サン=フェリペ号事件

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サン=フェリペ号事件(サン=フェリペごうじけん)は、文禄5年(1596年)に起こった日本土佐国でのスペインガレオン船、サン=フェリペ号が漂着、その乗組員の発言が大問題となった事件[1][注 1]豊臣秀吉の唯一のキリスト教徒への直接的迫害である日本二十六聖人殉教のきっかけとなったとされる。サン・フェリペ号事件[3][1]と表記されることもある。

資料[編集]

本事件について記した日本側資料は多いが、一次資料としては『長宗我部元親記』(1632年)、『土佐物語』、『甫庵太閤記』、『天正事録』などがあげられる。

スペイン側の資料については、サン=フェリペ号船長マティアス・デ・ランデーチョの当初の航海日誌は日本で没収されたため現存しないが、後にランデーチョが『サン=フェリペ号遭難報告書』を記し、現在、セビリアインディアス古文書館に残されている。ほか、フィリピン総督府記録はじめ、宣教師による記録など、多数存在する。

経緯[編集]

背景[編集]

日本人によるフィリピン侵略の恐れについて書かれた最古のものは1586年の評議会メモリアルである。マニラでは日本人の倭寇が単なる略奪以上の野心を持っているかもしれないと推測されており「彼らはほとんど毎年来航しルソンを植民地にするつもりだと言われている」[4]と警鐘を鳴らした。

天正15年(1587年)に天台宗の元僧侶であった施薬院全宗の讒言を受けて豊臣秀吉が発したバテレン追放令はキリスト教の布教の禁止のみであり、南蛮貿易の実利を重視した秀吉の政策上からもあくまで限定的なものであった。これにより“黙認”という形ではあったが宣教師たちは日本で活動を続けることができた。また、この時に禁止されたのは布教活動であり、キリスト教の信仰は禁止されなかったため、各地のキリシタンも公に迫害されたり、その信仰を制限されたりすることはなかった。

バテレン追放令を命じた当の秀吉は、イエズス会宣教師を通訳やポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた[5]。1590年、ガスパール・コエリョと対照的に秀吉の信任を得られたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは2度目の来日を許されたが、秀吉が自らの追放令に反してロザリオとポルトガル服を着用し、聚楽第の黄金のホールでぶらついていたと記述している[6]

1591年、原田孫七郎はフィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏、入貢と降伏を勧告する秀吉からの国書を1592年5月31日にフィリピン総督に渡した。1593年には原田喜右衛門がフィリピンの征服を秀吉に要請、同4月22日にはフィリピン総督が服従せねば征伐するとの国書を渡したが、スペイン側は事前に船に同乗していた明人を詰問して、日本国王が九鬼嘉隆にフィリピン諸島の占領を任せたが、台湾の占領も別の人物に任せたから、当地の遠征はその次である等の情報を得ていた[7][8]。宣戦布告にも近い軍事的脅迫を含む敵対的な最後通牒によって、スペインと日本の外交関係は緊迫し、スペイン人の対日感情も悪化の一途を辿った。

1592年豊臣秀吉フィリピンに対して降伏朝貢を要求してきたが、フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスは1592年5月1日付で返事を出し、ドミニコ会の修道士フアン・コボが秀吉に届けた。コボはアントニオ・ロペスという中国人キリスト教徒とともに日本に来たが、コボとロペスは、朝鮮侵略のために九州に建てられた名護屋城で秀吉に面会した。原田喜右衛門はその後、マニラへの第二次日本使節団を個人的に担当することになり、アントニオ・ロペスは原田の船で無事にマニラに到着した[9]

1593年6月1日、ロペスは日本で見たこと行ったことについて宣誓の上で綿密な質問を受けたが、そのほとんどは日本フィリピンを攻撃する計画について知っているかということに関するものであった。ロペスはまず秀吉が原田喜右衛門に征服を任せたと聞いたと述べた[10]。ロペスは日本側の侵略の動機についても答えた。

フィリピン黄金が豊富にあるという話は万国共通である。このため兵士たちはここに来たがっており、貧しい国である朝鮮には行きたがらない[11]

ロペスはまた日本人フィリピン軍事力について尋問されたとも述べている。アントニオ・ロペスはフィリピンには4、5千人のスペイン人がいると答えたのを聞いて、日本人は嘲笑った。彼らはこれらの島々の防衛は冗談であり、100人の日本人は2、300人のスペイン人と同じ価値があると言ったという[12]。ロペスの会った誰もが、フィリピンが征服された暁には原田喜右衛門が総督になると考えていた[13]

その後、侵略軍の規模についてロペスは長谷川宗仁の指揮で10万人が送られると聞いたが、ロペスがフィリピンには5、6千人の兵士しかおらず、そのうちマニラの警備は3、4千人以上だと言うと、日本人は1万人で十分と言った。さらにロペスに10隻の大型船輸送する兵士は5、6千人以下と決定したことを告げた[14]。ロペスは最後に侵攻経路について侵略軍は琉球諸島を経由してやってくるだろうといった[15]

文禄2年(1593年)、フィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが来日し、肥前国名護屋で豊臣秀吉に謁見。豊臣秀次の配慮で前田玄以に命じて京都の南蛮寺の跡地に修道院が建設されることになった。翌年にはマニラから新たに3名の宣教師が来て、京阪地方での布教活動を活発化させ、信徒を1万人増やした。前田秀以(玄以の子)や織田秀信寺沢広高ら大名クラスもこの頃に洗礼を受けた[7][8]

文禄4年(1595年)7月15日には秀次切腹と幼児も含めた一族39人の公開斬首が行われ、文禄・慶長の役では朝鮮、明への侵略征服計画が頓挫し和平交渉も難航、文禄5年/慶長元年1596年7月12日には慶長伏見地震で秀吉の居城である伏見城が倒壊(女﨟73名、中居500名が死亡)、同9月2日には明・朝鮮との講和交渉が決裂、仏教や神道の在来宗教勢力も京都に進出していたキリスト教フランシスコ会に警戒感を強める情勢にあった。サン=フェリペ号事件はそのような状況下で起こった。

土佐へ漂着まで[編集]

1596年7月、フィリピンマニラを出航したスペインのガレオン船サン=フェリペ号がメキシコを目指して太平洋横断の途についた。ガレオン船には100万ペソの財宝が積み込まれていた。同船の船長はマティアス・デ・ランデーチョであり、船員以外に当時の航海の通例として七名の司祭フランシスコ会員フェリペ・デ・ヘスースとファン・ポーブレ、四名のアウグスティノ会員、一名のドミニコ会員)が乗り組んでいた。サン=フェリペ号は東シナ海で複数の台風に襲われて甚大な被害を受け、船員たちはメインマストを切り倒し、400個の積荷を海に放棄することでなんとか難局を乗り越えようとした。しかし、船はあまりに損傷がひどく、船員たちも満身創痍であったため、日本に流れ着くことだけが唯一の希望であった。

1596年8月28日(同年10月19日)、船は四国土佐沖に漂着し、知らせを聞いた長宗我部元親の指示で船は浦戸湾内へ強引に曳航され、湾内の砂州に座礁してしまった。大量の船荷が流出し[1]、船員たちは長浜(現高知市長浜)の町に留め置かれることになった。

長宗我部元親は投棄されず船に残っていた60万ペソ分の積荷を没収した[16]。長宗我部元親は、日本で座礁、難破した船は、積荷とともにその土地へ所有権が移るのが日本の海事法であり、通常の手続きだと主張したが、南蛮貿易とそれに伴う富が四国に届くことはほとんどなかったことも判断に影響したとされる[17]

スペイン人乗組員が抗議すると、元親は、秀吉の奉行のうち、個人的な友人である増田長盛に訴えるよう言い渡した。船長であるマティアス・デ・ランデーチョはこれをうけて、2人の部下を京に派遣し、フランシスコ会の修道士と落ち合うように指示した[16]

豊臣政権の対応と国際情勢[編集]

一同で協議の上、船の修繕許可と身柄の保全を求める使者に贈り物を持たせて秀吉の元に差し向け、船長のランデーチョは長浜に待機した。しかし使者は秀吉に会うことを許されず、代わりに奉行の1人で長宗我部元親の友人である増田長盛が浦戸に派遣されることになった。

増田長盛はこの状況を利用して利益を得られると考え、秀吉にこの積荷を接収することを助言した。土佐に着いた増田長盛はスペイン人に賄賂を要求したが断られたため、サンフェリペ号の貨物を100隻の和船に積んで京都に送る作業を始めた[18]

それに先立って使者の1人ファン・ポーブレが一同のもとに戻り、積荷が没収されること、自分たちは勾留され果ては処刑される可能性があることを伝えた。先に秀吉はスペイン人の総督に「日本では遭難者を救助する」と通告していた[1]ため、まるで反対の対応に船員一同は驚愕した。

増田らは、白人船員と同伴の黒人奴隷との区別なく名簿を作成し、積荷の一覧を作りすべてに太閤の印を押し、船員たちを町内に留め置かせ、所持品をすべて提出するよう命じた。さらに増田らは「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる3名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げた[19]。このとき、水先案内人(航海長)であったデ・オランディアは憤って長盛に世界地図を示し、スペインは広大な領土をもつ国であり、日本がどれだけ小さい国であるかを語った

これに対して増田は「何故スペインがかくも広大な領土を持つにいたったか」と問うたところ、デ・オランディア(またはスペイン人船員)は次のような発言を行った。「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり[1]。これにより秀吉はキリスト教の大規模な弾圧に踏み切ったとされる。この経緯はスペイン商人ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンが書いた『日本王国記』に、イエズス会士モレホンが注釈をつけたものであり、似たようなやり取りはあったものと見られている[20]。この応答については、直接目撃した証言や文書も残っていないため、史実であったかについて定まった評価はない[2][21]

水先案内人(航海長)をしていたデ・オランディアの大言壮語とは対照的に、スペイン国王フェリペ2世は1586年には領土の急激な拡大によっておきた慢性的な兵の不足、莫大な負債等によって新たな領土の拡大に否定的になっており、領土防衛策に早くから舵を切っていた[22]

私には、より多くの王国や国家を手に入れようとする野心に駆られる理由はありません....私たちの主は、その善意によって、私が満足するほど、これらすべてのものを与えてくださっています[22] — 1586年、スペイン国王フェリペ2世

サン=フェリペ号事件当時、秀吉による明と朝鮮の征服の試みが頓挫し、朝鮮・明との講和交渉が暗礁に乗る緊迫した国際情勢ではあったが、それ以前の1591年に原田孫七郎はフィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏、入貢と服従を勧告する秀吉からの国書を1592年5月31日にフィリピン総督に渡し、1593年には原田喜右衛門もフィリピン征服、軍事的占領を働きかけ、秀吉はフィリピン総督が服従せねば征伐すると宣戦布告ともとれる意思表明をしており[23]、豊臣政権はアジアにおけるスペインの脆弱な戦力を正確に把握していた。豊臣政権がフランシスコ会への態度を硬化させた原因は諸説提案されており、デ・オランディア(またはスペイン人船員)の口から出任せの発言を高度な情報分析能力のあった奉行とその報告を受けた秀吉が真に受けたかについての結論は出ていない。

処遇と影響[編集]

長盛は都に戻り、このことが秀吉に報告された。直後の同年12月8日に天正に続く禁教令が再び出され、京都や大坂にいたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3人と修道士3人、および日本人信徒20人が捕らえられ、彼らは長崎に送られて慶長元年12月19日(1597年2月5日)処刑された(日本二十六聖人)。

ランデーチョは、修繕のための船普請を早期に開始するよう秀吉に直接会って抗議しようと決めた。長宗我部元親は12月にランデーチョらが都に上ることを許可した。しかし交渉の仲介を頼もうとしたフランシスコ会は捕縛された後であったため、船員たち自身で抗議を重ね、秀吉の許可によりサン=フェリペ号の修繕は開始された。一同は1597年4月に浦戸を出航し、5月にマニラに到着した。マニラではスペイン政府によって本事件の詳細な調査が行われ、船長のランデーチョらは証人として喚問された。その後、1597年9月にスペイン使節としてマニラからドン・ルイス・ナバレテらが秀吉の元へ送られ、サン=フェリペ号の積荷の返還と二十六聖人殉教での宣教師らの遺体の引渡しを求めたが、引き渡しは行われなかった[24]

サン=フェリペ号から没収された積荷の一部は、朝鮮出兵の資金として使われ、残りは有力者に分配され、中には天皇に届いたものもあったとされる[25]

この事件には、秀吉の対明外交、イエズス会とフランシスコ会の対立などいくつかの問題が関係しており、その真相を決定的に解明するのは難しい[1]

また、乗員のうち四名のアウグスティノ会員は、フアン・タマヨ、ディエゴ・デ・ゲバラ両神父と従者の修道士で、管区代表としてローマでの総会に東回り航路で向かう途中であった。アウグスティノ会は改めて神父ニコラス・デ・メロロシア語版と弟子で日本人の修道士ニコラスのローマ派遣を決定し、1597年、西回りのインドゴア航路で送り出した。師弟は1600年、陸路ペルシア経由でサファヴィー朝使節団に随行しカスピ海ヴォルガ川を遡上してモスクワに到達した。このため修道士ニコラスは初めてロシアを訪問した日本人とされる。だが両者とも王朝断絶からの動乱時代の騒擾に巻き込まれ、長期間の幽閉の後に処刑された[26]


キリスト教の布教と征服との関連[編集]

ポルトガルはゴア、マラッカ、マカオ等の独立した小規模の貿易拠点、居留地を手に入れる一方で、文明がすでに発達していたインド、中国、イスラム王朝が支配する東南アジア等のアジア諸国の植民地化には成功しなかった。ゴア、マラッカ等の港湾都市の領有と要塞化は法制度が異なり財産権が十分に保証されない国との香辛料貿易を行うために不可欠な環境整備であり、ヨーロッパの小国だったポルトガルが最優先すべき目標は安全な貿易路の確保、ポルトガル人の資産保全、香辛料貿易の独占であって大規模な軍事紛争を伴う植民地化ではなかった。

ゴア攻略はヨーロッパでのオスマン帝国イスラム王朝との戦いの継続でもあるため、インド洋制覇と香辛料貿易の独占を狙うオスマン帝国に対抗する軍事拠点の獲得と見ることができる。マラッカ攻略についてはスルタン・マームドによって虜囚とされたポルトガルの通商外交使節団の奪還とイスラム王朝への報復を目的とした軍事行動であり宣教師とは無関係である。

フィリピンでは1405年にスールー諸島、1520年にミンダナオ島でイスラム王朝が建国されており、ルソン島の都市国家の首長の多くがイスラム教に改宗していた。オスマン帝国の支援を受けたブルネイ帝国カスティーリャ戦争(1578年)でスペインが勝利したことで、イスラム王朝に対するフィリピンでの軍事的優位が確立された。1579年にはドミンゴ・デ・サラザールが初のマニラ司教に叙任された。フィリピンでの覇権を手にした後、キリスト教の改宗が本格的に進み各部族の宗教とカトリックが融合した民俗カトリックの信者が増え続けた。アジアではイエズス会の布教を支援したポルトガルと対比するかのように、キリスト教の布教を重視しなかったオランダやイギリスが植民地を増やしていった。

フランシスコ会の宣教師が米大陸に上陸したのは、コルテスによる1522年のメキシコ制圧の翌年の1523年であり、侵略が完了した後に布教をしているため、フランシスコ会の宣教師が侵略を支援した事実はなく、また布教活動が侵略に重要な役割を果たした事実はない。宣教師たちは、キリスト教を広めることを第一の目的としていただけでなく、先住民の言語を学び、子供たちに読み書きを教え、大人たちには大工や陶芸などの職業を教えた。米先住民に対するフランシスコ会の布教については、スペイン人の支配者に対する反乱に繋がる可能性が懸念されており、当初は否定的に受け止められていた。フラマン人で神聖ローマ皇帝の親戚であるフランシスコ会修道士ペドロ・デ・ガンテはメキシコでの滞在を特別に許されていたが、デ・ガンテは伝統的に(特に敵対する部族の)人身御供を行っていた先住民の儀式的な習慣を目の当たりにし、宣教師として信仰を変える必要性を感じていた。ガンテは先住民の生活様式に合わせることが最善の方法であると考えた。先住民の言語を学び、先住民の会話やゲームに参加した。学校を設立して、そこで1532年までに5,000人の子供を教育した[27]

フランシスコ会修道士たちは布教を「瞑想と観想」によってのみ可能であると考えていたため、望むほど早く多くの人々を改宗させることができなかった。また植民地政府とフランシスコ会の修道士の間に緊張が生じ、最終的には何人かの修道士が現在のメキシコ西部に逃亡し、フランシスコ会の小教区が解散することになった。また、フランシスコ会の小教区の解散には、清貧の誓いや植民地政府からの非難などの問題もあった。フランシスコ会の宣教師は先住民の権利を守ることで、スペイン政府としばしば対立していた[28]

イエズス会が新大陸での布教を始めたのは1570年以降だったが、1500年のペドロ・アルバレス・カブラル率いる艦隊がブラジルに上陸してから70年経過した後のことである[29]。イエズス会は、特に南米南東部において、スペインで広く行われていた「レダクシオネス」と呼ばれる入植地を作り、広範囲に広がる先住民を集中させて、先住民の統治、キリスト教化、保護を強化していた[30]。イエズス会の「レダクシオネス」では、各家庭に家と畑があり、個人には労働の対価として衣服と食事が与えられていた。さらに、学校、教会、病院があり、各「レダクシオネス」には2人のイエズス会宣教師が監督する先住民の指導者と統治評議会が設けられた。フランシスコ会と同様に、イエズス会の宣教師たちも現地の言語を学び、大人たちにヨーロッパの建築、製造、農業の方法を教えた[30]。スペイン人入植者は「レダクシオネス」で住むことも働くことも禁止されていた。これにより、イエズス会の宣教師とスペイン人との関係はぎくしゃくしたものになった。それというのも、周辺のスペイン人入植地では、人々は食料、避難所、衣類を保証されていなかったからだ[31]。1767年にイエズス会はアメリカでのスペイン領から追放措置を受け活動を停止した。

ドミニコ会についてはミゲル・デ・ベナビデス・イ・アニョーザ等の修道士が1587年に初めてフィリピンに上陸している。ベナビデスはマニラで中国人のための病院を作り、スペイン人の圧政からフィリピン先住民を保護するために、マニラ司教ドミンゴ・デ・サラザールに同行してスペインに赴いた。1602年にマニラ大司教となり、1603年にはフランシスコ会にフィリピンに居住していた日本人の面倒を任せている。ベナビデスはアジア最古の大学である聖トマス大学の創設者として知られ、死後の1611年に開校した。

フランシスコ会はスペイン政府との一定の距離感が保たれており、ときには互いに非難の応酬をすることもあった。イエズス会も国家から独立した組織として布教する現地住民の意向を優先しており、ポルトガルとスペインの両国とも緊張関係にあった[30][28][27]。宗教を絡めないイギリス、オランダ等によるアジアの植民地化の成功、コルテスによるアメリカ征服が宗教の介入なく軍事的になされたことからも、キリスト教の布教から文明の発達した国家の征服に乗り出すという想像上の政策の実現性は低く、またはそのような政策が実際に存在したかについても諸説ある。

当時の海事法との関連[編集]

サン=フェリペ号の積荷は100万ペソ、ガレオン船12隻(投棄されず漂着した積荷は60万ペソであるため8隻)の建造費に相当する巨額の財宝であり、船員達の帰郷を待つ家族の生活基盤さえも揺るがしかねない過酷な没収であった。積荷の債権者の憤激から対日感情が悪化し、ルソン各地から日本人が追放されたという[26]。当時、日本にいた宣教師ルイス・フロイスもこの事件の顛末を述べているが、そこでは「漂着した船舶は、その土地の領主の所有に帰するという古来の習慣が日本にあったため」積荷が没収されたと述べている(ルイス・フロイス書簡 長崎発 1597年3月15日)[32]。歴史書ではしばしば「漂着した船の積荷には、その土地へ所有権が移るのがこの時代の海事法(廻船式目)であったため」というような記述が見られる。『廻船式目』とは鎌倉時代に当時の海上の慣習を文章化した上で鎌倉幕府の裁可を得たもの(という仮託で、実際は16世紀末成立。詳細は、「寄船」「廻船」「浦終い」も参照)だが、その地の豪族・大名により内容の統一が保たれていなかった。豊臣秀吉は海法規定を整理・統一しようという考えから廻船式目の中から取捨選択、補足・削除をした『海路諸法度』(1592年)を制定したものと考えられるが[33]、廻船式目から大きな変更は見られず、領土領海への侵犯や国家間の衝突時の拿捕に関する記載はない。

二十六聖人殉教との関係[編集]

サン=フェリペ号事件に関してしばしば長盛との問答でのスペイン人船員(デ・オランディアとも)の「積荷を没収された腹いせ」による発言が秀吉を激怒させたと説明されるが、これは1598年に長崎でイエズス会員たちが行った「サン=フェリペ号事件」の顛末および「二十六聖人殉教」の原因調査のための査問会での証人の言葉として出たとされるもので、日本側の記録には一切残されていない[34]。フランシスコ会とスペインとの関係は必ずしも良好なものでなく、実際のフランシスコ会の布教はコルテスの侵略完成後に行われていたため[27][28]、出任せや腹いせで発言したとの説明には一定の蓋然性が認められる。

1592年5月31日の原田孫七郎に託された国書で、秀吉はフィリピン総督に対して一国を代表して降伏勧告、恫喝を行っており、1593年にも服従せねば征伐すると宣戦布告ともとれる最後通牒を告知し、1592年4月12日には朝鮮出兵を開始していた。日本はスペイン領フィリピンに好戦的な侵略国としての印象を与えており、フィリピン在住のスペイン人の対日感情は悪化していた。一船員であるデ・オランディアの個人としての発言はその反映とも取れる。

また、秀吉がそれまで言い伝えていた処遇から翻った処断を下したこと、この事件の直後に殉教事件が起きていること、処刑された外国人はフランシスコ会だけであったことから、秀吉は前々より都周辺での布教を自粛していたイエズス会に代わり、遅れて国内で布教し始めていたスペイン系の会派(他にアウグスティノ会など)の活動や宗派対立を嫌悪していたことが考えられる。

さらに、秀吉自身が秀次事件の後の政権内綱紀粛正や冊封使の対応(後の慶長の役に繋がる)に忙殺され、スペイン支配下の呂宋国(フィリピン)へは明確なビジョンがなかったことなど、複数の原因も考えられる。

しかしこの事件は、それまでひとくくりにされていた南蛮がスペイン系キリスト宗派やスペイン人ポルトガル人とで異なるという意識を芽生えさせ、後の徳川期の鎖国のプロセスにおいて先にスペイン船が渡航禁止(1624年、ポルトガル船渡航禁止は1639年)とされる事態も生じている。

英国国教会1959年日本二十六聖人が殉教した2月5日を記念日としてカレンダーに追加した[35]アメリカ福音ルター派教会では2月5日を記念日としている。

事件後のフィリピン侵略計画[編集]

天正20年(1592年)6月、すでに朝鮮を併呑せんが勢いであったとき、毛利家文書および鍋島家文書によると、秀吉はフィリピンのみならず「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するが如くあるべきものなり。只に大明国のみにあらず、況やまた天竺南蛮もかくの如くあるべし」とし[36][37]インド南蛮東南アジアポルトガルスペインヨーロッパ等)への侵略計画を明らかにした。秀吉は先駆衆にはインドに所領を与えて、インドの領土に切り取り自由の許可を与えるとした[38]

1597年2月に処刑された26聖人の一人であるマルチノ・デ・ラ・アセンシオンスペイン語版フィリピン総督宛の書簡で自らが処刑されることと秀吉のフィリピン侵略計画について日本で聞いた事を書いている。「(秀吉は)今年は朝鮮人に忙しくてルソン島にいけないが来年にはいく」とした[39][40]。マルチノはまた侵攻ルートについても「彼は琉球台湾を占領し、そこからカガヤンに軍を投入し、もし神が進出を止めなければ、そこからマニラに攻め入るつもりである」と述べている[39][40]26聖人の処刑後、スペリン領フィリピンでは秀吉との有効的関係が終わったと認識され、秀吉によるフィリピン侵略への懸念が再燃した[41][注 2]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 乗組員のものとされる発言は日本側に記録がなく、スペイン側にも直接目撃者や文書が残っていないため史実かはっきりしていない[2]
  2. ^ 日本によるフィリピン侵略は秀吉だけでなく、1630年松倉重政によって計画が行われた。マニラへの先遣隊は1631年7月、日本に帰国したが1632年7月までスペイン側は厳戒態勢をしいていた。1637年には息子の松倉勝家の代においても検討がなされた[42]
    その後、5年間はフィリピンへの遠征は考慮されなかったが、日本の迫害から逃れてきたキリスト教難民がマニラに到着し続ける一方で 日本への神父の逆流が続いていた……松倉重政の後を継いだ息子の松倉勝家は、父に劣らず暴君でキリスト教であったが、勝家が島原の大名として在任中に、最後のフィリピン侵略の企てに遭遇することになる。 — 海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー、69(4)、10、2016、pp. 8-9[42]

    オランダ人は1637年のフィリピン侵略計画の発案者は徳川家光だと確信していたが[43]、実際は将軍ではなく、上司の機嫌をとろうとしていた榊原職直馬場利重だったようである。遠征軍は松倉勝家などの大名が将軍の代理として供給しなければならなかったが、人数については、松倉重政が計画していた2倍の1万人規模の遠征軍が想定されていた[44]。フィリピン征服の指揮官は松倉勝家が有力であったが、同年におきた島原の乱によって遠征計画は致命的な打撃を受けた[45]

    島原の乱の数ヵ月後、将軍徳川家光の諮問機関は廃城となっていた原城を奪うために必要な努力と、占領地を何百マイルも移動して(当時の東アジアで最も要塞化された都市の一つであった)マニラ要塞に対抗するために同様の規模の軍と同様の海軍の支援を計画することを比較検討した。フィリピン侵攻のために用意した1万人の兵力は10万人、つまりその3分の1の反乱軍に打ち勝つために原城に投入しなければならなかった兵力であるべきとの分析がなされた[45]

    島原の乱の後、寛永17年(1640年)に幕府宗門改役を設置してキリスト教の迫害を強化したが、アメリカ合衆国歴史家ジョージ・エリソンはキリスト教徒迫害の責任者をナチスホロコーストで指導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンと比較した[46][47]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 日本大百科全書『サン・フェリペ号事件』文責松田毅一
  2. ^ a b Visiones de un Mundo Diferente Política, literatura de avisos y arte namban, Coordinadores: Osami Takizawa y Antonio Míguez Santa Cruz, Centro Europeo para la Difusión de las Ciencias Sociales, ISBN: 978-84-608-1270-8, p. 79 "En esta historia, como en todas, hay distintas versiones, y la narrada aquí es la propia del ámbito castellano –como es objetivo de este artículo, por otro lado–, pero no es la que ha pasado con mayor aceptación a la historia. Hay pequeños matices o añadidos que no aparecen en la crónica de de Saucola pero sí en la historiografía jesuita, la portuguesa –obviamente coincidentes–, la anglosajona o la japonesa. La diferencia más importante, y que merece ser comentada aquí, es la referente al desencadenante de la dura sentencia del Taikō. Según esta versión, cuando el Gobernador enviado por Hideyoshi a Tosa interrogó a algunos miembros de la tripulación del San Felipe, uno de los testimonios fue el del piloto del navío, un tal Francisco de Landia, y éste supuestamente quiso impresionar a Masuda enseñándole en un mapa la gran cantidad de territorios sobre los que gobernaba Felipe II –de la misma forma en que, recordemos, fray Juan Cobo había hecho con Hideyoshi tiempo atrás–; de lo hablado en esta entrevista, cabe aclarar, no hay testigos directos ni documentos escritos."
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関連項目[編集]