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「ワッツ・ミサカ」の版間の差分

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| topic = オバマ大統領による演説(2009年10月14日)
| topic = オバマ大統領による演説(2009年10月14日)
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| video1 = [https://www.youtube.com/watch?v=_VRb9lGjeFY&feature=youtu.be&t=377 The President Observes Diwali] - [[ホワイトハウス]]公式YOUTUBEチャンネル。動画内のメガネをかけた白髪・青シャツの人物がミサカ。アメリカに貢献した人物として称賛している
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'''ワタル・ミサカ'''({{lang-en-short|Wataru Misaka}}、{{lang-ja-short|'''三阪 亙'''}}、[[1923年]][[12月21日]] - [[2019年]][[11月20日]])は、[[日系アメリカ人]]([[二世 (日系人)|二世]])の[[バスケットボール]]選手。
'''ワタル・ミサカ'''({{lang-en-short|Wataru Misaka}}、{{lang-ja-short|三阪 亙}}{{r|chugoku20060321}}、[[1923年]][[12月21日]] - [[2019年]][[11月20日]])は、[[日系アメリカ人]]([[二世 (日系人)|二世]])の[[バスケットボール]]選手。[[ポジション]]は[[ポイントガード]]


[[有色人種|非白人]]史上初の[[NBA]]選手(当時はBAA(Basketball Association of America))。[[ユタ大学]]出身者初のNBA選手。[[太平洋戦争]]前後の反日感情の激しかった時代のアメリカでバスケをし、[[NCAA男子バスケットボールトーナメント|NCAA]]と[[ナショナル・インビテーション・トーナメント|NIT]]共に優勝した唯一の日系人選手。
なおニックネーム「Wat Misaka」の発音は「'''ワット'''・ミサカ」が正しい(右テンプレートの下にある[[バラク・オバマ]]アメリカ合衆国大統領の映像を参照)。日本では「'''ワッツ'''・ミサカ」として紹介され現在でも一部メディアで用いられているため、本表題でもそれに従う。


愛称は'''ワット'''・ミサカ({{lang-en-short|Wat Misaka}}、右テンプレートの下にある[[バラク・オバマ]]大統領の映像を参照)。日本ではテレビ朝日『[[SmaSTATION!!]]』2005年2月26日放送回などで'''ワッツ'''・ミサカと紹介されている{{r|sma20050226}}{{efn2|五味幹男『日系二世のNBA』2007年6月情報センター出版局ではワッツ表記。一方で『[[中国新聞]]』2006年特集ではワット表記{{r|chugoku20060322}}。}}。
[[有色人種|非白人]]のバスケットボール選手として史上初の[[NBA]]{{refnest|group="注"|name="baa"|当時はBAA(Basketball Association of America)。}}プレーヤー<ref name=vecsey>{{cite news |last=Vecsey |first=George |title=Pioneering Knick Returns to Garden |language=英語 | newspaper=[[ニューヨーク・タイムズ]] |page=B-9 |date=2009-08-11 |url=http://www.nytimes.com/2009/08/11/sports/basketball/11vecsey.html?hp |accessdate=2013-03-02}}</ref><ref name=Robbins>{{cite news |last=Robbins |first=Liz |title=Size 7 Sneakers Are Still Hard to Fill |language=英語 | newspaper=ニューヨーク・タイムズ |date=2005-01-05 |url=http://www.nytimes.com/2005/01/05/sports/basketball/05misaka.html?_r=0 |accessdate=2013-03-10}}</ref>。[[ポジション]]は[[ポイントガード]]。[[ユタ大学]]卒。


== 来歴 ==
== 来歴 ==
=== 若年期 ===
=== 若年期 ===
両親共に[[広島県]][[御調郡]]岩子島村出身{{r|chugoku20060321}}{{r|chugoku20060322}}(現[[尾道市]]向島町[[岩子島]]、[[広島県人の移民]])。父は1902年([[明治]]35年)移民、母は旧姓村上で結婚後1922年([[大正]]11年)移民し([[写真花嫁|花嫁移民]])、[[ユタ州]][[ウィーバー郡 (ユタ州)|ウィーバー郡]][[オグデン (ユタ州)|オグデン]]で理髪店バーバー・ミサカを営んだ{{r|chugoku20060322}}{{r|chugoku20060325}}{{r|chugoku20060421}}。隣はバーと質屋で、周りは賭博場や売春宿が建ち並んだ[[ゲットー]]の中にあった{{r|wp20191125}}{{r|wp20190615}}{{r|nydailynews}}。夫婦はオグデンで3人の息子を授かり、ワタル・ミサカはその長男{{r|chugoku20060322}}。両親の願いは他の日系人と同様に息子たちに高等教育を受けさせることだった{{r|espn20120117}}{{r|chugoku20060323}}。

ミサカは日本語をほぼ話せなかった{{Sfn|ALLIED POWS||p=4}}。メキシコ人と2人の白人の友人はWATARUは言いにくいからとWATと呼びだした{{r|nydailynews}}。ミサカは幼い頃兄弟と様々なスポーツを楽しんだ{{r|chugoku20060322}}。足が速くスポーツ万能な少年ミサカは友人から引っ張りだこだった{{r|chugoku20060324}}。[[タッチ・フットボール]]チームでキャプテンを務めたが、両親はミサカが怪我したことを理由にプレーすることには難色を示した{{r|chugoku20060322}}{{r|wp20190615}}。野球チームではショートを守り、父親は日系一世の野球チームに入っていたほどの野球好きで、[[1935年の東京巨人軍]]アメリカ遠征の試合には家族で観戦に出かけている{{r|chugoku20060322}}{{r|wp20190615}}。

1939年、父が死去する{{r|chugoku20060322}}{{r|chugoku20060323}}。母は日本へ帰ることを提案したがミサカは残ることを主張した{{r|chugoku20060323}}。それで一家は残ると決め、母は理容師の免許をとって理髪店を継いだ{{r|chugoku20060323}}。ミサカはオグデンで農業を営んでいた母方の叔父のところで働き、勉学に励み、父の代わりとして兄弟の面倒を見た{{r|wp20191125}}{{r|chugoku20060323}}。バスケで頭角を現したのもこの頃になる{{r|chugoku20060322}}。{{仮リンク|オグデン高校|en|Ogden High School (Ogden, Utah)}}では1940年にユタ州の大会で優勝する{{r|chugoku20060324}}。

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| topic = 2010年の特集
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| video1 = [http://www.youtube.com/watch?v=LfPVxCx6LsY Wat Misaka - Weber State Basketball Legend] - ウィーバー州立大学公式YOUTUBEチャンネル。この中で若年期時代を中心に語っている
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1941年ウィーバーカレッジ(現{{仮リンク|ウィーバー州立大学|en|Weber State University}})に進学。ウィーバーは実家から数ブロックしか離れておらず、家からカレッジへ通いアルバイトでエンジニアとして働いて授業料を稼いた{{r|nydailynews}}{{r|espn20120117}}。そこへ同年12月太平洋戦争が勃発し、1942年2月[[日系人の強制収容]]が始まった{{Sfn|ALLIED POWS||p=1}}{{r|denver}}。ただミサカの実家は強制収容地区から外れたことに加えユタ州は比較的寛大な方だった{{efn2|ユタ州は全米で迫害された[[末日聖徒イエス・キリスト教会|モルモン教]]徒が多く、そのことから同じ境遇の日系人にシンパシーを感じていたため{{r|denver}}。1942年9月ユタ州に[[トパーズ戦争移住センター|トパーズ強制収容所]]ができるが、ユタ州の日系人ではなく西海岸の州から送られてきた人が収容された{{r|chugoku20060418}}{{r|denver}}。ただまったく制限がなかったわけではなく、預金凍結、午後8時以降の外出禁止、ラジオ・カメラ没収、オグデンの南にある{{仮リンク|ヒル空軍基地|en|Hill Air Force Base}}周辺の高速道路の通行禁止、などの措置がとられていた{{r|chugoku20060418}}{{r|denver}}。}}ことから、ミサカはアメリカ兵の友人と一緒に町を歩き、ウィーバーでバスケをするという幸運に恵まれた{{r|wp20191125}}{{Sfn|ALLIED POWS||p=2}}{{r|chappell}}。ここでも2度カンファレンス優勝し、1942年カレッジポストシーズントーナメントで優勝し最優秀選手に選出された{{r|chugoku20060324}}{{r|weberstatesports}}。1943年ウィーバーカレッジのアスリート・オブ・ザ・イヤーに選出される{{r|weberstatesports}}。1943年春にカレッジを卒業する{{Sfn|ALLIED POWS||p=2}}。
両親は[[広島県]][[御調郡]]岩子島村(現[[尾道市]]向島町[[岩子島]])出身<ref name="chugoku20060322">{{cite web|date=2006-03-22|url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/basketball/misaka1_2.html |title=父の影響? 球技に熱中 |publisher=[[中国新聞]] |accessdate=2013-03-02}}</ref>。父は1902年([[明治]]35年)母は1922年([[大正]]11年)にアメリカへ移民し結婚、[[ユタ州]][[ウィーバー郡 (ユタ州)|ウィーバー郡]][[オグデン (ユタ州)|オグデン]]で理髪店「バーバー・ミサカ」を営んだ<ref name="chugoku20060322" /><ref>{{cite web|date=2006-03-25|url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/basketball/misaka1_5.html |title=物静かさに気骨秘める |publisher=中国新聞 |accessdate=2013-03-03}}</ref>。オグデンで3人の息子を産み、ワタル・ミサカはその長男<ref name="chugoku20060322" />。幼い頃は兄弟と様々なスポーツを楽しんだ<ref name="chugoku20060322" />。当時から日本語を話すことはあまりなかった<ref name=kued>{{cite web |title=Interview of Wataru Misaka |language=英語 | publisher=KUED Channel 7|url=http://www.kued.org/productions/worldwar2/untoldStories/WatMusaka.pdf |format=PDF|accessdate=2013-03-10}}</ref>。


=== ユタ大/兵役 ===
1939年、父が死去する<ref name="chugoku20060323">{{cite web|date=2006-03-23|url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/basketball/misaka1_3.html |title=「米に残る」 はっきり主張 |publisher=中国新聞 |accessdate=2013-03-02}}</ref>。以降、父の代わりとして兄弟の面倒を見、母に経済的な負担をかけない進路をとる<ref name="chugoku20060323" />。本格的にバスケを始めたのもこの頃である<ref name="chugoku20060324">{{cite web|date=2006-03-24|url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/basketball/misaka1_4.html |title=高校・大学 常に優勝経験  |publisher=中国新聞 |accessdate=2013-03-02}}</ref>。地元{{仮リンク|オグデン高校|en|Ogden High School (Ogden, Utah)}}では1940年にユタ州の大会で優勝し、1941年にウィーバーカレッジ{{refnest|group="注"|当時は[[コミュニティ・カレッジ|ユニバーシティ・カレッジ]]で現{{仮リンク|ウィーバー州立大学|en|Weber State University}}。}}に進学すると2度カンファレンス優勝し、大会優秀選手に選出された<ref name="chugoku20060324" /><ref name=nielsen>{{cite web |last=Nielsen |first=Chad |title= That’s Just How It Was |language=英語 | publisher=Continuum |date=2010 |url=http://continuum.utah.edu/departments/thats-just-how-it-was |accessdate=2013-03-02}}</ref>。
1943年、工学学位を取得する目的で[[ユタ大学]]に編入、当初はバスケをするつもりはなかったという{{r|chugoku20060323}}{{r|nydailynews}}。そこへ部員不足でトライアウトをしていたバスケ部に参加し、入部することになった{{r|nydailynews}}。当時第二次世界大戦中でどこも大学生自体が少なくなっていたことから活動停止している大学バスケ部が多く、試合数をこなすことが難しかった状況だった{{r|nielsen}}{{r|utahch}}{{r|nydailynews}}。ユタ大でのミサカは守備の名手としてならした{{r|chugoku20060324}}{{r|chugoku20060327}}{{r|wp20190615}}。


{{Vertical_images_list
1941年12月、[[真珠湾攻撃]]によって日米間で戦端が開かれると日系人はアメリカ全土で迫害され、1942年からは[[日系人の強制収容]]が始まった。しかし、ユタ州はその中でも比較的寛大な方だった{{refnest|group="注"|ユタ州は全米で迫害された[[末日聖徒イエス・キリスト教会|モルモン教]]徒が多く、そのことから日系人にシンパシーを感じていたため<ref name="denver">{{cite web|url=http://www.denver.us.emb-japan.go.jp/jp/bilateral/ut.html#6 |title=ユタ州における日系人の歴史 |publisher=在デンバー日本国総領事館 |accessdate=2013-03-02}}</ref>。1942年9月ユタ州に[[トパーズ戦争移住センター|トパーズ強制収容所]]ができるが、ユタ州の日系人ではなく西海岸の州から送られてきた人が収容された<ref name="denver" />。}}ことから、ミサカ自身アメリカ兵の友人を持ちウィーバーカレッジでバスケをするという幸運に恵まれた<ref name=kued /><ref name=chappell>{{cite news | url=http://www.npr.org/blogs/thetwo-way/2012/02/15/146888834/pro-basketballs-first-asian-american-player-looks-at-lin-and-applauds| title=Pro Basketball's First Asian-American Player Looks At Lin, And Applauds |language=英語 | work=NPR | date=2012-02-15 | accessdate=2013-03-05 | author=Chappell, Bill }}</ref>。当時の地元紙でウィーバーの「Wat Misaka」の活躍が報道されている(右の動画参照)。1943年春にカレッジを卒業する<ref name=kued />。
|寄せ=右
|幅= 250px
| 1=1944 Utah Utes.jpg| 2=The 1943-44 University of Utah basketball team。写真中央21番がミサカ。その後ろの22番が{{仮リンク|アーニー・フェリン|en|Arnie Ferrin}}{{r|deseret20191121}}、その左29番が{{仮リンク|フレッド・シェフィールド|en|Fred Sheffield}}{{r|deseret20191121}}で、ミサカの後にBAA入りしている。手前に座る17番はマス・マツノという人物{{r|deseret20191121}}。
| 3=131774 LOOKING SOUTH OF THE CITY, SHOWING THE REBUILDING AND CLEARING THAT HAS BEEN CARRIED OUT ONE YEAR AFTER THE ATOM BOMB WAS DROPPED.JPG| 4=1945年12月米軍は[[広島東警察署]]を拠点に無作為に抽出した市民を午前と午後に1人ずつ面接した{{r|chugoku20100108}}。この時の聞取資料は現在[[広島平和記念資料館]]に保管されており、その中にミサカの録音テープやメモも残っている{{r|chugoku20100108}}。写真の中央が旧東警察署(1946年8月撮影)。
}}
1944年ユタ大は[[NCAA男子バスケットボールトーナメント|NCAA]]のみ出場するつもりだったが、[[ナショナル・インビテーション・トーナメント|NIT]]へ招待されたため出場{{efn2|当時はNCAAよりNITのほうが価値の高い大会だった{{r|nyt20120214}}{{r|utahch}}。}}することになった{{r|utahch}}。{{仮リンク|1944年のNIT|en|1944 National Invitation Tournament}}初戦は[[マディソン・スクエア・ガーデン]](MSG)で行われたが敗退した{{r|chugoku20060326}}{{r|utahch}}。そこで観光してから帰ろうと思っていたユタ大に、交通事故の影響で出場辞退した[[アーカンソー大学]]の代替として{{仮リンク|1944年のNCAA|en|1944 NCAA Basketball Tournament}}への招待がきた{{r|chugoku20060326}}{{r|utahch}}。同じシーズンにNITとNCAA両方に出場した大学は初めてのことであった{{r|utahch}}。


ユタ大はNCAA決勝ラウンドを勝ち上がり、MSGで行われる決勝に進んだ{{r|chugoku20060326}}。当時ミサカは[[シックスマン]]で準決勝まで出場時間はわずかだったが、決勝開始数分で味方が怪我してしまい途中交代出場した{{r|chugoku20060327}}。そしてユタは延長戦で勝利し、下馬評を覆しNCAA優勝を飾った{{r|wp20191125}}{{r|chugoku20060326}}。この勝利に戦地のユタ州出身者は勇気づけられたという{{r|chugoku20060327}}。ミサカは決勝で4点しか取らなかったもののその守備力は評価された{{r|chugoku20060327}}。地元メディア数人が「"Kilo Wat" Misaka」と名付けた{{r|deseret20120215}}{{r|espn20120117}}。[[デイリーニューズ (ニューヨーク)]]は、''“A one-hander by Wat Masaki ... slipped the Utes into the lead again (much to the delight of the crowd which was rooting for the under dog).”(名前は原文まま)''、と報じている{{r|nydailynews}}。ミサカの活躍は強制収容所に入れられた日系人を勇気づけた{{r|npr20191122}}。
=== ユタ大/兵役 ===
1943年、3年生から[[ユタ大学]]に編入し<ref name=kued /><ref name="chugoku20060323" />、守備の名手としてならした<ref name="chugoku20060324" />。1944年、ユタ大学は[[ナショナル・インビテーション・トーナメント]] (NIT) に出場するも初戦の[[ケンタッキー大学]]相手に敗れてしまう{{refnest|group="注"|[[:en:1944 National Invitation Tournament]]参照。}}<ref name="chugoku20060326">{{cite web|date=2006-03-26|url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/basketball/misaka1_6.html |title=代替出場で全米を制す |publisher=中国新聞 |accessdate=2013-03-02}}</ref>。ちょうどその時交通事故の影響で出場辞退した[[アーカンソー大学]]の代替として[[NCAA男子バスケットボールトーナメント]]出場を果たすと、下馬評を覆し優勝を飾った{{refnest|group="注"|[[:en:1944 NCAA Men's Division I Basketball Tournament]]参照。}}<ref name="chugoku20060326" />。当時ミサカは[[シックスマン]]で<ref name=Robbins /><ref name="chugoku20060422" />、[[マディソン・スクエア・ガーデン]]での[[ダートマス大学]]との決勝戦の活躍を目にしたスポーツライターは「"Kilo Wat" Misaka」("キロワット"ミサカ){{refnest|group="注"|[[電力]]の単位である[[ワット|キロワット]](kilo Watt)と掛けたもの。}} と名付けた<ref>{{cite web |last=Rock |first=Brad |title= Utah's Wat Misaka tracks 'Linsanity' with interest |language=英語 | publisher=Deseret News |date=2012-02-15 |url=http://www.deseretnews.com/article/765551165/Utahs-Wat-Misaka-tracks-Linsanity-with-interest.html?pg=all |accessdate=2013-03-05}}</ref>。


NCAA優勝から帰路につき駅に到着すると、群衆が彼らを出迎えた{{r|nielsen}}。その群衆の中に母もおり、その手にはアメリカ軍からの[[召集令状]]が握られていた{{r|chugoku20060418}}{{r|wp20190615}}{{Sfn|ALLIED POWS||p=3}}。1944年6月[[アメリカ陸軍]]入隊{{r|chugoku20060418}}、訓練後[[アメリカ陸軍情報部]]日系語学兵{{r|chugoku20100108}}{{efn2|日系人は陸軍情報部、[[第442連隊戦闘団]]、[[第100歩兵大隊]]にほぼ配属された。詳細は[[:en:Japanese-American service in World War II]]参照。}}となり語学訓練中に1945年5月[[ヨーロッパ戦勝記念日|VEデー]]を迎え{{Sfn|ALLIED POWS||p=6}}、のち[[フィリピン]]・[[マニラ]]の基地に配属が決定し移動途中の航海上で1945年9月[[対日戦勝記念日|終戦]]を迎える{{r|chugoku20060419}}{{Sfn|ALLIED POWS||p=5}}。
NCAA優勝から故郷へ帰り、アメリカ軍から[[召集令状]]が届いていることを知る<ref name=kued /><ref name="chugoku20060418">{{cite web|date=2006-04-18|url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/basketball/misaka2_1.html |title=揺れる心抑え米軍入隊 |publisher=中国新聞 |accessdate=2013-03-02}}</ref>。1944年6月、[[アメリカ陸軍]]入隊<ref name=Robbins /><ref name="chugoku20060418" />。[[アメリカ陸軍情報部]]日系語学兵となり<ref name="chugoku20100108">{{cite web|date=2010-01-08|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20100107100831202_ja |title=米の日系語学兵が面接 1945年12月 広島の被爆者調査 |publisher=中国新聞 |accessdate=2013-03-28}}</ref>、同年8月[[ミネソタ州]][[ミネアポリス]]の{{仮リンク|スネリング砦|en|Fort Snelling}}内にあった日本語学校{{refnest|group="注"|現[[アメリカ国防総省語学学校]]日本語学部 。当時日系人はここと[[第100歩兵大隊]]と[[第442連隊戦闘団]]の3つにほぼ配属された。詳細は[[:en:Japanese American service in World War II]]参照。}}に入校、約9ヶ月間学ぶ<ref name=kued /><ref name=nielsen /><ref name="chugoku20060419">{{cite web|date=2006-04-19|url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/basketball/misaka2_2.html |title=日本語学ぶ合間も球技 |publisher=中国新聞 |accessdate=2013-03-02}}</ref>。[[フィリピン]]・[[マニラ]]の基地に配属が決定し、移動途中の[[航海]]上で終戦を迎える<ref name=kued />。フィリピンでは[[ルソン島]]の[[捕虜|捕虜収容所]]で尋問任務についた{{refnest|group="注"|ミサカは[[マニラ軍事裁判]]の内容をはっきりと知らず処刑も見ていないと証言している<ref name=kued />。}}<ref name=kued />。後に{{仮リンク|連合国翻訳通訳部|en|Allied Translator and Interpreter Section}}での任務となり、同年11月[[横田飛行場|横田基地]]に配属され、[[米国戦略爆撃調査団]]戦意調査部で翻訳通訳担当となった<ref name=kued /><ref name="chugoku20060419" />。その最初の仕事が両親の故郷である広島県での、[[広島市への原子爆弾投下]]後の現地調査{{refnest|group="注"|この時の聞き取り調査の資料は現在[[広島平和記念資料館]]に残っている<ref name="chugoku20100108" />。}}だった<ref name=nielsen /><ref name="chugoku20060420">{{cite web|date=2006-04-20|url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/basketball/misaka2_3.html |title=市民の悲しみ聞き取る |publisher=中国新聞 |accessdate=2013-03-02}}</ref>。広島で1週間、次に[[山口県]][[萩市]]で1週間現地調査を行い、その後は東京で半年ほど任務についた<ref name=kued /><ref name="chugoku20060419" />。この際広島市内に住む叔父家族、両親の故郷[[岩子島]]を訪ねている<ref name=kued /><ref name="chugoku20060420" /><ref>{{cite web|date=2006-04-21|url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/basketball/misaka2_4.html |title=「古里」で深めた きずな |publisher=中国新聞 |accessdate=2013-03-10}}</ref>。


フィリピンでは[[ルソン島]]の[[捕虜|捕虜収容所]]で尋問任務についた{{Sfn|ALLIED POWS||p=5}}。ミサカによると捕虜の中には日系人もおり、ユタで生まれユタ大を卒業した後就職できなかったため日本へ行きそこで徴兵され旧日本兵として戦った人物もいたという{{Sfn|ALLIED POWS||p=10}}。
1946年9月、2年間の兵役を終えユタ大学に復学する<ref name="chugoku20060422">{{cite web|date=2006-04-22|url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/basketball/misaka2_5.html |title=大役に奮起 栄冠つかむ |publisher=中国新聞 |accessdate=2013-03-02}}</ref>。徐々にスターターとして定着し、1947年3月、NITでも優勝を飾った{{refnest|group="注"|[[:en:1947 National Invitation Tournament]]参照。}}<ref name="chugoku20060422" />。ケンタッキー大学との決勝戦では、相手のエース{{仮リンク|ラルフ・ベアード|en|Ralph Beard}}{{refnest|group="注"|[[1948年ロンドンオリンピックのバスケットボール競技]]金メダリスト。}}をマークし1得点に抑え勝利に貢献した<ref name="chugoku20060422" />。なお、NCAAとNITで優勝した日系人はミサカ以外にはいない<ref>{{cite web|date=2006-04-23|url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/basketball/misaka2_6.html |title=NYファン 拍手と歓声 |publisher=中国新聞 |accessdate=2013-03-02}}</ref>。

次に[[連合国軍占領下の日本]]での任務となり、1945年11月[[横田飛行場|横田基地]]に配属され、[[米国戦略爆撃調査団]]戦意調査部で翻訳通訳担当となった{{r|chugoku20060419}}{{Sfn|ALLIED POWS||p=12}}{{Sfn|ALLIED POWS||p=13}}。その最初の仕事が両親の故郷である広島県での、[[広島市への原子爆弾投下]]後の市民に対する聞取調査だった{{r|chugoku20060420}}。広島で1週間、次に[[山口県]][[萩市]]で1週間現地調査を行い、その後は東京で半年ほど任務についた{{r|chugoku20060419}}{{Sfn|ALLIED POWS||p=13}}{{Sfn|ALLIED POWS||p=14}}。この間、広島市内に住み被爆から助かった叔父家族、両親の故郷岩子島を訪ねている{{r|chugoku20060420}}{{r|chugoku20060421}}。

1946年9月、2年間の兵役を終えユタ大に復学すると、バスケ部では一からの出直しとなったものの徐々に評価を上げスターターとして定着する{{r|chugoku20060422}}{{r|nielsen}}。ユタ大は{{仮リンク|1947年のNIT|en|1947 National Invitation Tournament}}に招待され出場し決勝まで進んだ。MSGで行われた決勝でミサカは相手エース{{仮リンク|ラルフ・ベアード|en|Ralph Beard}}をマークし1得点に抑え勝利に貢献した{{r|chugoku20060422}}{{r|nielsen}}。翌日のどの新聞にも“Wat Misaka”の文字が乗り、[[ニューヨーク・タイムズ]]は'' “Little Wat Misaka, American born of Japanese descent, was a 'cute' fellow intercepting passes and making the night miserable for Kentucky,”'' 、と絶賛した{{r|wp20191125}}{{r|chugoku20060422}}{{r|wp20190615}}。チームのエースである{{仮リンク|アーニー・フェリン|en|Arnie Ferrin}}は「NITの歴史の中で最高の守備パフォーマンス」と称賛している{{r|wp20191125}}。ユタではお祭り騒ぎとなり、ミサカはユタの英雄の一人となった{{r|chugoku20060422}}。なおNCAAとNITで優勝した日系人はミサカ以外にはいない{{r|chugoku20060423}}。


=== ニックス ===
=== ニックス ===
1946年に創立したBAA<ref group="注" name="baa" />(後のNBA)は、大学バスケよりも知名度が低くスターを欲していた<ref name="chugoku20060516">{{cite web|date=2006-05-16|url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/basketball/misaka3_1.html |title=プロから誘い 入団即決 |publisher=中国新聞 |accessdate=2013-03-02}}</ref>。そこで、NCAAとNITで優勝し知名度のあったミサカに白羽の矢が立つことになった<ref name="chugoku20060516" />
1946年に創立したBAA(後のNBA)は、大学バスケよりも知名度が低くスターを欲していた{{r|chugoku20060516}}。そこで、NCAAとNITで優勝し知名度のあったミサカに白羽の矢が立つことになった{{r|chugoku20060516}}{{r|nydailynews}}。当時ミサカはBAAの存在を知らなかった{{r|espn20120117}}

1947年7月1日、BAA史上初めて行われた{{仮リンク|1947年のBAAドラフト|en|1947 BAA draft}}カレッジドラフトで、ミサカは7巡目全体61位でニューヨーク・ニッカーボッカーズ(現[[ニューヨーク・ニックス]]){{efn2|当時は地域別で優先的にドラフト指名できる権利を持ち、ユタ州はニックスの管轄だった{{r|chugoku20060516}}。なおニックスにドラフトされた選手のうちNIT・NCAAで優勝経験があったのはミサカだけだった{{r|chugoku20060517}}。}}に指名された。ニックスの{{仮リンク|ネッド・アイリッシュ|en|Ned Irish}}球団社長は契約のためユタ州を訪れ、州最大のホテルの一室でミサカと交渉した{{r|espn20120117}}。ミサカはすぐに入団を決め契約、ニックスにおける1947年ドラフト組の契約第1号となった{{r|chugoku20060321}}。非白人としてNBA入りした史上初の選手となり、ユタ大学出身者として初めてNBA入りした選手となった{{r|chugokuyoake4}}。契約金は4,000ドル{{r|thedigestweb20191116-1}}(3,000ドル{{r|chugoku20060516}}とも){{efn2|当時の工学系大卒1年目の年収と同程度{{r|chugoku20060516}}{{r|espn20120117}}。}}。背番号は"15"{{r|chugoku20060321}}。この時点でもアメリカと日本両国の国籍を有していた{{r|chugoku20060321}}。


{{仮リンク|ジョー・ラプチック|en|Joe Lapchick}}監督のもと、開幕までに練習試合が組まれ、出場機会は徐々に減らされていったものの{{r|chugoku20060517}}、開幕ベンチ入り12人の選手枠に残った{{r|chugoku20060519}}。ミサカは監督がどういうプレーを要求しているのかわからなかったという{{r|chugoku20060517}}。ミサカのポジションであるガードの選手が過多だったのも災いした{{r|chugoku20060518}}。ニューヨークのメディア各紙では、ミサカの人気より得点能力の低さを問題視された{{r|chugoku20060519}}。デビュー直前にはニューヨーク・タイムズに写真付きで紹介された{{r|wp20190615}}。
1947年7月1日、BAA史上初めて行われたカレッジドラフトで、ミサカはニューヨーク・ニッカーボッカーズ(現[[ニューヨーク・ニックス]])に指名された{{refnest|group="注"|当時は地域別で優先的にドラフト指名できる権利を持ち、ユタ州はニックスの管轄だった<ref name="chugoku20060516" />。}}。なお、ニックスのドラフト1巡目は{{仮リンク|ディック・ホルブ|en|Dick Holub}}で、ミサカはその他にドラフト指名された9人のうちの一人である<ref>{{cite web|url=http://www.basketball-reference.com/draft/BAA_1947.html |title=1947 BAA Draft |language=英語 |publisher=Basketball-Reference.com |accessdate=2013-03-04}}</ref>。ニックスの{{仮リンク|ネッド・アイリッシュ|en|Ned Irish}}球団社長は契約のためユタ州を訪れ、州最大のホテルの一室でミサカと交渉した<ref name="chugoku20060321">{{cite web|date=2006-03-21|url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/basketball/misaka1_1.html |title=白人以外 初のプロ選手 |publisher=中国新聞 |accessdate=2013-03-07}}</ref>。ミサカはすぐに入団を決め契約、ニックスにおける1947年ドラフト組の契約第1号となった<ref name="chugoku20060321" />。非白人としてNBA入りした史上初の選手<ref name="chugoku20060321" />となり、ユタ大学出身者としても初めてNBA入りした選手となった。契約金は3,000ドル{{refnest|group="注"|当時の工学系大卒1年目の年収と同程度<ref name="toonippo20041118">{{cite web|date=2004-11-18|url=http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/scramble/scramble2004/20041118.html |title=後輩の田臥にエール/NBA初の日系二世選手 |publisher=[[東奥日報]] |accessdate=2013-03-28}}</ref>。}}<ref name="chugoku20060516" />。背番号は"15"<ref name="chugoku20060321" />。この時点でもアメリカと日本両国の国籍を有していた<ref name="chugoku20060321" />。


{| class="wikitable" style="float:right;font-size:smaller;text-align: center;"
{| class="wikitable" style="float:right;font-size:smaller;text-align: center;"
|+開幕戦からの出場記録<ref name=1948_games>{{cite web|url=https://www.basketball-reference.com/teams/NYK/1948_games.html |title=1947-48 New York Knicks Schedule and Results |language=英語 |publisher=Basketball-Reference.com |accessdate=2020-01-17}}</ref>
!!!日付!!colspan=2|対戦!!G!!F!!P!!勝敗
!!!日付!!colspan=2|対戦!!G!!F!!P!!勝敗
|-
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89行目: 128行目:
|text-align:left colspan=8|G:フィールドゴール、F:フリースロー<br />P:得点、H:ホーム、A:アウェー
|text-align:left colspan=8|G:フィールドゴール、F:フリースロー<br />P:得点、H:ホーム、A:アウェー
|}
|}
{{仮リンク|ジョー・ラプチック|en|Joe Lapchick}}監督のもと、開幕までに練習試合が組まれ、開幕ベンチ入り12人の選手枠にも残った<ref name="chugoku20060519">{{cite web|date=2006-05-19|url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/basketball/misaka3_4.html |title=厳しい評価 競技と決別 |publisher=中国新聞 |accessdate=2013-03-02}}</ref>が、出場機会は徐々に減らされていった<ref>{{cite web|date=2006-05-17|url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/basketball/misaka3_2.html |title=期待と注目 一身に受け |publisher=中国新聞 |accessdate=2013-03-02}}</ref>。ミサカのポジションであるガードの選手が過多だったのも災いした<ref name="chugoku20060518">{{cite web|date=2006-05-18|url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/basketball/misaka3_3.html |title=開幕1ヵ月 無情の解雇 |publisher=中国新聞 |accessdate=2013-03-02}}</ref>。ニューヨークのメディア各紙では、ミサカの人気より得点能力の低さを問題視された<ref name="chugoku20060519" />。


[[1947-1948シーズンのBAA]]開幕戦に途中出場し、第3節の{{仮リンク|プロビデンス・スチームローラーズ|en|Providence Steamrollers}}戦では5得点をあげたが、さらに出場機会は減っていき、第5節以降は出番がなかった<ref name="chugoku20060518" />。チームは開幕から3連勝を飾るものの、その後3連敗を喫した<ref name=1948_games />。そこで、チームが選手補強するため過多だったガードから選手を削ることとなり、同年11月24日、アイリッシュ球団社長から解雇を言い渡された<ref name="chugoku20060519" /><ref name="chugoku20060518" /><ref name=wertheim20120211>{{cite web |last=Wertheim |first=Jon |title= Decades before Lin's rise, Misaka made history for Asian-Americans |language=英語 | publisher=Sports Illustrated. |date=2012-02-11 |url=http://sportsillustrated.cnn.com/2012/writers/jon_wertheim/02/11/jeremy.lin.wataru.misaka/index.html |accessdate=2013-03-02}}</ref>。一部メディアでは、ラプチック監督は日系人に対してよく思っていなかったためとする報道もある<ref name="toonippo20041118" />
[[1947-1948シーズンのBAA]]開幕戦、ミサカはベンチ座った{{r|chugoku20060518}}。NITやNCAA決勝で超満員のMSGを経験しているミサカには、BAA開幕戦会場のMSGの客の入りは物足りなかったという{{r|chugoku20060518}}。開幕戦にミサカは途中出場している{{r|chugoku20060518}}。大学バスケファンに名の知られたミサカであったがそのデビューはニューヨーク以外では話題にならなかった{{r|wp20191125}}。第3節の{{仮リンク|プロビデンス・スチームローラーズ|en|Providence Steamrollers}}戦では5得点をあげたが、さらに出場機会は減っていき、第5節以降は出番がなかった{{r|chugoku20060518}}。チームは開幕から3連勝を飾るものの、その後3連敗を喫した{{r|1948_games}}。


そこで、チームが選手補強するため過多だったガードから選手を削ることとなり、同年11月24日アイリッシュ球団社長から「12人の枠に抑えないといけない」という理由で解雇を言い渡された{{r|chugoku20060518}}{{r|chugoku20060519}}。ミサカは社長から「自分の本意ではない。選手を選ぶ全権は監督にあるからしょうがない。」とも言われたという{{r|chugoku20060519}}。契約金は全額支払われ、支給された7インチの[[コンバース]]ハイトップも持って帰らされた{{r|wp20191125}}{{r|nyt20050105}}{{r|si20120211}}。
[[ハーレム・グローブトロッターズ]]{{refnest|group="注"|当時は現在のような娯楽性を追求したチームではなく、真剣に勝利を目指していた[[有色人種|非白人]]系のチーム。詳細は当該チームの歴史項を参照。}}からオファーがあったがこれを断り、バスケットボール選手を引退した<ref name=Robbins /><ref name="chugoku20060321" />。


ミサカ本人は納得がいかなかった{{r|chugoku20060519}}。のちアーニー・フェリンは、「当時ニックスにはいいPGが2人いて、もしPGが必要なチームに入っていればワットの人生は変わっていただろう」、とコメントしている{{r|chugoku20060519}}。ニックス時代唯一仲の良かったチームメイト{{仮リンク|カール・ブラウン (バスケットボール)|en|Carl Braun (basketball)|label=カール・ブラウン}}は、「身長が小さすぎたからでは」、とコメントしている{{r|thedigestweb20191116-1}}。
BAA通算で3試合7得点<ref name="chugoku20060520">{{cite web|date=2006-05-20|url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/basketball/misaka3_5.html |title=不遇時代に勇気与える |publisher=中国新聞 |accessdate=2013-03-02}}</ref>。開幕戦からの出場記録<ref name=1948_games>{{cite web|url=http://www.basketball-reference.com/teams/NYK/1948_games.html |title=1947-48 New York Knicks Schedule and Results |language=英語 |publisher=Basketball-Reference.com |accessdate=2013-03-10}}</ref>は、右表のとおり。

ニックスを退団したミサカはまっすぐ帰らず[[シカゴ]]に住む米軍時代の友人のところへ数日身を寄せ、ユタ州の家族や友人に知らせないまま[[ソルトレイクシティ]]へ帰っていった{{r|chugoku20060519}}{{r|nyt20050105}}。[[ハーレム・グローブトロッターズ]]からオファーがあったが、バスケでは食べていけないとこれを断り、バスケットボール選手を引退した{{r|wp20190615}}{{r|nyt20090811}}{{r|chugoku20060519}}。


=== 引退後 ===
=== 引退後 ===
ニックスとの契約金を使ってユタ大学に復学し機械工学の学士を取得、1948年6月に卒業した{{r|nyt20090811}}{{r|chugoku20060519}}。卒業後はEimco Corporationに勤務し{{r|cityviewmortuary}}、1957年から[[スペリー|スペリー社]]でミサイル制御システム設計担当として勤務し1981年退職{{r|chugoku20060608}}{{r|nyt20050105}}{{r|wp20191125}}、その後はPentronics and Dynotron, Incに勤務し2014年91歳で退職した{{r|cityviewmortuary}}。

バスケから完全に離れたミサカが次に熱中したのは[[ボウリング]]だった{{r|chugoku20060607}}。1940年代全米ボウリング会議(ABC)は白人以外の公式戦出場を認めていなかったため、日系人たちで独自の大会を開きソルトレイクシティでも行われた{{r|chugoku20060607}}。ミサカはその中でボウリングが上達し、更にミサカの幅広い交友関係の中にABC幹部がいて、ミサカは彼を通じてABCに白人以外の解放を求めた{{r|chugoku20060607}}。結果ABCは1950年制限を撤廃した{{r|chugoku20060607}}。1978年日系アメリカ人ボウリング協会会長に就任{{r|chugokuyoake1}}。1997年日系アメリカ人ボウリング殿堂入り{{r|wp20191125}}。またABCは複数の協会との組織再編により2005年{{仮リンク|アメリカボウリング会議|en|United States Bowling Congress}}(USBC)が発足するが、ミサカは当時ソルトレイク協会理事としてその再編に携わっている{{r|chugoku20060608}}。80歳の時に299点を出したという{{r|wp20191125}}{{r|nydailynews}}{{r|chugoku20060607}}。

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| topic = 2010年現在のインタビュー
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| video1 = [http://www.youtube.com/watch?v=uFYVwYc8dno Wat Misaka Interview] - [[全米日系人博物館]]公式YOUTUBEチャネル。
| video1 = [http://www.youtube.com/watch?v=uFYVwYc8dno Wat Misaka Interview] - 2006年[[全米日系人博物館]]によるイタビュー
| video2 = [https://www.youtube.com/watch?v=Hz50-UunDcY Transcending - The Wat Misaka Story]
| video3 = [https://www.youtube.com/watch?v=ZgbRcscKpy4 Stephen Curry, Warriors Meet Legendary Point Guard Wat Misaka] - 2018年CU360
| video4 = [https://www.youtube.com/watch?v=O-PV9QPr6w4 How The First Asian In NBA History Was Sadly Bullied Out] - 2018年NBA Insider
}}
}}
1999年ユタ州スポーツ[[殿堂]]に選出される{{r|utahch}}。2000年[[全米日系人博物館]]で紹介され、ミサカはニックスにもらったコンバースハイトップとユタ大のジャージを寄付した{{r|nyt20050105}}{{r|si20120211}}。ただこの時点までミサカのバスケでの功績はほとんど知られておらず、[[姚明]]や[[田臥勇太]]などのアジア系がNBAでプレーした2000年代前半から注目を集めることになる{{r|wp20191125}}{{r|chugoku20060609}}。2002年日系アメリカ人のスポーツ殿堂入り{{r|chugokuyoake1}}。2008年にドキュメンタリー映画『Transcending - The Wat Misaka Story』が制作された{{r|nyt20090811}}{{r|weberstatesports}}。2009年ホワイトハウスで行われた式典に招かれオバマ大統領から称賛され{{r|espn20120117}}、[[2009年のNBAオールスターゲーム]]にNBAレジェンドとして表彰され{{r|nielsen}}、同年MSGに招かれニックスから表彰された{{r|nyt20090811}}{{r|weberstatesports}}。
ニックスとの契約金を使って再びユタ大学に復学し機械工学の学士を取得、1948年6月に卒業した<ref name=vecsey /><ref name=Robbins /><ref name="chugoku20060519" />。それからはユタ州[[ソルトレイクシティ]]にあった[[スペリー|スペリー社]]で、ミサイル制御システム設計担当として勤務した<ref name=Robbins /><ref name=wertheim20120211 /><ref>{{cite web|date=2006-06-08|url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/basketball/misaka4_2.html |title=世話好き 周囲まとめる |publisher=中国新聞 |accessdate=2013-03-02}}</ref>。


ニックスを解雇されたことに長く納得いっていなかった{{r|chugoku20060519}}{{r|chugoku20060520}}。ニックス退団から2009年まで一度もニューヨークに訪れたことがなかった{{r|nyt20090811}}。家族にバスケや軍人時代の思い出を語ることはほぼなかった{{r|chugoku20060609}}{{r|chappell}}。バスケ観戦はNBAよりも大学バスケの方で、ユタ大のシーズンチケットを購入していた{{r|nyt20050105}}。
1999年、ユタ州のスポーツ[[殿堂]]に選出される<ref name=nielsen />。2000年には[[全米日系人博物館]]で企画展が開催された<ref name=Robbins />。2008年にドキュメンタリー映画が制作された<ref name=vecsey /><ref name=chappell />。


2019年11月20日、ユタ州ソルトレイクシティにて死去<ref>[https://www.nbcnews.com/news/asian-america/wat-misaka-first-person-color-play-nba-dead-age-95-n1089366/ Wat Misaka, first person of color to play in the NBA, dead at age 95] - NBC News, Nov22, 2019</ref>
2019年11月20日(日本時間21日)、ユタ州ソルトレイクシティにて死去95歳だった{{r|wp20191125}}{{r|cityviewmortuary}}{{r|npr20191122}}


== スタッツ ==
== スタッツ ==
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== 備考 ==
== 備考 ==
; 記録
* ミサカの身長5フィート7インチ(約170センチメートル)は当時BAA最小であり、のちに[[マグシー・ボーグス]]が更新するまでNBA史上最小の選手だった<ref name="chugoku20060520" />。ちなみに2013年現在で、ボーグス(5' 3")、[[アール・ボイキンス]](5' 5")に次ぐ、NBA史上3位([[スパッド・ウェブ]](5' 7")と同順位)。
* [[アメリカ合衆国のスポーツ|アメリカ三大スポーツ]]リーグにおける初の非白人選手は、[[NFL]]が{{仮リンク|フリッツ・ポラード|en|Fritz Pollard}}(1920年)、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]が[[モーゼス・フリート・ウォーカー]](1884年)、そしてNBAがワタル・ミサカである。
* [[アメリカ合衆国のスポーツ|アメリカ三大スポーツ]]リーグにおける初の非白人選手は、[[NFL]]が{{仮リンク|フリッツ・ポラード|en|Fritz Pollard}}(1920年)、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]が[[モーゼス・フリート・ウォーカー]](1884年)、そしてNBAがワタル・ミサカ(1947年)である。
* ミサカがBAA(NBA)入りした同じ年に[[ジャッキー・ロビンソン]]もMLB入りしている。ミサカは「誰も、特に私は、ロビンソンがやったことと比較したことすらないと思う」{{r|wp20191125}}「BAAは設立したばかりだったし、マイノリティーが入れない決まりはなかった。MLBとは違う。自分がそれほど、すごいことをしたとは思わない」{{r|chugoku20060609}}とコメントしている。
* ミサカの身長5フィート7インチ(約170センチメートル)は当時BAA最小であり、のちに[[マグシー・ボーグス]]が更新するまでNBA史上最小の選手だった、と2006年中国新聞は報道している{{r|chugoku20060520}}。実際には5' 6"の{{仮リンク|メル・ハーシュ|en|Mel Hirsch}}がBAA最小である([[:en:List of shortest players in National Basketball Association history]]参照)。
* ニックス時代のミサカの背番号15は、現在ニックスは[[永久欠番]]に定めている。対象者は[[ディック・マグワイア]]と[[アール・モンロー]]{{r|nyt20090811}}{{r|nyt20120214}}。
* ミサカの次にNBA入りした非白人選手は1950年の[[アール・ロイド]]、[[チャック・クーパー]]、[[チャック・クーパー]]で、黒人初のNBA選手にあたる{{r|espn20120117}}。
* ミサカの次にNBA入りしたアジア系アメリカ人は1978年の{{仮リンク|レイモンド・タウンゼント|en|Raymond Townsend}}{{r|nyt20120214}}。初めて[[NBAファイナル|NBAチャンピオン]]となったアジア系アメリカ人は2019年の[[ジェレミー・リン]]{{r|wp20190615}}。リンもニックスでプレー経験がある{{r|nyt20120214}}。
* ミサカの次にNBA入りした日系二世は1993年の{{仮リンク|レックス・ウォルターズ|en|Rex Walters}}{{r|nyt20120214}}。三世以上では[[コーリー・ゲインズ]]がいる。
* 日本生まれ日本育ちで初めてNBAドラフトに指名されたのは1981年の[[岡山恭崇]]{{r|chugokuyumebutai1}}、初めてNBA入りしたのは2004年の[[田臥勇太]]{{r|nyt20050105}}。ミサカは「もし、日系3世や4世の代になったら、日系人が米国で活躍できるかなと思っていた。でもその前に、日本から来た青年たちが成功しちゃった」と嬉しそうに驚いたという{{r|chugoku20060610}}。

;反日感情
ミサカは太平洋戦争の戦中戦後の反日感情の激しかった時代のアメリカでバスケをしており差別を経験している。
* 1943年ウィーバーカレッジで2度チャンピオンシップで勝った後でも、レストラン入店は拒否された{{r|utahch}}。
* 1944年ユタ大時代にアウェーゲームで“dirty Jap”と叫ばれ{{r|wp20190615}}{{r|utahch}}、戦後も状況は変わらなかった{{r|nielsen}}。
* ニックス時代にアウェーゲームで“Jap, Go home”と叫ばれた{{r|thedigestweb20191116-2}}。
* ニックスをクビになった理由についてニューヨーク・タイムズでは、アウェーゲームでミサカに対する度を越した人種差別的な愚弄にネッド・アイリッシュ社長がショックを受けたためではないか、と推測している{{r|thedigestweb20191116-1}}。

こうした状況であったがミサカはアメリカを信じていたという{{r|utahch}}。ミサカはメディアに対して人種差別を受けていない、あるいは少なかった等コメントしている{{r|utahch}}{{r|wp20190615}}。
* ユタ大ヘッドコーチは個人的判断でミサカを守っていた{{r|nydailynews}}。1944年時点で先発メンバーと大差ない状況だったミサカ{{r|chugoku20060327}}に対して、観客との接触を避けるため意図的にベンチに置いてシックスマンとして起用していた、とされる{{r|nyt20090811}}{{r|wp20191125}}。また過度な差別から守るため、ミサカをハワイ出身として紹介した{{r|wp20191125}}。
* NCAAで一度過度にファールを取られたことがあったが、概ね相手プレーヤーや審判から差別的態度は見られなかったとコメントしている{{r|wp20191125}}。
* MSGの試合で観客は本当に応援してくれた、爽快だった、と回想している{{r|chappell}}。
* 1947年NIT優勝時、投票でアーニー・フェリンが最優秀選手に選ばれたが、MSGの客はミサカを評価していた。投票結果を1位から順番に名前が読み上げていくと、4位のミサカの名前が呼ばれるまでMSGの客はブーイングを止めなかった{{r|nielsen}}。
* ミサカは、「ニックスで他の誰よりも受けいれられた」とコメントしている{{r|wp20190615}}。ニックスをクビになった件について、「人種が問題だったとは思わない」と頑なに差別を否定している{{r|nyt20090811}}{{r|chugoku20060520}}{{r|nyt20050105}}。

; その他
* ミサカの弟(次男)は高校時代に野球でユタ州選抜に選ばれるほどの選手だった{{r|chugoku20060324}}。のちに試合に出させてもらえなくなり、いいチームに入れなかった{{r|chugoku20060324}}。弟は「偏見や差別を感じた。ワットはラッキーな男。」とコメントしている{{r|chugoku20060324}}。
* ミサカの妻の父親は広島県[[福山市]]にルーツがある{{r|chugoku20060610}}。また彼女は広島の武士家系である{{r|nyt20090811}}。彼女は太平洋戦争中に強制収容所で育っている{{r|nyt20120214}}。
* ミサカは2006年中国新聞の取材に対し「自分は米国人として生きてきた。でも、体に流れている血は100%『ジャパニーズ』なんだよ」とコメントしている{{r|chugoku20060610}}。アメリカ兵として従軍した過去を持つが、原爆については2010年中国新聞の取材に対して「原爆投下は対日戦の終結を早めたと今も言われるが、広島を見た私は同意できない」とコメントしている{{r|chugoku20100108}}。

== メディア ==
''ここでは日本のTVメディアで特集された回を記載する.''
* 2005年2月26日放送 [[SmaSTATION!!]]「MIJ特別企画 『NBA初のニッポン男児 ワッツミサカ』」 - ワッツ・ミサカ表記と三阪亙表記{{r|sma20050226}}
* 2010年5月7日放送 [[世界を変える100人の日本人! JAPAN☆ALLSTARS]]「三阪 亙(みさか わたる)(86) NBA史上初のニッポン男児」 - 三阪亙表記<ref>{{cite web|date=2010-05|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/100japan/backnumber/1005.html|title=バックナンバー|publisher=TV東京|accessdate=2020-01-17}}</ref>


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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;注釈
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;出典
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* <ref name="weberstatesports">{{cite web|date=2015-03-17|url=https://weberstatesports.com/news/2015/3/17/209966524.aspx|title=Hall of Fame - Waturu (Wat) Misaka|language=英語 |publisher=ウィーバー州立大学|accessdate=2020-01-17}}</ref>
* <ref name="nielsen">{{cite web |author=Nielsen, Chad |title= That’s Just How It Was |language=英語 | publisher=Continuum , University of Utah |date=2010 |url=http://continuum.utah.edu/departments/thats-just-how-it-was |accessdate=2020-01-17}}</ref>
* <ref name="utahch">{{cite web|author=Chipman, Kit|date=2010-04-30|url=https://utahcommhistory.com/2010/04/30/university-of-utah-1944-ncaa-basketball-championship/|title=1944 NCAA Basketball Championship|language=英語 |publisher=ユタ大学|accessdate=2020-01-17}}</ref>

* <ref name="chugoku20060321">{{cite web|author=広重久美子|date=2006-03-21|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/kikaku/basketball/misaka1_1.html|title=☆最高峰の舞台☆ 白人以外 初のプロ選手 |publisher=[[中国新聞]]|accessdate=2020-01-17}}</ref>
* <ref name="chugoku20060322">{{cite web|author=広重久美子|date=2006-03-22|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/kikaku/basketball/misaka1_2.html|title=☆理髪店の長男☆ 父の影響? 球技に熱中 |publisher=中国新聞|accessdate=2020-01-17}}</ref>
* <ref name="chugoku20060323">{{cite web|author=広重久美子|date=2006-03-23|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/kikaku/basketball/misaka1_3.html|title=☆選択の時☆ 「米に残る」 はっきり主張 |publisher=中国新聞|accessdate=2020-01-17}}</ref>
* <ref name="chugoku20060324">{{cite web|author=広重久美子|date=2006-03-24|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/kikaku/basketball/misaka1_4.html|title=☆ラッキーな男☆ 高校・大学 常に優勝経験 |publisher=中国新聞|accessdate=2020-01-17}}</ref>
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* <ref name="chugoku20060326">{{cite web|author=広重久美子|date=2006-03-26|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/kikaku/basketball/misaka1_6.html|title=☆夢物語☆ 代替出場で全米を制す |publisher=中国新聞|accessdate=2020-01-17}}</ref>
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* <ref name="sma20050226">{{cite web|url=https://www.tv-asahi.co.jp/ss/150/index.html|title=#150:2005年2月26日放送分 |publisher=SmaSTATION|accessdate=2020-01-17}}</ref>
* <ref name="denver">{{cite web|url=http://www.denver.us.emb-japan.go.jp/jp/bilateral/ut.html#6 |title=ユタ州における日系人の歴史 |publisher=在デンバー日本国総領事館 |accessdate=2020-01-17}}</ref>
* <ref name="cityviewmortuary">{{cite web|url=https://www.cityviewmortuary.com/obituaries/wataru-misaka/|title=Wataru “Wat” Misaka |publisher=City View Mortuary|language=英語|accessdate=2020-01-17}}</ref>
}}


== 参考資料 ==
== 参考資料 ==
* {{en icon}}[http://www.nba.com/features/global_misaka_010417.html 'Wat' a player] - NBA.com. 2005年4月7日付
* {{en icon}}[http://www.basketball-reference.com/players/m/misakwa01.html Wat Misaka] -Basketball-Reference.com
* {{en icon}}{{Cite sports-reference | Wat Misaka | https://www.sports-reference.com/cbb/players/wat-misaka-1.html | }}
* [http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/basketball/index.html NBAの扉を開いた日系人 ワット・ミサカ物語] - 中国新聞
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* [http://www.nhk.or.jp/sports2/clm/clm_horie_009292.html かつて、アメリカ・プロバスケットボールリーグに“サムライ”がいた!] - NHKスポーツオンライン
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* {{en icon}}{{Cite web|publisher=ALLIED POWS in JAPAN|url=http://www.mansell.com/eo9066/NIHIMS/Wataru_Misaka_Philippines_Jerry_Suzuki_kibei_p10.pdf|format=PDF|title=Interview of Wataru Misaka|accessdate=2020-01-17|ref = {{sfnRef|ALLIED POWS|}}}}
* {{en icon}}[http://espn.go.com/magazine/vol5no13misaka.html Basketball's Jackie Robinson] - ESPN Magazine. 2002年5月号
* スタッツ
** {{en icon}}[http://www.nba.com/historical/playerfile/index.html?player=wat_misaka Wataru (Wat) Misaka] -NBA.com
** {{en icon}}[http://www.basketball-reference.com/players/m/misakwa01.html Wat Misaka] -Basketball-Reference.com


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
146行目: 274行目:
* [[バスケットボール選手一覧]]
* [[バスケットボール選手一覧]]
* [[ニューヨーク・ニックスのチーム記録]]
* [[ニューヨーク・ニックスのチーム記録]]
* {{仮リンク|フレッド・シェフィールド|en|Fred Sheffield}} - ユタ大NCAA優勝メンバーの一人。1946-47シーズンにフィラデルフィア・ウォリアーズ([[ゴールデンステート・ウォリアーズ]])に在籍。
* {{仮リンク|アーニー・フェリン|en|Arnie Ferrin}} - ユタ大NCAA優勝メンバーの一人。1948年から50年までミネアポリス・レイカーズ([[ロサンゼルス・レイカーズ]])に在籍。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{en icon}}[http://www.watmisaka.com/index.html ''Transcending: The Wat Misaka Story'' film website] - ドキュメンタリー映画のホームページ
* {{en icon}}[http://www.watmisaka.com/index.html ''Transcending: The Wat Misaka Story'' film website] - ドキュメンタリー映画のホームページ


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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:みさか わたる}}
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[[Category:日系人のバスケットボール選手]]
[[Category:日系人のバスケットボール選手]]

2020年1月19日 (日) 07:36時点における版

ワタル・ミサカ
Wataru Misaka
引退
ポジション PG
基本情報
愛称 Wat
Kilo Wat
日本語 三阪 亙
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1923-12-21) 1923年12月21日
没年月日 (2019-11-20) 2019年11月20日(95歳没)
出身地 ユタ州ウィーバー郡オグデン
身長(現役時) 170cm (5 ft 7 in)
体重(現役時) 68kg (150 lb)
キャリア情報
出身 ウィーバー州立大学英語版
ユタ大学
ドラフト 1947年7巡目61位
選手経歴
1947-1948 ニューヨーク・ニックス
Stats Basketball-Reference.com
Stats ウィキデータを編集 NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten
映像外部リンク
オバマ大統領による演説(2009年10月14日)
The President Observes Diwali - ホワイトハウス公式YOUTUBEチャンネル。動画内のメガネをかけた白髪・青シャツの人物がミサカ。

ワタル・ミサカ: Wataru Misaka、日: 三阪 亙[1]1923年12月21日 - 2019年11月20日)は、日系アメリカ人二世)のバスケットボール選手。ポジションポイントガード

非白人史上初のNBA選手(当時はBAA(Basketball Association of America))。ユタ大学出身者初のNBA選手。太平洋戦争前後の反日感情の激しかった時代のアメリカでバスケをし、NCAANIT共に優勝した唯一の日系人選手。

愛称はワット・ミサカ(: Wat Misaka、右テンプレートの下にあるバラク・オバマ大統領の映像を参照)。日本ではテレビ朝日『SmaSTATION!!』2005年2月26日放送回などでワッツ・ミサカと紹介されている[2][注 1]

来歴

若年期

両親共に広島県御調郡岩子島村出身[1][3](現尾道市向島町岩子島広島県人の移民)。父は1902年(明治35年)移民、母は旧姓村上で結婚後1922年(大正11年)移民し(花嫁移民)、ユタ州ウィーバー郡オグデンで理髪店バーバー・ミサカを営んだ[3][4][5]。隣はバーと質屋で、周りは賭博場や売春宿が建ち並んだゲットーの中にあった[6][7][8]。夫婦はオグデンで3人の息子を授かり、ワタル・ミサカはその長男[3]。両親の願いは他の日系人と同様に息子たちに高等教育を受けさせることだった[9][10]

ミサカは日本語をほぼ話せなかった[11]。メキシコ人と2人の白人の友人はWATARUは言いにくいからとWATと呼びだした[8]。ミサカは幼い頃兄弟と様々なスポーツを楽しんだ[3]。足が速くスポーツ万能な少年ミサカは友人から引っ張りだこだった[12]タッチ・フットボールチームでキャプテンを務めたが、両親はミサカが怪我したことを理由にプレーすることには難色を示した[3][7]。野球チームではショートを守り、父親は日系一世の野球チームに入っていたほどの野球好きで、1935年の東京巨人軍アメリカ遠征の試合には家族で観戦に出かけている[3][7]

1939年、父が死去する[3][10]。母は日本へ帰ることを提案したがミサカは残ることを主張した[10]。それで一家は残ると決め、母は理容師の免許をとって理髪店を継いだ[10]。ミサカはオグデンで農業を営んでいた母方の叔父のところで働き、勉学に励み、父の代わりとして兄弟の面倒を見た[6][10]。バスケで頭角を現したのもこの頃になる[3]オグデン高校英語版では1940年にユタ州の大会で優勝する[12]

映像外部リンク
Wat Misaka - Weber State Basketball Legend - ウィーバー州立大学公式YOUTUBEチャンネル。

1941年ウィーバーカレッジ(現ウィーバー州立大学英語版)に進学。ウィーバーは実家から数ブロックしか離れておらず、家からカレッジへ通いアルバイトでエンジニアとして働いて授業料を稼いた[8][9]。そこへ同年12月太平洋戦争が勃発し、1942年2月日系人の強制収容が始まった[13][14]。ただミサカの実家は強制収容地区から外れたことに加えユタ州は比較的寛大な方だった[注 2]ことから、ミサカはアメリカ兵の友人と一緒に町を歩き、ウィーバーでバスケをするという幸運に恵まれた[6][16][17]。ここでも2度カンファレンス優勝し、1942年カレッジポストシーズントーナメントで優勝し最優秀選手に選出された[12][18]。1943年ウィーバーカレッジのアスリート・オブ・ザ・イヤーに選出される[18]。1943年春にカレッジを卒業する[16]

ユタ大/兵役

1943年、工学学位を取得する目的でユタ大学に編入、当初はバスケをするつもりはなかったという[10][8]。そこへ部員不足でトライアウトをしていたバスケ部に参加し、入部することになった[8]。当時第二次世界大戦中でどこも大学生自体が少なくなっていたことから活動停止している大学バスケ部が多く、試合数をこなすことが難しかった状況だった[19][20][8]。ユタ大でのミサカは守備の名手としてならした[12][21][7]

The 1943-44 University of Utah basketball team。写真中央21番がミサカ。その後ろの22番がアーニー・フェリン(英語版)[22]、その左29番がフレッド・シェフィールド(英語版)[22]で、ミサカの後にBAA入りしている。手前に座る17番はマス・マツノという人物[22]。
The 1943-44 University of Utah basketball team。写真中央21番がミサカ。その後ろの22番がアーニー・フェリン英語版[22]、その左29番がフレッド・シェフィールド英語版[22]で、ミサカの後にBAA入りしている。手前に座る17番はマス・マツノという人物[22]
1945年12月米軍は広島東警察署を拠点に無作為に抽出した市民を午前と午後に1人ずつ面接した[23]。この時の聞取資料は現在広島平和記念資料館に保管されており、その中にミサカの録音テープやメモも残っている[23]。写真の中央が旧東警察署(1946年8月撮影)。
1945年12月米軍は広島東警察署を拠点に無作為に抽出した市民を午前と午後に1人ずつ面接した[23]。この時の聞取資料は現在広島平和記念資料館に保管されており、その中にミサカの録音テープやメモも残っている[23]。写真の中央が旧東警察署(1946年8月撮影)。

1944年ユタ大はNCAAのみ出場するつもりだったが、NITへ招待されたため出場[注 3]することになった[20]1944年のNIT英語版初戦はマディソン・スクエア・ガーデン(MSG)で行われたが敗退した[25][20]。そこで観光してから帰ろうと思っていたユタ大に、交通事故の影響で出場辞退したアーカンソー大学の代替として1944年のNCAA英語版への招待がきた[25][20]。同じシーズンにNITとNCAA両方に出場した大学は初めてのことであった[20]

ユタ大はNCAA決勝ラウンドを勝ち上がり、MSGで行われる決勝に進んだ[25]。当時ミサカはシックスマンで準決勝まで出場時間はわずかだったが、決勝開始数分で味方が怪我してしまい途中交代出場した[21]。そしてユタは延長戦で勝利し、下馬評を覆しNCAA優勝を飾った[6][25]。この勝利に戦地のユタ州出身者は勇気づけられたという[21]。ミサカは決勝で4点しか取らなかったもののその守備力は評価された[21]。地元メディア数人が「"Kilo Wat" Misaka」と名付けた[26][9]デイリーニューズ (ニューヨーク)は、“A one-hander by Wat Masaki ... slipped the Utes into the lead again (much to the delight of the crowd which was rooting for the under dog).”(名前は原文まま)、と報じている[8]。ミサカの活躍は強制収容所に入れられた日系人を勇気づけた[27]

NCAA優勝から帰路につき駅に到着すると、群衆が彼らを出迎えた[19]。その群衆の中に母もおり、その手にはアメリカ軍からの召集令状が握られていた[15][7][28]。1944年6月アメリカ陸軍入隊[15]、訓練後アメリカ陸軍情報部日系語学兵[23][注 4]となり語学訓練中に1945年5月VEデーを迎え[29]、のちフィリピンマニラの基地に配属が決定し移動途中の航海上で1945年9月終戦を迎える[30][31]

フィリピンではルソン島捕虜収容所で尋問任務についた[31]。ミサカによると捕虜の中には日系人もおり、ユタで生まれユタ大を卒業した後就職できなかったため日本へ行きそこで徴兵され旧日本兵として戦った人物もいたという[32]

次に連合国軍占領下の日本での任務となり、1945年11月横田基地に配属され、米国戦略爆撃調査団戦意調査部で翻訳通訳担当となった[30][33][34]。その最初の仕事が両親の故郷である広島県での、広島市への原子爆弾投下後の市民に対する聞取調査だった[35]。広島で1週間、次に山口県萩市で1週間現地調査を行い、その後は東京で半年ほど任務についた[30][34][36]。この間、広島市内に住み被爆から助かった叔父家族、両親の故郷岩子島を訪ねている[35][5]

1946年9月、2年間の兵役を終えユタ大に復学すると、バスケ部では一からの出直しとなったものの徐々に評価を上げスターターとして定着する[37][19]。ユタ大は1947年のNIT英語版に招待され出場し決勝まで進んだ。MSGで行われた決勝でミサカは相手エースラルフ・ベアードをマークし1得点に抑え勝利に貢献した[37][19]。翌日のどの新聞にも“Wat Misaka”の文字が乗り、ニューヨーク・タイムズ “Little Wat Misaka, American born of Japanese descent, was a 'cute' fellow intercepting passes and making the night miserable for Kentucky,” 、と絶賛した[6][37][7]。チームのエースであるアーニー・フェリン英語版は「NITの歴史の中で最高の守備パフォーマンス」と称賛している[6]。ユタではお祭り騒ぎとなり、ミサカはユタの英雄の一人となった[37]。なおNCAAとNITで優勝した日系人はミサカ以外にはいない[38]

ニックス

1946年に創立したBAA(後のNBA)は、大学バスケよりも知名度が低くスターを欲していた[39]。そこで、NCAAとNITで優勝し知名度のあったミサカに白羽の矢が立つことになった[39][8]。当時ミサカはBAAの存在を知らなかった[9]

1947年7月1日、BAA史上初めて行われた1947年のBAAドラフト英語版カレッジドラフトで、ミサカは7巡目全体61位でニューヨーク・ニッカーボッカーズ(現ニューヨーク・ニックス[注 5]に指名された。ニックスのネッド・アイリッシュ英語版球団社長は契約のためユタ州を訪れ、州最大のホテルの一室でミサカと交渉した[9]。ミサカはすぐに入団を決め契約、ニックスにおける1947年ドラフト組の契約第1号となった[1]。非白人としてNBA入りした史上初の選手となり、ユタ大学出身者として初めてNBA入りした選手となった[41]。契約金は4,000ドル[42](3,000ドル[39]とも)[注 6]。背番号は"15"[1]。この時点でもアメリカと日本両国の国籍を有していた[1]

ジョー・ラプチック英語版監督のもと、開幕までに練習試合が組まれ、出場機会は徐々に減らされていったものの[40]、開幕ベンチ入り12人の選手枠に残った[43]。ミサカは監督がどういうプレーを要求しているのかわからなかったという[40]。ミサカのポジションであるガードの選手が過多だったのも災いした[44]。ニューヨークのメディア各紙では、ミサカの人気より得点能力の低さを問題視された[43]。デビュー直前にはニューヨーク・タイムズに写真付きで紹介された[7]

開幕戦からの出場記録[45]
日付 対戦 G F P 勝敗
1 11.13 WSC H 1 0 2
2 11.15 STB H 出場なし
3 11.18 PRO A 2 1 5
4 11.19 CHS H 0 0 0
5 11.20 BLB A 出場なし
6 11.22 PHW H 出場なし
11.24 解雇
7 11.25 BOS A -
G:フィールドゴール、F:フリースロー
P:得点、H:ホーム、A:アウェー

1947-1948シーズンのBAA開幕戦、ミサカはベンチに座った[44]。NITやNCAA決勝で超満員のMSGを経験しているミサカには、BAA開幕戦会場のMSGの客の入りは物足りなかったという[44]。開幕戦にミサカは途中出場している[44]。大学バスケファンに名の知られたミサカであったが、そのデビューはニューヨーク以外では話題にならなかった[6]。第3節のプロビデンス・スチームローラーズ戦では5得点をあげたが、さらに出場機会は減っていき、第5節以降は出番がなかった[44]。チームは開幕から3連勝を飾るものの、その後3連敗を喫した[45]

そこで、チームが選手補強するため過多だったガードから選手を削ることとなり、同年11月24日アイリッシュ球団社長から「12人の枠に抑えないといけない」という理由で解雇を言い渡された[44][43]。ミサカは社長から「自分の本意ではない。選手を選ぶ全権は監督にあるからしょうがない。」とも言われたという[43]。契約金は全額支払われ、支給された7インチのコンバースハイトップも持って帰らされた[6][46][47]

ミサカ本人は納得がいかなかった[43]。のちアーニー・フェリンは、「当時ニックスにはいいPGが2人いて、もしPGが必要なチームに入っていればワットの人生は変わっていただろう」、とコメントしている[43]。ニックス時代唯一仲の良かったチームメイトカール・ブラウンは、「身長が小さすぎたからでは」、とコメントしている[42]

ニックスを退団したミサカはまっすぐ帰らずシカゴに住む米軍時代の友人のところへ数日身を寄せ、ユタ州の家族や友人に知らせないままソルトレイクシティへ帰っていった[43][46]ハーレム・グローブトロッターズからオファーがあったが、バスケでは食べていけないとこれを断り、バスケットボール選手を引退した[7][48][43]

引退後

ニックスとの契約金を使ってユタ大学に復学し機械工学の学士を取得、1948年6月に卒業した[48][43]。卒業後はEimco Corporationに勤務し[49]、1957年からスペリー社でミサイル制御システム設計担当として勤務し1981年退職[50][46][6]、その後はPentronics and Dynotron, Incに勤務し2014年91歳で退職した[49]

バスケから完全に離れたミサカが次に熱中したのはボウリングだった[51]。1940年代全米ボウリング会議(ABC)は白人以外の公式戦出場を認めていなかったため、日系人たちで独自の大会を開きソルトレイクシティでも行われた[51]。ミサカはその中でボウリングが上達し、更にミサカの幅広い交友関係の中にABC幹部がいて、ミサカは彼を通じてABCに白人以外の解放を求めた[51]。結果ABCは1950年制限を撤廃した[51]。1978年日系アメリカ人ボウリング協会会長に就任[52]。1997年日系アメリカ人ボウリング殿堂入り[6]。またABCは複数の協会との組織再編により2005年アメリカボウリング会議英語版(USBC)が発足するが、ミサカは当時ソルトレイク協会理事としてその再編に携わっている[50]。80歳の時に299点を出したという[6][8][51]

映像外部リンク
Wat Misaka Interview - 2006年全米日系人博物館によるインタビュー
Transcending - The Wat Misaka Story
Stephen Curry, Warriors Meet Legendary Point Guard Wat Misaka - 2018年CU360
How The First Asian In NBA History Was Sadly Bullied Out - 2018年NBA Insider

1999年ユタ州スポーツ殿堂に選出される[20]。2000年全米日系人博物館で紹介され、ミサカはニックスにもらったコンバースハイトップとユタ大のジャージを寄付した[46][47]。ただこの時点までミサカのバスケでの功績はほとんど知られておらず、姚明田臥勇太などのアジア系がNBAでプレーした2000年代前半から注目を集めることになる[6][53]。2002年日系アメリカ人のスポーツ殿堂入り[52]。2008年にドキュメンタリー映画『Transcending - The Wat Misaka Story』が制作された[48][18]。2009年ホワイトハウスで行われた式典に招かれオバマ大統領から称賛され[9]2009年のNBAオールスターゲームにNBAレジェンドとして表彰され[19]、同年MSGに招かれニックスから表彰された[48][18]

ニックスを解雇されたことに長く納得いっていなかった[43][54]。ニックス退団から2009年まで一度もニューヨークに訪れたことがなかった[48]。家族にバスケや軍人時代の思い出を語ることはほぼなかった[53][17]。バスケ観戦はNBAよりも大学バスケの方で、ユタ大のシーズンチケットを購入していた[46]

2019年11月20日(日本時間21日)、ユタ州ソルトレイクシティにて死去。95歳だった[6][49][27]

スタッツ

シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG TO PPG
1947-48 NYK 3 .231 .333 0.0 0.0 2.3
略称説明
  GP 出場試合数   GS  先発出場試合数  MPG  平均出場時間
 FG%  フィールドゴール成功率  3P%  スリーポイント成功率  FT%  フリースロー成功率
 RPG  平均リバウンド  APG  平均アシスト  SPG  平均スティール
 BPG  平均ブロック   TO  平均ターンオーバー  PPG  平均得点
 太字  キャリアハイ  *  リーグリーダー  †  優勝シーズン

備考

記録
反日感情

ミサカは太平洋戦争の戦中戦後の反日感情の激しかった時代のアメリカでバスケをしており差別を経験している。

  • 1943年ウィーバーカレッジで2度チャンピオンシップで勝った後でも、レストラン入店は拒否された[20]
  • 1944年ユタ大時代にアウェーゲームで“dirty Jap”と叫ばれ[7][20]、戦後も状況は変わらなかった[19]
  • ニックス時代にアウェーゲームで“Jap, Go home”と叫ばれた[57]
  • ニックスをクビになった理由についてニューヨーク・タイムズでは、アウェーゲームでミサカに対する度を越した人種差別的な愚弄にネッド・アイリッシュ社長がショックを受けたためではないか、と推測している[42]

こうした状況であったがミサカはアメリカを信じていたという[20]。ミサカはメディアに対して人種差別を受けていない、あるいは少なかった等コメントしている[20][7]

  • ユタ大ヘッドコーチは個人的判断でミサカを守っていた[8]。1944年時点で先発メンバーと大差ない状況だったミサカ[21]に対して、観客との接触を避けるため意図的にベンチに置いてシックスマンとして起用していた、とされる[48][6]。また過度な差別から守るため、ミサカをハワイ出身として紹介した[6]
  • NCAAで一度過度にファールを取られたことがあったが、概ね相手プレーヤーや審判から差別的態度は見られなかったとコメントしている[6]
  • MSGの試合で観客は本当に応援してくれた、爽快だった、と回想している[17]
  • 1947年NIT優勝時、投票でアーニー・フェリンが最優秀選手に選ばれたが、MSGの客はミサカを評価していた。投票結果を1位から順番に名前が読み上げていくと、4位のミサカの名前が呼ばれるまでMSGの客はブーイングを止めなかった[19]
  • ミサカは、「ニックスで他の誰よりも受けいれられた」とコメントしている[7]。ニックスをクビになった件について、「人種が問題だったとは思わない」と頑なに差別を否定している[48][54][46]
その他
  • ミサカの弟(次男)は高校時代に野球でユタ州選抜に選ばれるほどの選手だった[12]。のちに試合に出させてもらえなくなり、いいチームに入れなかった[12]。弟は「偏見や差別を感じた。ワットはラッキーな男。」とコメントしている[12]
  • ミサカの妻の父親は広島県福山市にルーツがある[56]。また彼女は広島の武士家系である[48]。彼女は太平洋戦争中に強制収容所で育っている[24]
  • ミサカは2006年中国新聞の取材に対し「自分は米国人として生きてきた。でも、体に流れている血は100%『ジャパニーズ』なんだよ」とコメントしている[56]。アメリカ兵として従軍した過去を持つが、原爆については2010年中国新聞の取材に対して「原爆投下は対日戦の終結を早めたと今も言われるが、広島を見た私は同意できない」とコメントしている[23]

メディア

ここでは日本のTVメディアで特集された回を記載する.

脚注

注釈
  1. ^ 五味幹男『日系二世のNBA』2007年6月情報センター出版局ではワッツ表記。一方で『中国新聞』2006年特集ではワット表記[3]
  2. ^ ユタ州は全米で迫害されたモルモン教徒が多く、そのことから同じ境遇の日系人にシンパシーを感じていたため[14]。1942年9月ユタ州にトパーズ強制収容所ができるが、ユタ州の日系人ではなく西海岸の州から送られてきた人が収容された[15][14]。ただまったく制限がなかったわけではなく、預金凍結、午後8時以降の外出禁止、ラジオ・カメラ没収、オグデンの南にあるヒル空軍基地周辺の高速道路の通行禁止、などの措置がとられていた[15][14]
  3. ^ 当時はNCAAよりNITのほうが価値の高い大会だった[24][20]
  4. ^ 日系人は陸軍情報部、第442連隊戦闘団第100歩兵大隊にほぼ配属された。詳細はen:Japanese-American service in World War II参照。
  5. ^ 当時は地域別で優先的にドラフト指名できる権利を持ち、ユタ州はニックスの管轄だった[39]。なおニックスにドラフトされた選手のうちNIT・NCAAで優勝経験があったのはミサカだけだった[40]
  6. ^ 当時の工学系大卒1年目の年収と同程度[39][9]
出典
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参考資料

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  • (英語)"Wat Misaka". Sports-Reference.com. Sports Reference LLC. {{cite web}}: Cite webテンプレートでは|access-date=引数が必須です。 (説明)
  • (英語)Wat Misaka - NBA Advanced Stats
  • NBAの扉を開いた日系人 ワット・ミサカ物語 - 中国新聞
  • (英語)Interview of Wataru Misaka” (PDF). ALLIED POWS in JAPAN. 2020年1月17日閲覧。

関連項目

外部リンク