ドイツ再統一

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1990年のドイツ再統一

ドイツ再統一(ドイツさいとういつ、ドイツ語: Deutsche Wiedervereinigung英語: German reunification)は、1990年10月3日ドイツ連邦共和国Bundesrepublik Deutschland西ドイツ)にドイツ民主共和国Deutsche Demokratische Republik、東ドイツ)が編入された出来事である。「東西ドイツ統一」「東西ドイツの統一」「ドイツの東西統一」などとも呼ばれる。

呼称[編集]

共産主義式国章が切り取られ、穴が開いている東ドイツの国旗
看板「ここは、ドイツとヨーロッパが、1989年12月10日10時15分まで分断されていた所です。」

一般的な日本語文献・報道においては、直近のこの東西ドイツ統一のことを単に「ドイツ統一」と呼ぶことも多いが、ドイツ史の歴史的文脈における歴史用語・政治用語としては、ドイツ統一とは現代のドイツという主権国家の枠組みそのものの出発点としてより重要視されるドイツ帝国の成立(1871年1月18日)に至る運動を指しており、1990年の出来事については用語上「ドイツ再統一」として明確に区別されている。

「ドイツ再統一」という表現の法的な問題点[編集]

西ドイツは建国以来、「憲法(Verfassung)」を持たず、「基本法Grundgesetz)」をもって憲法に代えていた。その理由は、「やがて東ドイツを含めて統一する暁に初めて憲法を持つことにする」との意志を持っていたからで、このことは基本法第146条に明記されていた。

しかし、実際に東ドイツが1989年ベルリンの壁崩壊に始まる自壊現象を起こしてしまうと(→東欧革命)、西ドイツはこの基本法上の規定を無視して、新たなの「加盟」を認める基本法第23条の手続き[注 1]を利用して、東ドイツにある5つの州[注 2]および都市州ベルリン(厳密には東ベルリン)が西ドイツ(「連邦」共和国)に新たに「加盟」するという形式で国家統一を成し遂げた。

そのため、法律上の解釈では、ドイツは「再統一」したのではなく、ドイツ民主共和国の領域を構成していた全ての州がドイツ連邦共和国に「加盟」したとしか言えない[注 3][注 4]

ベルリンの壁崩壊から再統一までの経過[編集]

1989年
1990年

再統一後の経済[編集]

ドイツは第二次世界大戦後から約40年にわたって分断され、旧東西両国が資本主義共産主義という違った経済体制を敷いていたため、旧西ドイツと旧東ドイツでは大きな経済格差があった。旧東ドイツは東側社会主義国の中では一番経済が発展していた「社会主義国の優等生」ではあったが、それでも世界屈指の経済大国である旧西ドイツとの差は非常に大きかったと言われる。再統一後のドイツは深刻な不況に襲われ、その影響は長く続いた。

西独および再統一ドイツのヘルムート・コール首相は、整理解雇請負会社「ドイツ信託公社」に依頼し、旧東ドイツ国営企業の民営化や大規模な整理解雇を行った。

旧西ドイツでは経済混乱に足をすくわれ、再統一の際に1:1での通貨交換をしてしまったため、5000億マルク(当時の日本円にして約3兆5000億円)が吹き飛び、赤字転落してしまった。また、旧東ドイツでは、民営化された国営企業の相次ぐ倒産により失業者数が増加した。そのあおりで極右政党が移民排斥を主張すると、失業者と競合する国民の共感を得る傾向にあり、東西ドイツ時代には封じられていたネオナチ思想も、格差の残る旧東ドイツを中心に息を吹きかえした。再統一後も旧東ドイツへの援助コスト増大などによって、旧西ドイツの経済は圧迫を強いられた。2006年頃には景気回復の兆しを見せたが、世界金融危機により、再び不況に陥った(欧州全体が世界金融危機の影響を受けており、ドイツだけが特別ではない)。2010年に欧州連合(EU)が経済危機に陥ったギリシャへの金融支援を検討した際(2010年欧州ソブリン危機)、最も強く反対したのは20年近くの不景気にあえぎ続けていたドイツであった。

そこでドイツはフォルクスワーゲンなど大手雇用口企業を政策で保護するという、ドイツ版逆コースとも言うべき経済政策が施された。しかしこの結果が、フォルクスワーゲンの排ガス規制不正問題を誘発することになる。[要出典]

2007年10月、ドイツの世論調査会社の調査によると、「東西に分断されていた頃の方が良かった」と答えた人は全体の19%に上るなど、必ずしも全てのドイツ人がドイツ再統一を歓迎していない実態が明らかとなった[1]

2010年代はGDPは増加傾向であり[2]、失業率も減少して2011年の時点では1991年以来の低水準となっている[3]。2010年代後半からユーロ安により安定的な経常収支の黒字を記録してきた。2019年の経常黒字額は2930億ドルと4年連続世界最高水準を記録。経常黒字の対国内総生産比は、欧州委員会が持続可能と見なす水準6.0%を超え7.6%に達した[4]。名目国内総生産(GDP)は1990-2020年の間でドイツ2.3倍増、米国3.5倍増、中国37倍増、日本1.5倍増となり、日本の失われた30年よりは経済成長を実現している[5]

東西ドイツ旧国境[編集]

北大西洋条約機構(NATO)と、ソ連と東欧諸国で構成するワルシャワ条約機構が対峙する冷戦の最前線であり、「鉄のカーテン」の主たる部分をなしていた。バルト海沿岸からチェコとの3カ国国境まで約1400キロメートルあり、東独側では国民の西独への亡命を防ぐため、幅300メートルほど鉄条網塹壕バリケード地雷原が設けられ、監視塔とパトロール車両で武装兵が警備していた。再統一後、これらは博物館として一部が残されたほかは撤去された。国境の封鎖で開発が及ばず希少な動植物を含む自然が結果的に残り、これらを保全する「グリューネス・バント」(Grünes Band)という活動が行われている[6]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この条文は本来、第二次世界大戦後にドイツから分離されたザール地方の復帰を想定して盛り込まれたものであった。実際にザールはこの条文の規定に基づき、1957年1月1日ドイツ連邦共和国への「加盟」を果たし、ザールラント州となっている。なお、同規定はドイツ再統一が実現した後に廃止された。
  2. ^ ただし、東ドイツでは1952年にが廃止されて14の「ドイツ語版(Bezirk)」に改組されていたため、再統一に際してを復活させた上で、各州議会において西ドイツへの加盟を決議するという手続きをとった。
  3. ^ このことは再統一に至る過程において、憲法ないし基本法そのものをめぐる議論の機会が欠如していたことを意味しており、憲法をめぐる国民的議論を経た上で新国家を樹立すべきだったとの批判も存在する。代表的な論者としては、ユルゲン・ハーバーマス等がいる。
  4. ^ ハーバーマス等識者の批判はあるものの「再統一」という大事業を成し遂げるには、原理原則を無視しても「歓喜と感動」という勢いに乗じなければ諸外国の干渉を招き実現は不可能であったという現実も考慮する必要がある。

出典[編集]

  1. ^ “ドイツ人の5人に1人が「ベルリンの壁があった方がよかった」”. AFPBB News. (2007年10月2日). https://www.afpbb.com/articles/-/2292054 2021年11月17日閲覧。 
  2. ^ DEStatis,GDPのトレンド
  3. ^ Patrick Donahue (2011年5月31日). “ドイツ:5月の失業者数、23カ月連続減少-失業率は91年来最低”. Bloomberg. 2021年11月17日閲覧。
  4. ^ ドイツ経常黒字、19年も世界最大 日本は2位”. ロイター. トムソン・ロイター (2020年2月4日). 2021年11月17日閲覧。
  5. ^ 木村聡史 (2021年10月19日). "アベノミクスでも低成長 30年間の平均賃金、米は5割増、日本は… [2021衆院選]". 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. 2023年7月28日閲覧
  6. ^ Grünes Band 「死の回廊」が緑に変わる 東西ドイツ国境開放から30年『日本経済新聞』日曜朝刊「NIKKEI The STYLE」9-11面(2019年11月3日)、NIKKEI The STYLE [@nikkeithestyle] (2019年11月3日). "#ベルリン の壁が崩れ、東西 #ドイツ の #国境 が開いてからまもなく30年。当時「死の回廊」と恐れられた国境地帯は手つかずに近い自然が残っています。この #グリーンベルト を保全しようという #自然保護 運動も30年目を迎えました。3日付朝刊より。". X(旧Twitter)より2021年11月17日閲覧

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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