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父・赤川孝一は他に家庭を持っていたので別居しており、幼少時もほとんど顔を合わせていなかったが、転勤によって東京に引っ越したため、赤川は小学校の担任の薦めにより中高一貫教育の[[桐朋中学校・高等学校|私立桐朋学園]]を受験することになる<ref name="sunday" />。無事に合格して進学したが、勉強も運動も苦手でなおかつ金銭的にも困窮していたため、楽しい学校生活ではなかった<ref name="sunday" />。高校2年生の時に孝一が退社してしまい収入源が完全に断たれたため、大学進学は諦め就職を決意<ref name="sunday" />。卒業後18歳で[[日本機械学会]]事務局編修課に就職し<ref name="hochi20150612" />、主に機械工学の雑誌に掲載する学術論文を校正する仕事に従事する<ref name="sunday" /><ref name="hochi20150612" />。しかし休日には誰かに読ませるあてもないまま、自らのために小説を書き続けていた<ref name="sunday" />。25歳で結婚し、2年後に娘が産まれる<ref name="sunday" />。この頃プロを目指すことを決意し、サラリーマン生活を続けながらシナリオを投稿するようになる<ref name="sunday" /><ref name="hochi20150612" />。そして[[天知茂]]主演の[[テレビ朝日]]系テレビドラマ『[[非情のライセンス]]』のシナリオ募集に初入選する<ref name="sunday" />。ほとんど手直しされないまま放送され、初めて“脚本・赤川次郎”と名前が出て喜んだ反面、会社にはばれてしまった<ref name="hochi20150612" />。1976年、28歳の時に「幽霊列車」で[[オール讀物推理小説新人賞]]を受賞し、小説家デビュー<ref name="sunday" />。1978年には当時主に[[社会派推理小説|社会派ミステリー]]を発行していた[[光文社]][[カッパ・ノベルス]]から出版された『[[三毛猫ホームズの推理]]』が異色作としてヒットし脚光を浴びる<ref name="sunday" /><ref name="yomiuri">{{Cite interview|subject=赤川次郎|interviewer=川村律文|url=http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20150727-OYT8T50114.html|title=赤川次郎「三毛猫ホームズ」…人の心を易しく軽妙に50作|program=[[読売新聞|YOMIURI ONLINE]]|accessdate=2016-01-24|archiveurl=https://archive.is/20150830150123/http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20150727-OYT8T50114.html |archivedate=2015年8月30日}}</ref>。これを契機に小説の依頼が増え、睡眠時間が取れないほど多忙になっただけでなく原稿料収入も給料の2倍程になったため、妻にも背中を押されて退社を決意<ref name="sunday" /><ref name="yomiuri" />。12年のサラリーマン生活を終え、30歳で専業作家となる<ref name="sunday" />。その直後に『[[セーラー服と機関銃]]』を発表した<ref name="sunday" />。1980年、『[[上役のいない月曜日]]』が第83回[[直木三十五賞|直木賞]]候補となる。その後も「[[三姉妹探偵団]]」シリーズや「[[杉原爽香]]」シリーズなど、さまざまな人気シリーズを生み出す<ref name="hochi20150612" />。2016年にはデビュー40年目にして『東京零年』で第50回[[吉川英治文学賞]]を受賞した。難解な表現をあえて避けた優しい文章と軽妙な表現を得意とし、余人に真似ができないスタイルを構築しており、2015年現在でも年に10冊の執筆をするなど創作意欲は衰えない<ref name="yomiuri"/>。推理小説(ユーモアミステリー)のほか、ホラーや青春ものなど作品のジャンルは多岐に及ぶ<ref name="sunday" />。
父・赤川孝一は他に家庭を持っていたので別居しており、幼少時もほとんど顔を合わせていなかったが、転勤によって東京に引っ越したため、赤川は小学校の担任の薦めにより中高一貫教育の[[桐朋中学校・高等学校|私立桐朋学園]]を受験することになる<ref name="sunday" />。無事に合格して進学したが、勉強も運動も苦手でなおかつ金銭的にも困窮していたため、楽しい学校生活ではなかった<ref name="sunday" />。高校2年生の時に孝一が退社してしまい収入源が完全に断たれたため、大学進学は諦め就職を決意<ref name="sunday" />。卒業後18歳で[[日本機械学会]]事務局編修課に就職し<ref name="hochi20150612" />、主に機械工学の雑誌に掲載する学術論文を校正する仕事に従事する<ref name="sunday" /><ref name="hochi20150612" />。しかし休日には誰かに読ませるあてもないまま、自らのために小説を書き続けていた<ref name="sunday" />。25歳で結婚し、2年後に娘が産まれる<ref name="sunday" />。この頃プロを目指すことを決意し、サラリーマン生活を続けながらシナリオを投稿するようになる<ref name="sunday" /><ref name="hochi20150612" />。そして[[天知茂]]主演の[[テレビ朝日]]系テレビドラマ『[[非情のライセンス]]』のシナリオ募集に初入選する<ref name="sunday" />。ほとんど手直しされないまま放送され、初めて“脚本・赤川次郎”と名前が出て喜んだ反面、会社にはばれてしまった<ref name="hochi20150612" />。1976年、28歳の時に「幽霊列車」で[[オール讀物推理小説新人賞]]を受賞し、小説家デビュー<ref name="sunday" />。1978年には当時主に[[社会派推理小説|社会派ミステリー]]を発行していた[[光文社]][[カッパ・ノベルス]]から出版された『[[三毛猫ホームズの推理]]』が異色作としてヒットし脚光を浴びる<ref name="sunday" /><ref name="yomiuri">{{Cite interview|subject=赤川次郎|interviewer=川村律文|url=http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20150727-OYT8T50114.html|title=赤川次郎「三毛猫ホームズ」…人の心を易しく軽妙に50作|program=[[読売新聞|YOMIURI ONLINE]]|accessdate=2016-01-24|archiveurl=https://archive.is/20150830150123/http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20150727-OYT8T50114.html |archivedate=2015年8月30日}}</ref>。これを契機に小説の依頼が増え、睡眠時間が取れないほど多忙になっただけでなく原稿料収入も給料の2倍程になったため、妻にも背中を押されて退社を決意<ref name="sunday" /><ref name="yomiuri" />。12年のサラリーマン生活を終え、30歳で専業作家となる<ref name="sunday" />。その直後に『[[セーラー服と機関銃]]』を発表した<ref name="sunday" />。1980年、『[[上役のいない月曜日]]』が第83回[[直木三十五賞|直木賞]]候補となる。その後も「[[三姉妹探偵団]]」シリーズや「[[杉原爽香]]」シリーズなど、さまざまな人気シリーズを生み出す<ref name="hochi20150612" />。2016年にはデビュー40年目にして『東京零年』で第50回[[吉川英治文学賞]]を受賞した。難解な表現をあえて避けた優しい文章と軽妙な表現を得意とし、余人に真似ができないスタイルを構築しており、2015年現在でも年に10冊の執筆をするなど創作意欲は衰えない<ref name="yomiuri"/>。推理小説(ユーモアミステリー)のほか、ホラーや青春ものなど作品のジャンルは多岐に及ぶ<ref name="sunday" />。


誕生日が2月29日であるために、1988年に刊行された[[三毛猫ホームズシリーズ|「三毛猫ホームズ」シリーズ]]の[[カッパ・ノベルス]]による著者紹介{{Full citation needed|date=2021年7月}}では「今年で10歳になった、ということなってしまう」と記載されている。多い時には年に20作以上執筆していたこともあり<ref name="hochi20150612" />、2006年8月に作家生活30年を迎え、執筆作品は480作に達した。その後も著作数は増え続け、2008年には500作<ref name="chiyuu">{{Cite interview|subject=赤川次郎|interviewer=佐藤宏子|url=http://www.chiyuu.com/chiyuu/vol_11.html|title=知遊の人 赤川次郎(作家)|date=2008|program=知遊|accessdate=2017-09-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090330054706/http://www.chiyuu.com/chiyuu/vol_11.html|archivedate=2009年3月30日}}</ref>、2015年には580冊を突破した<ref>{{Cite web|author=[[山前譲]]|title=デビュー40周年・オリジナル著書580冊突破!-赤川次郎の〈最初の一歩〉がもつ意味とは?|work=本の話WEB|publisher=[[文藝春秋]]|date=2016-01-14|url=http://hon.bunshun.jp/articles/-/4459|accessdate=2016-01-24}}</ref>。著作の累計発行部数は2015年時点で3億3000万部を超えている<ref name="hochi20150612" />。
誕生日が2月29日であるために、1987年に刊行された「三毛猫ホームズの登山列車カッパ・ノベルズ)の著者近影では「ったの10回。ゆえ正確には10歳」と記載されている。多い時には年に20作以上執筆していたこともあり<ref name="hochi20150612" />、2006年8月に作家生活30年を迎え、執筆作品は480作に達した。その後も著作数は増え続け、2008年には500作<ref name="chiyuu">{{Cite interview|subject=赤川次郎|interviewer=佐藤宏子|url=http://www.chiyuu.com/chiyuu/vol_11.html|title=知遊の人 赤川次郎(作家)|date=2008|program=知遊|accessdate=2017-09-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090330054706/http://www.chiyuu.com/chiyuu/vol_11.html|archivedate=2009年3月30日}}</ref>、2015年には580冊を突破した<ref>{{Cite web|author=[[山前譲]]|title=デビュー40周年・オリジナル著書580冊突破!-赤川次郎の〈最初の一歩〉がもつ意味とは?|work=本の話WEB|publisher=[[文藝春秋]]|date=2016-01-14|url=http://hon.bunshun.jp/articles/-/4459|accessdate=2016-01-24}}</ref>。著作の累計発行部数は2015年時点で3億3000万部を超えている<ref name="hochi20150612" />。


オペラや演劇鑑賞を行い論評するなど、芸術評論も物し、評論集が出版されている。
オペラや演劇鑑賞を行い論評するなど、芸術評論も物し、評論集が出版されている。

2022年3月10日 (木) 12:31時点における版

赤川 次郎あかがわ じろう
誕生 (1948-02-29) 1948年2月29日(76歳)
日本の旗 日本福岡県福岡市博多区
職業 小説家
国籍 日本の旗 日本
活動期間 1976年 -
ジャンル 推理小説
代表作 三毛猫ホームズシリーズ
三姉妹探偵団
幽霊シリーズ
主な受賞歴

オール讀物推理小説新人賞(1976年)

吉川英治文学賞(2016年)
デビュー作 幽霊列車
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赤川 次郎(あかがわ じろう、本名同じ[1][2]1948年2月29日[1] - )は、日本小説家福岡県福岡市博多区出身[3]血液型はA型[4]桐朋高等学校卒業[1]。父は元満洲映画協会東映プロデューサーの赤川孝一[2]

来歴

3歳の頃に手塚治虫漫画に影響を受け、小学生の時には漫画を描き始めるも挫折[5]。中学時代に『シャーロック・ホームズの冒険』に出会い、3年生の時に見よう見まねで小説を書き始める[5]。当時よく読んでいたジャンルに影響され、中世ヨーロッパの騎士の物語などを書いていた[1]。空想好きの少年であったようで、恋愛も自分が空想していたとおりであったとエッセイ[6]に書いている。

父・赤川孝一は他に家庭を持っていたので別居しており、幼少時もほとんど顔を合わせていなかったが、転勤によって東京に引っ越したため、赤川は小学校の担任の薦めにより中高一貫教育の私立桐朋学園を受験することになる[1]。無事に合格して進学したが、勉強も運動も苦手でなおかつ金銭的にも困窮していたため、楽しい学校生活ではなかった[1]。高校2年生の時に孝一が退社してしまい収入源が完全に断たれたため、大学進学は諦め就職を決意[1]。卒業後18歳で日本機械学会事務局編修課に就職し[2]、主に機械工学の雑誌に掲載する学術論文を校正する仕事に従事する[1][2]。しかし休日には誰かに読ませるあてもないまま、自らのために小説を書き続けていた[1]。25歳で結婚し、2年後に娘が産まれる[1]。この頃プロを目指すことを決意し、サラリーマン生活を続けながらシナリオを投稿するようになる[1][2]。そして天知茂主演のテレビ朝日系テレビドラマ『非情のライセンス』のシナリオ募集に初入選する[1]。ほとんど手直しされないまま放送され、初めて“脚本・赤川次郎”と名前が出て喜んだ反面、会社にはばれてしまった[2]。1976年、28歳の時に「幽霊列車」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、小説家デビュー[1]。1978年には当時主に社会派ミステリーを発行していた光文社カッパ・ノベルスから出版された『三毛猫ホームズの推理』が異色作としてヒットし脚光を浴びる[1][7]。これを契機に小説の依頼が増え、睡眠時間が取れないほど多忙になっただけでなく原稿料収入も給料の2倍程になったため、妻にも背中を押されて退社を決意[1][7]。12年のサラリーマン生活を終え、30歳で専業作家となる[1]。その直後に『セーラー服と機関銃』を発表した[1]。1980年、『上役のいない月曜日』が第83回直木賞候補となる。その後も「三姉妹探偵団」シリーズや「杉原爽香」シリーズなど、さまざまな人気シリーズを生み出す[2]。2016年にはデビュー40年目にして『東京零年』で第50回吉川英治文学賞を受賞した。難解な表現をあえて避けた優しい文章と軽妙な表現を得意とし、余人に真似ができないスタイルを構築しており、2015年現在でも年に10冊の執筆をするなど創作意欲は衰えない[7]。推理小説(ユーモアミステリー)のほか、ホラーや青春ものなど作品のジャンルは多岐に及ぶ[1]

誕生日が2月29日であるために、1987年に刊行された「三毛猫ホームズの登山列車」(カッパ・ノベルズ)の著者近影では「たったの10回。ゆえに正確には10歳」と記載されている。多い時には年に20作以上執筆していたこともあり[2]、2006年8月に作家生活30年を迎え、執筆作品は480作に達した。その後も著作数は増え続け、2008年には500作[8]、2015年には580冊を突破した[9]。著作の累計発行部数は2015年時点で3億3000万部を超えている[2]

オペラや演劇鑑賞を行い論評するなど、芸術評論も物し、評論集が出版されている。

人物

漢字変換の際に文章を書くリズムが崩れるのが嫌なため、ワードプロセッサパソコンは使わず、原稿用紙にサインペンを使って手書きで執筆する[2][8]

思想はリベラル[要出典]。2012年に橋下徹が、観客動員数が少ないことを理由に文楽事業への補助を打ち切った際には、「動員数で言えばベートーベンAKB48にも劣るということじゃないか、そんな馬鹿な話があるか」と『朝日新聞』への投書で批判した[10][11]。2021年6月には東京2020オリンピックの開催強行を「経済は取り戻せても、人の命は取り戻せない。医療も報道も、それぞれ良識と良心をかけて、五輪開催に反対の声を上げるとき」と批判[12]。朝日新聞で連載していた芸術評論コラム『三毛猫ホームズと芸術三昧!』は連載中に起きた東日本大震災福島第一原子力発電所事故を受け内容が時事評論に変貌した(書籍化された際には、『三毛猫ホームズのあの日まで・その日から ―日本が揺れた日―』とタイトルも改められた)。

受賞歴

著書

シリーズ作品(小説)

三毛猫ホームズシリーズ

三姉妹探偵団シリーズ

幽霊シリーズ

大貫警部(四文字熟語)シリーズ

華麗なる探偵たち(第九号棟)シリーズ

杉原爽香シリーズ

子子家庭シリーズ

早川一家シリーズ

吸血鬼シリーズ

悪魔シリーズ

鼠シリーズ

その他のシリーズ

  • セーラー服と機関銃シリーズ
    • セーラー服と機関銃(1978年、主婦と生活社・21世紀ノベルス)のち角川文庫
    • 卒業 セーラー服と機関銃・その後(1987年、カドカワノベルズ)のち角川文庫
      • 【改題】セーラー服と機関銃・その後 - 卒業 - (2006年、角川文庫・改版)
    • セーラー服と機関銃3 疾走(2016年、角川文庫)
  • 「花嫁」シリーズ (ジョイ・ノベルス
  • 「マザコン刑事」シリーズ (トクマ・ノベルズ
  • 「一億円」シリーズ(新潮社)
  • 夫は泥棒、妻は刑事」シリーズ (トクマ・ノベルズ)
  • 「天使と悪魔」シリーズ(カドカワノベルズカドカワ・エンタテインメント
  • 「南条姉妹」シリーズ(集英社)
  • 「懐かしの名画」ミステリーシリーズ
  • 「真夜中のオーディション」シリーズ
  • 「MとN探偵局」シリーズ(ジョイ・ノベルス)
  • 「怪異名所巡り」シリーズ(集英社)のち集英社文庫、のち「あいにおまかせ!? 幽霊バスツアー」シリーズに改題・集英社みらい文庫
  • 「闇からの声」シリーズ(教室の正義・悪夢の果て)
  • 「当節怪談事情」シリーズ

シリーズ外作品(小説)

小説以外

メディアミックス

テレビドラマ

テレビ朝日
日本テレビ読売テレビ
フジテレビ
TBSBS-i
テレビ東京
NHK総合

映画

舞台

ゲーム

参考資料

  • 郷原宏『赤川次郎公式ガイドブック』(2001年1月20日、三笠書房王様文庫)ISBN 4-8379-6073-1
  • 『イマジネーション 今、もっとも必要なもの』 (2004年、光文社)

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 赤川次郎 (30 July 2000). "日曜日のヒーロー 第225回 赤川次郎さん 400冊突破 明るく楽しくミステリー" (Interview). Interviewed by 松田秀彦. 2001年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年5月1日閲覧 {{cite interview}}: 不明な引数|program=は無視されます。 (説明)
  2. ^ a b c d e f g h i j k 赤川次郎 (12 June 2015). "【BOOKセレクト】赤川次郎著「幽霊審査員」" (Interview). Interviewed by 江畑康二郎. 2016年1月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年9月19日閲覧 {{cite interview}}: 不明な引数|program=は無視されます。 (説明)
  3. ^ 赤川次郎のプロフィール、出演情報、スケジュール”. ザテレビジョン. KADOKAWA. 2017年9月19日閲覧。
  4. ^ 天使と歌う吸血鬼 |集英社 オレンジ文庫
  5. ^ a b 赤川次郎. "気になるあの人の読書生活 第14回 赤川次郎さん" (Interview). 2015年3月5日閲覧 {{cite interview}}: 不明な引数|program=は無視されます。 (説明)
  6. ^ 『三毛猫ホームズの青春ノート』、36頁。 
  7. ^ a b c 赤川次郎. "赤川次郎「三毛猫ホームズ」…人の心を易しく軽妙に50作" (Interview). Interviewed by 川村律文. 2015年8月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年1月24日閲覧 {{cite interview}}: 不明な引数|program=は無視されます。 (説明)
  8. ^ a b 赤川次郎 (2008). "知遊の人 赤川次郎(作家)" (Interview). Interviewed by 佐藤宏子. 2009年3月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年9月19日閲覧 {{cite interview}}: 不明な引数|program=は無視されます。 (説明)
  9. ^ 山前譲 (2016年1月14日). “デビュー40周年・オリジナル著書580冊突破!-赤川次郎の〈最初の一歩〉がもつ意味とは?”. 本の話WEB. 文藝春秋. 2016年1月24日閲覧。
  10. ^ 「橋下氏、価値観押しつけるな」2012年4月12日付け『声』
  11. ^ 橋下市長に「価値観押しつけるな」 赤川次郎氏が朝日「声」欄で批判”. J-CASTニュース. ジェイ・キャスト (2012年4月12日). 2016年1月24日閲覧。
  12. ^ 「五輪中止 それしか道はない」、2021年6月6日
  13. ^ 吉川英治文学賞、赤川次郎さんの「東京零年」に」『毎日新聞』、2016年3月3日。2016年4月17日閲覧。オリジナルの2016年4月17日時点におけるアーカイブ。
  14. ^ a b 赤川次郎、原作を手がける舞台を観劇「観るたびに進化している」”. ORICON STYLE (2008年8月20日). 2015年3月5日閲覧。