ミャンマー軍

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ミャンマー軍
တပ်မတော်
派生組織 ミャンマー陸軍
ミャンマー海軍
ミャンマー空軍
ミャンマー警察軍
指揮官
総司令官 上級大将 ミン・アウン・フライン
国防大臣 中将 セイン・ウィン英語版[1]
参謀長 次級大将 Soe Win
総人員
兵役適齢 16歳~49歳
徴兵制度 あり
適用年齢 18歳~35歳
現総人員 406,000
財政
予算 21億ドル(2017年推定)[2]
軍費/GDP 3.15%(IMF推定の2017-2018年の名目GDPに対する比率)[2]
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ミャンマー軍(ミャンマーぐん、ビルマ語: တပ်မတော်、慣用ラテン文字表記: Tatmadaw、ALA-LC翻字法: tapʻ ma toʻ、IPA: [taʔmədɔ̀] タッマドー)は、ミャンマー(ビルマ)の国軍

国防省英語版の統括の下、ミャンマー陸軍ミャンマー海軍英語版ミャンマー空軍英語版の三軍およびミャンマー警察軍英語版を擁する。

組織[編集]

総兵力は40.6万人で、陸軍(37.5万人)、海軍(1.6万人)、空軍(1.5万人)[2]の3軍種からなる。有事の際にはミャンマー警察軍や種々の民兵組織、国境軍を含めることもある。東南アジアの国々の中では、ベトナム人民軍に次ぐ兵力を誇る。

国内に民族紛争を抱える事から、対ゲリラ戦及び山岳戦を主任務とした軽歩兵部隊を主力としている。また、旧東西両陣営と距離を置き、1962年の軍事クーデター以降はいかなる軍事同盟も結ばなかったため、外国から大規模な軍事援助も行われておらず(わずかに米国から対麻薬作戦用として限定量の装備が供与された)、装備は限定的な量に留まった。1990年代以降は、中華人民共和国や旧東側諸国ウクライナセルビアなど)、インドイスラエル北朝鮮等から主力戦車歩兵戦闘車自走砲地対空ミサイルなどを新旧問わず大量購入し、機甲部隊機械化歩兵部隊を新設している。

同国では独立直後から少数民族の独立闘争や共産党の反乱、さらに国共内戦に敗れた中華民国軍部隊の侵入があり、一時は国家崩壊の危機に陥ったが、国軍の反攻によって平野部では1960年代に支配権を回復した。これ以後、少数民族や共産党の民兵組織は山岳地帯を根拠地として闘争を継続したが、1990年代のキン・ニュンによる懐柔工作によって、ワ州連合軍を除いて、多くの民兵組織の支配地に国軍を進駐させている。こうした国軍の攻勢に、民兵組織も諸事情から大同団結するに至っておらず、基本的に支配地である山岳地帯の防衛戦に徹している。一方、国軍にも各地の少数民族地域に完全な支配権を確立するほどの決定力を持っていなかった。しかし、近年の同国における民主化の進展に伴い、国軍と民兵組織に停戦が順次実施された。少数民族の民兵組織は国境警備隊に編入される予定だったが、この方針に全ての民兵組織が拒否。カチン独立軍とミャンマー軍の間では戦闘が再発した。また、停戦が継続している他の民兵組織も警戒態勢を取っており、情勢は予断を許さない。

ミャンマー軍は独自に経済活動を行なっており、ミャンマー・エコノミック・ホールディングス(MEHL)など国軍系企業が存在する[3]。このほかにも軍が経営する企業や工場、商店、ヘルスセンターなどが存在している。また、退役軍人団体など関連団体を通じて国内でのビジネスへの投資も行なっている。

ミャンマー議会(民族代表院及び人民代表院)の議員定数の4分の1は、ミャンマー軍司令官により指名される。

火力[編集]

ミャンマーの武器輸入先(2017-2021年)は中国が36%、ロシアが27%、インドが17%となっている。

歴史[編集]

ビルマ王朝時代[編集]

9世紀から19世紀までのビルマ王朝軍隊王立軍という。王立軍とは、時系列順にパガン王朝アヴァ王朝タウングー王朝コンバウン王朝の軍隊を指す。19世紀にイギリスに60年かけて敗れるまでの間、王立軍は東南アジアでも有数の軍隊であった。

王立軍は首都と宮殿を守る数千人規模の独立部隊と、より大規模な徴兵による戦時軍に分かれて組織される。徴兵は、戦時には地域の首長に管轄区域内の人口に基づき予め決められた数の兵を提供させる「ahmudan制」を基盤としていた。また戦時郡には戦象兵騎兵砲兵水軍の部隊も含まれた。

火器は14世紀に中国から初めて導入され、何百年もかけて徐々に戦略へ取り入れられるようになっていった。ポルトガル製の火縄銃と大砲を装備した最初の特別部隊は16世紀に編成された。この特別火器部隊を除けば、通常の徴募兵に対する正式な訓練はなく、彼ら徴募兵は自衛のための基礎知識と、自前の火縄銃の操作習熟を期待されているだけであった。18世紀になって欧州列強との技術の差が大きくなるにつれ、軍は欧州から売り込まれる、より洗練された武器に依存するようになっていった。

王立軍は隣国の軍隊に対する防衛力は保っていたが、より技術的に進んだ欧州の軍隊への対抗力は劣化していった。 王立軍は、17世紀と18世紀にそれぞれ侵入したポルトガルフランスを撃退したものの、19世紀に侵入した大英帝国の軍事力には及ばず、第1次第2第3次英緬戦争に敗れた。1886年1月1日、ビルマ王立軍はイギリス政府によって正式に解散された。

英領ビルマ(1885~1948)[編集]

イギリス統治下のビルマでは、ビルマ植民地政府は、ビルマ人兵士を東インド会社の軍隊(そして後の英領インド陸軍)に採用することは避け、代わりに既存のインド人のセポイとネパール人のグルカ兵に新たな植民地へ駐屯させた。 ビルマ人に対する不信感から、植民地政府はこの禁令を何十年も維持し、代わりに先住民のカレン族カチン族チン族によりに新しい植民地軍を編成することを模索した。 1937年、植民地政府は禁令を取りやめ、ビルマ兵も英領インド陸軍に少数で入隊させるようになった[4]

第一次世界大戦の勃発時、英領インド陸軍で唯一のビルマ連隊である第70ビルマライフル連隊は、カレン族、カチン族、チン族より成る3個大隊で構成されていた。戦争中、戦時の要請により、植民地政府は禁令を緩和し、第70ビルマライフル連隊にビルマ大隊を、第85ビルマライフルにビルマ中隊を、および7個ビルマ機械化輜重中隊を編成した。更に、ビルマ人を中心とした「ビルマ工兵(Burma Sappers and Miners)」(戦闘工兵)3個中隊と、チン族とビルマ人による労働兵団(Royal Pioneer Corps)1個中隊も編成された。これらの部隊はすべて1917年に海外任務を開始した。第70ビルマライフルが警備任務のためにエジプトで勤務する一方、ビルマ労働兵団はフランスで勤務した。ビルマ工兵の1個中隊は、メソポタミアティグリス川の渡河で際立った働きを見せた[5] [6]

第一次世界大戦が終わると、植民地政府はビルマ人兵士を雇うのをやめ、1個中隊だけ残して他は全て解散させ、残した中隊も1925年までで廃止された。ビルマ工兵の最後のビルマ中隊も1929年に解散した[5]

代わりに、インドの兵士やその他の少数民族がビルマにおける植民地軍の主力として用いられ、その植民地軍が1930年から1931年にかけてサヤー・サンが率いたようなビルマ民族の反乱を鎮圧するために用いられた。1937年4月1日、ビルマは分離された植民地(イギリス連邦内の自治領)となり 、ビルマ人にも軍隊に加わる資格が与えられたが、ビルマ人はほとんど入隊しなかった。 第二次世界大戦が始まる前、イギリス統治下のビルマ軍は、イギリス人の将校団を除くと、カレン族(27.8%)、チン族(22.6%)、カチン族(22.9%)、ビルマ人12.3%で構成されていた[7]

1941年12月、大日本帝国の助力を得て、 30人の同志ビルマ独立義勇軍 (BIA)を創設した。ビルマ独立義勇軍はアウンサン(アウンサンスーチーの父)が率い、大日本帝国陸軍側に立ってビルマの戦いに参戦した。多くの若者がその部隊に加わり、信頼できる推定によればその数は15,000人から23,000人の範囲とされている。新兵の大部分はビルマ人であったが、少数民族はほとんどいなかった。新兵の多くは規律に欠けていた。エーヤワディー川デルタ地域のミャンミャではBIAのビルマ人兵とカレン族の間で民族紛争が勃発し、双方が虐殺行為に及んだ。BIAはすぐにビルマ防衛軍に置き換えられ、1942年8月26日に3千人のBIA古参兵により設立された。ビルマが名目上の独立を達成した1943年8月1日、軍はネ・ウィンを指揮官とするビルマ国民軍となった。1944年後半には、約15,000人の兵力があった[8]。その後、日本の占領に幻滅したビルマ国民軍は、1945年3月27日に連合軍側に加わった。

独立後[編集]

1948年のミャンマー独立時、ミャンマー軍は弱小で結束も弱かった。民族的背景、政治的背景、組織の由来、兵科の違いによって亀裂が生じていた。中でも最も深刻な問題は、英領ビルマ軍からのカレン族将校とビルマ愛国軍(PBF)から来たビルマ人将校の間の緊張であった。[要出典]

1945年9月のキャンディ会議で得られた合意に従い、英領ビルマ軍とビルマ愛国軍を統合してミャンマー軍が編成された。その将校団は、ビルマ愛国軍の将校、英領ビルマ軍の将校、およびビルマ予備軍(ABRO)の将校たちであった。また、植民地政府は、民族的背景に基づいた「クラス大隊」というものの創設を決めた。独立当時は合計15個ライフル大隊があり、そのうち4個はビルマ愛国軍出身者で構成されていた。元ビルマ愛国軍の将校は、軍務局(War Office)や司令部内の影響力のある役職には全く任命されなかった。工兵、補給、輸送、兵器、衛生、海軍、空軍を含む全ての兵科は、ビルマ予備軍と英領ビルマ軍の元将校によって指揮されていた[要出典]

1948年のミャンマー軍の民族系統と部隊構成[9]
大隊 民族 / 軍隊構成
第1 ビルマライフル ビルマ族 (軍事警察 +アウンサンのビルマ愛国軍と連携したタウングーゲリラ集団の構成員
第2ビルマライフル 2個カレン族中隊+1個チン族中隊+1個カチン族中隊
第3ビルマライフル ビルマ族 / 元ビルマ愛国軍 – 指揮官キャウ・ザウ(Kyaw Zaw )少佐BC-3504
第4ビルマライフル ビルマ族 / 元ビルマ愛国軍 – 指揮官ネ・ウィン(Ne Win)中佐 BC-3502
第5ビルマライフル ビルマ族 / 元ビルマ愛国軍 – 指揮官ゼヤ(Zeya)中佐BC-3503
第6ビルマライフル 1947年後半にアウンサンが暗殺された後に編成された。ビルマ族 / 元ビルマ愛国軍 – 初代指揮官はゼヤ(Zeya)中佐
第1 カレンライフル カレン族 / 元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第2カレンライフル カレン族 /元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第3カレンライフル カレン族 /元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第1カチンライフル チンポー族 /元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第2カチンライフル カチン族 /元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第1チンライフル チン族 /元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第2チンライフル チン族/元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第4 ビルマ連隊 ビルマグルカ
チン丘陵大隊 チン族

軍務局(War Office)は、1948年5月8日に国防省の下に正式に開設され、国防大臣が議長を務める軍務局評議会により管理された。[要出典]軍務局の長は、総参謀長、副参謀長、海軍参謀長、空軍参謀長、軍政総監、主計総監であった。


軍務局の参謀と指揮官の配置(1948)[10]
官職 氏名と階級 民族
総参謀長 中将スミス・ドン( Smith Dun) BC 5106 カレン族
陸軍参謀長 准将Saw Kyar Doe BC 5107 カレン族
空軍参謀長 中佐 Saw Shi Sho BAF-1020 カレン族
海軍参謀長 中佐 Khin Maung Bo ビルマ族
北ビルマ地区司令官 准将ネ・ウィン( Ne Win) BC 3502 ビルマ族
南ビルマ地区司令官 准将Aung Thin BC 5015 ビルマ族
第1歩兵師団長 准将Saw Chit Khin カレン族
軍政総監 中佐 Kyaw Win ビルマ族
法務総監 大佐 Maung Maung BC 4034 ビルマ族
主計総監 中佐Saw Donny カレン族

1956年の改編[編集]

1955年9月28日の総参謀長命令第9号に基づき、総参謀長は総司令官になり、陸軍参謀長は副参謀長(陸軍)に、海軍参謀長は副参謀長(海軍)に、空軍参謀長は副参謀長(空軍)になった。[要出典]

1956年1月1日、軍務局は正式に国防省に改名された。ネ・ウィン大将は、ミャンマー軍の初代の総参謀長となり、初めて陸軍、海軍、空軍の3軍すべてを統一指揮する体制となった。[要出典]

Aung Gyi准将は副参謀長(陸軍)に任じられ、D. A.ブレイク准将が南ビルマ地区司令官となり、「30人の同志」の一員のKyaw Zaw准将が北ビルマ地区司令官(NBSD)となった [要出典]

選挙管理内閣[編集]

1957年の政治情勢の悪化により、当時のビルマ首相ウー・ヌは、ネ・ウィン将軍に「選挙管理内閣」を組閣させ、1958年10月28日に権力を委譲した。軍事選挙管理内閣の管理下で1960年2月に議会選挙が行われた。いくらかの高官および高級将校は、さまざまな政党や関与や支援を理由に解任された。[11]

1962年クーデター[編集]

1960年の選挙では、ウー・ヌが首相に復帰し、Pyidaungsu党(連邦党)主導の文民政府が国の統治を再開した。

1962年3月2日、当時の国軍総参謀長であったネ・ウィン将軍が1962年のビルマクーデターを起こし、「連邦革命評議会」を結成した[12]。真夜中ごろ、軍は戦略的要所を確保するためヤンゴン市内への移動を始めた。ウー・ヌ首相と彼の閣僚たちは保護拘留された。午前8時50分、ネ・ウィン将軍はラジオでクーデターを発表した。ネ・ウィンは、「連邦の状態が著しく悪化しているため、軍が国の安全を維持する責任と任務を引き継いだことを、連邦市民の皆様にお伝えせねばならない」と述べた[13]

その後12年間、国は軍により支配されることになった。 ビルマ社会主義計画党が唯一の政党となり、その正党員の大部分は軍人であった[14]。政府の公務員は軍事訓練を受け、軍事情報局が国の秘密警察として機能した。

歴代司令官 [15][編集]

氏名 在任期間 前職 後職 備考
アウンサン少将 1945年 - 1947年7月19日
ボー・レット・ヤ英語版准将 1947年 - 1948年
スミス・ドン英語版中将 1948年1月4日 - 1949年1月31日 カレン人
ネ・ウィン大将 1949年2月1日 - 1972年4月20日
サン・ユ大将 1972年4月20日 - 1974年3月1日 1981年大統領
ティン・ウ英語版大将 1974年3月1日 - 1976年3月6日 ビルマ国防次官兼参謀次長 陸軍参謀長 国民民主連盟副議長
チョー・ティン英語版大将 1976年3月6日 - 1985年11月3日
ソウ・マウン上級大将 1985年11月4日 - 1992年4月22日 参謀次長
タン・シュエ上級大将 1992年4月22日 - 2011年3月30日 参謀次長 退役
ミン・アウン・フライン上級大将 2011年3月30日 - 陸海空軍統合参謀長 2021年のクーデターで三権を掌握

事故[編集]

脚注[編集]

  1. ^ アーカイブされたコピー”. 2012年12月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年10月25日閲覧。
  2. ^ a b c ミャンマー連邦共和国(Republic of the Union of Myanmar)基礎データ日本国外務省(2019年9月5日閲覧)。
  3. ^ 「ミャンマー軍系企業運営の工業団地 入居企業と取引停止 香港エスプリ」日本経済新聞』朝刊2019年8月30日(アジアBiz面)2019年9月5日閲覧。
  4. ^ Steinberg 2009: 37
  5. ^ a b Hack、Retig 2006:186
  6. ^ Dun 1980:104
  7. ^ Steinberg 2009:29
  8. ^ Seekins 2006:124-126
  9. ^ Andrew Selth: Power Without Glory
  10. ^ Maung Aung Myoe: Building the Tatmadaw
  11. ^ Maung, Aung Myoe (2009). Building the Tatmadaw: Myanmar Armed Forces Since 1948. ISBN 978-981-230-848-1. https://www.researchgate.net/publication/272092747 
  12. ^ Mya Win: Leaders of Tatmadaw
  13. ^ Dr. Maung Maung: General Ne Win and Burma
  14. ^ Martin Smith (1991). Burma – Insurgency and the Politics of Ethnicity. London and New Jersey: Zed Books 
  15. ^ Maung Aung Myoe, Building the Tatmadaw, Appendix (6)

関連項目[編集]