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| 死 = {{死亡年月日と没馬齢|p=0|1984|3|22|2009|3|1}}<ref>{{Cite web |title=メリーナイス死亡|url=https://www.radionikkei.jp/keiba_article/news/entry-164085.html |website=ラジオNIKKEI |access-date=2022-10-25 |language=ja}}</ref>| 父 = コリムスキー<ref name="JBIS"/>
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'''メリーナイス'''(欧字名:{{Lang|en|Merry Nice}}、[[1984年]][[3月22日]] - [[2009年]][[3月1日]])は、[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]<ref name="JBIS">{{Cite web|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000165998/ |title=メリーナイス|JBISサーチ |work=JBISサーチ|publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|accessdate=2019-05-11}}</ref>。
'''メリーナイス'''(欧字名:{{Lang|en|Merry Nice}}、[[1984年]][[3月22日]] - [[2009年]][[3月1日]])は、[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]<ref name="JBIS">{{Cite web|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000165998/ |title=メリーナイス|JBISサーチ |work=JBISサーチ|publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|accessdate=2019-05-11}}</ref>。


[[1986年]]の[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]](GI)、[[1987年]]の[[東京優駿]](日本ダービー、GI)優勝馬。1986年の[[JRA賞最優秀2歳牡馬|JRA賞最優秀3歳牡馬]]に選出されてい<ref name="japansire"/>。他の勝ち鞍1987年の[[セントライト記念]](GII)。主戦騎手は[[根本康広]]
1986年の[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]](GI)、1987年の[[東京優駿]](日本ダービー)(GI)優勝馬。1986年の[[JRA賞最優秀2歳牡馬|JRA賞最優秀3歳牡馬]]である。他に1987年の[[セントライト記念]](GII)を優勝した

== デビューまで ==

=== 誕生までの経緯 ===

==== 浦志磨太郎・房子 ====
浦志磨太郎、房子は、[[東京都]][[大田区]]で不動産業経営の傍ら、馬主業も営んだ夫妻である<ref name="優駿-1987-7-71">『優駿』1987年7月号 71頁</ref>。1973年に志磨太郎が死去してからは、未亡人房子が、単独で馬主を続けていた<ref name="優駿-1987-7-71" />。夫妻が初めて所有した馬は1953年、[[東京競馬場]]所属の調教師・[[橋本輝雄]]に紹介された橋本の親戚、[[北海道]][[静内町]]の橋本禎一牧場が生産したツキホマレ(父:[[月友]])である。ツキホマレは、日本において、1903年輸入のチップトップから始まり、定着した牝系に属していた<ref>{{Cite web |title=ダート界の横綱(エスポワールシチー) - netkeiba.com名馬列伝 |url=https://news.netkeiba.com/?pid=column_view&cid=25473 |website=netkeiba.com |access-date=2022-10-24 |language=ja}}</ref>。競走馬を終えたツキホマレは、[[繁殖牝馬]]として「ウラツキホマレ」と名を改め<ref name="優駿-1987-7-75">『優駿』1987年7月号 75頁</ref>、橋本牧場に戻る<ref name="優駿-1987-2-135">『優駿』1987年2月号 135頁</ref>。浦夫妻は、繁殖と幼駒の所有を継続した<ref name="優駿-1987-7-75" /><ref name="週刊新潮-1987-6-18-3637">『[[週刊新潮]]』1987年6月18日号 36-37頁</ref>。

ウラツキホマレは1962年、フェリオール産駒の牝馬・タツヒロを生産する<ref name="優駿-1987-2-135" />。タツヒロは、[[中央競馬]]でデビューし、五稜郭ステークスや若水賞を制するなど7勝<ref name="優駿-1987-2-135" />。同じく橋本牧場に戻り「コンチネンタル」に改めて繁殖入り<ref name="優駿-1987-2-135" />。1968年には、浦が牧場から新種牡馬[[テスコボーイ]]を紹介され、気に入ったために、コンチネンタルとテスコボーイの交配が実現している<ref name="優駿-1987-7-75" />。翌1969年、テスコボーイの初年度産駒である牝馬・メリーブラットを生産した。メリーブラットは、体つきは良かったものの、調教は走らなかった<ref name="優駿-1987-7-75" />。橋本は、浦に競走馬としてあきらめるよう助言するほどだったが、浦が粘って現役続行となり、新馬戦で後方に10馬身差をつけて勝利<ref name="優駿-1987-7-75" />。他にNST賞、ひまわり賞を制した13戦3勝だった<ref>{{Cite web |title=メリーブラツト|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000029255/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-10-24}}</ref>。

==== ツキメリー ====
そして繁殖牝馬となったメリーブラットは、1977年[[シャトーゲイ (競走馬)|シャトーゲイ]]産駒の牝馬・ツキメリーを産んでいる<ref name="優駿-1987-2-135" />。[[地方競馬]]でデビューしたツキメリーは、能力試験を合格点54秒のところ、48秒で走破する能力の持ち主だった<ref name="優駿-1987-7-75" />。デビューすれば勝利を重ね、1979年の[[東京3歳優駿牝馬]]を優勝<ref name="優駿-1987-2-135" />。そのほか翌年の[[桜花賞 (浦和競馬)|浦和桜花賞]]2着、[[クイーン賞]]3着、[[関東オークス]]3着などの成績を残した<ref>{{Cite web |title=ツキメリー|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000100208/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-10-24}}</ref>。

ツキメリーは、ある牧場で繁殖牝馬として繋養される。初年度は父アラナスの牡馬を産み、デビューできなかった<ref name="優駿-1987-2-135" />。2年目は[[アローエクスプレス]]と交配したが、不受胎だった<ref name="優駿-10987-11-145">『優駿』1987年11月号 145頁</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.studbook.jp/users/ja/Honba.php?hid=37248227411 |title=ツキメリー(JPN) |access-date=2022-10-24 |publisher=公益財団法人 ジャパン・スタッドブック・インターナショナル |archive-url=https://web.archive.org/web/20221024171854/https://www.studbook.jp/users/ja/Honba.php?hid=37248227411 |archive-date=2022‐10‐24}}</ref>。そして3年目となる1983年は、浦が相手探しに三石スタリオンセンターを訪れたところ、たまたま真正面に来て「ポチャッとした感じのかわいい<ref name="優駿-1987-7-75" />」と感じたコリムスキーが交配相手となる。

==== コリムスキー ====
コリムスキーは、父は、[[ニジンスキー (競走馬)|ニジンスキー]]や[[サドラーズウェルズ]]、[[ヌレイエフ]]、[[ノーザンテースト]]などを産んだ[[ノーザンダンサー]]。母は、アメリカ[[リーディングサイアー]]である[[イクスクルーシヴネイティヴ]]の妹リブロドロである<ref>『優駿』1987年8月号 69頁</ref>。おまけに両親は父父父、父父父父が同じ[[ネアルコ]]であり、走る馬が生まれやすいと信じられるフィッツラックの18.75%理論「[[奇跡の血量]]」が成立していた<ref name="優駿-1993-8-65">『優駿』1993年8月号 65頁</ref>。そのような「超良血」(横尾一彦)のコリムスキーは、アメリカとアイルランドで競走馬として走ったが、2勝に留まり大成はしなかった。そして引退後の5歳、1979年に日本にもたらされて、三石で種牡馬として繋養されていた<ref name="優駿-1993-8-65" />。

日本における[[ノーザンダンサー系]]では、[[社台グループ]]、[[シンボリ牧場]]が導入したノーザンテースト、[[モガミ]]が大活躍、両牧場はその恩恵を受けて大牧場に成長していた<ref>『優駿』1987年8月号 66-67頁</ref>。一方のコリムスキーは、競走成績が優れていないうえに、馬産地の評価が低く、種付け料が安く設定されても牝馬が集まらない状況だった<ref name="優駿-1987-8-68">『優駿』1987年8月号 68頁</ref>。浦の馬主業は、高額な馬や、種牡馬には手を出さず、安価な馬で細く長く営む方針だった<ref name="優駿-1987-7-75" />。浦は、ノーザンダンサー系種牡馬をツキメリーにあてがいたいと考えており、腹では最高の種牡馬ノーザンテーストが良いと考えていたが、予算から叶わなかった<ref name="優駿-1987-7-75" />。ゆえに偶然目にした安価なノーザンダンサー系種牡馬・コリムスキーを「これに決めちゃおうかと軽い気持ち<ref name="優駿-1987-7-75" />」(浦房子)で選び、ツキメリーと結び付けていた<ref name="優駿-1987-2-135" />。

受胎したツキメリーが、出産を間近に控えた頃、浦とある牧場主が対立している<ref name="優駿-1987-8-68" />。やがて仲違いに至り、浦はその牧場から所有馬を引き揚げていた。ツキメリーは代わって、北海道静内町の前田徹牧場に繋養される<ref name="優駿-1987-8-68" />。

==== 前田徹牧場 ====
前田徹牧場は、家族経営の小牧場である<ref name="優駿-1987-3-20">『優駿』1987年3月号 20頁</ref>。当初は、牛の飼育と稲作を行う[[兼業農家]]だったが、その兼業は負担がかかりすぎるとして、1968年に馬の生産と稲作の兼業に転向していた<ref name="優駿-1987-3-21">『優駿』1987年3月号 21頁</ref>。借金を作らない経営方針のもと、毎年数頭の生産を20数年間続けていた<ref name="優駿-1987-3-22">『優駿』1987年3月号 22頁</ref>。しかしその間、生産馬の中央競馬入厩はこれまでに5頭ほど、抽せん馬としてデビューしたサーティファイブの2勝が最高の成績で重賞は未勝利<ref name="優駿-1987-3-22" />、新馬戦で勝ち上がった馬はいなかった<ref name="優駿-1987-3-20" />。そんな牧場に、浦からツキメリーが託されていた<ref name="優駿-1987-8-68" />。

1984年3月22日、前田牧場にてツキメリーの2番仔である栗毛の牡馬(後のメリーナイス)が誕生する<ref name="優駿-1987-2-135" />。見栄えのする栗毛な上に、脚の先4本すべて白く、おまけに顔の中央部分が上から下まで白い「[[馬のマーキング|四白流星]]」だった<ref name="優駿-1993-8-65" />。

=== 幼駒時代 ===
ツキメリーの2番仔には「'''メリーファスト'''」という血統名が与えられる<ref name="優駿-1987-3-22" />。メリーファストは、シャトーゲイの傾向が強く出て気性の勝った馬だったが、メリーファストは落ち着きがあり、賢かった<ref name="優駿-1987-3-22" />。外見もサイズは小さいものの、バランスが良かったという。2歳秋に牧場を巣立っている<ref>『優駿』1987年3月号 22頁</ref>。これまで5代にわたって繋いできた牝系、ウラツキホマレ、コンチネンタル、メリーブラット、ツキメリーと同様に、浦の所有となり、ウラツキホマレなどと同様に橋本調教師に託された。

浦はメリーファストに「'''メリーナイス'''」という競走馬名を与えている。「メリー」は、浦が小学生の頃、白い服、白いボタンのメリーさん人形の写生をする際、見たまま描けという教えを破り、ボタンを赤く染めて提出<ref name="優駿-1987-7-75" />。勝手なことをして怒られると思いきや、学校内に掲示されて嬉しかったというエピソードがあった。それ以降「メリー」と赤色を好むようになり、馬の冠名となっていた<ref name="優駿-1987-7-75" />。「ナイス」を組み合わせたのは期限ぎりぎりだった<ref name="優駿-1987-7-75" />。浦によれば「ベリーナイスと語呂があっている<ref name="優駿-1987-7-75" />」という理由もあったという。

メリーナイスは3歳春、[[美浦トレーニングセンター]]の橋本厩舎に入厩する。元騎手の橋本は、1944年の第13回[[東京優駿競走]]を[[カイソウ]]に騎乗して、1950年の第17回東京優駿競走(日本ダービー)を[[クモノハナ]]に騎乗して優勝、ダービー2勝を挙げていた<ref name="優駿-1987-9-51">『優駿』1987年9月号 51頁</ref>。引退後、調教師に転身した橋本だったが、開業して30年、70歳代に突入しても東京優駿を優勝することができずにいた<ref name="優駿-1987-9-51" />。


== 競走馬時代 ==
== 競走馬時代 ==
=== デビューから東京優駿まで ===
[[1986年]][[8月3日]]、[[函館競馬場]]でデビューした。均整の取れた馬体と調教で見せる優れた瞬発力から注目され、1番人気に推されこれに応えて勝利した。続く2戦目コスモス賞は[[ゴールドシチー]]の4着、3戦目りんどう賞はこの世代の一番馬と目されていた[[サクラロータリー]]にアタマ差の2着と敗れた。続く[[いちょうステークス|いちょう特別]]で2勝目を挙げると、GI・朝日杯3歳ステークスに出走した。


=== 3歳(1986年) ===
頭ひとつ抜けた存在と見られたサクラロータリーが骨折で戦線を離脱していたためレースは混戦模様となり評価が割れる中、メリーナイスは重賞2連勝でここに臨んだ[[ホクトヘリオス]]に続く2番人気に支持された。レースでは好位に取り付き、直線で力強く抜け出すと1馬身半差で優勝した。この勝利によって、メリーナイスは関西で[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳ステークス]]を制したゴールドシチーと共に最優秀3歳牡馬に選ばれた。


==== 朝日杯3歳ステークス ====
明けて迎えた4歳シーズンは、[[スプリングステークス]]から始動した。しかし[[マティリアル]]の前に見せ場なく9着に敗れ、続く[[クラシック (競馬)|クラシック]]初戦の[[皐月賞]]でも7着に敗れた。そして迎えた東京優駿では皐月賞馬[[サクラスターオー]]の不在で同3着のマティリアルに人気が集中する中、4番人気に推された。
3歳夏、1986年8月3日の[[函館競馬場]]の[[新馬戦]]でデビュー、1番人気だった。直線で抜け出し、[[ホクトヘリオス]]を置き去りにしたほか、サイコーハートにハナ差だけ先着、初出走初勝利を果たした<ref name="優駿-1993-8-65" />。続いて9月20日、同じく函館の[[コスモス賞]](OP)に臨んだが、スタートで出遅れて差し届かず、[[ゴールドシチー]]に敗れる4着<ref name="優駿-1993-8-65" />。そして本州に戻って10月4日、[[東京競馬場]]のりんどう賞(400万円以下)に臨んだが、[[サクラロータリー]]にハナ差だけ及ばず2着だった<ref name="優駿-1993-8-65" />。それから10月25日、[[いちょうステークス|いちょう特別]](OP)に1番人気で参戦。直線で抜け出しに成功し、追い上げるセントナダラをアタマ差下し、2勝目を挙げた<ref name="優駿-1993-8-65" />。


レースではマティリアルにマークされる形で中団を進んだが、4コーナーで先行集団に取り付くと直線では逃げ粘るサニースワローをかわしてそのまま差を広げ続け、最終的にサニースワローに6馬身差を付けて優勝した。この着差はダービーの着差としては史上4番目の大差で手綱を取った根本は「後続馬の足音が聞こえなかった」と語り、のちに[[ヒーロー列伝|JRAが作成したポスター]]で「四白 流星 六馬身。」というキャッチコピーに使われるほどの圧勝だった。


=== その後 ===
秋は[[菊花賞]]トライアルの[[セントライト記念]]から始動し、これを勝利した。しかし本番の[[菊花賞]]では1番人気に支持されたが、[[繋靱帯炎]]明けからぶっつけで参戦した[[サクラスターオー]]の前に9着に敗れ、年末の[[第32回有馬記念]]に至ってはスタートと同時に根本を振り落としてしまい落馬競走中止となった。


続いて12月14日、[[朝日杯3歳ステークス]](GI)に臨む。9頭立てとなるなか、ホクトヘリオスとの一騎打ち、二強と目されていた<ref name="優駿-1987-1-10">『優駿』1987年1月号 10頁</ref>。新馬戦以来の再会となったホクトヘリオスは、新馬戦ではソエがあったうえに出遅れてメリーナイスに敗退していた<ref name="優駿-1987-2-133">『優駿』1987年2月号 133頁</ref>。その後立て直して2戦目の新馬戦、[[函館3歳ステークス]]、[[京成杯3歳ステークス]]で3連勝、重賞2連勝で、唯一の単枠指定だった<ref name="優駿-1987-2-134">『優駿』1987年2月号 134頁</ref>。ホクトヘリオスが2倍の1番人気、メリーナイスが3.6倍の2番人気に推されていた<ref>『優駿』1987年2月号 132頁</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=evmJUQ2bmzw&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1986年 朝日杯3歳ステークス(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}スタートから中団後方を確保<ref name="優駿-1987-2-133" />。ホクトヘリオスが最後方待機、ドウカンプレスが逃げる平均ペースを追走していた<ref name="優駿-1987-2-133" />。先行勢がおしなべて失速する最終コーナーにて、外から進出、抜け出して先頭を奪取した<ref name="優駿-1987-2-133" />。直線では、末脚を発揮して、内から応戦する3番人気スーパーファントムをかわして先頭を守り、最後方大外から追い上げるホクトヘリオスを突き放して、独走となる<ref name="優駿-1987-1-10" />。根本は「『[[パット・エデリー|エデリー]]ばり』の回転ムチ<ref name="優駿-1987-2-133" />」(橋本邦治)、ヨーロピアンスタイルの騎乗フォームを披露しながら、先頭で決勝線を通過する<ref>『競馬名馬読本』234頁</ref>。ホクトヘリオスに1馬身半差をつけて、GI初勝利を果たした<ref name="優駿-1987-2-134" />。この年の[[JRA賞]]では、[[JRA賞最優秀2歳牡馬|最優秀3歳牡馬]]を受賞している。ただし関西の3歳GI、[[阪神3歳ステークス]]を優勝した[[ゴールドシチー]]と分け合う形となった<ref>『優駿』1987年4月号 8頁</ref>。
翌年緒戦の[[目黒記念]]こそ2着に粘りこむものの、[[天皇賞(春)]]ではクラシックの頃は一介の条件馬だった同期の[[タマモクロス]]の前に14着と大敗を喫した。


=== 4歳(1987年) ===
次走の[[函館記念]]では1歳下の[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳ステークス]]勝ち馬・[[サッカーボーイ]]の日本レコード駆けに完敗するも[[シリウスシンボリ]]、[[マックスビューティ]]といったGI馬を抑えて2着となった。その後、[[天皇賞(秋)]]に向けて調整が行われていたが調教中に骨折、この函館記念を最後に現役引退した。

==== 皐月賞 ====
朝日杯3歳ステークスを制したことで[[クラシック (競馬)|クラシック]]戦線に乗り、まずはクラシック一冠目の[[皐月賞]]を目指した。年をまたいで3歳となったが、右後ろ肢の外傷を[[化膿]]させたり、左前肢に深管骨瘤をきたして十分に調教することができなかった。仕上がることのないまま3月29日、皐月賞の[[トライアル競走]]である[[スプリングステークス]](GII)に参戦する。関西のゴールドシチーとの対決が前哨戦で実現したが、人気を集めたのは、マティリアルだった<ref name="優駿-1987-5-83">『優駿』1987年5月号 83頁</ref>。田中和夫厩舎、[[岡部幸雄]]騎乗、シンボリ牧場の[[マティリアル]]は、[[サクラロータリー]]には敗れたものの、[[サクラスターオー]]には先着した3戦2勝、重賞初挑戦の身だった。対するメリーナイスは2番人気、ゴールドシチーは5番人気だった<ref name="優駿-1987-5-83" />。

この日のメリーナイスは、いれ込みが激しかった。ゆえにスタートで出遅れて後方を追走、進出なく後方のまま9着敗退となる<ref name="優駿-1987-5-152">『優駿』1987年5月号 152頁</ref>。勝利したのは、マティリアルだった。最後方から追い込み、短い直線ですべてごぼう抜きする大胆なパフォーマンスだった<ref name="優駿-1987-5-152" />。おまけに[[ミホシンザン]]を上回るスプリングステークス最速タイムで走破していた<ref name="優駿-1987-5-152" />。続いて4月19日、皐月賞(GI)に臨む。評価は下がり、8番人気だった。[[弥生賞]]優勝馬のサクラスターオーが優勝、ゴールドシチーが2着、マティリアルが3着。対してメリーナイスは7着<ref>『優駿』1987年6月号 134頁</ref>。橋本によれば、体調が万全でなかったことに加えて、相手をマークすることに重きを置いて正しく走れなかったことを敗因に挙げている<ref name="優駿-1987-7-131">『優駿』1987年7月号 131頁</ref>。

==== 東京優駿 ====
5月31日、クラシック二冠目の東京優駿(日本ダービー)(GI)に臨む。参戦2週間前には、右前脚の爪に挫跖をきたして、発熱し運動できない時期があったが回復<ref name="優駿-1987-9-51" />。調教も十分に消化した。調教では、橋本の調教師人生34年で最も速いタイムを記録することができた<ref name="優駿-1987-9-51" />。24頭立てだったが、皐月賞優勝のサクラスターオー、トライアル[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]優勝のモガミヤシマは、ともに故障して回避。万全の有力馬不在の中、混戦と目されていた<ref name="優駿-1987-7-6">『優駿』1987年7月号 6頁</ref>。そんな中、皐月賞3着マティリアルが単枠指定制度の対象となる<ref name="優駿-1987-7-132">『優駿』1987年7月号 132頁</ref>。その通り、マティリアルが1番人気だった。続いて皐月賞2着のゴールドシチー、[[毎日杯]]優勝馬でありNHK杯4着のダイゴアルファと続き、4番人気がメリーナイスだった<ref name="優駿-2000-6-95">『優駿』2000年6月号 95頁</ref>。橋本と根本は、前回マークに執着したことを反省していた<ref name="優駿-2000-6-94">『優駿』2000年6月号 94頁</ref>。このことから何も相手にしない、メリーナイスの力を発揮させることを第一に考えて、参戦していた<ref name="優駿-2000-6-94" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=HO-XoUs4Iq8&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1987年 東京優駿(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}
3枠8番からスタート、先手を主張したトチノルーラー、ダイゴアルファの背後、好位の5、6番手を確保<ref name="優駿-2000-6-94" />。逃げた2頭が作る平均ペースを追走した<ref>『優駿』1987年7月号 130頁</ref>。最終コーナーにかけて馬群が凝縮するなか、メリーナイスは逃げ馬の直後にまで迫っていた。進路を得て、末脚を発揮する<ref name="優駿-2000-6-95" />。前方では、一足先に最も内側を通って抜け出したサニースワローがいたが、直線に向いてすぐに差し切り、先頭を得ていた<ref name="優駿-1987-7-6" />。後方ではマティリアル、ゴールドシチーなどがいたが、揃って伸びあぐね、メリーナイスの独走となった<ref name="優駿-1987-8-57">『優駿』1987年8月号 57頁</ref><ref name="優駿-1987-7-131" />。ステッキを入れ、アメリカンスタイルの根本に追われると、さらに加速<ref name="優駿-1987-8-57" />。後続を引き離し続けた。リードを後方に6馬身まで広げたところで、決勝線を先頭で通過を果たした<ref name="優駿-1987-7-132" />。

ダービー戴冠。1984年に産まれた7649頭の頂点となる<ref name="優駿-1987-7-131" />。GI2勝目だった。1961年[[ハクシヨウ (1958年生)|ハクシヨウ]]以来続いた「3歳チャンピオンはダービーを勝てない」と呼ばれたジンクスを26年ぶりに打ち破っている<ref name="優駿-1993-5-110" />。また1961年ハクシヨウ、1965年[[キーストン]]に続いて史上3頭目となる、最優秀3歳牡馬のダービー戴冠だった<ref name="優駿-1987-7-9">『優駿』1987年7月号 9頁</ref>。後方との着差6馬身は、1955年[[メイズイ]]以来の7馬身以来、ダービー史上3番目の大差だった<ref name="優駿-1987-7-8" />。

根本、浦、前田は、ダービー初勝利<ref name="優駿-1987-7-9" /><ref name="優駿-1987-7-8">『優駿』1987年7月号 8頁</ref>。橋本は、調教師生活34年、16回17頭目、1957年ギンヨクの3着(優勝:[[ヒカルメイジ]])、1981年ハシノエースの4着(優勝:[[カツトップエース]])を乗り越えてダービー初優勝<ref>『優駿』1987年7月号 128頁</ref>。騎手として1944年カイソウ、1950年クモノハナで制した2勝を併せた、ダービー3勝を成し遂げた<ref name="優駿-1987-7-9" />。表彰式後の記念撮影では、根本と根本の3歳の息子がメリーナイスの背に乗っている<ref name="優駿-2000-6-95" />。東京優駿史上初めてとなる父子が優勝馬上に乗る記念写真となった<ref name="優駿-2000-6-95" />。

==== 有馬記念 ====
東京優駿の後は、函館競馬場で夏休みを過ごした<ref>『優駿』1987年9月号 104頁</ref>。秋は菊花賞を目指し、その前哨戦である9月27日の[[セントライト記念]](GII)に臨む。東京優駿1番人気18着のマティリアルとの再戦となった<ref name="優駿-1987-11-101">『優駿』1987年11月号 101頁</ref>。今度はメリーナイスが1番人気、マティリアルが2番人気となる<ref name="優駿-1987-11-144">『優駿』1987年11月号 144頁</ref>。稍重馬場だった。スタートから先行し好位を確保。平均ペースを追走した<ref name="優駿-1987-11-36">『優駿』1987年11月号 36頁</ref>。第3コーナーを5番手、前との距離を縮めて、最終コーナーを3番手で通過<ref name="優駿-1987-11-144" />。直線に向いて逃げ馬を捕らえて抜け出しに成功する<ref name="優駿-1987-11-36" />。後方勢では、マティリアルが伸びあぐねて再び敗退<ref name="優駿-1987-11-101" />。ただしセントナダラが詰め寄って来ていた<ref name="優駿-1987-11-144" />。それでもメリーナイスはリードを守り切り<ref name="優駿-1987-11-144" />、半馬身先着を果たした<ref name="優駿-10987-11-145" />。走破タイム2分13秒9は、良馬場で行われた1984年シンボリルドルフの2分13秒4に「匹敵<ref name="優駿-1987-11-36" />」(藤野広一郎)するほどの内容だった。

その後は「レース間隔を開けた方が走る<ref name="優駿-1988-1-124">『優駿』1988年1月号 124頁</ref>」という橋本の考えから、トライアル競走の京都新聞杯を使わず、直行となった<ref name="優駿-1988-1-124" />。11月8日、本番の菊花賞(GI)に臨む。唯一の単枠指定となり<ref name="優駿-1988-1-126">『優駿』1988年1月号 126頁</ref>、2.2倍の1番人気に推されたが、折り合いがつかず、終いで全く伸びなかった<ref name="優駿-1988-1-124" />。サクラスターオーが制して二冠を果たす一方で、9着に敗退した<ref name="優駿-1988-1-126" />。

続いて12月27日、有馬記念(GI)に臨む。古馬勢との初対決となったが、筆頭はジャパンカップ3着となった牝馬[[ダイナアクトレス]]であり、人気を集めたのは4歳だった。メリーナイスの他に、二冠を果たしたサクラスターオー、二冠牝馬[[マックスビューティ]]が推されており、1番人気サクラスターオー、2番人気ダイナアクトレス、3番人気メリーナイス、4番人気マックスビューティという順番だった<ref>{{Cite web |title=有馬記念|1987年12月27日|url=https://db.netkeiba.com/race/198706050810/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-10-25}}</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=Z26Oeqs3j1U&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1987年 有馬記念(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}

菊花賞ではスタートがきっかけで折り合いを欠いたことから、根本はその反省を生かして、長手綱にするなど注意していた<ref name="優駿-1988-2-8">『優駿』1988年2月号 8頁</ref>。7枠14番からスタート、進み出て1完歩目を果たしたが、続く2完歩目の右前脚が進まなかった<ref name="優駿-1988-2-139">『優駿』1988年2月号 139頁</ref>。よって鼻面を地面にたたきつけて転倒した<ref name="優駿-1988-2-139" />。根本は落馬、スタート直後で[[競走中止]]となった。根本は落馬した際に[[脳震盪]]をきたしていた<ref name="優駿-1988-2-139" />。この後、1番人気もサクラスターオーが故障を発症により競走中止している<ref name="優駿-1988-2-8" />。1番人気3番人気総崩れとなり、売上251億円のうち、2頭絡みの約162億円の勝馬投票券が、決着を前にはずれ馬券と化している<ref name="優駿-1988-2-139" />。この年のJRA賞は、[[JRA賞最優秀3歳牡馬|最優秀4歳牡馬]]にて票を得たが、全143票中3票に留まり、139票で受賞したサクラスターオーには及ばなかった<ref>『優駿』1988年2月号 38頁</ref>。

=== 5歳(1988年) ===
年をまたいで1988年、古馬となり2月21日の[[目黒記念]](GII)で始動。トップハンデとなる59キログラムを背負って参戦、1番人気だった<ref name="優駿-1988-4-142">『優駿』1988年4月号 142頁</ref>。落馬競走中止からの復帰戦だったため、パドックでは根本を鼓舞する声援が溢れたという<ref name="優駿-1988-4-142" /><ref name="優駿-1988-4-99">『優駿』1988年4月号 99頁</ref>。52キログラムのメジロフルマーが逃げるなか、内側の2番手を追走した<ref name="優駿-1988-4-142" />。最終コーナーにかけてメジロフルマーとの距離を縮め、直線でかわすべく追い上げたが、メジロフルマーの脚が衰えず、及ばなかった<ref name="優駿-1988-4-142" /><ref name="優駿-1988-4-99" />。逃げ切りを許し、1馬身4分の1差の2着だった<ref>『優駿』1988年4月号 143頁</ref>。続いて4月29日、天皇賞(春)に臨み、4番人気に推されたが、後方追走のまま伸びず、[[タマモクロス]]に敗れる14着だった<ref>『優駿』1988年6月号 142頁</ref>。

4か月の休養を経て8月21日、[[函館記念]](GIII)に参戦。ローカルGIIIながら東京優駿優勝馬[[シリウスシンボリ]]、二冠のマックスビューティ、阪神3歳ステークス優勝馬[[サッカーボーイ]]との対決となった<ref name="優駿-1988-10-146">『優駿』1988年10月号 146頁</ref>。好位を進み、直線で抜け出しを図ったが、前を行くサッカーボーイには及ばなかった。サッカーボーイに独走、レコード走破を許した<ref name="優駿-1988-10-146" />。5馬身後れを取る2着だった<ref>『優駿』1988年10月号 147頁</ref>。

この後は、函館競馬場で調教されていたが、9月15日の調教中に左第一指節[[種子骨]]骨折が判明する。全治6か月となり、10月初めに復帰を断念。競走馬引退が決定する。12月18日、中山競馬場にて引退式を実施<ref>『優駿』1989年2月号 91頁</ref>。朝日杯3歳ステークス優勝時のゼッケン「8」を着用した姿がお披露目された<ref name="優駿-1993-8-68">『優駿』1993年8月号 68頁</ref>。

== 種牡馬時代 ==
競走馬引退後は、種牡馬として北海道静内町の[[レックススタッド]]に繋養される<ref name="優駿-1993-5-111">『優駿』1993年5月号 111頁</ref><ref name="優駿-1993-8-68" />。シンジケートに加えて余勢株が出るほどの人気だった<ref name="優駿-1993-8-68" />。1989年の供用開始から7年目となる1995年まで50頭以上の繁殖牝馬を集め続けた<ref name="JBIS-種牡馬成績" />。さらに10年目の1998年まで40頭以上集めたが、11年目の1999年は7頭に留まり、同年9月30日付で[[用途変更]]、種牡馬引退となった<ref name="JAIRS-メリーナイス">{{Cite web |url=https://www.studbook.jp/users/ja/Honba.php?hid=34152169145 |title=メリーナイス(JPN) |access-date=2022-10-25 |publisher=公益財団法人 ジャパン・スタッドブック・インターナショナル |archive-url=https://web.archive.org/web/20221025072050/https://www.studbook.jp/users/ja/Honba.php?hid=34152169145 |archive-date=2022‐10‐25}}</ref><ref name="JBIS-種牡馬成績" />。

引退後は功労馬として余生を過ごし、1999年からは長野県のスエトシ牧場で、2007年からは北海道浦河町の渡辺牧場で繋養された<ref name="競馬ブック-死亡">{{Cite web |title=日本ダービー馬メリーナイスが死亡 |url=https://p.keibabook.co.jp/news/detail/47405 |website=競馬ブック |access-date=2022-10-25}}</ref>。2009年2月下旬に疝痛をきたし、28日に手術されたが、3月1日に容態急変、午後7時5分に25歳で死亡する<ref name="競馬ブック-死亡" /><ref>{{Cite web |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/horserace/news/20090304-OHT1T00022.htm |title=メリーナイス逝く…87年ダービー馬、映画「優駿」モデルに |access-date=2022‐10‐25 |publisher=[[スポーツ報知]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20090306214541/http://hochi.yomiuri.co.jp/horserace/news/20090304-OHT1T00022.htm |archive-date=2009‐3‐6}}</ref>。

産駒は、1992年から2006年まで日本競馬で走っている<ref name="JBIS-種牡馬成績" />。中央競馬の重賞においては、初年度産駒のマイネルリマーク(母父:[[ホクトボーイ]])は1993年の[[共同通信杯|共同通信杯4歳ステークス]](GIII)を、イイデライナーも(母父:[[ロイヤルスキー]])1991年の[[京都4歳特別]]を制している<ref name="JBIS-マイネルリマーク" /><ref name="JBIS-イイデライナー" />。


== 競走成績 ==
== 競走成績 ==
以下の内容は、『競馬名馬読本』<ref>『競馬名馬読本』235頁</ref>の情報に基づく。
{| style="font-size: 90%; text-align: center; border-collapse: collapse;"
|style="text-align: center;" colspan="3"|年月日
{| style="border-collapse: collapse; font-size: 70%; text-align: center; white-space: nowrap;"
! colspan="3" |競走日
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|[[競馬場]]
! nowrap="" |競馬場
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|競走名
!競走名
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|[[競馬の競走格付け|格]]
!格
|style="text-align: center; width: 1.5em;"|頭数
!距離
|style="text-align: center; width: 1.5em;"|枠番
(馬場)
|style="text-align: center; width: 1.5em;"|馬番
!頭
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|オッズ<br />(人気)
|style="text-align: right;"|着順
!枠
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|[[騎手]]
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|[[負担重量|斤量]]<br/>[kg]
!馬
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|馬体重<br/>[kg]
|style="text-align: center;"|[[競走馬の適性|距離]]([[馬場状態|馬場]])
!オッズ
|colspan="2" style="text-align: center;"|タイム<br/>([[上がり (競馬)|上り]]3[[ハロン (単位)|F]])
(人気)
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|タイム<br />差
!着順
|style="text-align: center;"|勝ち馬/(2着馬)
!タイム
!着差
!騎手
!斤量
[kg]
!1着馬
(2着馬)
!馬体重
[kg]
|-
|-
|style="text-align: right;"|[[1986年|1986]]
|[[1986年|1986]].
|{{0}}8.
|style="text-align: right;"|8.
|[[8月3日|{{0}}3]]
|style="text-align: right;"|3
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|[[函館競馬場|函館]]
|[[函館競馬場|函館]]
|[[新馬|3歳新馬]]
|[[新馬|3歳新馬]]
|
|
| nowrap="" |芝1000m(良)
|9
|9
|1
|1
|1
|1
|style="text-align: right;"|1.7(1人)
| nowrap="" |{{0}}1.7(1人)
|style="text-align: right;"|{{color|darkred|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
| nowrap="" |{{0|0:}}58.7
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|[[根本康広]]
| nowrap="" |鼻
|[[根本康広]]
|53
|53
|468
|style="text-align: right;"|芝1000m(良)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|58.7
|style="text-align: left; white-space: nowrap;"| (34.9)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|0.0
|(サイコーハート)
|(サイコーハート)
|468
|-
|-
|
|
|{{0}}9.
|style="text-align: right;"|9.
|[[9月20日|20]]
|style="text-align: right;"|20
|函館
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|函館
|コスモス賞
|コスモス賞
|{{OP}}
|OP
|芝1700m(良)
|9
|9
|2
|2
|2
|2
|style="text-align: right;"|4.3(2人)
|{{0}}4.3(2人)
|{{0}}4着
|style="text-align: right;"|4着
|1:46.1
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|根本康広
|0.5
|根本康広
|53
|53
|466
|style="text-align: right;"|芝1700m(良)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1:46.1
|style="text-align: left; white-space: nowrap;"| (35.1)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|0.5
|[[ゴールドシチー]]
|[[ゴールドシチー]]
|466
|-
|-
|
|
|10.
|style="text-align: right;"|10.
|[[10月4日|{{0}}4]]
|style="text-align: right;"|4
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|[[東京競馬場|東京]]
|[[東京競馬場|東京]]
|りんどう賞
|りんどう賞
|4下
|{{small|400万下}}
|芝1600m(良)
|10
|10
|2
|2
|2
|2
|style="text-align: right;"|5.8(2人)
|{{0}}5.8(2人)
|style="text-align: right;"|{{color|darkblue|2着}}
|{{0}}{{color|darkblue|2着}}
|1:35.5
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|根本康広
|0.0
|根本康広
|53
|53
|456
|style="text-align: right;"|芝1600m(良)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1:35.5
|style="text-align: left; white-space: nowrap;"|
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|0.0
|[[サクラロータリー]]
|[[サクラロータリー]]
|456
|-
|-
|
|
|10.
|style="text-align: right;"|10.
|[[10月25日|25]]
|style="text-align: right;"|25
|東京
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|東京
|いちょう特別
|いちょう特別
|{{OP}}
|OP
|芝1600m(良)
|7
|7
|7
|7
|7
|7
|style="text-align: right;"|1.3(1人)
|{{0}}1.3(1人)
|style="text-align: right;"|{{color|darkred|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|1:36.1
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|根本康広
|頭
|根本康広
|53
|53
|(セントナダラ)
|460
|460
|style="text-align: right;"|芝1600m(良)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1:36.1
|style="text-align: left; white-space: nowrap;"|
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|0.0
|([[セントナダラ]])
|-
|-
|
|
|12.
|style="text-align: right;"|12.
|[[12月14日|14]]
|style="text-align: right;"|14
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|[[中山競馬場|中山]]
|[[中山競馬場|中山]]
|[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳S]]
|[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳S]]
|{{JRAGI}}
|{{JRAGI}}
|芝1600m(良)
|9
|9
|8
|8
|8
|8
|style="text-align: right;"|3.6(2人)
|{{0}}3.6(2人)
|style="text-align: right;"|{{color|darkred|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|1:35.6
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|根本康広
|1身半
|根本康広
|54
|54
|468
|style="text-align: right;"|芝1600m(良)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1:35.6
|style="text-align: left; white-space: nowrap;"| (35.5)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|-0.2
|([[ホクトヘリオス]])
|([[ホクトヘリオス]])
|468
|-
|-
|style="text-align: right;"|[[1987年|1987]]
|[[1987年|1987]].
|{{0}}3.
|style="text-align: right;"|3.
|[[3月29日|29]]
|style="text-align: right;"|29
|中山
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|中山
|[[スプリングステークス|スプリングS]]
|[[スプリングステークス|スプリングS]]
|{{JRAGII}}
|{{JRAGII}}
|芝1800m(良)
|12
|12
|4
|4
|4
|4
|style="text-align: right;"|4.9(2人)
|{{0}}4.9(2人)
|{{0}}9着
|style="text-align: right;"|9着
|1:50.3
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|根本康広
|1.0
|根本康広
|56
|56
|470
|style="text-align: right;"|芝1800m(良)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1:50.3
|style="text-align: left; white-space: nowrap;"| (37.6)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.0
|[[マティリアル]]
|[[マティリアル]]
|470
|-
|-
|
|
|{{0}}4.
|style="text-align: right;"|4.
|[[4月19日|19]]
|style="text-align: right;"|19
|中山
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|中山
|[[皐月賞]]
|[[皐月賞]]
|{{JRAGI}}
|{{JRAGI}}
|芝2000m(良)
|20
|20
|7
|7
|16
|16
|style="text-align: right;"|25.6(8人)
|25.6(8人)
|{{0}}7着
|style="text-align: right;"|7着
|2:02.5
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|根本康広
|0.6
|根本康広
|57
|57
|462
|style="text-align: right;"|芝2000m(良)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2:02.5
|style="text-align: left; white-space: nowrap;"| (37.0)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|0.6
|[[サクラスターオー]]
|[[サクラスターオー]]
|462
|-
|-
|
|
|{{0}}5.
|style="text-align: right;"|5.
|[[5月31日|31]]
|style="text-align: right;"|31
|東京
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|東京
|[[東京優駿]]
|[[東京優駿]]
|{{JRAGI}}
|{{JRAGI}}
|芝2400m(良)
|24
|24
|3
|3
|8
|8
|style="text-align: right;"|12.6(4人)
|12.6(4人)
|style="text-align: right;"|{{color|darkred|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|2:27.8
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|根本康広
|6身
|根本康広
|57
|57
|(サニースワロー)
|460
|460
|style="text-align: right;"|芝2400m(良)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2:27.8
|style="text-align: left; white-space: nowrap;"|
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|-1.0
|([[サニースワロー]])
|-
|-
|
|
|{{0}}9.
|style="text-align: right;"|9.
|[[9月27日|27]]
|style="text-align: right;"|27
|中山
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|中山
|[[セントライト記念]]
|[[セントライト記念]]
|{{JRAGII}}
|{{JRAGII}}
|芝2200m(稍)
|12
|12
|6
|6
|7
|7
|style="text-align: right;"|1.9(1人)
|{{0}}1.9(1人)
|style="text-align: right;"|{{color|darkred|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|2:13.9
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|根本康広
|半身
|根本康広
|56
|56
|(セントナダラ)
|462
|462
|style="text-align: right;"|芝2200m(稍)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2:13.9
|style="text-align: left; white-space: nowrap;"| (36.6)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|-0.1
|(セントナダラ)
|-
|-
|
|
|11.
|style="text-align: right;"|11.
|[[11月8日|{{0}}8]]
|style="text-align: right;"|8
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|[[京都競馬場|京都]]
|[[京都競馬場|京都]]
|[[菊花賞]]
|[[菊花賞]]
|{{JRAGI}}
|{{JRAGI}}
|芝3000m(良)
|18
|18
|8
|8
|18
|18
|style="text-align: right;"|2.2(1人)
|{{0}}2.2(1人)
|{{0}}9着
|style="text-align: right;"|9着
|3:09.3
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|根本康広
|1.3
|根本康広
|57
|57
|462
|style="text-align: right;"|芝3000m(良)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|3:09.3
|style="text-align: left; white-space: nowrap;"|
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.3
|サクラスターオー
|サクラスターオー
|462
|-
|-
|
|
|12.
|style="text-align: right;"|12.
|[[12月27日|27]]
|style="text-align: right;"|27
|中山
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|中山
|[[有馬記念]]
|[[有馬記念]]
|{{JRAGI}}
|{{JRAGI}}
|芝2500m(良)
|16
|16
|7
|7
|14
|14
|style="text-align: right;"|4.9(3人)
|{{0}}4.9(3人)
|style="text-align: center;"|中止
| colspan="3" |[[競走中止]]
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|根本康広
|根本康広
|55
|55
|478
|style="text-align: right;"|芝2500m(良)
|colspan="2" style="text-align: center; white-space: nowrap;"|
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|
|[[メジロデュレン]]
|[[メジロデュレン]]
|478
|-
|-
|style="text-align: right;"|[[1988年|1988]]
|[[1988年|1988]].
|{{0}}2.
|style="text-align: right;"|2.
|[[2月21日|21]]
|style="text-align: right;"|21
|東京
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|東京
|[[目黒記念]]
|[[目黒記念]]
|{{JRAGII}}
|{{JRAGII}}
|芝2500m(良)
|10
|10
|1
|1
|1
|1
|style="text-align: right;"|2.9(2人)
|{{0}}2.9(2人)
|style="text-align: right;"|{{color|darkblue|2着}}
|{{0}}{{color|darkblue|2着}}
|2:32.9
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|根本康広
|0.2
|根本康広
|59
|59
|メジロフルマー
|484
|484
|style="text-align: right;"|芝2500m(良)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2:32.9
|style="text-align: left; white-space: nowrap;"|
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|0.2
|[[メジロフルマー]]
|-
|-
|
|
|{{0}}4.
|style="text-align: right;"|4.
|[[4月29日|29]]
|style="text-align: right;"|29
|京都
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|京都
|[[天皇賞(春)]]
|[[天皇賞(春)]]
|{{JRAGI}}
|{{JRAGI}}
|芝3200m(稍)
|18
|18
|7
|7
|13
|13
|style="text-align: right;"|7.3(4人)
|{{0}}7.3(4人)
|14着
|style="text-align: right;"|14着
|3:25.8
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|根本康広
|4.0
|根本康広
|58
|58
|470
|style="text-align: right;"|芝3200m(稍)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|3:25.8
|style="text-align: left; white-space: nowrap;"|
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|4.0
|[[タマモクロス]]
|[[タマモクロス]]
|470
|-
|-
|
|
|{{0}}8.
|style="text-align: right;"|8.
|[[8月21日|21]]
|style="text-align: right;"|21
|函館
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|函館
|[[函館記念]]
|[[函館記念]]
|{{JRAGIII}}
|{{JRAGIII}}
|芝2000m(良)
|14
|14
|7
|7
|12
|12
|style="text-align: right;"|5.8(3人)
|{{0}}5.8(3人)
|style="text-align: right;"|{{color|darkblue|2着}}
|{{0}}{{color|darkblue|2着}}
|1:58.6
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|根本康広
|0.8
|根本康広
|59
|59
|494
|style="text-align: right;"|芝2000m(良)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1:58.6
|style="text-align: left; white-space: nowrap;"| (36.3)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|0.8
|[[サッカーボーイ]]
|[[サッカーボーイ]]
|494
|}
|}


== 種牡馬時代 ==
== 種牡馬成績 ==
引退後は、[[1989年]]から[[レックススタッド]]で[[種牡馬]]入りした。中央競馬の重賞勝ち馬を2頭出したものの、後継種牡馬を残せないまま[[1999年]][[9月30日]]に[[用途変更#ウマ|用途変更]]され<ref>[https://www.studbook.jp/users/ja/Honba.php?sid=50194250 メリーナイス(JPN)] - 血統書サービス、2022年9月23日閲覧。</ref>、種牡馬から引退した。


=== 年度別成績 ===
種牡馬引退後は[[長野県]]のスエトシ牧場で繋養されていたが、[[2007年]][[11月27日]]に[[浦河町]]の渡辺牧場へ移動した<ref group="注">ここには3歳時にいちょう特別で対戦した[[コーセイ]]も繋養されていた。</ref>。[[2009年]][[2月28日]]に[[疝痛]]を発症したために開腹手術を行ったが、[[3月1日]]に容態が急変、同日19時05分に死亡した<ref>{{Cite web |url=http://www.jra.go.jp/news/200903/030302.html |title=第54回日本ダービー馬のメリーナイス号が死亡 |author= |publisher=JRA |accessdate=2009年3月3日 }}</ref><ref>{{Cite web |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/horserace/news/20090304-OHT1T00022.htm |title=メリーナイス逝く…87年ダービー馬、映画「優駿」モデルに |author= |publisher=スポーツ報知 |accessdate=2009年3月5日 }}</ref>。
以下の情報は、JBISサーチの情報に基づく<ref name="JBIS-種牡馬成績">{{Cite web |title=種牡馬情報:世代・年次別(サラ系総合)|メリーナイス|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000165998/sire/generation/thorough_s/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-10-24}}</ref>。
{| class="wikitable"
!種付年度
!種付頭数
!生産頭数
!血統登録頭数
!出走頭数
!勝馬頭数
!重賞勝馬頭数
![[アーニングインデックス|AEI]]
![[コンパラブルインデックス|CPI]]
|-
!1989
|56
|44
|43
|36
|23
|1
|0.82
|
|-
!1990
|63
|48
|47
|42
|25
|2
|0.85
|
|-
!1991
|72
|50
|49
|33
|24
|0
|1.04
|
|-
!1992
|62
|43
|41
|39
|26
|0
|0.59
|
|-
!1993
|62
|51
|48
|40
|30
|1
|0.59
|
|-
!1994
|70
|53
|52
|44
|32
|1
|0.55
|
|-
!1995
|51
|35
|33
|30
|21
|0
|0.34
|
|-
!1996
|40
|25
|26
|21
|17
|0
|0.44
|
|-
!1997
|44
|37
|33
|30
|19
|0
|0.29
|
|-
!1998
|43
|32
|32
|28
|19
|0
|0.24
|
|-
!1999
|7
|6
|6
|4
|3
|0
|0.15
|
|-
! colspan="3" |合計
|410
|347
|239
|5
|0.59
|0.84
|}

* 出走頭数、勝馬頭数、重賞勝馬頭数、[[アーニングインデックス]]、[[コンパラブルインデックス]]は、[[平地競走]]に限る。


=== 主な産駒 ===
=== 重賞優勝産駒 ===
* 1990年産
* 1990年産
** マイネルリマーク([[共同通信杯|共同通信杯4歳ステークス]])
** マイネルリマーク(牡、母父:[[ホクトボーイ]](1993年[[共同通信杯|共同通信杯4歳ステークス]])<ref name="JBIS-マイネルリマーク">{{Cite web |title=マイネルリマーク|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000230719/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-10-24}}</ref>
** ザマハヤブサ(牡、母父:アンバーラマ(1994年*[[しらさぎ賞]])<ref>{{Cite web |title=ザマハヤブサ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000246996/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-10-24}}</ref>
** ザマハヤブサ([[しらさぎ賞]])
* 1991年産
* 1991年産
** イイデライナー(牡、母父:[[ロイヤルスキー]](1991年[[京都4歳特別]])<ref name="JBIS-イイデライナー">{{Cite web |title=イイデライナー|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000243444/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-10-24}}</ref>
** イイデライナー([[京都4歳特別]])
* 1994年産
* 1994年産
** マルタカオーカン(牡、母父:[[トウショウボーイ]](1996年*ジュニアカップ、1996年*ヤングチャンピオンカップ)<ref>{{Cite web |title=マルタカオーカン|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000284381/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-10-24}}</ref>
** スプリングダイアナ([[すずらん賞]]<ref group="注">このレースの2着は、後に[[天皇賞・春]]などを制する[[メジロブライト]]である。</ref>)
** マルタカオーカン([[ジュニアカップ (ホッカイドウ競馬)|ジュニアカップ]]、[[ヤングチャンピオンカップ]])
* 1995年産
* 1995年産
** エスケイタイガー([[黒潮盃]][[ブーバーカップ]]、[[平和賞 (船橋競馬)|平和賞]])
** エスケイタイガー(母父:ルドゥターブル(1997年*[[平和賞 (船橋競馬)|平和賞]]、1998年*ブルーバードカップ、*[[黒潮盃]])<ref>{{Cite web |title=エスケイタイガー|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000296621/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-10-24}}</ref>

=== ブルードメアサイアーとしての主な産駒 ===
==== ブルードメアサイアーとしての産駒 ====
* 1996年産
* 1996年産
** ライジングタイド(父[[イナリワン]]、[[中津大賞典]]
** ライジングタイド(牡、:[[イナリワン]](2001年*中津大賞典)<ref>{{Cite web |title=ライジングタイド|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000305869/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-10-24}}</ref>


== エピソード ==
== エピソード ==

* メリーナイスがクラシック戦線を戦っている最中に映画『[[優駿 ORACION|優駿]]』が[[日本中央競馬会]]の肝煎りで制作されており、本馬は映画作中に登場する競走馬オラシオンのモデルとなっている。最初この[[映画]]には本物の東京優駿のシーンが使われる予定であった。しかし映画の関係者は単勝1番人気の[[マティリアル]]のあまりの前評判ゆえ、この馬が東京優駿に勝つものと信じきってカメラはマティリアルだけを追い、勝ったメリーナイスを撮影していなかった。そのため、のちに別の馬で映像を作成して代用せざるを得なくなったと言うエピソードがある。
=== ダービー当日 ===
** この映画でメリーナイスの仔役を「演じた」栗毛の馬には流星の化粧を施してまで彼に似せて撮影をした。のちにこの仔馬はマヤノオラシオンという馬名で競走馬としてデビューした(父タイテエム、中央競馬1勝)。
東京優駿当日、オーナーの浦房子は、三人姉弟の末の弟の長男、甥の結婚式に出席しており、東京競馬場には臨場していなかった<ref name="週刊新潮-1987-6-18-3637" />。代わりに、房子の上の弟、サカエリュウ電機株式会社社長の加藤隆明を競馬場に出席させていた<ref>『優駿』1987年7月号 72頁</ref>。房子は、メリーナイスが出走する頃は、全く意識しておらず、平然と結婚式に出席していたが、競馬場にいる方の弟の子供、房子の甥は、結婚式場にいて気が気でなかった<ref name="優駿-1987-7-73">『優駿』1987年7月号 73頁</ref>。その甥は結婚式場を飛び出し、廊下でラジオで結果を知ったという<ref name="週刊新潮-1987-6-18-3637" />。勝利を知ったその甥は、式場に戻り、房子に興奮気味に報告。やがて司会の耳に入り、大々的にダービー優勝の報告が、式場内に知れ渡っていた<ref name="優駿-1987-7-73" />。結婚式の主役である末の弟の長男と新婦は、ダービーと結婚式が被ったことを謝罪しに来たという<ref name="週刊新潮-1987-6-18-3637" />。末の弟には「ホントにすまない、ねえさん(房子)の馬がまさかダービーに出ると思わなかった<ref name="優駿-1987-7-73" />」と言われたという。また房子は、知り合いから「馬にとってダービーは一生に一度きりだけれど、人間はね、一生に二度も三度も結婚するひとがいるのよ<ref name="優駿-1987-7-73" />」と忠告されたという。

=== 前田徹 ===
前田徹牧場は、家族経営の小牧場、メリーナイス以前は中央競馬で勝利を挙げたのは1頭だけ、新馬戦を勝利したことはなかった<ref name="優駿-1987-3-20" />。メリーナイスのデビューする直前、橋本や浦から、新馬戦勝利のチャンスだと告げられていた<ref name="優駿-1987-3-21" />。そこで前田は、新馬戦が行われる函館競馬場に向かい、現地応援しようと決意する。静内町の牧場を出て、千歳空港から飛行機で函館空港に降り立ち、競馬場に向かう予定だった<ref name="優駿-1987-3-21" />。しかし飛行機が函館上空に着いた時、函館が濃霧に包まれて、千歳に引き返し。観戦を断念して静内に戻っている<ref name="優駿-1987-3-21" />。静内に戻る頃には、メリーナイスの新馬戦は終わっており、徹は、テレビ観戦していた息子から、メリーナイスの勝利を聞いていた<ref name="優駿-1987-3-21" />。

続いて大一番、東京優駿(日本ダービー)に参戦するときは、徹はこの反省を生かして、前日移動を心掛けている<ref name="優駿-1987-7-131" />。無事東京競馬場入りを果たした徹は、人生で初めて競馬場での応援を行い、生産馬の勝利を、それもダービーの勝利を現地で見届けている<ref name="優駿-1987-7-131" /><ref name="優駿-1987-7-74">『優駿』1987年7月号 74頁</ref>。前田は、席をとらず、競馬場内の人混みの中で観戦していた<ref name="優駿-1987-7-74" />。この勝利に前田は、興奮してネクタイできないほどの身震い、涙を流している<ref name="優駿-1987-7-74" />。勝利した際は、馬主代理の房子の弟と西階段で落ち合い、表彰式に出席する予定だったが、興奮のあまり、西階段に行くことができなくなり、弟が発見したという<ref name="優駿-1987-7-74" />。そうして初めて表彰式に出席、それもダービーの表彰台に上がっている<ref name="優駿-1987-7-131" />。表彰式でも涙が止まらなかった<ref name="優駿-1987-7-73" />。


== 血統表 ==
== 血統表 ==
413行目: 608行目:
|ref4 = <ref name="ped"/>
|ref4 = <ref name="ped"/>
|}}
|}}
* 母ツキメリーは[[東京2歳優駿牝馬|東京3歳優駿牝馬]]の勝ち馬
* 母の半弟マイネルグラウベンは[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]の勝ち馬で、種牡馬<ref>{{Cite book|和書|author = [[小林皓正]](編)|year = 1993|title = サラブレッド血統マップ'93|publisher = コスモヒルズ|page = 135}}</ref>。
* 母の半姉ピーチガールの孫に[[シルクジャスティス]]([[有馬記念]]など)、シルクライトニング([[若葉ステークス]]、皐月賞2着)など、ピーチガールの曾孫に[[テイエムトッパズレ]]([[京都ハイジャンプ]]など)などがいる。

== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
423行目: 614行目:
=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{Reflist}}
{{Reflist}}

== 参考文献 ==

* 野田利樹「天下御免の引き立て役 メリーナイス」『競馬名馬読本』〈別冊宝島143号〉(宝島社、1996年)
* 『[[優駿]]』([[日本中央競馬会]])
** 1987年1月号
*** 「【第38回朝日杯3歳ステークス】すてきなゴールだ、メリーナイス」
** 1987年2月号
*** 橋本邦治「【今月の記録室】第38回朝日杯3歳ステークス(GI)メリーナイス」
** 1987年3月号
*** 藤野広一郎「【GI競走勝ち馬の故郷紀行】五月の府中に夢を馳せて 前田徹牧場」
**1987年4月号
***伊藤友康、阿部幸太郎、井上貴夫、柏木集保、松本憲二「【有力馬の全プロフィール】メリーナイス」
** 1987年5月号
*** 「【第36回スプリングステークス】磨かれた逸材、マティリアル」
*** 大川和彦(フジテレビ)「【今月の記録室】第36回フジテレビ賞スプリングステークス(GII)マティリアル」
** 1987年6月号
*** 有吉正徳(東京中日スポーツ)「【今月の記録室】第47回皐月賞(GI)サクラスターオー」
** 1987年7月号
*** 「【第54回日本ダービー】3歳チャンピオンから4歳の王座に、会心のゴールは、メリーナイス」
*** 石川喬司「【馬屋先生のパカパカ問答(29)】浦房子さん」
*** 瀬上保男(読売新聞)「【今月の記録室】メリーナイスが54代ダービー馬に、2着は22番人気のサニースワロー」
*** 桜井裕夫(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第54回日本ダービー(GI)メリーナイス」
** 1987年8月号
*** 鶴木遵「【ジョッキーズームアップ(23)】レトロ派ダービー・ジョッキー 根本康広」
*** 白井透(サラブレッド血統センター)「【生産からみた'87年春のGI競走】ノーザンダンサーの血の猛威と、日高の"伝統の復活"」
**1987年9月号
***福田喜久男「【渋谷竜が撮る日本のホースマン(50)】三度目の栄光 橋本輝雄調教師」
***「【今月のトピックス】函館競馬場発 ダービー馬メリーナイスの夏休み」
**1987年11月号
***藤野広一郎「【第48回菊花賞情報】ダービー馬メリーナイスはセントライト記念も圧勝して体調は万全。二冠は濃厚だ。」
***「【第41回セントライト記念】ダービー馬の貫録、メリーナイス」
***樋口忠正(ラジオ日本)「【今月の記録室】第41回ラジオ日本賞 セントライト記念(GII)メリーナイス」
**1988年1月号
***「【今月の記録室】第48回菊花賞(GI)サクラスターオー」
**1988年2月号
***「【第32回有馬記念】菊花賞馬の底力、メジロデュレン」
***「【JRA賞年度代表馬・各部門最優秀馬決定】87年度にサクラスターオー」
***鶴谷義雄(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第32回有馬記念(グランプリ)(GI)メジロデュレン」
**1988年4月号
***「【第102回目黒記念】また岡部だ、男を完封 メジロフルマー」
***三木和夫(東京スポーツ)「【今月の記録室】第102回農林水産省賞典目黒記念(GII)メジロフルマー」
**1988年6月号
***梶山隆平(日刊スポーツ)「【今月の記録室】第97回天皇賞(春)(GI)タマモクロス」
**1988年10月号
***渡辺久和(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第24回農林水産省賞典函館記念(GIII)サッカーボーイ」
** 1989年2月号
*** 「【今月のトピックス】さよなら 優駿 12月18日メリーナイス引退式」
**1993年5月号
***「【日本の種牡馬】メリーナイス」
** 1993年8月号
*** 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝(87)】圧勝のダービー馬 メリーナイス」
**2000年6月号
***井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編66〉】メリーナイスの日本ダービー(下)四白流星、独走」

* 『[[週刊新潮]]』([[新潮社]])
** 1987年6月18日号
*** 「【ワイド特集 勝者の生活】4.ダービー制覇『メリーナイス』の女馬主」


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{競走馬成績|netkeiba=1984100990|yahoo=1984100990|jbis=0000165998|racingpost=}}
{{競走馬成績|netkeiba=1984100990|yahoo=1984100990|jbis=0000165998|racingpost=}}
* {{競走馬のふるさと案内所|0000165998|メリーナイス}}
* {{競走馬のふるさと案内所|0000165998|メリーナイス}}
* {{Meiba.jp|1132|メリーナイス}}{{リンク切れ|date=2016年3月}}


{{JRA賞最優秀2歳牡馬|優駿賞最優秀3歳牡馬}}
{{JRA賞最優秀2歳牡馬|優駿賞最優秀3歳牡馬}}

2022年10月25日 (火) 15:54時点における版

メリーナイス
欧字表記 Merry Nice[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 栗毛[1][2]
生誕 1984年3月22日[1][2]
死没 2009年3月1日(25歳没)[3]
コリムスキー[1]
ツキメリー[1]
母の父 シャトーゲイ[1]
生国 日本の旗 日本北海道静内町[1]
生産者 前田徹[4][2]
生産牧場 前田徹[1]
馬主 浦房子[1]
調教師 橋本輝雄美浦[1]
競走成績
タイトル JRA賞最優秀3歳牡馬(1986年)[5]
生涯成績 14戦5勝[1][5]
獲得賞金 2億355万4900円[1]
勝ち鞍
GI 朝日杯3歳S 1986年
GI 東京優駿 1987年
GII セントライト記念 1987年
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メリーナイス(欧字名:Merry Nice1984年3月22日 - 2009年3月1日)は、日本競走馬種牡馬[1]

1986年の朝日杯3歳ステークス(GI)、1987年の東京優駿(日本ダービー)(GI)優勝馬。1986年のJRA賞最優秀3歳牡馬である。他に1987年のセントライト記念(GII)を優勝した。

デビューまで

誕生までの経緯

浦志磨太郎・房子

浦志磨太郎、房子は、東京都大田区で不動産業経営の傍ら、馬主業も営んだ夫妻である[6]。1973年に志磨太郎が死去してからは、未亡人房子が、単独で馬主を続けていた[6]。夫妻が初めて所有した馬は1953年、東京競馬場所属の調教師・橋本輝雄に紹介された橋本の親戚、北海道静内町の橋本禎一牧場が生産したツキホマレ(父:月友)である。ツキホマレは、日本において、1903年輸入のチップトップから始まり、定着した牝系に属していた[7]。競走馬を終えたツキホマレは、繁殖牝馬として「ウラツキホマレ」と名を改め[8]、橋本牧場に戻る[9]。浦夫妻は、繁殖と幼駒の所有を継続した[8][10]

ウラツキホマレは1962年、フェリオール産駒の牝馬・タツヒロを生産する[9]。タツヒロは、中央競馬でデビューし、五稜郭ステークスや若水賞を制するなど7勝[9]。同じく橋本牧場に戻り「コンチネンタル」に改めて繁殖入り[9]。1968年には、浦が牧場から新種牡馬テスコボーイを紹介され、気に入ったために、コンチネンタルとテスコボーイの交配が実現している[8]。翌1969年、テスコボーイの初年度産駒である牝馬・メリーブラットを生産した。メリーブラットは、体つきは良かったものの、調教は走らなかった[8]。橋本は、浦に競走馬としてあきらめるよう助言するほどだったが、浦が粘って現役続行となり、新馬戦で後方に10馬身差をつけて勝利[8]。他にNST賞、ひまわり賞を制した13戦3勝だった[11]

ツキメリー

そして繁殖牝馬となったメリーブラットは、1977年シャトーゲイ産駒の牝馬・ツキメリーを産んでいる[9]地方競馬でデビューしたツキメリーは、能力試験を合格点54秒のところ、48秒で走破する能力の持ち主だった[8]。デビューすれば勝利を重ね、1979年の東京3歳優駿牝馬を優勝[9]。そのほか翌年の浦和桜花賞2着、クイーン賞3着、関東オークス3着などの成績を残した[12]

ツキメリーは、ある牧場で繁殖牝馬として繋養される。初年度は父アラナスの牡馬を産み、デビューできなかった[9]。2年目はアローエクスプレスと交配したが、不受胎だった[13][14]。そして3年目となる1983年は、浦が相手探しに三石スタリオンセンターを訪れたところ、たまたま真正面に来て「ポチャッとした感じのかわいい[8]」と感じたコリムスキーが交配相手となる。

コリムスキー

コリムスキーは、父は、ニジンスキーサドラーズウェルズヌレイエフノーザンテーストなどを産んだノーザンダンサー。母は、アメリカリーディングサイアーであるイクスクルーシヴネイティヴの妹リブロドロである[15]。おまけに両親は父父父、父父父父が同じネアルコであり、走る馬が生まれやすいと信じられるフィッツラックの18.75%理論「奇跡の血量」が成立していた[16]。そのような「超良血」(横尾一彦)のコリムスキーは、アメリカとアイルランドで競走馬として走ったが、2勝に留まり大成はしなかった。そして引退後の5歳、1979年に日本にもたらされて、三石で種牡馬として繋養されていた[16]

日本におけるノーザンダンサー系では、社台グループシンボリ牧場が導入したノーザンテースト、モガミが大活躍、両牧場はその恩恵を受けて大牧場に成長していた[17]。一方のコリムスキーは、競走成績が優れていないうえに、馬産地の評価が低く、種付け料が安く設定されても牝馬が集まらない状況だった[18]。浦の馬主業は、高額な馬や、種牡馬には手を出さず、安価な馬で細く長く営む方針だった[8]。浦は、ノーザンダンサー系種牡馬をツキメリーにあてがいたいと考えており、腹では最高の種牡馬ノーザンテーストが良いと考えていたが、予算から叶わなかった[8]。ゆえに偶然目にした安価なノーザンダンサー系種牡馬・コリムスキーを「これに決めちゃおうかと軽い気持ち[8]」(浦房子)で選び、ツキメリーと結び付けていた[9]

受胎したツキメリーが、出産を間近に控えた頃、浦とある牧場主が対立している[18]。やがて仲違いに至り、浦はその牧場から所有馬を引き揚げていた。ツキメリーは代わって、北海道静内町の前田徹牧場に繋養される[18]

前田徹牧場

前田徹牧場は、家族経営の小牧場である[19]。当初は、牛の飼育と稲作を行う兼業農家だったが、その兼業は負担がかかりすぎるとして、1968年に馬の生産と稲作の兼業に転向していた[20]。借金を作らない経営方針のもと、毎年数頭の生産を20数年間続けていた[21]。しかしその間、生産馬の中央競馬入厩はこれまでに5頭ほど、抽せん馬としてデビューしたサーティファイブの2勝が最高の成績で重賞は未勝利[21]、新馬戦で勝ち上がった馬はいなかった[19]。そんな牧場に、浦からツキメリーが託されていた[18]

1984年3月22日、前田牧場にてツキメリーの2番仔である栗毛の牡馬(後のメリーナイス)が誕生する[9]。見栄えのする栗毛な上に、脚の先4本すべて白く、おまけに顔の中央部分が上から下まで白い「四白流星」だった[16]

幼駒時代

ツキメリーの2番仔には「メリーファスト」という血統名が与えられる[21]。メリーファストは、シャトーゲイの傾向が強く出て気性の勝った馬だったが、メリーファストは落ち着きがあり、賢かった[21]。外見もサイズは小さいものの、バランスが良かったという。2歳秋に牧場を巣立っている[22]。これまで5代にわたって繋いできた牝系、ウラツキホマレ、コンチネンタル、メリーブラット、ツキメリーと同様に、浦の所有となり、ウラツキホマレなどと同様に橋本調教師に託された。

浦はメリーファストに「メリーナイス」という競走馬名を与えている。「メリー」は、浦が小学生の頃、白い服、白いボタンのメリーさん人形の写生をする際、見たまま描けという教えを破り、ボタンを赤く染めて提出[8]。勝手なことをして怒られると思いきや、学校内に掲示されて嬉しかったというエピソードがあった。それ以降「メリー」と赤色を好むようになり、馬の冠名となっていた[8]。「ナイス」を組み合わせたのは期限ぎりぎりだった[8]。浦によれば「ベリーナイスと語呂があっている[8]」という理由もあったという。

メリーナイスは3歳春、美浦トレーニングセンターの橋本厩舎に入厩する。元騎手の橋本は、1944年の第13回東京優駿競走カイソウに騎乗して、1950年の第17回東京優駿競走(日本ダービー)をクモノハナに騎乗して優勝、ダービー2勝を挙げていた[23]。引退後、調教師に転身した橋本だったが、開業して30年、70歳代に突入しても東京優駿を優勝することができずにいた[23]

競走馬時代

3歳(1986年)

朝日杯3歳ステークス

3歳夏、1986年8月3日の函館競馬場新馬戦でデビュー、1番人気だった。直線で抜け出し、ホクトヘリオスを置き去りにしたほか、サイコーハートにハナ差だけ先着、初出走初勝利を果たした[16]。続いて9月20日、同じく函館のコスモス賞(OP)に臨んだが、スタートで出遅れて差し届かず、ゴールドシチーに敗れる4着[16]。そして本州に戻って10月4日、東京競馬場のりんどう賞(400万円以下)に臨んだが、サクラロータリーにハナ差だけ及ばず2着だった[16]。それから10月25日、いちょう特別(OP)に1番人気で参戦。直線で抜け出しに成功し、追い上げるセントナダラをアタマ差下し、2勝目を挙げた[16]


続いて12月14日、朝日杯3歳ステークス(GI)に臨む。9頭立てとなるなか、ホクトヘリオスとの一騎打ち、二強と目されていた[24]。新馬戦以来の再会となったホクトヘリオスは、新馬戦ではソエがあったうえに出遅れてメリーナイスに敗退していた[25]。その後立て直して2戦目の新馬戦、函館3歳ステークス京成杯3歳ステークスで3連勝、重賞2連勝で、唯一の単枠指定だった[26]。ホクトヘリオスが2倍の1番人気、メリーナイスが3.6倍の2番人気に推されていた[27]

映像外部リンク
1986年 朝日杯3歳ステークス(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

スタートから中団後方を確保[25]。ホクトヘリオスが最後方待機、ドウカンプレスが逃げる平均ペースを追走していた[25]。先行勢がおしなべて失速する最終コーナーにて、外から進出、抜け出して先頭を奪取した[25]。直線では、末脚を発揮して、内から応戦する3番人気スーパーファントムをかわして先頭を守り、最後方大外から追い上げるホクトヘリオスを突き放して、独走となる[24]。根本は「『エデリーばり』の回転ムチ[25]」(橋本邦治)、ヨーロピアンスタイルの騎乗フォームを披露しながら、先頭で決勝線を通過する[28]。ホクトヘリオスに1馬身半差をつけて、GI初勝利を果たした[26]。この年のJRA賞では、最優秀3歳牡馬を受賞している。ただし関西の3歳GI、阪神3歳ステークスを優勝したゴールドシチーと分け合う形となった[29]

4歳(1987年)

皐月賞

朝日杯3歳ステークスを制したことでクラシック戦線に乗り、まずはクラシック一冠目の皐月賞を目指した。年をまたいで3歳となったが、右後ろ肢の外傷を化膿させたり、左前肢に深管骨瘤をきたして十分に調教することができなかった。仕上がることのないまま3月29日、皐月賞のトライアル競走であるスプリングステークス(GII)に参戦する。関西のゴールドシチーとの対決が前哨戦で実現したが、人気を集めたのは、マティリアルだった[30]。田中和夫厩舎、岡部幸雄騎乗、シンボリ牧場のマティリアルは、サクラロータリーには敗れたものの、サクラスターオーには先着した3戦2勝、重賞初挑戦の身だった。対するメリーナイスは2番人気、ゴールドシチーは5番人気だった[30]

この日のメリーナイスは、いれ込みが激しかった。ゆえにスタートで出遅れて後方を追走、進出なく後方のまま9着敗退となる[31]。勝利したのは、マティリアルだった。最後方から追い込み、短い直線ですべてごぼう抜きする大胆なパフォーマンスだった[31]。おまけにミホシンザンを上回るスプリングステークス最速タイムで走破していた[31]。続いて4月19日、皐月賞(GI)に臨む。評価は下がり、8番人気だった。弥生賞優勝馬のサクラスターオーが優勝、ゴールドシチーが2着、マティリアルが3着。対してメリーナイスは7着[32]。橋本によれば、体調が万全でなかったことに加えて、相手をマークすることに重きを置いて正しく走れなかったことを敗因に挙げている[33]

東京優駿

5月31日、クラシック二冠目の東京優駿(日本ダービー)(GI)に臨む。参戦2週間前には、右前脚の爪に挫跖をきたして、発熱し運動できない時期があったが回復[23]。調教も十分に消化した。調教では、橋本の調教師人生34年で最も速いタイムを記録することができた[23]。24頭立てだったが、皐月賞優勝のサクラスターオー、トライアルNHK杯優勝のモガミヤシマは、ともに故障して回避。万全の有力馬不在の中、混戦と目されていた[34]。そんな中、皐月賞3着マティリアルが単枠指定制度の対象となる[35]。その通り、マティリアルが1番人気だった。続いて皐月賞2着のゴールドシチー、毎日杯優勝馬でありNHK杯4着のダイゴアルファと続き、4番人気がメリーナイスだった[36]。橋本と根本は、前回マークに執着したことを反省していた[37]。このことから何も相手にしない、メリーナイスの力を発揮させることを第一に考えて、参戦していた[37]

映像外部リンク
1987年 東京優駿(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

3枠8番からスタート、先手を主張したトチノルーラー、ダイゴアルファの背後、好位の5、6番手を確保[37]。逃げた2頭が作る平均ペースを追走した[38]。最終コーナーにかけて馬群が凝縮するなか、メリーナイスは逃げ馬の直後にまで迫っていた。進路を得て、末脚を発揮する[36]。前方では、一足先に最も内側を通って抜け出したサニースワローがいたが、直線に向いてすぐに差し切り、先頭を得ていた[34]。後方ではマティリアル、ゴールドシチーなどがいたが、揃って伸びあぐね、メリーナイスの独走となった[39][33]。ステッキを入れ、アメリカンスタイルの根本に追われると、さらに加速[39]。後続を引き離し続けた。リードを後方に6馬身まで広げたところで、決勝線を先頭で通過を果たした[35]

ダービー戴冠。1984年に産まれた7649頭の頂点となる[33]。GI2勝目だった。1961年ハクシヨウ以来続いた「3歳チャンピオンはダービーを勝てない」と呼ばれたジンクスを26年ぶりに打ち破っている[5]。また1961年ハクシヨウ、1965年キーストンに続いて史上3頭目となる、最優秀3歳牡馬のダービー戴冠だった[40]。後方との着差6馬身は、1955年メイズイ以来の7馬身以来、ダービー史上3番目の大差だった[41]

根本、浦、前田は、ダービー初勝利[40][41]。橋本は、調教師生活34年、16回17頭目、1957年ギンヨクの3着(優勝:ヒカルメイジ)、1981年ハシノエースの4着(優勝:カツトップエース)を乗り越えてダービー初優勝[42]。騎手として1944年カイソウ、1950年クモノハナで制した2勝を併せた、ダービー3勝を成し遂げた[40]。表彰式後の記念撮影では、根本と根本の3歳の息子がメリーナイスの背に乗っている[36]。東京優駿史上初めてとなる父子が優勝馬上に乗る記念写真となった[36]

有馬記念

東京優駿の後は、函館競馬場で夏休みを過ごした[43]。秋は菊花賞を目指し、その前哨戦である9月27日のセントライト記念(GII)に臨む。東京優駿1番人気18着のマティリアルとの再戦となった[44]。今度はメリーナイスが1番人気、マティリアルが2番人気となる[45]。稍重馬場だった。スタートから先行し好位を確保。平均ペースを追走した[46]。第3コーナーを5番手、前との距離を縮めて、最終コーナーを3番手で通過[45]。直線に向いて逃げ馬を捕らえて抜け出しに成功する[46]。後方勢では、マティリアルが伸びあぐねて再び敗退[44]。ただしセントナダラが詰め寄って来ていた[45]。それでもメリーナイスはリードを守り切り[45]、半馬身先着を果たした[13]。走破タイム2分13秒9は、良馬場で行われた1984年シンボリルドルフの2分13秒4に「匹敵[46]」(藤野広一郎)するほどの内容だった。

その後は「レース間隔を開けた方が走る[47]」という橋本の考えから、トライアル競走の京都新聞杯を使わず、直行となった[47]。11月8日、本番の菊花賞(GI)に臨む。唯一の単枠指定となり[48]、2.2倍の1番人気に推されたが、折り合いがつかず、終いで全く伸びなかった[47]。サクラスターオーが制して二冠を果たす一方で、9着に敗退した[48]

続いて12月27日、有馬記念(GI)に臨む。古馬勢との初対決となったが、筆頭はジャパンカップ3着となった牝馬ダイナアクトレスであり、人気を集めたのは4歳だった。メリーナイスの他に、二冠を果たしたサクラスターオー、二冠牝馬マックスビューティが推されており、1番人気サクラスターオー、2番人気ダイナアクトレス、3番人気メリーナイス、4番人気マックスビューティという順番だった[49]

映像外部リンク
1987年 有馬記念(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

菊花賞ではスタートがきっかけで折り合いを欠いたことから、根本はその反省を生かして、長手綱にするなど注意していた[50]。7枠14番からスタート、進み出て1完歩目を果たしたが、続く2完歩目の右前脚が進まなかった[51]。よって鼻面を地面にたたきつけて転倒した[51]。根本は落馬、スタート直後で競走中止となった。根本は落馬した際に脳震盪をきたしていた[51]。この後、1番人気もサクラスターオーが故障を発症により競走中止している[50]。1番人気3番人気総崩れとなり、売上251億円のうち、2頭絡みの約162億円の勝馬投票券が、決着を前にはずれ馬券と化している[51]。この年のJRA賞は、最優秀4歳牡馬にて票を得たが、全143票中3票に留まり、139票で受賞したサクラスターオーには及ばなかった[52]

5歳(1988年)

年をまたいで1988年、古馬となり2月21日の目黒記念(GII)で始動。トップハンデとなる59キログラムを背負って参戦、1番人気だった[53]。落馬競走中止からの復帰戦だったため、パドックでは根本を鼓舞する声援が溢れたという[53][54]。52キログラムのメジロフルマーが逃げるなか、内側の2番手を追走した[53]。最終コーナーにかけてメジロフルマーとの距離を縮め、直線でかわすべく追い上げたが、メジロフルマーの脚が衰えず、及ばなかった[53][54]。逃げ切りを許し、1馬身4分の1差の2着だった[55]。続いて4月29日、天皇賞(春)に臨み、4番人気に推されたが、後方追走のまま伸びず、タマモクロスに敗れる14着だった[56]

4か月の休養を経て8月21日、函館記念(GIII)に参戦。ローカルGIIIながら東京優駿優勝馬シリウスシンボリ、二冠のマックスビューティ、阪神3歳ステークス優勝馬サッカーボーイとの対決となった[57]。好位を進み、直線で抜け出しを図ったが、前を行くサッカーボーイには及ばなかった。サッカーボーイに独走、レコード走破を許した[57]。5馬身後れを取る2着だった[58]

この後は、函館競馬場で調教されていたが、9月15日の調教中に左第一指節種子骨骨折が判明する。全治6か月となり、10月初めに復帰を断念。競走馬引退が決定する。12月18日、中山競馬場にて引退式を実施[59]。朝日杯3歳ステークス優勝時のゼッケン「8」を着用した姿がお披露目された[60]

種牡馬時代

競走馬引退後は、種牡馬として北海道静内町のレックススタッドに繋養される[2][60]。シンジケートに加えて余勢株が出るほどの人気だった[60]。1989年の供用開始から7年目となる1995年まで50頭以上の繁殖牝馬を集め続けた[61]。さらに10年目の1998年まで40頭以上集めたが、11年目の1999年は7頭に留まり、同年9月30日付で用途変更、種牡馬引退となった[4][61]

引退後は功労馬として余生を過ごし、1999年からは長野県のスエトシ牧場で、2007年からは北海道浦河町の渡辺牧場で繋養された[62]。2009年2月下旬に疝痛をきたし、28日に手術されたが、3月1日に容態急変、午後7時5分に25歳で死亡する[62][63]

産駒は、1992年から2006年まで日本競馬で走っている[61]。中央競馬の重賞においては、初年度産駒のマイネルリマーク(母父:ホクトボーイ)は1993年の共同通信杯4歳ステークス(GIII)を、イイデライナーも(母父:ロイヤルスキー)1991年の京都4歳特別を制している[64][65]

競走成績

以下の内容は、『競馬名馬読本』[66]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離

(馬場)

オッズ

(人気)

着順 タイム 着差 騎手 斤量

[kg]

1着馬

(2着馬)

馬体重

[kg]

1986. 08. 03 函館 3歳新馬 芝1000m(良) 9 1 1 01.7(1人) 01着 0:58.7 根本康広 53 (サイコーハート) 468
09. 20 函館 コスモス賞 OP 芝1700m(良) 9 2 2 04.3(2人) 04着 1:46.1 0.5 根本康広 53 ゴールドシチー 466
10. 04 東京 りんどう賞 4下 芝1600m(良) 10 2 2 05.8(2人) 02着 1:35.5 0.0 根本康広 53 サクラロータリー 456
10. 25 東京 いちょう特別 OP 芝1600m(良) 7 7 7 01.3(1人) 01着 1:36.1 根本康広 53 (セントナダラ) 460
12. 14 中山 朝日杯3歳S GI 芝1600m(良) 9 8 8 03.6(2人) 01着 1:35.6 1身半 根本康広 54 ホクトヘリオス 468
1987. 03. 29 中山 スプリングS GII 芝1800m(良) 12 4 4 04.9(2人) 09着 1:50.3 1.0 根本康広 56 マティリアル 470
04. 19 中山 皐月賞 GI 芝2000m(良) 20 7 16 25.6(8人) 07着 2:02.5 0.6 根本康広 57 サクラスターオー 462
05. 31 東京 東京優駿 GI 芝2400m(良) 24 3 8 12.6(4人) 01着 2:27.8 6身 根本康広 57 (サニースワロー) 460
09. 27 中山 セントライト記念 GII 芝2200m(稍) 12 6 7 01.9(1人) 01着 2:13.9 半身 根本康広 56 (セントナダラ) 462
11. 08 京都 菊花賞 GI 芝3000m(良) 18 8 18 02.2(1人) 09着 3:09.3 1.3 根本康広 57 サクラスターオー 462
12. 27 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 16 7 14 04.9(3人) 競走中止 根本康広 55 メジロデュレン 478
1988. 02. 21 東京 目黒記念 GII 芝2500m(良) 10 1 1 02.9(2人) 02着 2:32.9 0.2 根本康広 59 メジロフルマー 484
04. 29 京都 天皇賞(春) GI 芝3200m(稍) 18 7 13 07.3(4人) 14着 3:25.8 4.0 根本康広 58 タマモクロス 470
08. 21 函館 函館記念 GIII 芝2000m(良) 14 7 12 05.8(3人) 02着 1:58.6 0.8 根本康広 59 サッカーボーイ 494

種牡馬成績

年度別成績

以下の情報は、JBISサーチの情報に基づく[61]

種付年度 種付頭数 生産頭数 血統登録頭数 出走頭数 勝馬頭数 重賞勝馬頭数 AEI CPI
1989 56 44 43 36 23 1 0.82
1990 63 48 47 42 25 2 0.85
1991 72 50 49 33 24 0 1.04
1992 62 43 41 39 26 0 0.59
1993 62 51 48 40 30 1 0.59
1994 70 53 52 44 32 1 0.55
1995 51 35 33 30 21 0 0.34
1996 40 25 26 21 17 0 0.44
1997 44 37 33 30 19 0 0.29
1998 43 32 32 28 19 0 0.24
1999 7 6 6 4 3 0 0.15
合計 410 347 239 5 0.59 0.84

重賞優勝産駒

ブルードメアサイアーとしての産駒

  • 1996年産

エピソード

ダービー当日

東京優駿当日、オーナーの浦房子は、三人姉弟の末の弟の長男、甥の結婚式に出席しており、東京競馬場には臨場していなかった[10]。代わりに、房子の上の弟、サカエリュウ電機株式会社社長の加藤隆明を競馬場に出席させていた[71]。房子は、メリーナイスが出走する頃は、全く意識しておらず、平然と結婚式に出席していたが、競馬場にいる方の弟の子供、房子の甥は、結婚式場にいて気が気でなかった[72]。その甥は結婚式場を飛び出し、廊下でラジオで結果を知ったという[10]。勝利を知ったその甥は、式場に戻り、房子に興奮気味に報告。やがて司会の耳に入り、大々的にダービー優勝の報告が、式場内に知れ渡っていた[72]。結婚式の主役である末の弟の長男と新婦は、ダービーと結婚式が被ったことを謝罪しに来たという[10]。末の弟には「ホントにすまない、ねえさん(房子)の馬がまさかダービーに出ると思わなかった[72]」と言われたという。また房子は、知り合いから「馬にとってダービーは一生に一度きりだけれど、人間はね、一生に二度も三度も結婚するひとがいるのよ[72]」と忠告されたという。

前田徹

前田徹牧場は、家族経営の小牧場、メリーナイス以前は中央競馬で勝利を挙げたのは1頭だけ、新馬戦を勝利したことはなかった[19]。メリーナイスのデビューする直前、橋本や浦から、新馬戦勝利のチャンスだと告げられていた[20]。そこで前田は、新馬戦が行われる函館競馬場に向かい、現地応援しようと決意する。静内町の牧場を出て、千歳空港から飛行機で函館空港に降り立ち、競馬場に向かう予定だった[20]。しかし飛行機が函館上空に着いた時、函館が濃霧に包まれて、千歳に引き返し。観戦を断念して静内に戻っている[20]。静内に戻る頃には、メリーナイスの新馬戦は終わっており、徹は、テレビ観戦していた息子から、メリーナイスの勝利を聞いていた[20]

続いて大一番、東京優駿(日本ダービー)に参戦するときは、徹はこの反省を生かして、前日移動を心掛けている[33]。無事東京競馬場入りを果たした徹は、人生で初めて競馬場での応援を行い、生産馬の勝利を、それもダービーの勝利を現地で見届けている[33][73]。前田は、席をとらず、競馬場内の人混みの中で観戦していた[73]。この勝利に前田は、興奮してネクタイできないほどの身震い、涙を流している[73]。勝利した際は、馬主代理の房子の弟と西階段で落ち合い、表彰式に出席する予定だったが、興奮のあまり、西階段に行くことができなくなり、弟が発見したという[73]。そうして初めて表彰式に出席、それもダービーの表彰台に上がっている[33]。表彰式でも涙が止まらなかった[72]

血統表

メリーナイス血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ノーザンダンサー系
[§ 2]

*コリムスキー
1975 栗毛
父の父
Northern Dancer
1961 鹿毛
Nearctic Nearco
Lady Angela
Natalma Native Dancer
Almahmoud
父の母
Libro d'Oro
1968 栗毛
Francis S. Royal Charger
Blue Eyed Momo
Exclusive Shut Out
Good Example

ツキメリー
1977 栗毛
*シャトーゲイ
1960 栗毛
Swaps Khaled
Iron Reward
Banquet Bell Polynesian
Dinner Horn
母の母
メリーブラット
1969 黒鹿毛
*テスコボーイ Princely Gift
Suncourt
コンチネンタル *フェリオール
ウラツキホマレ
母系(F-No.) チップトップ系(FN:4-m) [§ 3]
5代内の近親交配 Polynesian 5×4、Hyperion 5×5・5、Nearco 4・5(父系) [§ 4]
出典
  1. ^ [74]
  2. ^ [75]
  3. ^ [76][74]
  4. ^ [74]

脚注

注釈

出典

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  21. ^ a b c d 『優駿』1987年3月号 22頁
  22. ^ 『優駿』1987年3月号 22頁
  23. ^ a b c d 『優駿』1987年9月号 51頁
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  76. ^ 『優駿』1987年2月号、日本中央競馬会、135頁

参考文献

  • 野田利樹「天下御免の引き立て役 メリーナイス」『競馬名馬読本』〈別冊宝島143号〉(宝島社、1996年)
  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 1987年1月号
      • 「【第38回朝日杯3歳ステークス】すてきなゴールだ、メリーナイス」
    • 1987年2月号
      • 橋本邦治「【今月の記録室】第38回朝日杯3歳ステークス(GI)メリーナイス」
    • 1987年3月号
      • 藤野広一郎「【GI競走勝ち馬の故郷紀行】五月の府中に夢を馳せて 前田徹牧場」
    • 1987年4月号
      • 伊藤友康、阿部幸太郎、井上貴夫、柏木集保、松本憲二「【有力馬の全プロフィール】メリーナイス」
    • 1987年5月号
      • 「【第36回スプリングステークス】磨かれた逸材、マティリアル」
      • 大川和彦(フジテレビ)「【今月の記録室】第36回フジテレビ賞スプリングステークス(GII)マティリアル」
    • 1987年6月号
      • 有吉正徳(東京中日スポーツ)「【今月の記録室】第47回皐月賞(GI)サクラスターオー」
    • 1987年7月号
      • 「【第54回日本ダービー】3歳チャンピオンから4歳の王座に、会心のゴールは、メリーナイス」
      • 石川喬司「【馬屋先生のパカパカ問答(29)】浦房子さん」
      • 瀬上保男(読売新聞)「【今月の記録室】メリーナイスが54代ダービー馬に、2着は22番人気のサニースワロー」
      • 桜井裕夫(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第54回日本ダービー(GI)メリーナイス」
    • 1987年8月号
      • 鶴木遵「【ジョッキーズームアップ(23)】レトロ派ダービー・ジョッキー 根本康広」
      • 白井透(サラブレッド血統センター)「【生産からみた'87年春のGI競走】ノーザンダンサーの血の猛威と、日高の"伝統の復活"」
    • 1987年9月号
      • 福田喜久男「【渋谷竜が撮る日本のホースマン(50)】三度目の栄光 橋本輝雄調教師」
      • 「【今月のトピックス】函館競馬場発 ダービー馬メリーナイスの夏休み」
    • 1987年11月号
      • 藤野広一郎「【第48回菊花賞情報】ダービー馬メリーナイスはセントライト記念も圧勝して体調は万全。二冠は濃厚だ。」
      • 「【第41回セントライト記念】ダービー馬の貫録、メリーナイス」
      • 樋口忠正(ラジオ日本)「【今月の記録室】第41回ラジオ日本賞 セントライト記念(GII)メリーナイス」
    • 1988年1月号
      • 「【今月の記録室】第48回菊花賞(GI)サクラスターオー」
    • 1988年2月号
      • 「【第32回有馬記念】菊花賞馬の底力、メジロデュレン」
      • 「【JRA賞年度代表馬・各部門最優秀馬決定】87年度にサクラスターオー」
      • 鶴谷義雄(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第32回有馬記念(グランプリ)(GI)メジロデュレン」
    • 1988年4月号
      • 「【第102回目黒記念】また岡部だ、男を完封 メジロフルマー」
      • 三木和夫(東京スポーツ)「【今月の記録室】第102回農林水産省賞典目黒記念(GII)メジロフルマー」
    • 1988年6月号
      • 梶山隆平(日刊スポーツ)「【今月の記録室】第97回天皇賞(春)(GI)タマモクロス」
    • 1988年10月号
      • 渡辺久和(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第24回農林水産省賞典函館記念(GIII)サッカーボーイ」
    • 1989年2月号
      • 「【今月のトピックス】さよなら 優駿 12月18日メリーナイス引退式」
    • 1993年5月号
      • 「【日本の種牡馬】メリーナイス」
    • 1993年8月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝(87)】圧勝のダービー馬 メリーナイス」
    • 2000年6月号
      • 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編66〉】メリーナイスの日本ダービー(下)四白流星、独走」
  • 週刊新潮』(新潮社
    • 1987年6月18日号
      • 「【ワイド特集 勝者の生活】4.ダービー制覇『メリーナイス』の女馬主」

外部リンク