下山事件

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下山事件
搬出される下山の遺体
場所 日本の旗 日本 東京都足立区西綾瀬 常磐線北千住駅 - 綾瀬駅
日付 1949年昭和24年)7月6日
午前0時30分過ぎ (JST(UTC+8)[注釈 1])
概要 同年7月5日国鉄総裁下山定則が出勤途中に失踪。翌日未明に轢死体で発見された。
攻撃手段 不明
攻撃側人数 不明
武器 不明
死亡者 下山定則
犯人 不明
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下山事件(しもやまじけん)は、日本が連合国の占領下にあった1949年昭和24年)7月5日朝、国鉄総裁下山定則が出勤途中に失踪、翌7月6日未明に轢死体で発見された事件。

事件発生直後からマスコミでは自殺説・他殺説が入り乱れ、捜査に当たった警視庁内部でも捜査一課は自殺、捜査二課は他殺で見解が対立し、それぞれ独自に捜査が行われたが、公式の捜査結果を発表することなく捜査本部は解散となり、捜査は打ち切られた。下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した三鷹事件松川事件が相次いで発生し、三事件を合わせて「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれる。

1964年7月6日に殺人事件としての公訴時効が成立し、未解決事件となった。

事件の経過[編集]

1949年(昭和24年)6月1日に発足した日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁に就任したばかりの下山は、7月5日朝8時20分(当時の日本には夏時間が導入されていたため、現在の7時20分に相当する。以降の時刻も同様)に出勤のため、大田区上池台の自宅を公用車ビュイックで出発した[1]。出勤途中、下山は運転手の大西に日本橋三越に行くよう指示した[1]。三越に到着したものの開店前だったため、一旦国鉄本社のある東京駅前に行って千代田銀行(現:三菱UFJ銀行)に立ち寄るなどした後で再度三越に戻った。そして9時37分頃、公用車から降りた下山は「5分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げて三越に入り、そのまま消息を絶った[1]

普段、下山は9時前には国鉄本社に出勤し、毎朝秘書が玄関で出迎えていた。失踪当日は国鉄の人員整理を巡って緊張した状況にあり、9時から重要な局長会議が予定されていたため、自宅に確認したところ「普段通り公用車で出た」との回答に国鉄本社内は大騒ぎとなり、警察に通報され失踪事件として捜査が開始された。

7月6日0時30分過ぎ、足立区綾瀬常磐線北千住駅 - 綾瀬駅間、東武伊勢崎線との立体交差部ガード下付近で下山の轢死体が発見された。

失踪後の足取り[編集]

失踪後、下山らしき人物はまず三越店内の複数の場所および地下入口付近、地下の喫茶店で目撃され、次に営団地下鉄(現在の東京メトロ銀座線浅草行きの電車内で、下山に足を踏まれたという乗客に目撃された。三越店内では、「3 - 4人の男に取り囲まれて歩いて行った」との目撃証言もある。

11時13分頃に地下鉄を利用して三越を訪れた主婦の小川貞子は、三越の地下入口で3人の男と立ち話をしている下山を目撃している。3人のうちの1人は「身長150cmほどの小男、色の浅黒い逆三角形の顔で金縁メガネをかけていた」と証言している。

13時40分過ぎ、遺体発見地点に近い東武伊勢崎線五反野駅で下車した下山らしき人物は改札係に「この辺に旅館はありますか」と尋ねている。その後、14時から17時過ぎまで、駅員に教えられた同駅に程近い「末広旅館」に滞在し、18時頃から21時近くまでの間、五反野駅から南の遺体発見地点に至る東武伊勢崎線沿線で、服装背格好が下山によく似た人物の目撃証言が多数得られた。警視庁捜査一課は末広旅館での目撃証言により、ストレス等による発作的自殺説に傾いていった。しかし、五反野駅周辺から末広旅館にかけて目撃された人物について、旅館滞在中から旅館を出てトンネルと土手で目撃された18時40分まではメガネをかけていたが、夕方にかけての3人の目撃証言ではネクタイとメガネを外しており、遠視及び乱視でメガネを常にかけていた下山にしては不自然であることが指摘された。また、下山は色白で八の字眉であるのに対し、目撃された人物は日焼けして色が浅黒く脂ぎっており、頬骨が出ていて眉がつり上がっていたとの証言や、旅館滞在中に煙草を1本も吸っていないのも、煙草を好む下山にしてはおかしいとの指摘がある[2]。また、下山は東武鉄道の優待乗車証を所持していたが、五反野駅の改札では駅員に切符を渡しているなど疑問点が多数指摘され、五反野周辺で目撃された人物を下山本人と見るか、替え玉と見るかで意見が錯綜した。

生体轢断か死後轢断か[編集]

下山を轢いた機関車であるD51 651の捜査
古畑種基(左)と秋谷七郎(右、毒物鑑定担当)。捜査本部にて

下山は東武伊勢崎線ガード下の国鉄常磐線下り線路上にて、付近を0時20分頃に通過した田端行きの下り貨物第869列車(D51 651牽引)にひかれたことが判明[注釈 2][注釈 3]した。遺体の司法解剖の指揮を執った東京大学法医学教室主任の古畑種基教授は、回収された下山の遺体に認められた傷に生活反応が認められないことから、死後轢断と判定した(解剖の執刀は同教室の桑島直樹講師)。

また、遺体は損傷が激しく確実な死因の特定には至らなかったものの、轢断現場では血液がほとんど確認されず、失血死の可能性が指摘された。加えて、遺体の局部などの特定部位にのみ内出血などの生活反応を有す傷が認められたことから、該当部分に生前かなりの力が加えられたことが予想され、局部蹴り上げなどの暴行が加えられた可能性も指摘された。

一方、現場検証で遺体を検分した東京都監察医務院八十島信之助監察医は、それまでの轢死体の検視経験から、すでに現場検証の段階で自殺と判断していた。遺体の局部などの特定部位にみられた内出血などの生活反応を有す傷については、轢死体では頻繁に生じる事象であり、血液反応がわずかなことも、遺体発見時の現場周辺で降ったに流され確認できなかったもので、他殺の根拠にはなり得ないと主張した。

さらに、慶応大学中舘久平教授が生体轢断を主張した。自殺の根拠となる生体轢断と見るか、他殺の有力な根拠となる死後轢断[注釈 4]とするかで意見が対立した。1949年(昭和24年)8月30日には古畑、中舘、小宮喬介(元名古屋医科大学教授)の3人の法医学者(ただし中館、小宮の両者は下山の遺体を実見していない)が衆議院法務委員会参考人招致され、国会法医学界をも巻き込んだ大論争となった。法務委員会委員の質問に対し古畑は、「解剖執刀者桑島博士は、いまだかつて公式には他殺、自殺のいずれともいっていない。死後轢断という解剖所見を述べているだけである。研究は継続中であり、研究結果も知らない者が勝手に推論することは、学者的態度ではない」と述べた[4]

朝日新聞記者・矢田喜美雄[編集]

朝日新聞記者の矢田喜美雄と東大法医学教室による遺体および遺留品の分析では、下山のワイシャツ下着靴下に大量の油(通称「下山油」)が付着していたが、一方で上着や革靴内部には付着の痕跡が認められず、油の成分も機関車整備には使用しない植物性のヌカ油であった[注釈 5] ことや、衣類に4種類の塩基性染料が付着していたこと、足先が完存しているにもかかわらず革靴が列車により轢断されているなど、遺留品や遺体の損傷および汚染状況などに、矢田と法医学教室が極めて不自然と判断した事実が浮かび上がっていた。特にヌカ油と染料は、下山の監禁および殺害場所を特定する重要な手がかりになる可能性もあるとして注目された。

加えて、連合国軍憲兵司令部・犯罪捜査研究室(CIL)でアメリカ軍所属のフォスター軍曹より、轢断地点付近にわずかな血痕を認めたとの情報を入手した。そこで微細血痕を暗闇で発光させ、目視確認を可能とするルミノール薬を用いた検証を実施した[注釈 6]。轢断地点から上り方の枕木上に、わずかな血痕を発見した。

その後、警視庁鑑識課を加えたうえで改めてルミノール検証が行われた結果、轢断地点から上り方の荒川鉄橋までの数百メートルの間の枕木上に、断続的に続く多数の血痕を確認した。血痕は、最後に上り方向の線路へ移り途切れていた。

さらに、その土手下にあった「ロープ小屋」と呼ばれる廃屋の扉や床にも血痕が確認されたため、これらの血痕は下山の遺体を運搬した経路を示しているのではないかと注目された。しかし、警視庁捜査一課は釣り糸製造業の角田某という人物を探し出し、1946年2月から1948年5月まで所有者から小屋を借り受け、その間に薪割り中に斧で大けがをしたため血痕が付着したと主張した。だがこれを重視した東京地検が本人の血液を採血し、東大法医教室で血液型を検査したところ、血液型は一致しなかった。[5]

迷宮入り[編集]

1949年(昭和24年)8月、捜査一課は本事件を自殺という形で決着させることとし[1]、捜査報告書の作成を始めていた。しかし、この決定にGHQからストップがかかり、自殺説の発表は見送られた。他方、他殺説を重視する捜査二課は、東京地検、東大裁判化学教室と連携してその後も植物油や染料の全国捜査を地道に続けていた。これに気付いた捜査一課は、情報入手のため塚本鑑識課長に東大裁判化学教室の秋谷教授を訪ねさせた。その結果、捜査二課が全刑事を動員して油と染料の捜査を行っていることを知り、この報告を聞いた堀崎捜査一課長は驚愕した。このまま二課の捜査が進むと、一課が決定した自殺説の決着が覆されるだけでなく捜査本部の解散もできなくなるため、大きな危機感を感じた堀崎は田中警視総監と坂本刑事部長を担ぎ、12月初めに捜査二課二係長の吉武辰雄警部を上野警察署次席に配転させたのを皮切りに、12月31日には捜査本部を解散、翌1950年(昭和25年)4月には二課の刑事たちのほとんどを都内23区の警察署に分散異動させるという強引な人事を断行させ、事実上二課の捜査を強制終了させた。

1949年(昭和24年)12月15日、警視庁下山事件特別捜査本部が作成した内部資料「下山国鉄総裁事件捜査報告」(通称「下山白書」)は、1950年(昭和25年)1月に『文藝春秋』と『改造』誌上に掲載された[1]警視庁記者クラブは、事件白書のようなものは記者クラブで共同発表すべきものとして抗議し、漏洩元を調査して回答せよと要求した。これに対し坂本刑事部長は「あれは正式なものではない、事実関係は調査の上回答する」とした。しかしその後も回答はなく、坂本は言を左右にして回答を避け続けたため、記者クラブは独自に調査を行い、次のような事実が判明した。

本報告書が完成したのは12月はじめで、15日にはガリ版刷り五百枚の冊子二十部が完成した。総監や部長クラスには各一冊宛、残った部数が捜査一課の金庫にしまわれた。捜査本部の看板も数日中に外されることになったものの、世間ではまだ殺人事件だと騒いでいた。捜査本部解散のあとではせっかくの報告書も世に出ぬままになる可能性がある。むしろ世論を「自殺」に落ち着けるには「極秘」の報告書を世に出したほうがいい。そう考えた男が捜査一課の幹部の中にいた。その男は自分で金庫を開けることのできる地位の人物だった。この男はなかなか頭のいい人物で、捜査一課の自殺説を支持している毎日新聞には話を持ち込まず、全国ネットでニュースを流す共同通信社の山崎記者に渡りをつけた。金庫は開かれ、山崎記者は分厚い報告書を抱えて日比谷の自社に走った。こうして12月17日には共同通信社会部は、三千字の活字にまとめて全国各地に流したのである。東京では東京タイムズと朝日が小さくこれを扱ったが、他紙は毎日を含めて黙殺した。地方紙でもこの特種には冷淡で、ほとんどの各紙がニュースにしなかった。ニュースにしないばかりか、地方紙のなかには「共同通信は自殺説を支持しているのか」と文句をつけるという一幕もあった。どうして各紙ともこのニュースを無視したかというと、東大法医教室ではすでに五反野現場で、総裁の血液型と一致するAMQ型血液[要曖昧さ回避]を数ヶ所で検出しており、ついで同裁判化学教室では、遺品の衣類からヌカ油や染料が多量に発見され、これらの事実は「自殺」ではあり得ないことを物語っていたからだった。問題の報告書は、ニュースになったときにはもちろん警視庁に返されていたのだが、次に動いたのは雑誌社だった。三千字の内容ではくわしいことはわからない。新聞がとりあげないなら自分のところで全文をいただこうという算段である。「文藝春秋」では十二月二十六日に山崎記者を通じて、また金庫から報告書を持ち出してもらい、四百字詰原稿用紙百五十枚に要約して昭和二十五年二月号に発表した。捜査一課の金庫というのは常時開けっ放しだったとみえて、山崎記者でなくても報告書は手に入れることができたようである。新顔の「改造」は「文藝春秋」がすでに原稿を手に入れたのも知らず、別の仲介者の手を借りて同じものを要約した。しかし「改造」のほうは「文藝春秋」の二倍くらいの枚数にまとめた。しかたなく二、三月号に分載することになったわけである。 — 謀殺・下山事件[要文献特定詳細情報] 186-187ページ

本報告書は自殺と結論づける内容となっているが、矢田や松本清張などは報告書の内容に矛盾点や事実誤認を指摘している。特に矢田は報告書に書かれている目撃証言のうち、1964年(昭和39年)時点で生存していた目撃者に直接聴き取りを行い、いくつかの証言に捜査一課刑事による改竄や創作が盛り込まれていることを解明した。同年7月6日、殺人事件である場合の公訴時効が成立した。

事件の時代背景と推理[編集]

下山事件が起こった1949年冷戦の初期であり、中国では国共内戦における中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも38度線を境に共産主義政権親米政権が一触即発の緊張下で対峙していた。このような世界情勢の中で、日本占領を行うアメリカ軍を中心とした連合国軍は、対日政策をそれまでの「民主化」から「反共主義の砦」に転換した。まずは高インフレに喘ぐ経済の立て直しを急ぎ、いわゆるドッジ・ラインに基づく緊縮財政策を実施する。同年6月1日には行政機関職員定員法を施行し、全公務員で約28万人、同日発足した国鉄に対しては約10万人近い空前絶後の人員整理を迫った。

同年1月23日に実施された戦後3回目の第24回衆議院議員総選挙では、吉田茂民主自由党が単独過半数264議席を獲得するも、日本共産党も4議席から35議席へと躍進した。共産党系の産別会議(全日本産業別労働組合会議)や国鉄労働組合も、その余勢を駆って人員整理に対する頑強な抵抗を示唆し、吉田内閣の打倒と「人民政府」樹立を公然と叫び、世情は騒然とした。下山は人員整理の当事者として労組との交渉の矢面に立ち、事件前日の7月4日には、3万700人の従業員に対して第一次整理通告(=解雇通告)が行われた[6]

他殺説[編集]

松本清張は『日本の黒い霧』を発表し、当時日本を占領下に置いていた連合国軍の中心的存在であるアメリカ陸軍対敵諜報部隊が事件に関わったと推理した[注釈 7]。本事件が時効を迎えると、松本をはじめとする有志が「下山事件研究会」を発足し、資料の収集と関係者からの聞き取りを行った。同研究会では連合国軍の関与した他殺の可能性を指摘した。研究会の成果は、みすず書房から『資料・下山事件』として出版されている。

大新聞の中では、朝日新聞読売新聞が他殺説を報じた。朝日新聞記者の矢田喜美雄は1973年(昭和48年)、長年の取材の成果を『謀殺・下山事件』に収め、自殺説を否定するとともに取材の過程でアメリカ軍内の防諜機関に命じられて死体を運んだとする人物に行き着いたとして、その人物とのやりとりを記載している。

1999年、『週刊朝日』誌上で「下山事件-50年後の真相」が連載される。その後、取材を共同で進めていた諸永裕司著『葬られた夏』、森達也著『下山事件(シモヤマ・ケース)』、柴田哲孝著『下山事件-最後の証言-』が相次いで出版され、いずれも元陸軍軍属が設立した組織と亜細亜産業関係者による他殺と結論づけている。また、下山の友人および知人には「彼の性分からしてあれほどの首切りを前に自殺するというのであれば遺書の一つは残すはずである」として他殺説を支持する者が多かった。

また下山は、かねてよりいずれ運輸省を辞して参議院選挙に出馬したいとの意向を周囲に語っていた。ただ下山は、同じ鉄道官僚出身で議員になった佐藤栄作と違い政治的バックボーンを持たなかったため、議員当選のためには「元国鉄総裁」という肩書が必要だったのではないかと推測される。つまり、下山は国鉄で9万5,000人の大合理化さえ達成すれば役目は終わり、その後は国鉄を辞して参議院選挙に立候補し、元国鉄総裁というネームバリューと佐藤栄作や民主自由党のバックアップによって当選して参議院議員になるという明るい未来が約束されていたはずであった。

他殺説の主張[編集]

  • 下山が総裁だった当時の国鉄の幹部や従業員の中には、「国鉄マンが鉄道で自殺するはずがない」という矜持が強かった[8][出典無効]
  • 実直な下山が、遺書も残さずに死ぬわけがない(国鉄の同僚の島秀雄加賀山らの説、安部譲二(父が知己)の説)。[要出典]
  • 轢断面やその近辺の出血といった痕跡がないのは、轢かれる前にすでに死んでいたことを意味する(東大・古畑説)[9]。(ただし遺体を剖検した法医学者の古畑種基は「死後轢断」と断定しただけで、他殺とは言わなかった[注釈 8]。理屈のうえでは、自殺者の遺体が轢かれても死後轢断になることに注意)
  • 前日7月4日の午前11時頃、鉄道弘済会本部に「今日か明日、吉田か下山か、そのどちらかを殺す」との予告電話があった。
  • 現場で発見された下山の靴は、毎日下山家の書生が磨いていた。書生の証言によれば、下山はこの靴を大切にしており、必ず橙色のコロンブス靴クリームを使って磨かせており外で靴磨きに磨かせたことはなかった。だが発見された靴にはコロンブスではないメーカーの焦げ茶色のクリームが塗られており、塗り方も書生の丁寧な塗り方とは異なり、靴紐や紐を通す穴などにクリームが付着している乱雑な塗り方であった。靴磨きを商売とする者がこの様な乱雑な仕事をすることはあり得ない。また靴紐の結び方も下山のものとは異なっており、下山の妻は下山の結び方とは全く違うと証言している。
  • 下山の着衣に付着していたヌカ油と染料の組み合わせは皮革の捺染で用いられる。当時皮革捺染は東京の北東部、特に荒川沿いに集中しており現場付近にも捺染工場が複数存在した。下山はそれらいずれかの工場内に連行され、暴行殺害の後自殺に偽装するため現場に遺体が遺棄された可能性が高い[注釈 5]
  • 下山は当日朝食時、同日に名古屋から帰郷する予定の長男に会うのが楽しみだと語っていた。
  • 仮に捜査一課が作成した自殺説に基づく報告書に書かれていることが全て事実であるとするならば、下山は5日20時50分に最後の目撃者である三田喜代子に目撃された後、列車に轢断される6日0時20分までの3時間30分の間に、自分でヌカ油が大量にある工場に忍び込み身体に油を浴び[注釈 5]、染料のある倉庫に忍び込んで身体に染料をまぶし、石膏の塗られている壁を探し出してそこに寄りかかって石膏の粉を付着させ、その後線路脇のロープ小屋に移動して自分の身体に傷を付けて出血させ、小屋の床に血溜まりを作った後小屋の扉に手で血をなすり付け、それから線路に上がり血を滴らせながら東武線のガード下まで右左によろけながら歩き、時には立ち止まって血溜まりを作り、轢断現場にたどり着いた後靴を脱いでレールの上に置きその場にうつ伏せで横たわり、その後列車に轢断されたことになる。

自殺説[編集]

事件発生直後から毎日新聞は自殺を主張(毎日新聞が自殺証言のスクープを出したため)。同紙記者平正一は取材記録を収めた『生体れき断』1964年を出版。大規模な人員整理を進める責任者の立場に置かれたことによる、初老期鬱憂(うつゆう)症による発作的自殺と推理した。

1976年には、佐藤一が自殺説の集大成と言える『下山事件全研究』を出版。佐藤は松川事件被告として逮捕起訴され、14年間の法廷闘争の末に無罪判決を勝ち取った人物であり、下山事件も連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)あるいは日本政府による陰謀=他殺と当初は考え、「下山事件研究会」の事務を引き受けていた。しかし、調査を進める過程で次第に他殺説に疑問を抱き、発作的自殺説を主張するようになる。他殺の根拠とされた各種の物証に関して、地道な調査に基づいて反論を加えた。

冤罪事件の被害者を支援してきた山際永三は「我々,冤罪に関わる人間が,一つのリトマス試験紙にしているのが下山事件なんです。下山事件は他殺だっていう人は私らの仲間ではないんです」とまで言い切っている[11]

自殺説の主張[編集]

  • 失踪の直後、平塚八兵衛が下山の自宅に事情を聞きに行ったところ、まだ遺体が発見される前だったが、妻は「ひょっとしたら、自殺じゃないかしら。自殺じゃなければ、いいんですが……」と言った。平塚はのちに「奥さんのこの証言をはっきり調書にとっておけば、他殺だなんて議論がでてくるわけがない。家族が一番よく知っているわけだよ」と回顧している。その後、平塚が東京鉄道病院の記録を調べたところ、下山は6月1日に神経衰弱症と胃炎という診断を受け、1日にブロバリン(睡眠薬)0.5グラムを2袋ずつ服用するなど、かなり重篤な状態であった[12]
  • 下山には事件現場の土地勘もあった。現場はもともと鉄道自殺が多い場所だった。鉄道局長だったころの下山は、自殺対策がらみの仕事で地元と交渉するため、現場付近に来たことがあった[12]
  • 事件前日に下山はあちこちの要人に面会したり面会を要請し、それらの先々で用件を言うでもなく他愛のない話などをして去っていた。ほかにも前日から当日朝(GHQより迫られた、解雇発表の期限)までの下山の行動に、抑鬱を思わせるものが多々ある(几帳面につけていた手帳が6月28日で途切れている、開館時間終了後の交通会館に管理人に鍵を借りて入り、品川の日本列車食堂レストランから弁当を届けさせて一人で食べるなど)。
  • 鉄道自殺など一瞬で生命を絶たれる事案の場合、轢断面に出血がないこともある。胸部は離断していないにもかかわらず内部の臓器が粉砕されており、これは轢過よりも立った状態での激突が疑わしい(北大・錫谷説)。
  • ルミノール検査は現場からロープ小屋までしか行われていない。当時の列車のトイレは垂れ流で、線路ならどこでも女性の経血で血痕ができるという説もある。またロープ小屋は細長い建物で大部分は壁がなく、犯行には不適である。ただしこの説に対しては殺害現場が別にあり、殺害後の下山の遺体をここに運び込んだという説明も成立する。
  • 下山総裁一家と親しい間柄であった吉松富弥の証言[13][信頼性要検証]では、総裁死亡数日前に直接本人より「GHQから国鉄職員大量解雇の指示があって、弱ってるよ」との話を聞き、死亡当日には妻より「自殺したのだと思う」との言葉を聞いている。吉松は証言の中で、自殺とするより他殺にしておく形の方が日本国全体、GHQ、さらには下山家にとってもベターな選択だったのではないか、と述べている。
  • 事件直前に轢死現場付近で下山と酷似する人物が1人で何か植物を掴むのが目撃されており、下山の上着のポケットから轢死現場付近の植物であるカラスムギが発見されている[14]。ただし、これには替え玉が下山の上着を着て現場周辺を歩き回り、轢断前に下山の遺体に着させたという説もあり、自殺の根拠としては弱い。

その他[編集]

下山国鉄総裁追憶碑
事件後、下山総裁の轢断地点に近い東武伊勢崎線ガード下、国鉄常磐線下り方向の土手の脇に建立された。その後、常磐線改良工事や営団地下鉄千代田線敷設にともなう工事により場所を移動。現在は轢断地点より約150メートル東、西綾瀬1丁目付近のJR常磐線ガード下の道路西側脇にある(北緯35度45分39.5秒 東経139度48分55.9秒 / 北緯35.760972度 東経139.815528度 / 35.760972; 139.815528)。筆跡は第二代国鉄総裁となった加賀山之雄のもの。現在碑の置かれている場所は、五反野方面から南流する水路とそれに並行する小道が、東京拘置所(旧・小菅刑務所)方向へ向かう途中で常磐線を横切る地点で、かつての弥五郎新田踏切(通称五反野踏切)に当たる。下山総裁の轢死体片は、東武伊勢崎線ガード下とこの踏切までの間に散乱していた。現在、水路は「五反野親水緑道」として整備されている。
下山国鉄総裁追憶碑
東武伊勢崎線とJR常磐線(東京地下鉄千代田線)との現在の交差部付近(2018年撮影)
D51 651
下山総裁を轢いたD51 651機関車は、1943年(昭和18年)10月26日に死者110名、負傷者107名を出した常磐線土浦駅列車衝突事故を起こした車両でもある。また当列車の機関士は、下山が仙台機関区長だったころの部下であり、事件後に抑鬱の症状を来たし数年後にストレス性胃潰瘍で死亡した。また同機は、伯備線1972年(昭和47年)3月まで行われていた貨物列車の三重連運転の最終日に、2両目の補助機関車として使用されている。
足立区立郷土博物館(東京都)所蔵 下山事件関連資料
警視庁の合同捜査会議の内部資料と考えられるガリ版刷り文書類。 柴田哲孝著『完全版 下山事件-最後の証言-』にも紹介されている。 平成17(2005)年度より整理資料を公開している(原資料保護のため複写版)[15]

関連作品[編集]

書籍[編集]

映像メディア[編集]

その他[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 夏時間のため現在の7月5日午後11時30分過ぎに相当。
  2. ^ 事件当日、牽引機のD51 651は主発電機が故障しており、灯具類は非常用電池で発光させていたが、前照灯は10 W相当の光量しかなく、乗員が下山の身体を視認することは不可能であった。ただし、荻谷機関助手は荒川橋梁を渡った後、綾瀬方の信号確認のため運転室から身を乗り出している間に轢断地点を通過したため、機関車の底部にバラストがバチバチと当たる音を聞き「何かをひいた」と直感したという。
  3. ^ 機関士の山本健は下山が水戸機関庫の主任であった当時、その直属の部下であった。山本は事件後まもなく胃潰瘍になり同年9月に入院、10月には腸閉塞になり腹部に人工肛門を開けられるも、翌年春に死去した。[3]
  4. ^ ただし、死後轢断は直ちに他殺を意味しない。錫谷徹『死の法医学―下山事件再考』(1983、北海道大学図書刊行会)では「生体の死後轢断」も起こりうるとしている。
  5. ^ a b c 当時は物資不足で、機関車の油に植物油を混入することは常態的に行われていたという反論もある。
  6. ^ 本事件の捜査におけるルミノール薬の使用が、日本の科学捜査における初の事例となった。現在でも時間が経過した犯罪現場などで、古いあるいは微量の血痕検出にルミノール反応は用いられている。
  7. ^ 松本は『日本の黒い霧』執筆の取材で、下山事件の捜査にあたっていた平塚八兵衛に日比谷公園内の飲食店で会った。平塚が捜査の経過を話すと、松本は最後に「じゃ、やっぱり自殺ですね」という言葉を残して帰った。平塚は「それを他殺にするとは、ふざけた話だよ」と憤慨した[7]
  8. ^ 古畑種基の息子・古畑和孝の記述によると、下山の「遺体は東大法医学教室に運ばれ、父の指揮の下、桑島直樹講師が責任者として、幾多の関係者た立会いの下執刀。その遺体には、何百カ所剖検しても、「生活反応」がなかった。特定の部位の出血を除けば。/そこで、父は確信をもって「死後轢断」と発表した。だが、「他殺」とは言わなかった。それは警察ないし検察の問題だからであった」[10]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e Vol.25 昭和24年 戦後最大の謎、下山事件(1/3)”. 振り返る昭和. 2014年6月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月21日閲覧。
  2. ^ 実弟・下山常夫証言 下山事件研究会 編『資料・下山事件』みすず書房、1969年、573頁。全国書誌番号:72003843 
  3. ^ 平正一『生体れき断 : 下山事件の真相』毎日学生出版、1964年、74頁。全国書誌番号:64010595 
  4. ^ 矢田喜美雄『謀殺下山事件』講談社1973年所収 全国書誌番号:72005027、「見解の対立は続く」92ページに掲載の古畑教授の見解の抜粋。
  5. ^ 謀殺・下山事件[要文献特定詳細情報] 135ページ
  6. ^ “第一次分に三万七百 國鉄、整理を通告 残余は中旬から実施”. 朝日新聞社. (1949年7月5日). p. 1 
  7. ^ 佐々木嘉信(著)・産経新聞社(編集)『刑事一代―平塚八兵衛の昭和事件史』新潮文庫、2004年、p.233)
  8. ^ テレビ東京系列『ザ・真相~大事件検証スペシャル』2004年10月11日放送「プロ野球2リーグ分裂と国鉄」より。
  9. ^ 古畑種基『法医学の話』青-323、岩波書店〈岩波新書〉、1958年。 NCID BN00567291  P.25「本件では、損傷のどこにも生活反応がみつからなかったので、われわれは「死後れき断」と判定した(四五ページ参照)。」全国書誌番号:58013612
  10. ^ 『わが道』(12) 中学~高校時代に出くわした極めて大きな社会的事件②下山事件と大学受験」2020年12月14日(月)23:52更新 2021年4月29日閲覧
  11. ^ 山際永三「冤罪事件の原点としての帝銀事件」『明治大学平和教育登戸研究所資料館館報』第5巻、明治大学平和教育登戸研究所資料館、2019年9月、163-175頁、ISSN 2423-9151NAID 120006768535  p.169 から引用。
  12. ^ a b 佐々木嘉信『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』新潮社〈新潮文庫〉、2004年、[要ページ番号]頁。ISBN 978-4101151717 
  13. ^ 吉松富弥氏証言 よしなしごと - 全研究 下山事件 2011年8月13日閲覧。
  14. ^ 『【昭和・平成】9大未解決事件の真犯人!』宝島社〈宝島SUGOI文庫〉、2009年、213頁。ISBN 978-4796671248 }
  15. ^ 下山事件関係資料|足立区”. 2021年1月21日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]