酒井忠惇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
酒井 忠惇
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保10年7月28日1839年9月5日
死没 明治40年(1907年11月11日
改名 幸五郎(幼名、孝五郎とも)→忠優(初名)→忠惇
別名 勘解由(通称
戒名 慈徳院殿義徹忠惇源信大居士
墓所 東京都豊島区駒込染井霊園
官位 従五位下、河内守従四位下、侍従雅楽頭正四位従三位正三位
幕府 江戸幕府老中
播磨姫路藩
氏族 酒井氏(雅楽頭家分家→雅楽頭家宗家→雅楽頭家分家)
父母 父:酒井忠誨、母:家女
養父:酒井忠夏酒井忠績
兄弟 忠績、忠恕忠惇
正室:酒井忠欽の娘、いせ(青鹿源右衛門の長女)
忠精(長男)、鍈子(立花寛治継々室)、錥子(酒井千代吉麿室)、登喜子(浅野養長正室)
養子:忠邦
テンプレートを表示

酒井 忠惇(さかい ただとし/ただとう)は、江戸時代末期から明治時代の旗本大名華族播磨姫路藩の第9代藩主。雅楽頭系酒井家宗家17代。江戸幕府老中でもあった。幕府最後の大老で先代藩主・酒井忠績は兄。

生涯[編集]

姫路藩主家分家の御小姓組番頭・酒井忠誨(5000石)の四男として江戸に生まれる。母は家女。

文久元年(1861年)12月に5500石の寄合旗本酒井忠夏の養子となり、文久3年(1863年10月4日に家督を相続、12月15日に御使番に任命される。翌元治元年(1864年6月28日に御使番在任のまま箱根関所の見廻りを命じられ、7月2日に箱根へ出発し、8月2日に江戸に戻る。6日に本家姫路藩主の兄・酒井忠績の養子となり、13日を忠優と改め、19日通称を勘解由と改める。10月27日に従五位下・河内守に叙任、同日に従四位下に叙される。慶応元年(1865年4月15日溜間詰に列せられ、5月15日侍従に任じられる。

慶応3年(1867年2月28日、兄の隠居により姫路藩主となり、諱を忠惇に改める。3月2日に雅楽頭に任じられ、12月30日に老中に任命される。しかし慶応4年(1868年)1月に始まった戊辰戦争鳥羽・伏見の戦い徳川慶喜ら幕府側に与したため2月5日に老中を罷免された上、3月7日には官位を剥奪され、入京も禁止される。さらに5月20日明治新政府から隠居謹慎を命じられ、 分家の伊勢崎藩から酒井忠邦を養子に迎えて家督を譲った[1]。そして明治元年(1868年)12月12日駿府徳川亀之助(後の家達)へ預けとなり、翌明治2年(1869年9月28日に蟄居預かりを解かれる。明治4年(1871年2月3日、兄と同じく静岡藩士族酒井録四郎忠恕(忠績と忠惇の間の兄弟)方へ終身同居することを許される。

明治5年(1872年1月6日、従五位に叙される。明治9年(1876年4月12日、宗家の忠邦方へ復籍する。明治13年(1880年5月18日に従四位に叙され、11月18日に分家して終身華族に列せられる。明治22年(1889年5月11日に永世華族に列せられ、男爵を授与される。6月17日、東京上野東照宮副祀官に任命される。6月26日、正四位に叙される。明治23年(1890年12月27日、上野東照宮副祀官を辞職する。明治26年(1893年10月21日久能山東照宮宮司に任命され、明治29年(1896年1月28日まで勤める。

明治32年(1899年6月20日従三位、明治40年(1907年)11月11日に正三位に叙され、同日薨去。享年69。

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、315頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  2. ^ 『官報』第1758号「授爵叙任及辞令」1889年5月13日。
  3. ^ 『官報』第7313号「叙任及辞令」1907年11月12日。

参考文献[編集]

  • 橋本政次『姫路城史』下(1952年、同刊行会)
  • 杉本勝二郎『国乃礎』(1893年、杉本嘉次郎)
  • 『播磨姫路酒井家譜』東京大学史料編纂所
  • 『姫路市史』10 史料編近世1(1986年、同市)所収。
  • 『兵庫県史』史料編近世1(1989年、同県)抄録。
  • 『姫陽秘鑑』姫路市立城郭研究室蔵
  • 『姫路市史資料叢書』2(2003年、同市史編纂室)
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
姫路酒井家(忠惇分家)
初代
1889年 - 1907年
次代
酒井忠精
当主
先代
酒井忠惇家
初代
1880年 - 1899年
次代
酒井忠精
先代
酒井忠績
酒井雅楽頭家
22代
1867年 - 1868年
次代
酒井忠邦