撫順襲撃事件

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満州国時代の撫順炭鉱

撫順襲撃事件(ぶじゅんしゅうげきじけん)とは、1932年9月15日に起きた満洲国撫順市撫順炭鉱における匪賊紅槍会匪中国語版[1](大刀会匪)による放火日本人殺人事件[2][3]

楊柏堡事件[3][4]撫順炭鉱襲撃事件とも呼称される[5]

概要[編集]

日満議定書締結式(1932年9月15日)

1932年9月15日、日満議定書が締結され日本国は満州国を承認した。締結日の払暁から16日未明にかけて太刀で武装した匪賊の大軍が撫順炭鉱の楊柏堡、東郷、東が岡などの採炭所を襲撃、施設に火を放ち、日本人5人が殺害された[3][6][7]。事件では匪賊が楊柏堡採炭所の撫順医院看護手濱口友七郎や龍鳳採炭所職員の家族土田慎一郎は銃声とともに匪賊の「ヤー、ヤー」「ホイホイ、ホイホイ」などの叫び声を聞いている[2][8]。炭鉱事務所や社宅は匪賊によって焼き払われた[7]。殺害された犠牲者は目を繰り抜かれ、耳、鼻をそぎ落とされていたため、本人確認が困難であった[7]

事件の影響[編集]

李香蘭(1933年頃)

9月16日、撫順守備隊が報復に、ゲリラが通過したと見られる近隣の集落の住民を多数殺害した(平頂山事件)。

また、このゲリラは撫順の東方にある新賓鎮から来たとみられた[9][10]。そのため、上記平頂山事件とは別のものとして、日本軍は新賓鎮を襲撃し、そこでは周囲十数か村を含めた家々を放火、住民を見つけ次第そのほとんどを片端から殺害し、そのあたりでは、後々まで木々に針金が残っていたが、これは日本軍が殺害した住民の首を晒した跡だと言われ、また、この虐殺の結果、二つの万人坑が出来たともされる[11]

なお、この撫順炭鉱襲撃事件では李香蘭(山口淑子)の父に通敵の嫌疑がかけられ、これを契機に李香蘭一家は奉天に移住することになった[5][12]

出典[編集]

  1. ^ コトバンク紅槍会
  2. ^ a b 葛原恂 『負けてたまるか: 埋もれた小さな昭和史』 文芸社、2002年、18頁。 ISBN 483554773X
  3. ^ a b c ““反日プロパガンダ”に使われる「平頂山事件」の真実 語られぬ抗日ゲリラの撫順炭鉱襲撃”. 産経新聞: p. 2. (2015年9月13日). https://www.sankei.com/article/20150913-FTOEXINY4BMFBEXGNA2CW75DJY/2/ 
  4. ^ 葛原恂 『負けてたまるか: 埋もれた小さな昭和史』 文芸社、2002年、19頁。 ISBN 483554773X
  5. ^ a b 李香蘭略年譜 テレビ東京
  6. ^ 葛原恂 『負けてたまるか: 埋もれた小さな昭和史』 文芸社、2002年、18-19頁。 ISBN 483554773X
  7. ^ a b c ““反日プロパガンダ”に使われる「平頂山事件」の真実 語られぬ抗日ゲリラの撫順炭鉱襲撃”. 産経新聞: p. 4. (2015年9月13日). https://www.sankei.com/article/20150913-FTOEXINY4BMFBEXGNA2CW75DJY/4/ 
  8. ^ ““反日プロパガンダ”に使われる「平頂山事件」の真実 語られぬ抗日ゲリラの撫順炭鉱襲撃”. 産経新聞: p. 3. (2015年9月13日). https://www.sankei.com/article/20150913-FTOEXINY4BMFBEXGNA2CW75DJY/3/ 
  9. ^ Edward Hunter (1932年12月2日). Seattle Post-Intelligencer. Universal Service (Seattle) 
  10. ^ 井上 久士、川上 詩朗 編『平頂山事件資料集』柏書房、2012年9月1日、308頁。 
  11. ^ 本多勝一 (1971年9月13日). “(10)30ヶ所越す「万人坑」_中国の旅(第一部 平頂山事件)”. 朝日新聞 夕刊 
  12. ^ 山口淑子藤原作弥著『私の半生』23-29頁

関連項目[編集]