大阪姉妹殺害事件

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大阪姉妹殺害事件
場所 日本の旗 日本大阪府大阪市浪速区
日付 2005年(平成17年)11月17日 (未明)
攻撃側人数 1人
武器 ナイフ
死亡者 2人
犯人 男Y(殺人前科あり)
1983年8月21日生まれ
容疑 殺人、強姦、放火、強盗
動機 人の血を見たくなった(快楽殺人)
謝罪 なし
賠償 死刑執行済み
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大阪姉妹殺害事件(おおさか しまいさつがいじけん)とは、2005年平成17年)11月17日大阪市浪速区マンション飲食店店員の姉妹が刺殺された事件。

事件概要

事件の背景

加害者の男Yは、中学卒業後の2000年7月29日山口市内の自宅アパート金属バットを使い母親を殺害した(山口母親殺害事件 事件当時16歳)。この際、「返り血を流すためシャワーを浴びたら、射精していたことに気づいた」と姉妹殺害事件の大阪地検検事にのちに述べている。

Yは同年9月に中等少年院送致の保護処分を受けたあと、2003年10月に仮退院、2004年3月に本退院したが、この際精神科医師は、Yが「法律を守ろうとはそんなに思っていない」と話していたことなどから、更生に疑問を抱き意見を提示していた。

2005年2月ごろ、Yはパチスロ機を不正操作しコインを盗むグループに加わるが、そのグループが福岡から大阪に活動拠点を移した同年11月には、稼ぎが上がらず、離脱したい旨を仲間に伝えグループの活動拠点のマンションを出た。離脱後、近くの境内や公園などに野宿をしていたが、生活のめどが立たない中で、母親殺害の際に感じた興奮と快楽を再び得るために被害者らを狙った。

事件前

事件前日未明、姉妹が住む部屋の電気が配電盤のトラブルで2回にわたって消えていた。各階にある配電盤のスイッチで特定の部屋の電気を消したりつけたりすることができ、点検した電力会社の係員が「姉妹の部屋のスイッチがいたずらされた」と証言。

トラブルのさなかに配電盤周辺で、姉が眼鏡を掛けリュックを背負っていたYを目撃し、勤務先の同僚や客に打ち明けていた。

事件当日の17日午前1時ごろ、マンション来訪者の少女が、近くの路上で自転車に乗ったままマンションの方を凝視するYに気付いた。Yは自転車のハンドルに手をかけ、カーキ色のジャンパーを着て眼鏡をかけていた。しばらく少女を見て、走り去った。

また、同1時半ごろ、マンションから外出した男子専門学校生も「マンション前の道で、くすんだカーキ色のジャンパーを着てこちらをじっと見る中年の男を見た」と証言。

事件の状況

2005年11月17日午前2時半ごろ、まず飲食店での仕事を終えて帰宅した姉がドアを開けた瞬間に背後から襲撃。ナイフで胸を突き刺し、片足のズボンと下着を脱がせ強姦、跡を残さないための工作を行った。約10分後に妹が帰ってくるとナイフで胸を突き刺し、姉のすぐ側で強姦した。その後、ベランダで煙草を吸ったあとに姉妹の胸を再び突き刺して殺害、室内に放火し現金5000円や小銭入れ、貯金箱などを奪った上で逃走した。2人は病院に運ばれたが搬送先で間もなく死亡した。

大阪府警は同年12月5日建造物侵入容疑でYを逮捕12月19日には強盗殺人容疑で再逮捕した。この逮捕で、Yが少年時代の山口母親殺害事件を起こしていたことがメディアで取り上げられた。

この事件を受け、杉浦正健法務大臣(当時)は12月20日閣議で、少年院退院者に対する就労支援策の強化を検討した。凶器の刃渡り12センチのナイフはYの供述通り、犯行現場マンションから約400メートル離れた神社の敷地内の倉庫で発見された。警察の調べに対しYは「母親を殺したときの感覚が忘れられず、人の血を見たくなった」「誰でもいいから殺そうと思った」と供述、弁護士には「ふらっと買い物に行くように、ふらっと人を殺しに行ったのです」と述べた。

裁判

Yは住居侵入、強盗殺人、強盗強姦銃砲刀剣類所持等取締法違反、建造物侵入、非現住建造物等放火の罪で起訴され、2006年5月1日大阪地方裁判所で初公判が行われた。初公判でYの供述が検察により読まれたが、その内容は「刺す度に性的興奮が訪れた」という内容であった。

5月12日、第2回公判が開かれたが、被告人質問でYは「人を殺すことと物を壊すことはまったく同じこと」と述べた。母親殺害との関連性についても質問されたが「自分では判断できない」と答えた。

6月9日から10月4日まで精神鑑定が実施されたが、10月23日裁判長並木正男は、アスペルガー障害を含む広汎性発達障害には罹患していないと判断し、検察側の「人格障害非社会性人格障害統合失調症質人格障害、性的サディズム)である」とする完全な責任能力を認める精神鑑定書を証拠として採用した。

10月27日の第10回公判では、法廷に2万2796人分の死刑を求める嘆願書が提出されたが、Yは検察官に「どう思う」と問われても「何も」としか答えなかった。11月10日午後、裁判長から最終陳述を促されたが、これに対しYは「特に何もありません」とだけ述べ結審する。

2006年12月13日午前、大阪地方裁判所(並木正男裁判長)において、死刑判決が下された。死刑判決の瞬間も、Yはまっすぐ前を見据えたまま微動だにしなかった。Yは自分の存在について、弁護人が差し入れたノートに「何のために生まれてきたのか、答えが見つからない。人を殺すため。もっとしっくりくる答えがあるのだろうか。ばく然と人を殺したい」と記している。判決後「控訴する考えはない」と弁護人に話していたが、12月26日弁護人権限で控訴する。本人は接見中「生まれてこない方がよかった」などと話していたという。その後2007年5月31日付でY本人が控訴を取り下げ、死刑判決が確定した。

2009年7月28日大阪拘置所においてYの死刑が執行された。25歳没。同日には自殺サイト殺人事件のY他1名の死刑も執行されている。20代の死刑執行は1979年に執行された正寿ちゃん誘拐殺人事件の死刑囚(死刑執行時29歳)以来30年ぶりであり、25歳での死刑執行は1972年少年ライフル魔事件の死刑囚以来37年ぶりであった。

関連書籍

関連項目