本家末家論争

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本家末家論争(ほんけまつけろんそう)は、江戸時代大名(近世大名)における本家・分家関係にある大名家の家格をめぐる争い。中世の惣領と庶子の所領争いや、同じ時代でもお家騒動のような実利面はさほどなく、現代の価値観では瑣末とも思えるような身分的上下・対等という形式をめぐって争われたもので、家格を重視する江戸時代に特徴的な紛争であった。

概要[編集]

近世大名は例外なく長子相続制をとるが、家を継がせない子に所領の一部を割いて与え(分知)、江戸幕府に正式な大名として認めてもらうことは、近世初期にしばしば行なわれた。その場合、分家側は徳川将軍家の家臣になるため、本家の家臣ではないと言えることになるが、本家の側では何かと分家を卑下しようとした。独立した大名家を興した後、両者の家格意識の高揚によって、正嫡・本末関係が論じられた。本家より本家届書の提出がされている場合、その本分家関係が幕府に承認され、一般事項や官位昇進に際して本家の届出が必要であった。本分家関係が曖昧で不明確なために未提出であった場合や、本宗家の家格が低下した後、分家・別家に宗主権が遷移した場合、庶長子や養嗣子が廃嫡され別家した場合などで論争となった。この場合、幕府より別途朱印状が発給されていることや、国絵図作成の際に分家・支藩領知を含むか否か、または、軍役の負担などが論点となった。寛延2年(1749年)の伊達氏(仙台藩・宇和島藩)の争いが著名である。

本家・末家関係が論じられる大名家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 深井雅海『江戸城-本丸御殿と江戸幕府』(中公新書、 2008年)P12-13。なお、同書によれば徳川御三家はさらに奥の大広間溜まで刀を持ち込むことが出来た。

関連項目[編集]