コミッツォ・レイバ
ラテン文字 Ángel David Comizzo Leiva
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 (1962-04-27) 1962年4月27日(62歳)
出身地 サンタフェ州レコンキスタ
身長 185cm
体重 78kg
選手情報
ポジション GK
ユース
アルゼンチンの旗 ラシン・レコンキスタ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1982-1988 アルゼンチンの旗 タジェレス 77 (0)
1988-1993 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 130 (0)
1990-1991 メキシコの旗 ティグレス(loan) 35 (0)
1993 コロンビアの旗 アメリカ・デ・カリ 10 (0)
1993-1996 アルゼンチンの旗 バンフィエルド 98 (0)
1996-1999 メキシコの旗 レオン 76 (0)
1999-2001 メキシコの旗 モレリア 69 (0)
2002-2003 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 50 (0)
2003-2004 アルゼンチンの旗 アトレティコ・ラファエラ 24 (0)
監督歴
2008 アルゼンチンの旗 タジェレス
2010 メキシコの旗 ケレタロ
2012 メキシコの旗 ケレタロ
2013-2014 ペルーの旗 ウニベルシタリオ・デポルテス
2014 メキシコの旗 モレリア
2016 ペルーの旗 ウニベルシダ・セサル・バジェホ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アンヘル・ダビド・コミッツォ・レイバスペイン語: Ángel David Comizzo Leiva1962年4月27日 - )は、アルゼンチンの元サッカー選手、現サッカー指導者。選手時代のポジションはGK

クラブ歴[編集]

1982年にプリメーラ・ディビシオンCAタジェレスで選手となった。1988年にCAリーベル・プレートに移籍。1990年から翌年にかけてはUANLティグレスに期限付き移籍した。

1993年にアメリカ・デ・カリに移籍したが、パフォーマンスが良くなかったため、アルゼンチンに帰国、CAバンフィエルドに加入した。

1996年にクラブ・レオンに完全移籍。1997年のリーグファイナルでは後半アディショナルタイムにクルス・アスルカルロス・エルモシージョの顔面を蹴りPKとなった。試合自体は血を拭くかどうか尋ねた審判を無視してPKを蹴ったエルモシージョによってクルス・アスルの勝利に終わった。しかしレオンは5年後の2002年に降格し、2012年まで昇格する事すら叶わず、2013年にやっと優勝する事が出来た。他方のクルス・アスルも主要大会の決勝後半アディショナルタイムに悉く失点してタイトルを逃し続け、2013年にやっとコパ・メヒコで優勝、2014年にCONCACAFチャンピオンズリーグで優勝した。このためこの交錯は、血によって呪いがかかったとサッカーファンによって言われるようになり[1]、「コミッツォの呪い」として知られるようになった。

1999年にモナルカス・モレリアに移籍し、リーグ優勝。

2001年にリーベル・プレートに復帰。2003年にアトレティコ・デ・ラファエラに移籍し翌年引退した。

代表歴[編集]

1990 FIFAワールドカップネリー・プンピードが負傷したためにアルゼンチン代表に追加招集されたが、出場は無かった。

指導歴[編集]

2008年に古巣のタジェレスで監督業を始めた。2009年9月にカルロス・レイノソのアシスタントマネージャーとしてケレタロFCに加入。なお、レイノソはコミッツォの呪いの時に彼を指導していた監督である。最終的にレイノソの後任として監督に就任した。

参考文献[編集]

  1. ^ La maldición de Comizzo | VAVEL Mobile”. Vavel.com (2012年11月15日). 2013年6月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年12月30日閲覧。

外部リンク[編集]