「山谷えり子」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
(同じ利用者による、間の2版が非表示)
23行目: 23行目:
父親は[[ニッポン放送]]で「お早うニッポン」を担当、「パーソナリティ」という言葉を日本で初めて使ったといわれる故・山谷親平(元[[福井新聞]]、産経新聞記者)。
父親は[[ニッポン放送]]で「お早うニッポン」を担当、「パーソナリティ」という言葉を日本で初めて使ったといわれる故・山谷親平(元[[福井新聞]]、産経新聞記者)。


基本的な政治スタンスは[[保守]]である。他の女性議員と大きく異なる点に、[[ジェンダーフリー]]教育や、[[ポジティブアクション]]に否定的な意見を述べるなどの政治行動が挙げられ、これは[[統一協会]]の唱える[[純潔運動]]思想とも一致。そのため、女性からの支持が弱いとすると指摘もある。
基本的な政治スタンスは[[保守]]である。


2006年5月13日、[[マリンメッセ福岡]]で開かれた、[[統一教会]]系団体である天宙平和連合の「祖国郷土還元日本大会」福岡大会(合同結婚式も同時に行われた)に、[[安倍晋三]]内閣官房長官、[[岸信夫]]、[[保岡興治]]、[[石原宏高]]、[[高市早苗]]、[[山本一太]]、[[松浪健太]]の各議員らと共に祝電(安倍は肩書つきで)を打っていたことが発覚。この面々は安倍の唱える「再チャレンジ推進委員会」議員連盟の会員でもある。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[キリスト教右派]]

*[[純潔運動]]
*[[純潔教育]]


== ウェブサイト ==
== ウェブサイト ==

2006年6月22日 (木) 02:31時点における版

参議院議員 山谷えり子
生年月日1950年9月19日
出身地東京都武蔵野市生まれ
最終学歴聖心女子大学文学部
前職ジャーナリスト
衆議院議員
役職内閣府大臣政務官
世襲の有無世襲ではない
選挙区参議院比例区
当選回数1回(衆議院1回)
所属党派自由民主党(森派
党の役職-
会館号室参議院議員会館611号室
ウェブサイト参議院議員 山谷えり子

山谷 えり子(やまたに えりこ、本名・小川 惠里子、1950年9月19日 - )は、日本政治家自由民主党所属の参議院議員(1期)。衆議院議員(1期)。東京都武蔵野市生まれ。中学までは父の出身地である福井県福井市で育つ。

都立駒場高校聖心女子大学文学部を卒業、出版社に入社、のち渡米。1985年3月サンケイリビング新聞編集長になる。テレビキャスター、エッセイスト。中央児童福祉審議会委員などを歴任。 1989年15回参議院議員通常選挙民社党比例候補。2000年6月の第42回衆議院議員総選挙民主党比例区東海ブロックより出馬し初当選 。2002年12月、熊谷弘らとともに民主党を離党。保守新党結党し参加。2003年第43回衆議院議員総選挙では東京4区から出馬し落選。2004年7月の第20回参議院議員通常選挙自民党より比例区に出馬し当選。2005年8月15日靖国神社参拝した際、そこで出会った稲田朋美弁護士を政界へスカウト。2005年11月内閣府大臣政務官に就任。

著書に『嫁姑合戦―えり子の場合』『走りつづけてー父・山谷親平五千六百一回目の朝』など多数。

父親はニッポン放送で「お早うニッポン」を担当、「パーソナリティ」という言葉を日本で初めて使ったといわれる故・山谷親平(元福井新聞、産経新聞記者)。

基本的な政治スタンスは保守である。他の女性議員と大きく異なる点に、ジェンダーフリー教育や、ポジティブアクションに否定的な意見を述べるなどの政治行動が挙げられ、これは統一協会の唱える純潔運動思想とも一致。そのため、女性からの支持が弱いとすると指摘もある。

2006年5月13日、マリンメッセ福岡で開かれた、統一教会系団体である天宙平和連合の「祖国郷土還元日本大会」福岡大会(合同結婚式も同時に行われた)に、安倍晋三内閣官房長官、岸信夫保岡興治石原宏高高市早苗山本一太松浪健太の各議員らと共に祝電(安倍は肩書つきで)を打っていたことが発覚。この面々は安倍の唱える「再チャレンジ推進委員会」議員連盟の会員でもある。

関連項目

ウェブサイト