アルバニア社会主義人民共和国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルバニア社会主義人民共和国
Republika Popullore Socialiste e Shqipërisë
アルバニア王国 (近代) 1946年 - 1992年 アルバニア
アルバニアの国旗 アルバニアの国章
国旗国章
国の標語: Ti Shqipëri, më jep nder, më jep emrin Shqipëtar(アルバニア語)
国歌: Himni i Flamurit(アルバニア語)
旗への賛歌
アルバニアの位置
アルバニア社会主義人民共和国の位置(1989年)
公用語 アルバニア語
宗教 国家無神論
首都 ティラナ
労働党第一書記
1944年 - 1985年エンヴェル・ホッジャ
1985年 - 1991年ラミズ・アリア
人民議会議長
1946年 - 1953年 オマール・ニシャーニ
1953年 - 1982年ハジ・レシ
1982年 - 1991年ラミズ・アリア
閣僚評議会議長
1944年 - 1954年エンヴェル・ホッジャ
1954年 - 1981年メフメット・シェフー
1981年 - 1991年アディル・カルサニ
面積
1982年29,000km²
人口
1982年2,858,000人
変遷
臨時政府成立 1944年11月28日
人民共和国成立1946年1月10日
複数政党選挙により非共産主義政権誕生1992年3月22日
通貨アルバニア・レク(1947年 - 1991年)
現在アルバニアの旗 アルバニア
アルバニアの歴史
アルバニア国章
この記事はシリーズの一部です。

アルバニア ポータル

アルバニア社会主義人民共和国(アルバニアしゃかいしゅぎじんみんきょうわこく、アルバニア語: Republika Popullore Socialiste e Shqipërisë)は、1946年アルバニア王国国王であるゾグー1世退位し、アルバニア共産党が政権を握って誕生したバルカン半島の国家。1976年までの国号はアルバニア人民共和国(アルバニアじんみんきょうわこく、Republika Popullore e Shqipërisë)であった。

歴史[編集]

第二次世界大戦末期の1944年11月29日、アルバニアではパルチザンソ連軍による全土解放が行われ、アルバニア共産党を中心とした臨時政府(アルバニア民主政府)による統治が開始された。1946年には王政が廃止され、共産主義国家アルバニア人民共和国が成立。エンヴェル・ホッジャを最高指導者とする政権が誕生した。

しばらくはソビエト連邦の強い影響下で国家運営がなされたが、1961年中ソ対立を契機に対ソ連批判を展開。ソ連と袂を分かつ一方で中華人民共和国に接近して親中化し、経済援助と軍事支援を受けた。農業や教育を重視して識字率を5%から98%に改善して食糧の自給も達成した[1]。また、1967年には、中国の文化大革命に影響されて「世界初の無神国家」を自称し[2]、一切の宗教活動を禁止した。1968年にはプラハの春への軍事介入に抗議してワルシャワ条約機構を脱退、隣国ユーゴスラビアとの対立も続き、同様にソ連と距離を置いていたルーマニアニコラエ・チャウシェスクも非難し、アルバニアは他のヨーロッパ諸国から自国を隔離した。1971年には国際連合アルバニア決議を共同提案して国際社会で友好国の中国が確固たる立場を築くのに一役を買うも、中国が西側諸国反共的な国々に接近したことに批判を強め[3][4]1976年にホッジャは毛沢東の葬儀に出席するも、後継者の華国鋒らがさらに3つの世界論に基づいた外交を展開したことに対して、中華人民共和国は自国を「第三世界超大国」にさせることを企んでいると非難し[3][5][6]、一転して反中となり(中ア対立)、国号をアルバニア社会主義人民共和国へ改称。

1978年には鄧小平によって改革開放路線に転換した中国からの援助も失い、他の共産圏[7]に対してもマルクス・レーニン主義に反すると否定していたアルバニアは「世界唯一のマルクス・レーニン主義国家」を掲げた[8][9]。ホッジャが掲げた反修正主義は「アルバニア派」と呼ばれ、主に発展途上の国々における左派において一定の支持を受けるも、肝心の自国の国際的な孤立は一層進んだ。

1980年代には「欧州一の最貧国」とまで揶揄されるほど経済は停滞。そのような中、1985年に指導者であるホッジャが死去。全国規模の反政府デモが頻発し、後継者ラミズ・アリアにより1990年から徐々に開放路線に政策を転換し始めた。1992年の総選挙によって非共産主義政権が誕生し、共産国家アルバニアは崩壊した。鎖国政策を転換して国際社会への復帰を急ぎ、経済復興を進めたが、1990年代に流行したネズミ講の破綻を契機とする暴動が発生するなど、近年も国情は安定していない。

出典 [編集]

  1. ^ 40 Years of Socialist Albania, Dhimiter Picani
  2. ^ Albania finds religion after decades of atheism”. シカゴ・トリビューン (2007年4月18日). 2019年5月26日閲覧。
  3. ^ a b Hoxha, Enver (1982). Selected Works, February 1966 – July 1975. IV. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 656–668.
  4. ^ Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China. 2. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 166–167.
  5. ^ Hoxha, Enver (1982). Selected Works, February 1966 – July 1975. IV. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 656.
  6. ^ Hoxha, Enver (1985). Selected Works. 5. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 617–618, 697–698.
  7. ^ Enver Hoxha, "Reflections on China II: Extracts from the Political Diary", Institute of Marxist-Leninist Studies at the Central Committee of the Party of Labour of Albania," Tirana, 1979, pp 516, 517, 521, 547, 548, 549.
  8. ^ Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China. II. Tirana: 8 Nëntori Publishing House.
  9. ^ Vickers, Miranda (1999). The Albanians: A Modern History. New York: I.B. Tauris & Co Ltd. p. 203. p. 107

参考文献[編集]

  • 木戸蓊編『世界現代史24 バルカン現代史』山川出版社、1977年。
  • 柴宜弘編『新版世界各国史18 バルカン史』山川出版社、1998年。
  • 秋岡家栄『双頭のワシの国アルバニア』三省堂選書、1977年。
  • NHK取材班『現代の鎖国アルバニア : NHK特集』日本放送出版協会、1987年5月20日。NDLJP:12176926 

関連項目[編集]