ミーソン聖域

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座標: 北緯15度46分 東経108度07分 / 北緯15.767度 東経108.117度 / 15.767; 108.117

世界遺産 ミーソン聖域
ベトナム
ミーソンの遺跡
ミーソンの遺跡
英名 My Son Sanctuary
仏名 Sanctuaire de Mi-sön
登録区分 文化遺産
登録基準 (2)(3)
登録年 1999年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
地図
ミーソン聖域の位置
使用方法表示

ミーソン聖域(ミーソンせいいき、ベトナム語Thánh địa Mỹ Sơn / 聖地美山)は、ベトナム中部クアンナム省にある古代チャンパ王国の聖なる遺跡。1999年ユネスコ世界遺産世界文化遺産)に登録された。

概要[編集]

ミーソン聖域は、サンスクリットによる正式名称を『シュリーシャーナバドレーシュヴァラ』といい、チャンパ王国の宗教(ヒンドゥー教シヴァ派)の聖域であり、聖山マハーパルヴァタを望むクアンナム省ズイスエン県ミーソン圏谷にある。

ミーソンには、レンガ作りのチャンパ塔など7世紀から13世紀にかけての遺構が残っているが、ベトナム戦争当時の爆撃によってかなり破壊されている。遺跡の近くを大河トゥボン川が流れており、川の女神を祀る秋盆夫人祠とサンスクリット碑文がある。トゥボン川の中流には、王都チャキエウ遺跡があり、河口には近世に日本人町が栄えた港町ホイアンがある。

チャンパ王国は、サンスクリットによる正式名称をチャンパープラ / チャンパーナガラといい、シュリークシェートラ(ビルマ)、ドヴァーラヴァティー(タイ)、カーンボージャ(カンボジア)、シュリーヴィジャヤ(インドネシア)などと同じ東南アジアにおける中世インド化国家である。

チャンパ王国は、今日のベトナム中部沿海及び中部高原を支配した。その支配民族は不明であるが、遺跡からはサンスクリット碑文と共にマレー系(オーストロネシア語族西インドネシア語派)に属する古チャム語碑文が出土しており、チャンパ人(古チャム人)は現在のチャム族の祖先であると考えられる。ミーソンの現在の住民はモン・クメール系ベト族(キン族)であるが、本来はモン・クメール系のカトゥ族英語版の勢力範囲であったことから、カトゥ族の祖先(古カトゥ人)もまた古チャム人と共に、チャンパ王国の構成員であったと考えられる。

建造物は、グプタ様式や先アンコール期の影響が見られる。建造物には、セメント漆喰などの接着剤を使った形跡が無く、チャンパ人の当時の技術力の高さを物語っている。チャム族の伝承によれば、チャンパの彫刻工人・建塔工人の多くは、徴用労働者として動員された山岳民族である。周囲に住む山岳民族カトゥ族は、現在でも有名な木彫職人を輩出している。

ミーソン聖域は、20世紀初頭にフランス人によって発見され、フランス極東学院 (EFEO) のパルマンチェ、クレイらにより数次にわたり修復・補強がなされた。その一方、フランス領インドシナ統治時代に盗掘を受け、美術品の多くが失われた。また、ベトナム戦争南ベトナム解放民族戦線アジト掃討のため、アメリカ空軍B-52の爆撃を受け、大半の遺跡が破壊された。

ベトナム戦争後は、ポーランド文化財保護アトリエ (PKZ) のカジミエシュ・クヴィアトコフスキ、ベトナム文化情報省文化財修復公司のホアン・ダオ・キンらにより補強がなされ、石像の一部がダナン市チャム彫刻博物館に移送された。日本トヨタ財団アメリカ合衆国のワールドモニュメントウォッチ財団による保護助成が行われ、現在はイタリア隊が調査を行っている。また2005年3月には、日本の国際協力機構の技術協力により、ミーソン遺跡展示館が完成した。

アクセス[編集]

旅行会社のツアーで訪れるのが一般的。個人の場合は、ホイアンよりシンカフェやキムカフェなどの旅行会社が、日帰りツアーを催行している。

日本語ガイド付きのツアーは、TNKトラベルなどの旅行会社が催行。

登録基準[編集]

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]