「黄金のバラ」の版間の差分

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[[Image:Weltliche Schatzkammer Wien (129).JPG|thumb|200px|ジュゼッペ及びピエトロ・パオロ・スパーニャによる黄金のバラ。ローマで1818-19年頃に作成された。現在は[[ウィーン]]の[[ホーフブルク宮殿]]にある。]]
[[Image:Weltliche Schatzkammer Wien (129).JPG|thumb|200px|ジュゼッペ及びピエトロ・パオロ・スパーニャによる黄金のバラ。ローマで1818-19年頃に作成された。現在は[[ウィーン]]の[[ホーフブルク宮殿]]にある。]]
'''黄金のバラ'''<!-- 記事名と記事内の表記はあわせる必要がありますので、記事名を「黄金のバラ」とする場合は「バラ」、「黄金の薔薇」とする場合は「薔薇」で全て統一してください。 -->とは[[金]]の[[装飾品]]であり、[[カトリック教会]]の最高権力者である[[ローマ教皇]]が伝統的に祝福するものである。黄金のバラは時折、敬や愛情の証として贈られる。受領者には教会や聖、王族や軍隊、政府も含まれてきた。
'''黄金のバラ'''とは[[金]]の[[装飾品]]であり、[[カトリック教会]]の[[教皇]]が伝統的に祝福するものである。黄金のバラは時折、敬や愛情の証として贈られる。受領者には教会や聖、王族や軍隊、政府も含まれてきた。


== 重要性と象徴性 ==
== 重要性と象徴性 ==
[[Image:Golden Rose MNMA Cl2351 n1.jpg|thumb|right|200px|シエナのミヌッチオの黄金のバラ。[[ヨハネス22世]]から[[ヌーシャテル]]伯のルドルフ3世に与えられたもの。]]
[[Image:Golden Rose MNMA Cl2351 n1.jpg|thumb|right|200px|シエナのミヌッチオの黄金のバラ。[[ヨハネス22世]]から[[ヌーシャテル]]伯のルドルフ3世に与えられたもの。]]
黄金のバラは[[四旬節]]の第日曜日(「バラの日曜日」としてもよく知られる)に清められる。それ四旬節儀式最中では希望と喜びを象徴するバラ色の法衣や掛け布が[[悔悟の紫]]を用する時である。四旬節のほとんどの期間を通じて、カトリック教徒は祈り断食懺悔、瞑想を罪による悪業やそれがもたらすひどい罰<!-- またmeditate uponのあたりのつながりがきちんと訳せいません -->に打ち勝つために行う薔薇の日曜日キリスト受難の先ものや贖い主キリストが復活祭太陽に昇、喜びを与えたのを見ときである。輝く金色の花は四度目の<!-- forthの訳語が全く違います -->キリストの威光を示した。適切な理由として予言者たちがキリストことを「平原咲く花そして谷に咲くユリ」と称したことがげられ。<ref>{{bibleverse||Songs|2:1|63}}</ref>[[レオ13世]]によると、その香りは「キリストの敬虔な信徒たちによって広められるべきキリスト甘い匂い示す」ものであり、苦痛の種<!-- red tintは? -->はキリストの[[受難]]に関連している。イザヤ63章2節には、「何ゆあなたの装いは赤く、あなたの衣は酒ぶね (ワインを作ためのブドウしぼり桶) を踏む者のように赤いのか」とある。
黄金のバラは[[四旬節]]の第4日曜日(「[[バラの]]([[:en:Laetare Sunday|en]])としてもよく知られる)に祝福される。バラの主日に祭服色が、悔悟紫から、希望と喜びを象徴するバラ色(ローズピンク)にえられる。四旬節のほとんどの期間を通じて、カトリック教徒は祈り」「断食」「懺悔」そして悪意による罪とそれがもたらす影響に黙想するこれは「バラゴルゴタおけるキリストの死を振時節であにあるキリストの復活)喜びと栄光の復活える為である。
美しい黄金のバラはキリストの栄光の復活と威光の象徴とされる。(聖書中、[[メシア|救世主]]は次のように称えられている。「わたしはシャロンのばら、谷のゆりです。<ref>雅歌 2:1</ref>」)
ローマ教皇の免状や説教の多くは贈る時に黄金のバラの神話的意味合いに言及してきた。[[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]曰く、「喜びの日曜日の時、嫌悪の後の愛情、悲嘆の後の歓喜、空腹の後の満腹に代表されるような儀式の為にその日は切り離され<!-- set apartあたりの訳語のチョイスが不適 -->、そして黄金の薔薇はその色、匂い、味、愛情、歓喜、飽満によってそれぞれに示され、そして<!-- この文章は全体的に整理する必要あり。「そういうことをby以下で指し示している」という作りの文章です -->。[[イザヤ書|イザヤ]]11章1節による「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上にとどまる」花とバラを比較した。

バラの香りについて、[[レオ13世 (ローマ教皇)|レオ13世]]は次のよう記している。「キリストに誠実に付き従うものたちによって広がる、主の甘い香りを表す (Pontificis Maximi Acta, Vol. VI, 104)」。また(そのバラの)茨と花びらの赤き色合いは、イエスの血にまみれた受難を示しているとした。

多くの教皇は黄金のバラを授ける際にその神秘的な意義について言及してきた。[[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]は「'''レターレ'''{{Refnest|(Latere) レタレとも。歓喜の意。混同しやすいが「喜びの主日」は[[待降節]]の第3主日<ref>[http://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_tenreicolor.php Laudate | キリスト教マメ知識 典礼の色]</ref>。}}の日曜日(バラの主日)、この日によって、憎しみの後の愛、悲嘆の後の歓喜、空腹の後の満腹へと分け隔てられる。そう、黄金のバラはその色、香り、味わい、愛、喜びと満ち足りた状態によってそれを示すものだ」
とし、イザヤ書の第11章1節「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び<ref>イザヤ 11:1</ref>」におけるその花と比較した。


== 現代のバラまでの歴史と発展 ==
== 現代のバラまでの歴史と発展 ==
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====花====
====花====


[[シクストゥス4世]](1471-84)任期よりも前、黄金のバラは純金で作られた単純で単一の花で構成されるものでわずかに赤みがかていた。のちに、この装飾品がまだ神秘象徴して保持している間装飾するために金はルビー以外では色づけられないままでおかれ、以後多くの高価な宝石の原石がバラの花の中心花弁の上に置かれるようになった
[[シクストゥス4世]](在位 1471-1484年)時代よりも前、黄金のバラは単純な構成をしており、純金で作られた単一の花でわずかに赤く染められたものだった。、この装飾品神秘性を保ちがらも飾り付けられることなり金は染られずルビーや貴重な宝石がバラの中心部や花弁に置かれるようになった


ローマ教皇の[[シクストゥス4世]]は単一のバラったところ葉と多くの(10かそれ以上の)バラついたイバラ枝を用いた。そのうちもっとも大きいものその周りらがっているもっと小さなバラのついた枝の頂上からはねたように飛び出したものであった。主要となるバラの中心は穴の開い覆いのついた小さなティーカップのようになっており、その中にはローマ教皇が[[麝香]]や[[バルサム]]をそのバラを神聖にするためにそそいだもの入っている。 装飾品全体は純金でできている。このシクストゥス風のデザインはその装飾や大きさ、重さ、価値を多様に変化させながら維持されている。 当初は高さが7.5センチ強ほどで小さく、ローマ教皇が[[サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂]]から[[ラテラノ宮殿]]までの行進の際右手で大衆に祝福を与えるとき、その左手で持ち運ぶことが容易った。のちになって、特に花瓶とその台座も装飾品の一部となったときは、強健な聖職者がそれらの装飾品を運ぶ必要がありローマ教皇の十字架に先んじて行進で運ばれた。 [[ヨーゼフ1世]]の皇后である[[アマーリア・ヴィルヘルミーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=カレンベルク]]に[[インノケンティウス11世]]から贈られたバラは9キロほどあり、高さが約45センチあるものであった。そのバラは花束の形をしており、たくさん曲がりくねりながら一緒に茎の頂点まで到達する3つのねじれた枝が大きなバラの花と葉っぱの集を支えていた。
[[シクストゥス4世]]は単一のバラであったものを、茨の枝に多くの(10かそれ以上のバラと葉がついたに置き換えた。そのうちもっとも大きいバラ周りを取り囲むもっと小さなバラのついた枝の頂上からはねたように飛び出したものであった。
主要となる大きなバラの中心は穴の開いていて、覆いのついた小さなティーカップのようになっており、その中に[[麝香|ムスク]]や[[バルサム]]バラを祝福にするために教皇により注る。 この装飾品全体は純金る。このシクストゥス風のデザインはその装飾や大きさ、重さ、価値を多様に変化させながら維持されている。 当初は高さが7.5センチ強ほどで小さく、教皇が[[サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂]]から[[ラテラノ宮殿]]までの行進の際右手で大衆に祝福を与えるとき、左手で持ち運ぶことが容易であった。のちに、特に花瓶とその台座も装飾品の一部となったときは、強健な聖職者がそれらの装飾品を運ぶ必要があり、{{仮リンク|教皇の十字架|en|Papal Cross}}に先んじて行進で運ばれた。 [[ヨーゼフ1世]]のである[[アマーリア・ヴィルヘルミーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=カレンベルク|アマーリア・ヴィルヘルミーネ]]に[[インノケンティウス11世]]から贈られたバラは9キロほどあり、高さが約45センチあるものであった。そのバラは花束の形をしており、たくさん曲がりくねりながら一緒に茎の頂点まで到達する3つのねじれた枝が大きなバラの花と葉の集まりを支えていた。


====花瓶とその台座====
====花瓶とその台座====


黄金のバラを支える花瓶とその台座は様々な素材、重さ、形をしている。初期のころはそれらが金でできていたが、のちに重銀メッキで作られるようになった。台座は三角柱、四角柱、八角柱のどれもあり、様々な装飾品で豪勢に装飾された。
黄金のバラを支える花瓶とその台座は様々な素材、重さ、形をしている。初期のころは金でできていたが、のちにしっかりした銀メッキと金で作られるようになった。台座は三角柱、四角柱、八角柱のどれかの形で、様々な装飾品やレリーフで豪勢に装飾された。通例の署名に加え、作成者である教皇と祝福と授与者の紋章が台座に彫刻される


=== 装飾の価値 ===
=== 装飾の価値 ===
[[Image:Golden rose Biblioteca apostolica.jpg|thumb|[[バチカン図書館]]にある黄金のバラ]]
[[Image:Golden rose Biblioteca apostolica.jpg|thumb|[[バチカン図書館]]にある黄金のバラ]]
バラの価値はローマ教皇の気前のよさやその時代の経済状況によって異なる。バルダサリ神父によると1650年ごろに与えられたバラは500ドルだったそうだ。[[アレクサンデル7世]]によって贈られた二つのバラはそれぞれ800ドル1200ドルの価値が付いた。[[クレメンス9世]]がフランス王妃に贈ったバラは1200ドルで、3.6キロの重さの金で作られていた。このバラを作った職人の技術はとびぬけて優れており、その職人は300ドルを報酬として得た。計1400ドルの費用をかけて[[インノケンティウス9世]]は3.8キロほどの金を使ったたくさんのサファイアで飾られたバラを作った。19世紀には200ドル以上の費用がかかるバラは少なくなかった。<ref>''Catholic Encyclopedia'', article "Golden Rose"</ref>
バラの価値はそのときどきの教皇の気前のよさやその時代の経済状況によって異なる。イエズス会士であったバルダサリ神父によると(De Rosa Mediana, p.190)、1650年ごろに与えられたバラは、おおよそ{{Inflation|US|500|1909|fmt=c}}ドル<ref>本項の底本であるCatholic Encyclopedia発行当時(1909年)の500ドル</ref>と言われる。[[アレクサンデル7世 (ローマ教皇)|アレクサンデル7世]]によって贈られた二つのバラはおおよそのところ、それぞれ{{Inflation|US|800|1909|fmt=c}}ドル<ref>本項の底本であるCatholic Encyclopedia発行当時(1909年)の800ドル</ref>と{{Inflation|US|1200|1909|fmt=c}}ドル<ref>本項の底本であるCatholic Encyclopedia発行当時(1909年)の1200ドル</ref>の価値があった。[[クレメンス9世 (ローマ教皇)|クレメンス9世]]が[[マリー・テレーズ・ドートリッシュ|フランス王妃]]に贈ったバラはおおよそ{{Inflation|US|1200|1909|fmt=c}}ドルで、3.6キロ(8ポンド)の重さの金で作られていた。このバラを作った職人の技術はとびぬけて優れており、その職人は{{Inflation|US|300|1909|fmt=c}}ドル<ref>本項の底本であるCatholic Encyclopedia発行当時(1909年)の300ドル</ref>を報酬として得た。計{{Inflation|US|1400|1909|fmt=c}}ドル<ref>本項の底本であるCatholic Encyclopedia発行当時(1909年)の1400ドル</ref>の費用をかけて[[インノケンティウス9世 (ローマ教皇)|インノケンティウス9世]]は3.8キロ(8.5ポンド)ほどの金を使ったたくさんのサファイアで飾られたバラを作った。19世紀には{{Inflation|US|2000|1909|fmt=c}}ドル<ref>本項の底本であるCatholic Encyclopedia発行当時(1909年)の2000ドル</ref>以上の費用がかかるバラは少なくなかった。<ref>''Catholic Encyclopedia'', article "Golden Rose"</ref>


=== 起源 ===
=== 起源 ===
バラを与えるという習慣は、古代にカトリックの統治の印である金の鍵が聖ペトロの告解によりもたらされた例に倣ったものであり、この慣習は[[グレゴリウス2世 (ローマ教皇)|グレゴリウス2世]]あるいは[[グレゴリウス3世 (ローマ教皇)|グレゴリウス3世]]に依ってはじめられたとされる。
バラを与えるという習慣は聖ペテロの懺悔から生まれた黄金の鍵と呼ばれるカトリックにおける定規を送るという古代の習慣に取って代わったものである<!-- rulersやconfessionalの訳語がおかしく、文構造もとれていません -->。この古代の習慣はグレゴリー2世または3世<!--  教皇名 -->によって導入されたものである。ある黄金のバラと鍵に関する類推が存在し、その二つはともに有名なカトリック教徒としての教皇が祝福し授けた純金を用いて作られており<!-- ここは文構造がとれていません。訳し直し -->、聖骨箱を彷彿とさせるそうだ。黄金の薔薇はジャコウとバルサムを含み、黄金の鍵は聖ペテロの王座の椅子からの詰め物<!-- 原文をよく見て下さい。単語が違います。 -->である。
この黄金のバラと金の鍵の関連についてはある類推が存在する。二つはともに有名なカトリック教徒としての教皇により祝福され授けられた純金を用いて作られていること。また、バラには[[ムスク]]や[[バルサム]]が含まれ、鍵は聖ペテロの司教座(教皇の祭壇)に収められていることから、どちらも[[聖遺物]]容器(聖骨箱)を連想させることである。
黄金のバラの制度ができた正確な日時は不明である。それはシャルルマーニュの時代より前という人もいれば、12世紀終わりに起源をもつという人もいる。しかし、レオ9世<!-- 教皇リンク -->が黄金のバラは彼の時代には古代からの制度であると述べているので、確実に1050年よりは前に起源を持つ。ローマ教皇の宮廷においてもっとも受け取るに値する王子<!-- このprinceは「王子」ではありません -->に黄金のバラを与えるというローマ教皇がアビニョンに移ったときに始められた習慣は、教皇がまたローマに戻るまで<!-- 前置詞の訳し方がおかしいです -->続いた。王子<!-- 王子ではない -->は厳粛な儀式において教皇から黄金のバラを受け取り教皇の住まいから皇子<!-- 違います -->の住まいまで枢機卿会に同伴されるだろう。17世紀が始まってから、黄金のバラは王妃、王族の女性、傑出した貴族に贈られるだけとなった。皇帝や王、その他王族の男性には神聖な剣と帽子がより適した贈り物として贈られるようになった。しかしながら、もし受け取るに値するカトッリク教徒の皇帝や王、有力な王族の男性が喜びの主日にローマにいたならば、バラを一緒に受け取っただろう。
ローマの外に住む人に黄金のバラを運んで授ける職は教皇によって、枢機卿の教皇全権特使やローマ教皇大使、教皇庁大使、ローマ教皇特別大使に与えられた。1895年、「黄金のバラの使者」や「黄金のバラの保持者」と呼ばれる王室のメンバーに与えられる新しい職(世襲ではない)が制度化され、そして階級はローマ教皇の家中のものにあたり、剣やマントに携わる秘密の随行員に割り当てられたが、いまはもう存在しない。


黄金のバラの<!-- 制度 -->習慣ができた正確な日時は不明であり、[[カール大帝|シャルルマーニュ]]の時代より前とも、12世紀終わりに起源をもつとも言われているが、[[レオ9世 (ローマ教皇)|レオ9世]](在位:1049年 - 1054年)が黄金のバラは古代からの<!-- 制度 -->習慣であると述べているので、1050年よりは前に起源を持つと確実視されている。

(今も行われている)<!-- として前段と繋げる -->伝統的な慣習は教皇が[[アヴィニョン捕囚|アヴィニョンに移された]]頃に始まったもので、{{仮リンク|教皇の宮廷|en|Papal court}}において、もっとも相応しい君主・諸侯に与えられた。この慣習は教皇権がローマに戻った後も続けられ、厳粛な儀式において教皇からバラを受け取った貴族は、教皇の住む宮殿から居住地まで枢機卿団に同伴されるものだった。17世紀の初頭からは、黄金のバラは王妃、王族の女性、傑出した貴族にのみ贈られるようになり、皇帝や諸王([[君主]])、その他王族の男性には{{仮リンク|祝福された剣と帽子|en|Blessed sword and hat}}がより適した贈り物として贈られるようになった。しかしながら、相応しいカトリックの皇帝や君主、あるいは有力な王族の男性がバラの主日にローマにいた場合、バラも一緒に受け取るものであった。

ローマの外に住む人に黄金のバラを運んで授ける任務は、教皇によって'''レターレ'''と呼ばれる枢機卿の使節、{{仮リンク|教皇庁使節|en|nuncio}}、{{仮リンク|教皇庁公使|en|inter-nuncio}}、{{仮リンク|教皇特使|en|Apostolic ablegates}}に与えられた。1895年には、「黄金のバラの使者」や「黄金のバラの保持者」と呼ばれる王室のメンバーに与えられる新しい役割(世襲ではない)が制度化され、{{仮リンク|教皇公邸管理部|en|Prefecture of the Pontifical Household}}の階級にあたる、[[外套と短剣]]に携わる秘密侍従<!-- 翻訳元の版では secret chamberlain of sword and cloak participant. となっているが、ダガー&クロークのことだと解釈。-->に割り当てられたが、いまはもう存在しない。


== バラの祝福 ==
== バラの祝福 ==
[[Image:NationalShrineOfTheImmaculateConceptionGoldenRose.jpg|thumb|200px|[[ベネディクト16世]]からアメリカの無原罪の御宿りバシリカ([[:en:Basilica of the National Shrine of the Immaculate Conception|en]]に贈られた黄金のバラ]]
[[Image:NationalShrineOfTheImmaculateConceptionGoldenRose.jpg|thumb|200px|[[ベネディクト16世]]からアメリカの無原罪の御宿りバシリカ([[:en:Basilica of the National Shrine of the Immaculate Conception|en]])に贈られた黄金のバラ]]


最古のバラは神聖なものとして祝福を与えられていなかった。そうでなく、祝福を与えるという行為儀式をより厳粛なものにし受取人の威厳を引きだすためにあった。[[ペトラ枢機卿]]によると、[[インノケンティウス4世]](1245〜54)が祝福を与えるという行為の元祖だっ<!-- ( )注がなくなってします -->だが、ほか研究者によるとポープ・イノト3世(1198〜1216)ポプ・アレクサンダー3世(1159〜81)、ポープ・レオ世(1049〜55) <!-- 教皇名とリンク -->のいずれか最初だったという。レオ世が1051年にフランケンのバンベルグの修道院に、崇め、ま毎年喜び主日を行ために黄金のバラを置くよう強制した、と言われている<!-- この文章全体的に訳語に問題があり、ま( )注がとれてしまっています。 -->ポープ・ベネィクト16<!-- 教皇名とリン -->、崇拝の儀式は14世紀末か15世紀初頭にはじまった主張している。儀式の長である[[ジュゼッペ・カタラーニ]]、元祖のバラでさえムスクとバルサムが塗られていたが、祈り言葉、芳聖水を伴う崇拝が始まったのはもっとありポープ・ジュリウス世(1503〜13)<!-- 教皇名とンク -->が教皇<!-- これは「教皇」 -->を務めていた時期よりも以前のいつかだろうと考えてい現在は、法王が毎年バラを崇拝しているが、いつも新しく違うバラを使っているわけではなく、古いバラを捨て<!-- 捨てません。意味が違います -->られるまで使い続ける。
最古のバラは祝福を与えられていなかった。それよりもむしろ、祝福は儀式をより厳粛なものにし受取人の大きな威厳を引きだすために導入された。ペトラ枢機卿の記録 (''Comment. in Constit. Apostolicas'', III, 2, col. 1)によると、[[インノケンティウス4世 (ローマ教皇)|インノケンティウス4世]]が最初に祝福を与えたとされるこれには他主張もあり[[ティウス3 (マ教皇)|インノケンティウス3世]]、[[アレクサンデル3 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]][[レオ9 (ローマ教皇)|レオ9世]]など始まりだったとの説もある別の説では、1951年にレオ9世が[[フランケン]][[バンベルグ]]女子修道院に恩恵を施しで、祝福されるように黄金のバラを与え、毎年のバラの主日運ばせた、とテオフィル・レイノー<ref>(Theophile Raynaud、1583年11月15日 - 1663年10月31日)神学者。</ref>主張し(''De rosa mediana a pontifice consecrata'', IV, 413)また、[[ベネィクトゥス14(ローマ教皇)|ベネディトゥス14世]]祝福の儀式は14世紀または15世紀の始め頃にはじまったもの宣言しているし、{{仮リンク|カタラヌス|en|Giuseppe Catalani}}<ref>(Catalanus, Giuseppe Catalani) 18世紀の典礼式文の権威。</ref>初期のバラたちには[[ムスク]][[バルサム]]が塗られていたが、祈祷者による聖水を伴う祝福はもっと古くからのもので、[[ユリウス2 (ローマ教皇)|ユウス2世]]が教皇を務めていた時期よりも以前のいつかだろうと考えてい


現在は、教皇が毎年バラを祝福するが、いつも新しい別のばらを用意するわけではなく、古いバラは授与されるまでそのまま使い続けられる。
元来(教皇が[[アヴィニョン捕囚|アヴィニョンに移る]]前)、教皇のいた宮殿のベストメンツの聖具室でバラの崇拝は行われていた。しかし、厳粛なミサやバラの寄贈は[[サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂]]([[インノケンティウス3世]]いわく、エルサレムにある)で行われていた。崇拝は、教皇自身もしくは初代の司祭枢機卿が歌った威厳のあるミサにも継がれていた<!-- これは儀式の順番なので訳がおかしいです。 -->。前者の場合、バラは、高価な金の刺繍の入ったバラ色の絹のヴェールの中にあった。後者の場合、教皇は、ひざまづくとき、入祭唱や祈りのとき、聖体奉挙のとき、"Laudemus in Domino"を歌うときを除き手にバラを持った。 教皇は、手のバラをラテランパレスに列になって返却した<!-- この文章はいろいろおかしいです。 -->。そしてローマの長官はロープで馬を引き連れ、馬から降りるのを手伝った。到着すると、敬意と忠誠の行動に対する報いとして、長官にバラを渡した。1305年以前、バラはローマでは、皇帝が即位した日に皇帝に渡す場合を除き、外国人には渡されなかった。 アビニョンに住んでいた間(1305–1375)、 教皇たちは、ローマ教会やバシリカに行けず、神聖な儀式の多くをとりおこなった。その中には、宮殿内の個人教会堂(カペレ大神官の起源のある)で行ったバラの崇拝も含まれていた<!-- 変なところで文章を切ったのでこの前の二文のつながりがおかしくなっています。訳し直し -->。ローマへの帰途<!-- これは「帰途」ではないです -->で、彼らは([[シクストゥス5世]]を除く)この慣習を続けた。


元々は(アヴィニョン捕囚以前は)、教皇がいた宮殿の(広いホールのような)[[聖具室]]で祝福されていたが、厳粛なミサとバラの寄贈では[[サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂]](この聖堂はインノケンティウス3世に[[新しいエルサレム|天のエルサレム]]とも称された)が使われた。祝福に続いて、厳粛な<!--ミサが行われ: MASS sungなのでミサ曲と解釈した。-->ミサ曲が歌われる。これはどちらも教皇自身、もしくは首席の[[司祭枢機卿]]によって行われる。前者の場合、バラは豪華な金の刺繍の入ったバラ色の絹のヴェールの中に置かれ、後者の場合、跪くときまたは、入祭、回心の祈り、聖体奉挙<ref>拝領前。パンとワインが聖変化したときの祈り。</ref>のときと、『''主を讃えよ''<ref>Cathoric Encyclopediaでは"Laudemus in Domino"としている。</ref>』を歌うとき、教皇の手に抱えられる。手の中のバラと教皇は[[ラテラノ宮殿]]へと祈りながら列を組んで戻り、ローマ長官は手綱を持って教皇の馬を導き、下馬を補助する。到着次第、教皇はこれらの行為の報酬と敬意の証としてバラを長官に渡す。1305年より前、バラは皇帝の戴冠式を除いてローマ外の人物には与えられていなかったが、アヴィニョンに仮の居を定めていた間(1305年 - 1375年)はローマの教会や[[バシリカ|聖堂]]を訪れることは出来なかった為、自らの宮殿にある彼らの教会堂で、バラの祝福を含む多くの宗教的な儀式が行われた(これがアカペラの起源である)。この慣習はローマに帰還した後にも続けられることとなった([[シクストゥス5世 (ローマ教皇)|シクストゥス5世]]は除く)。
バラの崇拝は現在はベストメンツホール<!-- 訳語 -->で行われて 訳語に問題おり、厳粛なミサはローマ教会堂で行われている。バラは灯されたろうそくとともにテーブルに置かれ、<!-- 主語がなくなっておかしくなっています。また、訳し抜けもあり。 -->[[アルバ (衣服)|アルバ]]とバラ色のストールを着せられ、高価な[[ミトラ (司教冠)|ミトラ]]を頭にかぶせられる。そして、定型の唱和の短句と以下の韻文の祈り言葉とともに儀式が始められる。


現在のバラの祝福は、{{仮リンク|教皇の礼拝所|en|Papal household}}<ref>仮リンク英語版では、Papal householdのPapal Chapelを参照のこと。</ref>の聖具室(camera dei parimenti)で厳粛なミサと共に行われる。バラは灯されたろうそくと共にテーブルに置かれ、[[アルバ (衣服)|アルバ]]とバラ色の[[ストラ]]にカッパ、美しく尊い[[ミトラ (司教冠)|ミトラ]]を被った教皇が、定型の唱和の短句と韻文の祈りとともに典礼を始める。
"神よ!あなたの言葉と力で世のすべてのものが造られた。あなたの意志ですべてのものが統べられている。我々はつつましくそなたの威厳に手を合わす<!-- beseech....thatの構文がとれていません。神にthat以下をお願いしています。 -->。そなたはあらゆる信者の楽しみと喜びそのものである。そなたはその慈父のような愛を持って、快くバラを崇め神聖にする。そのバラは匂いも見た目も非常に素晴らしく、我々は今日も心の喜びの証としてバラを持ち運ぶのだ。これは汝によって神格化され、あなたの唯一の息子の好意によってベビロニアン奴隷のヨークから解放された人々が誠実な気持ちを持って自らの幸せを示すためである。あなたのひとり息子は、イスラエルと、我々の天使のような母であるエルサレムの人々にとっての栄光と歓喜である。なぜ、今日、オー・ロードは、教会があなたの名前に大喜びしこのバラを証に自らの喜びを表現するとき、我々にそれを心の底からの喜びでもって贈り今日のみずからの犠牲を受け入れるのか。あなたは罪を許し、信仰を深め、敬愛を強め、愛をもって彼女を守り、彼女に不利になることを全て排除し、彼女の行く先を安全にし繁栄させる。こうすることで、あなたの教会は、よい行いの褒美として、エッサイの根から開花した花の軟膏の香りを遠くへ広めようと、一体になる。そしてその花は、野に咲く神秘の花や谷に咲くユリであり、あらゆる聖人と共に、永久の栄光を手にし、永遠に幸せであり続ける。"<!-- この文章は全体的に翻訳に問題があります。日本語版ウィキペディアでは長い引用文は好かれないので、気をつけて訳し直すか、お祈りの内容の簡単な要約にして削除してもかまいません。削除して15000以下になってしまった場合はRecipientの最初のところを訳してください。 -->
この祈りの中でもバラを信仰の証とし、イザヤ書(11:1)を引用している。


{{Bquote|"O God! by Whose word and power all things have been created, by Whose will all things are directed, ...(中略)... as the fruit of good works, may unite in giving forth the perfume of the ointment of that flower sprung from the root of Jesse and which is the mystical flower of the field and lily of the valleys, and remain happy without end in eternal glory together with all the saints."|||Golden Rose - New Advent|[http://www.newadvent.org/cathen/06629a.htm the Catholic Encyclopedia]}}
祈りが終わると、教皇はお香(主要な助祭枢機卿に手渡される)を香炉に入れ、バルサム、ムスクを焼香し、そしてその後はそれらを主要なバラの中心にある小さなカップに注ぐ。次に、バラを焼香し、聖水とともにばらまく<!-- この文章は何が起こっているのかよくわかりません。 -->。そして教皇付きの者のうちの最年少の聖職者に渡される。その聖職者はそれを、教皇の前を通り教会堂に運ぶ。教会堂では、高価な刺繍をされた絹のかぶりものをかぶった<!--uponとveilが訳せていません -->十字架の足元にある祭壇の上に置かれる。そして主要な牧師がミサ<を歌っている間はそこに置かれたままとなる。マスが終わると、バラは行列で聖具室に運ばれ、位の高い人々に授けられるまで専用の場所に慎重に保管される。


祈りが終わると、教皇は(助祭枢機卿に手渡される)[[香|お香]]を[[振り香炉]]に入れ、[[バルサム]]、次に[[ムスク]]の順で焚く。その後、バルサムと粉末状のムスクを重要なバラの中心(に作られている)の小さなカップに注ぐ。次に、バラを焚いて振り、煙を撒き散らす。これは聖水と共に行われる。その後、バラは部屋付きのもっとも若い聖職者に渡されて、教皇の前から教会堂へと運ばれ、教会堂の十字架の下に置かれた祭壇の、豊かに刺繍されたシルクのベールの上に置かれる。首席司祭枢機卿によるミサ<!-- が行われてい:ここも the Mass sung -->曲が歌われる間はその場所に置かれたままであり、ミサが終わった後、バラは行列により教皇の下から聖具室に運ばれ(それに相応しい)立派な人々に授けられるまで専用の場所で慎重に保管される。
==情報源==
*{{catholic}} [http://www.newadvent.org/cathen/06629a.htm] article "Golden Rose" by PMJ Rock, 1909.


==受領者==
[[File:Gouden Roos.JPG|thumb|スケルベンフーフェルの聖マリア聖堂の黄金のバラ]]

黄金のバラは人物(男女及び夫婦)及び、国(州)や教会に授与された。

16世紀まで、黄金のバラは通常、君主などの貴族の男性に送られていたが、16世紀以降は貴族の女性や、夫人に送られることが一般的になった。
最後の男性への授与は、1759年に[[ヴェネツィアのドージェ]]であった{{仮リンク|フランチェスコ・ロレダン|en|Francesco Loredan}}に送られた。
最後の女性かつ貴族への授与は、1956年の[[シャルロット (ルクセンブルク大公)|ルクセンブルク大公シャルロット]]へ送られたものであった。

黄金のバラが授与された主要な教会では、[[サン・ピエトロ大聖堂]](5輪のバラ)、[[サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂]](4輪のバラ)<ref>いくつかの出典において、2組の4輪のバラが適切な聖堂と、''Sancta Sanctorum''と呼ばれる聖堂に送られたとある。</ref>、[[サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂]](2輪のバラ)などが挙げられる<ref>http://archive.thetablet.co.uk/article/31st-january-1959/10/from-our-notebook</ref>。

* 20世紀、[[ピウス10世 (ローマ教皇)]]、[[ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス15世]]、[[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]、[[ヨハネ・パウロ1世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ1世]]は黄金のバラを授与しなかった。
*[[ピウス11世 (ローマ教皇)|ピウス11世]]は慣習を復活させ、[[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]に受け継がれた。
*[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]の授与回数は、5回。
*[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]の授与回数は、9回。
*[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]の授与回数は、18回。
*[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]教皇は、2013年11月に最初の授与を行った。

パウロ6世より、全ての黄金のバラの授与は教会に対して行われている。また、ベネディクト16世の授与は全てマリア聖堂へのものであった。


{| class="wikitable sortable"
! scope="col" width="100" | 年
! scope="col" width="300" | 受領者<ref>本項目の(特に赤リンクの教会)日本語による表記名は訳者によるもので、必ずしも正確な名称を示しているものではないので注意。</ref>
! scope="col" width="140" | 教皇
! scope="col" width="90" | 受領者の種別
! scope="col" width="100" | 受領者の地域
! scope="col" width="350" class="unsortable" | その他
|- valign="top"
| 1096 || {{仮リンク|フルク4世 (アンジュー伯)|en|Fulk IV, Count of Anjou}} || [[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]] || 男性 || フランス ||<ref>Gaetano Moroni, "Rosa d'Oro", ''Dizionario di erudizione storico-ecclesiastica'' (Venezia: Tipografia Emiliana, 1852), [http://archive.org/stream/dizionariodierud59morouoft#page/116/mode/2up LIX, 116].</ref>
|- valign="top"
| 1148 || [[アルフォンソ7世 (カスティーリャ王)]] ||[[エウゲニウス3世 (ローマ教皇)|エウゲニウス3世]] || 男性 || スペイン ||
|- valign="top"
| 1163 || [[ルイ7世 (フランス王)]] || [[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]] || 男性 || フランス ||
|- valign="top"
| 1182 || [[ウィリアム1世 (スコットランド王)]] || [[ルキウス3世 (ローマ教皇)|ルキウス3世]] || 男性 || スコットランド ||
|- valign="top"
| 1227 || [[オルシーニ家|レイモンド・オルシーニ]] || [[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]] || 男性 || イタリア ||<ref name="moroni125">Moroni, [http://archive.org/stream/dizionariodierud59morouoft#page/124/mode/2up LIX, 125].</ref>
|- valign="top"
| 1244 || サン=ジュスト教会、[[リヨン]] || [[インノケンティウス4世 (ローマ教皇)|インノケンティウス4世]] || 教会 || フランス ||<ref name="moroni125" />
|- valign="top"
| 1304 || サン・ドメーニコ教会、[[ペルージャ]]|| [[ベネディクトゥス11世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス11世]] || 教会 || イタリア ||<ref name="moroni125" />
|- valign="top"
| 1348 || {{仮リンク|ルイ1世 (ナポリ王)|en|Louis I of Naples}} || [[クレメンス6世 (ローマ教皇)|クレメンス6世]] || 男性 || イタリア ||
|- valign="top"
| 1348 || [[ラヨシュ1世]]|| [[クレメンス6世 (ローマ教皇)|クレメンス6世]] || 男性 || ハンガリー ||<ref name="moroni125" />
|- valign="top"
| 1350 || {{仮リンク|ニッコロ・アッチャイオーリ|en|Niccolo Acciaioli}} || [[インノケンティウス6世 (ローマ教皇)|インノケンティウス6世]] || 男性 || イタリア ||<ref name="moroni125" />
|- valign="top"
| 1362-70 || [[ヴァルデマー4世 (デンマーク王)]] || [[ウルバヌス5世 (ローマ教皇)|ウルバヌス5世]] || 男性 || デンマーク ||<ref name="moroni125" />
|- valign="top"
| 1368 || [[ジョヴァンナ1世 (ナポリ女王)]] || [[ウルバヌス5世 (ローマ教皇)|ウルバヌス5世]] || 女性 || イタリア ||<ref name="moroni125" />
|- valign="top"
| 1369 || [[サン・ピエトロ大聖堂]] || [[ウルバヌス5世 (ローマ教皇)|ウルバヌス5世]] || 教会 || イタリア ||<ref name="moroni125" />
|- valign="top"
| 1389 || {{仮リンク|レイモンド・デル・バルゾー・オルシーニ|en|Raimondo Del Balzo Orsini}} || [[ウルバヌス5世 (ローマ教皇)|ウルバヌス5世]] || 男性 || イタリア ||<ref name="moroni125" />
|- valign="top"
| 1391 || {{仮リンク|アルベルト・デステ|en|Alberto d'Este, Marquis of Ferrara}} || [[ボニファティウス9世 (ローマ教皇)|ボニファティウス9世]] || 男性 || イタリア ||<ref name="moroni125" />
|- valign="top"
| 1393 || アストーレ・ダ・バニャカヴァッロ|| [[ボニファティウス9世 (ローマ教皇)|ボニファティウス9世]] || 男性 || イタリア ||<ref name="moroni125" />
|- valign="top"
| 1398 || {{仮リンク|ウゴリーノ3世・トリンチ|en|Ugolino III Trinci}} || [[ボニファティウス9世 (ローマ教皇)|ボニファティウス9世]] || 男性 || イタリア ||<ref name="moroni125" />
|- valign="top"
| 1410 || [[ニッコロ3世・デステ]] || [[アレクサンデル5世 (対立教皇)]] || 男性 || イタリア ||<ref name="moroni126">Moroni, [http://archive.org/stream/dizionariodierud59morouoft#page/126/mode/2up LIX, 126].</ref>
|- valign="top"
| 1411 || [[シャルル6世 (フランス王)]] || [[ヨハネス23世 (対立教皇)]] || 男性 || フランス ||<ref name="moroni126" />
|- valign="top"
| 1413 || {{仮リンク|ルイジ・アリドシ|en|Luigi Alidosi}} || [[ヨハネス23世 (対立教皇)]] || 男性 || イタリア ||<ref name="moroni126" />
|- valign="top"
| 1415 || [[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)]] || [[ヨハネス23世 (対立教皇)]] || 男性 || ドイツ ||<ref name="moroni126" />
|- valign="top"
| 1419 || [[フィレンツェ共和国]] || [[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]] || 国(州) || イタリア ||<ref name="moroni126" />
|- valign="top"
| 1420 || [[グイダントーニオ・ダ・モンテフェルトロ]] || [[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]] || 男性 || イタリア ||<ref name="moroni126" />
|- valign="top"
| 1435 || ジギスムント (神聖ローマ皇帝) || [[エウゲニウス4世 (ローマ教皇)|エウゲニウス4世]] || 男性 || ドイツ ||<ref name="moroni126" />
|- valign="top"
| 1444 || [[ヘンリー6世 (イングランド王)]] || [[エウゲニウス4世 (ローマ教皇)|エウゲニウス4世]] || 男性 || イングランド ||
|- valign="top"
| 1448 || [[カジミェシュ4世 (ポーランド王)]] || [[ニコラウス5世 (ローマ教皇)|ニコラウス5世]] || 男性 || ポーランド ||
|- valign="top"
| 1452 || [[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)]]と[[エレオノーレ・フォン・ポルトゥガル]] || [[ニコラウス5世 (ローマ教皇)|ニコラウス5世]] || 夫妻 || ドイツ || 戴冠式の後に授与。
|- valign="top"
| 1457 || [[シャルル7世 (フランス王)]] || [[カリストゥス3世 (ローマ教皇)|カリストゥス3世]] || 男性 || フランス ||
|- valign="top"
| 1477 || [[ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ]] || [[シクストゥス4世 (ローマ教皇)|シクストゥス4世]] || 男性 || イタリア ||<ref>[http://www.treccani.it/enciclopedia/ludovico-iii-gonzaga-marchese-di-mantova_(Dizionario_Biografico)/ Treccani.it. Ludovico III Gonzaga.]</ref>
|- valign="top"
| 1482 || [[エーバーハルト1世 (ヴュルテンベルク公)]] || [[シクストゥス4世 (ローマ教皇)|シクストゥス4世]] || 男性 || ドイツ ||
|- valign="top"
| 1486 || [[ジェームズ3世 (スコットランド王)]] || [[インノケンティウス8世 (ローマ教皇)|インノケンティウス8世]] || 男性 || スコットランド ||
|- valign="top"
| 1491 || [[ジェームズ4世 (スコットランド王)]] || [[インノケンティウス8世 (ローマ教皇)|インノケンティウス8世]] || 男性 || スコットランド ||
|- valign="top"
| 1493 || [[イサベル1世 (カスティーリャ女王)]] || [[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]] || 女性 || スペイン ||
|- valign="top"
| 1505 || [[アレクサンデル (ポーランド王)]] || [[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]] || 男性 || ポーランド ||
|- valign="top"
| 1506 || [[マヌエル1世 (ポルトガル王)]] || [[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]] || 男性 || ポルトガル ||
|- valign="top"
| 1514 || マヌエル1世 (ポルトガル王) || [[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]] || 男性 || ポルトガル ||
|- valign="top"
| 1518 || [[フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)]] || [[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]] || 男性 || ドイツ ||
|- valign="top"
| 1512? || [[ヘンリー8世 (イングランド王)]] || [[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]] || 男性 || イングランド ||
|- valign="top"
| 1521? || ヘンリー8世 (イングランド王) || [[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]] || 男性 || イングランド ||
|- valign="top"
| 1524 || ヘンリー8世 (イングランド王) || [[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]] || 男性 || イングランド ||
|- valign="top"
| 1537 || [[フェデリーコ2世・ゴンザーガ]] || [[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]] || 男性 || イタリア ||<ref>Moroni, [http://archive.org/stream/dizionariodierud59morouoft#page/130/mode/2up LIX, 130-31].</ref> [[トリエント公会議]]での神父たちへの協力により。
|- valign="top"
| 1543 || [[エルコレ2世・デステ]] || [[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]] || 男性 || イタリア ||<ref name="moroni131">Moroni, [http://archive.org/stream/dizionariodierud59morouoft#page/130/mode/2up LIX, 131].</ref>
|- valign="top"
| 1548 || [[カトリーヌ・ド・メディシス]] || [[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]] || 女性 || フランス ||<ref name="moroni131" />
|- valign="top"
| 1550 || [[ジョアン・マヌエル・デ・ポルトゥガル]] || [[ユリウス3世 (ローマ教皇)|ユリウス3世]] || 男性 || ポルトガル ||<ref name="moroni131" />
|- valign="top"
| 1551 || [[サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂]] || [[ユリウス3世 (ローマ教皇)|ユリウス3世]] || 教会 || イタリア ||<ref name="moroni131" />
|- valign="top"
| 1555 || [[メアリー1世 (イングランド女王)]] || [[パウルス4世 (ローマ教皇)|パウルス4世]] || 女性 || イングランド ||<ref name="moroni131" />
|- valign="top"
| 1557 || マリア・エンリケ・デ・トレド・イ・グスマン || [[パウルス4世 (ローマ教皇)|パウルス4世]] || 女性 || スペイン ||<ref name="moroni131" /> [[フェルナンド・アルバレス・デ・トレド]]の妻
|- valign="top"
| 1560 || [[メアリー (スコットランド女王)]] || [[ピウス4世 (ローマ教皇)|ピウス4世]] || 女性 || スコットランド ||
|- valign="top"
| 1561 || [[アンナ・ヤギエロ]] || [[ピウス4世 (ローマ教皇)|ピウス4世]] || 女性 || Bohemia ||<ref name="moroni131" />
|- valign="top"
| 1564 || {{仮リンク|ルッカ共和国|en|Republic of Lucca}} || [[ピウス4世 (ローマ教皇)|ピウス4世]] || 国(州) || イタリア ||<ref name="moroni131" />
|- valign="top"
| 1572 || [[シャルル9世 (フランス王)]] || [[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]] || 男性 || フランス || [[サン・バルテルミの虐殺]]の勲功により授与
|-
| 1574 ||[[ドン・フアン・デ・アウストリア]]
|[[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]
|男性
|スペイン
|ナポリの聖クレア教会において教皇の侍従より「(教皇の)慈悲と父なる愛のしるしとして(in token of his benevolence and paternal love.)」授与。<ref>{{Cite web|url = https://archive.org/details/storyofdonjohnof00colouoft|title = The Story of Don John of Austria|date = |accessdate =2016-01-12 |website = |publisher = |last = Coloma|first = Luis}}</ref>
|- valign="top"
| 1592 || [[アンリ4世 (フランス王)]] || [[クレメンス8世 (ローマ教皇)|クレメンス8世]] || 男性 || フランス ||
|- valign="top"
| 1598 || [[マルガレーテ・フォン・エスターライヒ (スペイン王妃)]] || [[クレメンス8世 (ローマ教皇)|クレメンス8世]] || 女性 || スペイン || 授与されたその日に[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]と代理結婚をした。
|- valign="top"
| 1607 || [[サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会]] || [[パウルス5世 (ローマ教皇)|パウルス5世]] || 教会 || イタリア ||<ref name="moroni135">Moroni, [http://archive.org/stream/dizionariodierud59morouoft#page/134/mode/2up LIX, 135].</ref>
|- valign="top"
| 1610 || {{仮リンク|サンクタ・サンクトラム聖堂|en|Sancta Sanctorum}} || [[パウルス5世 (ローマ教皇)|パウルス5世]] || 教会 || イタリア ||<ref name="moroni135" />
|- valign="top"
| 1625 || [[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス]] || [[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]] || 女性 || イングランド及びスコットランド ||<ref name="moroni135" /> [[アミアン]]にて授与
|- valign="top"
| 1626/7 || [[フェルディナンド2世・デ・メディチ]] || [[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]] || 男性 || イタリア ||<ref name="moroni135" />
|- valign="top"
| 1628 || [[マリーア・マッダレーナ・ダウストリア]] || [[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]] || 女性 || イタリア ||<ref name="moroni135" />
|- valign="top"
| 1630 || [[マリア・アナ・デ・アウストリア]] || [[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]] || 女性 || ドイツ ||<ref name="moroni135" /> 授与当時はハンガリー王妃。後に神聖ローマ帝国皇后。
|- valign="top"
| 1631 || {{仮リンク|タッデオ・バルベリーニ|en|Taddeo Barberini}} || [[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]] || 男性 || イタリア ||<ref name="moroni135" /> 教皇の甥であった。
|- valign="top"
| 1634 || サン・ピエトロ大聖堂 || [[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]] || 教会 || イタリア ||<ref name="moroni135" />
|- valign="top"
| 1635 || [[マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ (1610-1665)|マリア・アンナ]] || [[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]] || 女性 || ドイツ ||<ref>Moroni, [http://archive.org/stream/dizionariodierud59morouoft#page/134/mode/2up LIX, 135-36].</ref>
|- valign="top"
| 1649 || [[マリアナ・デ・アウストリア]] || [[インノケンティウス10世 (ローマ教皇)|インノケンティウス10世]] || 女性 || スペイン ||<ref name="moroni136">Moroni, [http://archive.org/stream/dizionariodierud59morouoft#page/136/mode/2up LIX, 136].</ref>
|- valign="top"
| 1651? || [[ルドヴィーカ・マリア・ゴンザーガ]] || [[インノケンティウス10世 (ローマ教皇)|インノケンティウス10世]] || 女性 || ポーランド ||<ref name="moroni136" />
|- valign="top"
| 1654 || [[ルクレツィア・バルベリーニ]] || [[インノケンティウス10世 (ローマ教皇)|インノケンティウス10世]] || 女性 || イタリア ||<ref name="moroni136" />
|- valign="top"
| 1658 || [[シエナ大聖堂]] || [[アレクサンデル7世 (ローマ教皇)|アレクサンデル7世]] || 教会 || イタリア ||<ref name="moroni136" /> 教皇の故郷の大聖堂。
|- valign="top"
| 1668 || [[マリー・テレーズ・ドートリッシュ]] || [[アレクサンデル7世 (ローマ教皇)|アレクサンデル7世]] || 女性 || フランス || 教皇は、彼女の幼い息子であったドーフィンの名付け親であった。
|- valign="top"
| 1672 || [[エレオノーレ・マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ|エレオノーレ・マリア・ヨーゼファ]] || [[クレメンス10世 (ローマ教皇)|クレメンス10世]] || 女性 || ポーランド ||
|- valign="top"
| 1684 || [[マリー・カジミール・ド・ラ・グランジュ・ダルキアン|マリー・カジミール]] || [[インノケンティウス11世 (ローマ教皇)|インノケンティウス11世]] || 女性 || ポーランド ||
|- valign="top"
| 1699 || [[アマーリア・ヴィルヘルミーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=カレンベルク|アマーリア・ヴィルヘルミーネ]] || [[インノケンティウス12世 (ローマ教皇)|インノケンティウス12世]] || 女性 || ドイツ ||
|- valign="top"
| 1701 || [[マリア・ルイーザ・ディ・サヴォイア]] || [[クレメンス11世 (ローマ教皇)|クレメンス11世]] || 女性 || スペイン ||
|- valign="top"
| 1726 || [[ヴィオランテ・ベアトリーチェ]] || [[ベネディクトゥス13世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス13世]] || 女性 || イタリア ||<ref>Young, G. F.: ''The Medici: Volume 2'', E. P. Dutton and Company, 1920, p. 488</ref>
|- valign="top"
| 1736 || [[マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1699-1757)|マリア・ヨーゼファ]] || [[クレメンス12世 (ローマ教皇)|クレメンス12世]] || 女性 || ポーランド ||<ref>Rożek, M.: ''The Royal Cathedral at Wawel'', Interpress, 1981, p. 158 and 165</ref>
|- valign="top"
| 1759 || {{仮リンク|フランチェスコ・ロレダン|en|Francesco Loredan}} || [[クレメンス13世 (ローマ教皇)|クレメンス13世]] || 男性 || イタリア ||
|- valign="top"
| 1776 || [[マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1742-1798)|マリア・クリスティーナ]] || [[ピウス6世 (ローマ教皇)|ピウス6世]] || 女性 || オーストリア ||
|- valign="top"
| 1784 || [[マリア・アマーリア・ダズブルゴ]] || [[ピウス6世 (ローマ教皇)|ピウス6世]] || 女性 || イタリア ||
|- valign="top"
| 1790 || [[マリア・カロリーナ・ダズブルゴ]] || [[ピウス6世 (ローマ教皇)|ピウス6世]] || 女性 || イタリア ||
|- valign="top"
| 1819 || [[カロリーネ・アウグステ・フォン・バイエルン|カロリーネ・アウグステ]] || [[レオ12世 (ローマ教皇)|レオ12世]] || 女性 || オーストリア ||
|- valign="top"
| 1825 || [[マリーア・テレーザ・ダウストリア=エステ|マリーア・テレーザ]] || [[レオ12世 (ローマ教皇)|レオ12世]] || 女性 || イタリア ||
|- valign="top"
| 1830 || [[チンゴリ]]の大聖堂 || [[ピウス8世 (ローマ教皇)|ピウス8世]] || 教会 || イタリア ||<ref name="moroni144">Moroni, [http://archive.org/stream/dizionariodierud59morouoft#page/144/mode/2up LIX, 144].</ref> 教皇の故郷の大聖堂。
|- valign="top"
| 1832 || [[マリア・アンナ・フォン・ザヴォイエン]] || [[グレゴリウス16世 (ローマ教皇)|グレゴリウス16世]] || 女性 || オーストリア ||<ref name="moroni144" /> 授与当時はハンガリー王妃。後にオーストリア皇帝の皇后。
|- valign="top"
| 1833 || [[サン・マルコ寺院]] || [[グレゴリウス16世 (ローマ教皇)|グレゴリウス16世]] || 教会 || イタリア ||<ref name="moroni144" />
|- valign="top"
| 1842 || [[マリア2世 (ポルトガル女王)]] || [[グレゴリウス16世 (ローマ教皇)|グレゴリウス16世]] || 女性 || ポルトガル ||
|- valign="top"
| 1849 || [[マリア・ピア・デ・サボイア]] || [[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]] || 女性 || イタリア || 洗礼時に彼女の祖父より授与。のちにポルトガル王妃。
|- valign="top"
| 1856 || [[ウジェニー・ド・モンティジョ]] || [[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]] || 女性 || フランス ||
|- valign="top"
| 1861 || [[マリーア・ソフィア・ディ・バヴィエラ|マリーア・ソフィア]] || [[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]] || 女性 || イタリア ||
|- valign="top"
| 1868 || [[エリーザベト (オーストリア皇后)]] || [[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]] || 女性 || オーストリア ||
|- valign="top"
| 1868 || [[イサベル2世 (スペイン女王)]] || [[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]] || 女性 || スペイン ||
|- valign="top"
| 1870 || {{仮リンク|ポルトゲージのサンタントニオ教会|en|Sant'Antonio dei Portoghesi}} || [[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]] || 教会 || イタリア ||<ref>Lodovico Antonio Muratori, ''Annali d'Italia dal principio dell'era volgare sino all'anno 1750'' (Firenze: Leonardo Marchini, 1827), XXXIII, 33.</ref>
|- valign="top"
| 1877 || {{仮リンク|ルルドの聖母の聖地|en|Sanctuary of Our Lady of Lourdes}} || [[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]] || 聖堂 || フランス ||<ref>[https://archive.org/stream/amonthatlourdes00caragoog/amonthatlourdes00caragoog_djvu.txt]</ref>
|- valign="top"
| 1886 || [[マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1858-1929)|マリア・クリスティーナ]] || [[レオ13世 (ローマ教皇)|レオ13世]] || 女性 || スペイン ||
|- valign="top"
| 1888 || [[イザベル・ド・ブラジル]] || [[レオ13世 (ローマ教皇)|レオ13世]] || 女性 || ブラジル || {{仮リンク|黄金法|en|Lei Aurea}}を参照。ブラジルの奴隷廃止法。
|- valign="top"
| 1892 || [[アメリー・ドルレアン]] || [[レオ13世 (ローマ教皇)|レオ13世]] || 女性 || ポルトガル ||
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| 1893 || [[マリー=アンリエット・ド・アブスブール=ロレーヌ|マリー=アンリエット]] || [[レオ13世 (ローマ教皇)|レオ13世]] || 女性 || ベルギー ||
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| 1923 || [[ヴィクトリア・ユージェニー・オブ・バッテンバーグ]] || [[ピウス11世 (ローマ教皇)|ピウス11世]] || 女性 || スペイン ||
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| 1926 || [[エリザベート・ド・バヴィエール]] || [[ピウス11世 (ローマ教皇)|ピウス11世]] || 女性 || ベルギー ||
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| 1930 || [[エレナ・デル・モンテネグロ]] || [[ピウス11世 (ローマ教皇)|ピウス11世]] || 女性 || イタリア ||<ref>"Pontiff Will Bless Golden Rose Today", ''New York Times'' (March 30, 1930): 25.</ref>
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| 1937 || エレナ・デル・モンテネグロ || [[ピウス11世 (ローマ教皇)|ピウス11世]] || 女性 || イタリア ||<ref>"Pope Blesses Gift for Queen Elena", ''New York Times'' (March 8, 1937): 12.</ref> 結婚40周年を記念して。
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| 1953 || [[セー大聖堂]] || [[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]] || 教会 || India ||<ref name="berthod">Bernard Berthod and Pierre Blanchard, ''Tresors inconnus du Vatican: ceremonial et liturgie'' (Paris: Editions de l'Amateur, 2001), 300.</ref> [[フランシスコ・ザビエル]]の墓碑がある。
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| 1956 || [[シャルロット (ルクセンブルク大公)]] || [[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]] || 女性 || ルクセンブルク ||
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| 1964 || [[降誕教会]] || [[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]] || 教会 || パレスチナ ||<ref>"Paul VI Starts Trip to the Holy Land", ''New York Times'' (January 4, 1964): 1.</ref>
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| 1965 || {{仮リンク|ファティマの聖母の聖地|en|Sanctuary of Our Lady of Fatima}} || [[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]] || 聖堂 || ポルトガル ||<ref>"Pontiff Adjourns Vatican Council and Honors Mary", ''New York Times'' (November 22, 1964): 1.</ref>
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| 1966 || {{仮リンク|グアダルーペの聖母聖堂|en|Basilica of Our Lady of Guadalupe}} || [[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]] || 教会 || メキシコ ||<ref name="berthod" />
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| 1967 || {{仮リンク|アパレシーダの聖母聖堂(旧聖堂)|en|Basilica of the National Shrine of Our Lady of Aparecida}} || [[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]] || 教会 || ブラジル ||<ref name="berthod" />
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| 1979 || [[ヤスナ・グラの聖母]]([[ヤスナ・グラ修道院]]) || [[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]] || 聖堂 || ポーランド ||<ref>[http://www.fotopro.com.pl/jasna_gora_en.html]</ref>
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| 1979 || [[クノックの聖母|クノック聖堂]] || [[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]] || 聖堂 || アイルランド ||<ref>[http://www.mayonews.ie/index.php?option=com_content&view=article&id=15727:knock-shrine&catid=111:arts-and-culture&Itemid=100200]</ref>
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| 1982 || {{仮リンク|ルハンの聖母聖堂|en|Basilica of Our Lady of Lujan}} || [[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]] || 聖堂 || アルゼンチン ||<ref>[http://www.gcatholic.org/churches/southamerica/0501.htm]</ref><ref>[http://www.ssvmusa.org/about/lujan/papalhonors.shtm Papal honors]</ref><ref>[http://www.gcatholic.org/churches/southamerica/0501.htm Basilica Nacional Nuestra Senora de Lujan]</ref><ref name="Rosa de Oro y los papas Spanish">[http://rosamystica.jimdo.com/la-rosa-de-oro-y-los-papas/ Rosa de Oro y los papas (Spanish)]</ref>
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| 1987 || [[カルヴァリア・ゼブジトフスカ]] || [[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]] || 聖堂 || ポーランド ||<ref>[[:pl:Sanktuarium pasyjno-maryjne w Kalwarii Zebrzydowskiej|(Polish)]]</ref>
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| 1988 || 宣教の聖母の至聖所 || [[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]] || 聖堂 || ペルー、リマ ||<ref>[http://www.arzobispadodelima.org/notas/2009/mayo/140509a.html]</ref>
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| 2000 || [[サントゥナリオ・デッラ・サンタ・カーザ|ロレートの聖なる家]] || [[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]] || 聖堂 || イタリア ||<ref>http://visnews-en.blogspot.nl/2000/12/cardinal-places-golden-rose-in-marian.html</ref>
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| 2004 || ルルドの聖母の聖地 || [[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]] || 聖堂 || フランス ||<ref>[http://www.asianews.it/index.php?l=en&art=1288 A Papal rose in tribute to the "Queen" of joy and sorrow]"</ref> 二度目。
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| 2004 || {{仮リンク|聖ジョゼフ聖堂|en|Saint Joseph's Oratory}} || [[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]] || 教会 || カナダ、モントリオール ||
<ref>"[http://www.catholicnewsagency.com/news/pope_honors_largest_shrine_to_st._joseph_with_golden_rose/ Pope honors largest shrine to St. Joseph with Golden Rose]"</ref>
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| 2004 || {{仮リンク|サメイロの聖母の聖地|en|Sameiro Sanctuary}} || [[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]] || 聖堂 || ポルトガル、ブラガ ||
<ref>[http://www.fides.org/en/news/3649-EUROPE_PORTUGAL_150th_anniversary_of_the_dogma_Immaculate_Conception_Shrine_of_Sameiro_receives_the_Golden_Rose_donated_by_Supreme_Pontiff_from_the_Basilica_of_Our_Lady_of_the_Rosary_in_Fatima_Portugal#.U8wYkZR1HbU]</ref>
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| 2006 || ヤスナ・グラの聖母(ヤスナ・グラ修道院) || [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]] || 聖堂 || ポーランド ||<ref> http://robertaconnor.blogspot.nl/2011/05/fatima-golden-rose-benedict-and-escriva.html</ref>二度目。
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| 2007 || {{仮リンク|アパレシーダの聖母聖堂(新聖堂)|en|Basilica of the National Shrine of Our Lady of Aparecida}} || [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]] || 聖堂 || ブラジル ||<ref>http://www.marana-tha.net/wp/?p=442</ref>
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| 2007 || {{仮リンク|マリアツェル聖堂|en|Mariazell Basilica}} || [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]] || 聖堂 || オーストリア ||<ref>[http://www.kathpress.co.at/site/papstbesuch/article/302.html (in German)]</ref><ref>{{cite web| last =| first =| authorlink =| coauthors =| title =Papst brachte "Goldene Rose" nach Mariazell| work =| language = German| publisher =| date =2007-09-11| url =http://www.papstbesuch.at/content/site/de/home/aktuelles/article/1127.html| accessdate = 2007-09-13}}</ref>
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| 2008 || {{仮リンク|アルテッティングの聖母巡礼聖堂|en|Shrine of Our Lady of Altotting}} || [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]] || 聖堂 || ドイツ、アルテッティング ||<ref>http://www.catholicculture.org/news/features/index.cfm?recnum=57728</ref>
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| 2008 || {{仮リンク|無原罪の御宿りの聖母教会|en|Basilica of the National Shrine of the Immaculate Conception}} || [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]] || 聖堂 || アメリカ、ワシントン D.C. ||<ref>http://www.nationalshrine.com/atf/cf/%257BB0534716-4524-407D-A065-B68C4BFCB4BE%257D/Facts%2520Figures%2520%2520Features%2520of%2520the%2520Basilica.pdf</ref>
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| 2008 || {{仮リンク|ノストラ=シニョーラ・デッラ・ミゼリコルディアの聖地|en|Sanctuary of Nostra Signora della Misericordia}}|| [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]] || 聖堂 || イタリア、サヴォーナ ||<ref name="popesPapacy">http://popes-and-papacy.com/wordpress/the-golden-rose-more-information-directly-from-the-vatican/</ref>
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| 2008 || {{仮リンク|ノストラ=シニョーラ・デッラ・ガルディアの巡礼聖堂|en|Shrine of Nostra Signora della Guardia}} || [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]] || 聖堂 || イタリア、ジェノヴァ ||<ref name="popesPapacy"/>
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| 2008 || {{仮リンク|ボナリアの聖母巡礼聖堂|en|Shrine of Our Lady of Bonaria}} || [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]] || 聖堂 || イタリア、カリャリ ||<ref name="popesPapacy"/>
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| 2008 || {{仮リンク|ポンペイのロザリオの聖母の巡礼聖堂|en|Shrine of the Virgin of the Rosary of Pompei}} || [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]] || 聖堂 || イタリア、ポンペイ ||<ref>[http://www.vatican.va/holy_father/benedict_xvi/travels/2008/documents/trav_ben-xvi_pompei-program_20081019_en.html]</ref>
<ref>[http://www.vatican.va/holy_father/benedict_xvi/travels/2008/index_pompei_en.htm Pastoral Visit to the Pontifical Shrine of Pompeii]</ref>
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| 2009 || [[十字架の聖母の巡礼聖堂]] || [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]] || 聖堂 || イタリア、アクイラ || 地震の後<ref>http://www.vatican.va/holy_father/benedict_xvi/speeches/2009/april/documents/hf_ben-xvi_spe_20090428_sisma-laquila_sp.html</ref>
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| 2009 || [[聖母マリア教会 (ジブラルタル)|エウローパの聖母マリア教会]] || [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]] || 聖堂 || ジブラルタル ||<ref>http://www.ourladyofeurope.net</ref><ref>It was conferred by Cardinal [[Jose Saraiva Martins]], Prefect Emeritus of the Sacred Congregation for the Causes of Saints, Pope Benedict XVI's special envoy [http://www.chronicle.gi/headlines_details.php?id=15989] at the celebrations of the closure of the Jubilee to mark the 700th Anniversary of the veneration of Our Lady of Europe [http://www.chronicle.gi/headlines_details.php?id=15990].</ref>
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| 2009 || {{仮リンク|カベサの聖母聖堂|en|Virgen de la Cabeza}} || [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]] || 聖堂 || スペイン、ハエン ||<ref name="popesPapacy"/>
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| 2010 || {{仮リンク|ヌエストラ・セニョーラ・デル・ヴァレ大聖堂|en|Cathedral Basilica}} || [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]] || 教会 || アルゼンチン ||<ref name="Rosa de Oro y los papas Spanish"/><ref>[http://www.gcatholic.org/churches/southamerica/0586.htm Basilica Nacional Nuestra Senora del Valle]</ref>
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| 2010 || {{仮リンク|タ・ピーヌ聖堂|en|Ta' Pinu}} || [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]] || 聖堂 || マルタ共和国 ||<ref>http://www.vatican.va/holy_father/benedict_xvi/angelus/2010/documents/hf_ben-xvi_reg_20100418_floriana_en.html</ref>
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| 2010 || ファティマの聖母の聖地 || [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]] || 聖堂 || ポルトガル || 二度目。<ref>http://www.zenit.org/en/articles/fatima-shrine-receives-golden-rose</ref>
<ref>[http://www.zenit.org/article-29242?l=english ZENIT - Fatima Shrine receives Golden Rose]</ref>
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| 2010 || {{仮リンク|ヴァレーの聖母の聖地|en|Sanctuary}} || [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]] || 聖堂 || アルゼンチン、カタマルカ ||<ref>http://www.zenit.org/en/articles/pope-sends-golden-rose-to-our-lady-in-argentina</ref>
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| 2010 || {{仮リンク|ソコロの聖母|es|Virgen del Socorro}} || [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]] || 聖堂 || ベネズエラ、バレンシア ||<ref>http://m.authorstream.com/presentation/sandamichaela-2128223-golden-rose/</ref>
|- valign="top"
| 2011 || {{仮リンク|スケルペンフーフェルの聖母聖堂|en|Basilica of Our Lady of Scherpenheuvel}} || [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]] || 聖堂 || ベルギー ||
<ref>{{cite news|title=Pauselijke en Internationale Erkenning voor Scherpenheuvel|accessdate=15 May 2011|date=15 May 2011|agency=Kerknet|url=http://www.kerknet.be/actua/nieuws_detail.php?nieuwsID=99764|language=Dutch}}</ref>
|- valign="top"
| 2012 || {{仮リンク|サンチュアリオ・ナシオナル・デ・ヌエストラ・デ・ラ・カリダ|en|Basílica Santuario Nacional de Nuestra Señora de la Caridad del Cobre}} || [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]] || 教会 || キューバ、コブレ ||<ref>http://www.catholicnewsagency.com/news/pope-to-place-golden-rose-before-patroness-of-cuba/</ref><ref>{{cite news|title=Pope gives Golden Rose to sanctuary of the Virgen de la Caridad de Cobre|accessdate=27 March 2012|date=27 March 2012|agency=News.va|url=http://www.news.va/en/news/pope-gives-golden-rose-to-sanctuary-of-the-virgen-}}</ref>
|- valign="top"
| 2013 || グアダルーペの聖母聖堂 || [[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]] || 聖堂 || メキシコ||
<ref>{{cite news|title=Pope Francis sends golden rose to Our Lady of Guadalupe|accessdate=24 November 2013|date=22 November 2013|agency=CNA|url=http://www.catholicnewsagency.com/news/pope-francis-sends-golden-rose-to-our-lady-of-guadalupe/}}</ref> 二度目。
|}

==出典==
*{{catholic}} [http://www.newadvent.org/cathen/06629a.htm] article "Golden Rose" by PMJ Rock, 1909.
{{Wikisource|雅歌(口語訳)}}
{{Wikisource|イザヤ書(口語訳)}}
{{reflist}}
{{reflist}}


==追加リンク==
==外部リンク==
* [http://www.newadvent.org/cathen/06629a.htm ''Catholic Encyclopedia'' article "Golden Rose"]
* [http://www.newadvent.org/cathen/06629a.htm ''Catholic Encyclopedia'' article "Golden Rose"]

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[[Category:カトリック]]
[[Category:カトリック]]

2016年6月5日 (日) 09:48時点における版

ジュゼッペ及びピエトロ・パオロ・スパーニャによる黄金のバラ。ローマで1818-19年頃に作成された。現在はウィーンホーフブルク宮殿にある。

黄金のバラとは装飾品であり、カトリック教会教皇が伝統的に祝福するものである。黄金のバラは時折、敬意や愛情の証として贈られる。受領者には教会や聖地、王族や軍隊、政府も含まれてきた。

重要性と象徴性

シエナのミヌッチオの黄金のバラ。ヨハネス22世からヌーシャテル伯のルドルフ3世に与えられたもの。

黄金のバラは四旬節の第4日曜日(「バラの主日」(en)としてもよく知られる)に祝福される。バラの主日には祭服の色が、悔悟の紫から、希望と喜びを象徴するバラ色(ローズピンク)に代えられる。四旬節のほとんどの期間を通じて、カトリック教徒は「祈り」「断食」「懺悔」そして、悪意による罪とそれがもたらす負の影響について黙想する。これは「バラの主日」はゴルゴタの丘におけるキリストの死を振り返る時節であり、その先にある(キリストの復活の)喜びと栄光の復活を迎える為である。 美しい黄金のバラはキリストの栄光の復活と威光の象徴とされる。(聖書中、救世主は次のように称えられている。「わたしはシャロンのばら、谷のゆりです。[1]」)

バラの香りについて、レオ13世は次のよう記している。「キリストに誠実に付き従うものたちによって広がる、主の甘い香りを表す (Pontificis Maximi Acta, Vol. VI, 104)」。また(そのバラの)茨と花びらの赤き色合いは、イエスの血にまみれた受難を示しているとした。

多くの教皇は黄金のバラを授ける際にその神秘的な意義について言及してきた。インノケンティウス3世は「レターレ[3]の日曜日(バラの主日)、この日によって、憎しみの後の愛、悲嘆の後の歓喜、空腹の後の満腹へと分け隔てられる。そう、黄金のバラはその色、香り、味わい、愛、喜びと満ち足りた状態によってそれを示すものだ」 とし、イザヤ書の第11章1節「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び[4]」におけるその花と比較した。

現代のバラまでの歴史と発展

作品

シクストゥス4世(在位 1471年-1484年)の時代よりも前は、黄金のバラは単純な構成をしており、純金で作られた単一の花でわずかに赤く染められたものだった。その後、この装飾品は神秘性を保ちながらも飾り付けられることとなり、金は染められずに、ルビーや貴重な宝石がバラの中心部や花弁に置かれるようになった。

シクストゥス4世は、単一のバラであったものを、茨の枝に多くの(10かそれ以上の)バラと葉がついたものに置き換えた。そのうちもっとも大きいバラは、周りを取り囲むもっと小さなバラのついた枝の頂上からはねたように飛び出したものであった。 主要となる大きなバラの中心は穴の開いていて、覆いのついた小さなティーカップのようになっており、その中にムスクバルサムがバラを祝福にするために教皇により注がれる。 この装飾品全体は純金製である。この「シクストゥス風」のデザインはその装飾や大きさ、重さ、価値を多様に変化させながら維持されている。 当初は高さが7.5センチ強ほどで小さく、教皇がサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂からラテラノ宮殿までの行進の際、右手で大衆に祝福を与えるとき、左手で持ち運ぶことが容易であった。のちに、特に花瓶とその台座も装飾品の一部となったときは、強健な聖職者がそれらの装飾品を運ぶ必要があり、教皇の十字架英語版に先んじて行進で運ばれた。 ヨーゼフ1世の妻であるアマーリア・ヴィルヘルミーネインノケンティウス11世から贈られたバラは9キロほどあり、高さが約45センチあるものであった。そのバラは花束の形をしており、たくさん曲がりくねりながら一緒に茎の頂点まで到達する3つのねじれた枝が、大きなバラの花と葉の集まりを支えていた。

花瓶とその台座

黄金のバラを支える花瓶とその台座は様々な素材、重さ、形をしている。初期のころは金でできていたが、のちにしっかりとした銀メッキと金で作られるようになった。台座は三角柱、四角柱、八角柱のどれかの形で、様々な装飾品やレリーフで豪勢に装飾された。通例の署名に加え、作成者である教皇と祝福と授与者の紋章が台座に彫刻される。

装飾の価値

バチカン図書館にある黄金のバラ

バラの価値はそのときどきの教皇の気前のよさや、その時代の経済状況によって異なる。イエズス会士であったバルダサーリ神父によると(De Rosa Mediana, p.190)、1650年ごろに与えられたバラは、おおよそ16,956ドル[5]と言われる。アレクサンデル7世によって贈られた二つのバラはおおよそのところ、それぞれ27,129ドル[6]と40,693ドル[7]の価値があった。クレメンス9世フランス王妃に贈ったバラはおおよそ40,693ドルで、3.6キロ(8ポンド)の重さの金で作られていた。このバラを作った職人の技術はとびぬけて優れており、その職人は10,173ドル[8]を報酬として得た。計47,476ドル[9]の費用をかけてインノケンティウス9世は、3.8キロ(8.5ポンド)ほどの金を使ったたくさんのサファイアで飾られたバラを作った。19世紀には67,822ドル[10]以上の費用がかかるバラは少なくなかった。[11]

起源

バラを与えるという習慣は、古代にカトリックの統治の印である金の鍵が聖ペトロの告解によりもたらされた例に倣ったものであり、この慣習はグレゴリウス2世あるいはグレゴリウス3世に依ってはじめられたとされる。 この黄金のバラと金の鍵の関連についてはある類推が存在する。二つはともに有名なカトリック教徒としての教皇により祝福され授けられた純金を用いて作られていること。また、バラにはムスクバルサムが含まれ、鍵は聖ペテロの司教座(教皇の祭壇)に収められていることから、どちらも聖遺物容器(聖骨箱)を連想させることである。

黄金のバラの習慣ができた正確な日時は不明であり、シャルルマーニュの時代より前とも、12世紀終わりに起源をもつとも言われているが、レオ9世(在位:1049年 - 1054年)が黄金のバラは古代からの習慣であると述べているので、1050年よりは前に起源を持つと確実視されている。

(今も行われている)伝統的な慣習は教皇がアヴィニョンに移された頃に始まったもので、教皇の宮廷英語版において、もっとも相応しい君主・諸侯に与えられた。この慣習は教皇権がローマに戻った後も続けられ、厳粛な儀式において教皇からバラを受け取った貴族は、教皇の住む宮殿から居住地まで枢機卿団に同伴されるものだった。17世紀の初頭からは、黄金のバラは王妃、王族の女性、傑出した貴族にのみ贈られるようになり、皇帝や諸王(君主)、その他王族の男性には祝福された剣と帽子英語版がより適した贈り物として贈られるようになった。しかしながら、相応しいカトリックの皇帝や君主、あるいは有力な王族の男性がバラの主日にローマにいた場合、バラも一緒に受け取るものであった。

ローマの外に住む人に黄金のバラを運んで授ける任務は、教皇によってレターレと呼ばれる枢機卿の使節、教皇庁使節英語版教皇庁公使英語版教皇特使英語版に与えられた。1895年には、「黄金のバラの使者」や「黄金のバラの保持者」と呼ばれる王室のメンバーに与えられる新しい役割(世襲ではない)が制度化され、教皇公邸管理部英語版の階級にあたる、外套と短剣に携わる秘密侍従に割り当てられたが、いまはもう存在しない。

バラの祝福

ベネディクト16世からアメリカの無原罪の御宿りバシリカ(en)に贈られた黄金のバラ

最古のバラは祝福を与えられていなかった。それよりもむしろ、祝福は儀式をより厳粛なものにし受取人の大きな威厳を引きだすために導入された。ペトラ枢機卿の記録 (Comment. in Constit. Apostolicas, III, 2, col. 1)によると、インノケンティウス4世が最初に祝福を与えたとされる。これには他の主張もあり、インノケンティウス3世アレクサンデル3世レオ9世などが始まりだったとの説もある。別の説では、1951年にレオ9世がフランケンバンベルグの女子修道院に恩恵を施したもので、祝福されるように黄金のバラを与え、毎年のバラの主日に運ばせた、とテオフィル・レイノー[12]は主張した(De rosa mediana a pontifice consecrata, IV, 413)。また、ベネディクトゥス14世は祝福の儀式は14世紀または15世紀の始め頃にはじまったものと宣言しているし、カタラヌス英語版[13]は初期のバラたちにはムスクバルサムが塗られていたが、祈祷者による香や聖水を伴う祝福はもっと古くからのもので、ユリウス2世が教皇を務めていた時期よりも以前のいつかだろうと考えていた。

現在は、教皇が毎年バラを祝福するが、いつも新しい別のばらを用意するわけではなく、古いバラは授与されるまでそのまま使い続けられる。

元々は(アヴィニョン捕囚以前は)、教皇がいた宮殿の(広いホールのような)聖具室で祝福されていたが、厳粛なミサとバラの寄贈ではサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂(この聖堂はインノケンティウス3世に天のエルサレムとも称された)が使われた。祝福に続いて、厳粛なミサ曲が歌われる。これはどちらも教皇自身、もしくは首席の司祭枢機卿によって行われる。前者の場合、バラは豪華な金の刺繍の入ったバラ色の絹のヴェールの中に置かれ、後者の場合、跪くときまたは、入祭、回心の祈り、聖体奉挙[14]のときと、『主を讃えよ[15]』を歌うとき、教皇の手に抱えられる。手の中のバラと教皇はラテラノ宮殿へと祈りながら列を組んで戻り、ローマ長官は手綱を持って教皇の馬を導き、下馬を補助する。到着次第、教皇はこれらの行為の報酬と敬意の証としてバラを長官に渡す。1305年より前、バラは皇帝の戴冠式を除いてローマ外の人物には与えられていなかったが、アヴィニョンに仮の居を定めていた間(1305年 - 1375年)はローマの教会や聖堂を訪れることは出来なかった為、自らの宮殿にある彼らの教会堂で、バラの祝福を含む多くの宗教的な儀式が行われた(これがアカペラの起源である)。この慣習はローマに帰還した後にも続けられることとなった(シクストゥス5世は除く)。

現在のバラの祝福は、教皇の礼拝所英語版[16]の聖具室(camera dei parimenti)で厳粛なミサと共に行われる。バラは灯されたろうそくと共にテーブルに置かれ、アルバとバラ色のストラにカッパ、美しく尊いミトラを被った教皇が、定型の唱和の短句と韻文の祈りとともに典礼を始める。 この祈りの中でもバラを信仰の証とし、イザヤ書(11:1)を引用している。

"O God! by Whose word and power all things have been created, by Whose will all things are directed, ...(中略)... as the fruit of good works, may unite in giving forth the perfume of the ointment of that flower sprung from the root of Jesse and which is the mystical flower of the field and lily of the valleys, and remain happy without end in eternal glory together with all the saints."

—Golden Rose - New Advent,the Catholic Encyclopedia

祈りが終わると、教皇は(助祭枢機卿に手渡される)お香振り香炉に入れ、バルサム、次にムスクの順で焚く。その後、バルサムと粉末状のムスクを重要なバラの中心(に作られている)の小さなカップに注ぐ。次に、バラを焚いて振り、煙を撒き散らす。これは聖水と共に行われる。その後、バラは部屋付きのもっとも若い聖職者に渡されて、教皇の前から教会堂へと運ばれ、教会堂の十字架の下に置かれた祭壇の、豊かに刺繍されたシルクのベールの上に置かれる。首席司祭枢機卿によるミサ曲が歌われる間はその場所に置かれたままであり、ミサが終わった後、バラは行列により教皇の下から聖具室に運ばれ(それに相応しい)立派な人々に授けられるまで専用の場所で慎重に保管される。

受領者

スケルベンフーフェルの聖マリア聖堂の黄金のバラ

黄金のバラは人物(男女及び夫婦)及び、国(州)や教会に授与された。

16世紀まで、黄金のバラは通常、君主などの貴族の男性に送られていたが、16世紀以降は貴族の女性や、夫人に送られることが一般的になった。 最後の男性への授与は、1759年にヴェネツィアのドージェであったフランチェスコ・ロレダン英語版に送られた。 最後の女性かつ貴族への授与は、1956年のルクセンブルク大公シャルロットへ送られたものであった。

黄金のバラが授与された主要な教会では、サン・ピエトロ大聖堂(5輪のバラ)、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂(4輪のバラ)[17]サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(2輪のバラ)などが挙げられる[18]

パウロ6世より、全ての黄金のバラの授与は教会に対して行われている。また、ベネディクト16世の授与は全てマリア聖堂へのものであった。


受領者[19] 教皇 受領者の種別 受領者の地域 その他
1096 フルク4世 (アンジュー伯)英語版 ウルバヌス2世 男性 フランス [20]
1148 アルフォンソ7世 (カスティーリャ王) エウゲニウス3世 男性 スペイン
1163 ルイ7世 (フランス王) アレクサンデル3世 男性 フランス
1182 ウィリアム1世 (スコットランド王) ルキウス3世 男性 スコットランド
1227 レイモンド・オルシーニ グレゴリウス9世 男性 イタリア [21]
1244 サン=ジュスト教会、リヨン インノケンティウス4世 教会 フランス [21]
1304 サン・ドメーニコ教会、ペルージャ ベネディクトゥス11世 教会 イタリア [21]
1348 ルイ1世 (ナポリ王)英語版 クレメンス6世 男性 イタリア
1348 ラヨシュ1世 クレメンス6世 男性 ハンガリー [21]
1350 ニッコロ・アッチャイオーリ英語版 インノケンティウス6世 男性 イタリア [21]
1362-70 ヴァルデマー4世 (デンマーク王) ウルバヌス5世 男性 デンマーク [21]
1368 ジョヴァンナ1世 (ナポリ女王) ウルバヌス5世 女性 イタリア [21]
1369 サン・ピエトロ大聖堂 ウルバヌス5世 教会 イタリア [21]
1389 レイモンド・デル・バルゾー・オルシーニ英語版 ウルバヌス5世 男性 イタリア [21]
1391 アルベルト・デステ英語版 ボニファティウス9世 男性 イタリア [21]
1393 アストーレ・ダ・バニャカヴァッロ ボニファティウス9世 男性 イタリア [21]
1398 ウゴリーノ3世・トリンチ英語版 ボニファティウス9世 男性 イタリア [21]
1410 ニッコロ3世・デステ アレクサンデル5世 (対立教皇) 男性 イタリア [22]
1411 シャルル6世 (フランス王) ヨハネス23世 (対立教皇) 男性 フランス [22]
1413 ルイジ・アリドシ英語版 ヨハネス23世 (対立教皇) 男性 イタリア [22]
1415 ジギスムント (神聖ローマ皇帝) ヨハネス23世 (対立教皇) 男性 ドイツ [22]
1419 フィレンツェ共和国 マルティヌス5世 国(州) イタリア [22]
1420 グイダントーニオ・ダ・モンテフェルトロ マルティヌス5世 男性 イタリア [22]
1435 ジギスムント (神聖ローマ皇帝) エウゲニウス4世 男性 ドイツ [22]
1444 ヘンリー6世 (イングランド王) エウゲニウス4世 男性 イングランド
1448 カジミェシュ4世 (ポーランド王) ニコラウス5世 男性 ポーランド
1452 フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)エレオノーレ・フォン・ポルトゥガル ニコラウス5世 夫妻 ドイツ 戴冠式の後に授与。
1457 シャルル7世 (フランス王) カリストゥス3世 男性 フランス
1477 ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ シクストゥス4世 男性 イタリア [23]
1482 エーバーハルト1世 (ヴュルテンベルク公) シクストゥス4世 男性 ドイツ
1486 ジェームズ3世 (スコットランド王) インノケンティウス8世 男性 スコットランド
1491 ジェームズ4世 (スコットランド王) インノケンティウス8世 男性 スコットランド
1493 イサベル1世 (カスティーリャ女王) アレクサンデル6世 女性 スペイン
1505 アレクサンデル (ポーランド王) ユリウス2世 男性 ポーランド
1506 マヌエル1世 (ポルトガル王) ユリウス2世 男性 ポルトガル
1514 マヌエル1世 (ポルトガル王) レオ10世 男性 ポルトガル
1518 フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯) レオ10世 男性 ドイツ
1512? ヘンリー8世 (イングランド王) ユリウス2世 男性 イングランド
1521? ヘンリー8世 (イングランド王) レオ10世 男性 イングランド
1524 ヘンリー8世 (イングランド王) クレメンス7世 男性 イングランド
1537 フェデリーコ2世・ゴンザーガ パウルス3世 男性 イタリア [24] トリエント公会議での神父たちへの協力により。
1543 エルコレ2世・デステ パウルス3世 男性 イタリア [25]
1548 カトリーヌ・ド・メディシス パウルス3世 女性 フランス [25]
1550 ジョアン・マヌエル・デ・ポルトゥガル ユリウス3世 男性 ポルトガル [25]
1551 サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂 ユリウス3世 教会 イタリア [25]
1555 メアリー1世 (イングランド女王) パウルス4世 女性 イングランド [25]
1557 マリア・エンリケ・デ・トレド・イ・グスマン パウルス4世 女性 スペイン [25] フェルナンド・アルバレス・デ・トレドの妻
1560 メアリー (スコットランド女王) ピウス4世 女性 スコットランド
1561 アンナ・ヤギエロ ピウス4世 女性 Bohemia [25]
1564 ルッカ共和国 ピウス4世 国(州) イタリア [25]
1572 シャルル9世 (フランス王) グレゴリウス13世 男性 フランス サン・バルテルミの虐殺の勲功により授与
1574 ドン・フアン・デ・アウストリア グレゴリウス13世 男性 スペイン ナポリの聖クレア教会において教皇の侍従より「(教皇の)慈悲と父なる愛のしるしとして(in token of his benevolence and paternal love.)」授与。[26]
1592 アンリ4世 (フランス王) クレメンス8世 男性 フランス
1598 マルガレーテ・フォン・エスターライヒ (スペイン王妃) クレメンス8世 女性 スペイン 授与されたその日にフェリペ3世と代理結婚をした。
1607 サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会 パウルス5世 教会 イタリア [27]
1610 サンクタ・サンクトラム聖堂英語版 パウルス5世 教会 イタリア [27]
1625 ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス ウルバヌス8世 女性 イングランド及びスコットランド [27] アミアンにて授与
1626/7 フェルディナンド2世・デ・メディチ ウルバヌス8世 男性 イタリア [27]
1628 マリーア・マッダレーナ・ダウストリア ウルバヌス8世 女性 イタリア [27]
1630 マリア・アナ・デ・アウストリア ウルバヌス8世 女性 ドイツ [27] 授与当時はハンガリー王妃。後に神聖ローマ帝国皇后。
1631 タッデオ・バルベリーニ英語版 ウルバヌス8世 男性 イタリア [27] 教皇の甥であった。
1634 サン・ピエトロ大聖堂 ウルバヌス8世 教会 イタリア [27]
1635 マリア・アンナ ウルバヌス8世 女性 ドイツ [28]
1649 マリアナ・デ・アウストリア インノケンティウス10世 女性 スペイン [29]
1651? ルドヴィーカ・マリア・ゴンザーガ インノケンティウス10世 女性 ポーランド [29]
1654 ルクレツィア・バルベリーニ インノケンティウス10世 女性 イタリア [29]
1658 シエナ大聖堂 アレクサンデル7世 教会 イタリア [29] 教皇の故郷の大聖堂。
1668 マリー・テレーズ・ドートリッシュ アレクサンデル7世 女性 フランス 教皇は、彼女の幼い息子であったドーフィンの名付け親であった。
1672 エレオノーレ・マリア・ヨーゼファ クレメンス10世 女性 ポーランド
1684 マリー・カジミール インノケンティウス11世 女性 ポーランド
1699 アマーリア・ヴィルヘルミーネ インノケンティウス12世 女性 ドイツ
1701 マリア・ルイーザ・ディ・サヴォイア クレメンス11世 女性 スペイン
1726 ヴィオランテ・ベアトリーチェ ベネディクトゥス13世 女性 イタリア [30]
1736 マリア・ヨーゼファ クレメンス12世 女性 ポーランド [31]
1759 フランチェスコ・ロレダン英語版 クレメンス13世 男性 イタリア
1776 マリア・クリスティーナ ピウス6世 女性 オーストリア
1784 マリア・アマーリア・ダズブルゴ ピウス6世 女性 イタリア
1790 マリア・カロリーナ・ダズブルゴ ピウス6世 女性 イタリア
1819 カロリーネ・アウグステ レオ12世 女性 オーストリア
1825 マリーア・テレーザ レオ12世 女性 イタリア
1830 チンゴリの大聖堂 ピウス8世 教会 イタリア [32] 教皇の故郷の大聖堂。
1832 マリア・アンナ・フォン・ザヴォイエン グレゴリウス16世 女性 オーストリア [32] 授与当時はハンガリー王妃。後にオーストリア皇帝の皇后。
1833 サン・マルコ寺院 グレゴリウス16世 教会 イタリア [32]
1842 マリア2世 (ポルトガル女王) グレゴリウス16世 女性 ポルトガル
1849 マリア・ピア・デ・サボイア ピウス9世 女性 イタリア 洗礼時に彼女の祖父より授与。のちにポルトガル王妃。
1856 ウジェニー・ド・モンティジョ ピウス9世 女性 フランス
1861 マリーア・ソフィア ピウス9世 女性 イタリア
1868 エリーザベト (オーストリア皇后) ピウス9世 女性 オーストリア
1868 イサベル2世 (スペイン女王) ピウス9世 女性 スペイン
1870 ポルトゲージのサンタントニオ教会英語版 ピウス9世 教会 イタリア [33]
1877 ルルドの聖母の聖地英語版 ピウス9世 聖堂 フランス [34]
1886 マリア・クリスティーナ レオ13世 女性 スペイン
1888 イザベル・ド・ブラジル レオ13世 女性 ブラジル 黄金法英語版を参照。ブラジルの奴隷廃止法。
1892 アメリー・ドルレアン レオ13世 女性 ポルトガル
1893 マリー=アンリエット レオ13世 女性 ベルギー
1923 ヴィクトリア・ユージェニー・オブ・バッテンバーグ ピウス11世 女性 スペイン
1926 エリザベート・ド・バヴィエール ピウス11世 女性 ベルギー
1930 エレナ・デル・モンテネグロ ピウス11世 女性 イタリア [35]
1937 エレナ・デル・モンテネグロ ピウス11世 女性 イタリア [36] 結婚40周年を記念して。
1953 セー大聖堂 ピウス12世 教会 India [37] フランシスコ・ザビエルの墓碑がある。
1956 シャルロット (ルクセンブルク大公) ピウス12世 女性 ルクセンブルク
1964 降誕教会 パウロ6世 教会 パレスチナ [38]
1965 ファティマの聖母の聖地英語版 パウロ6世 聖堂 ポルトガル [39]
1966 グアダルーペの聖母聖堂英語版 パウロ6世 教会 メキシコ [37]
1967 アパレシーダの聖母聖堂(旧聖堂)英語版 パウロ6世 教会 ブラジル [37]
1979 ヤスナ・グラの聖母ヤスナ・グラ修道院 ヨハネ・パウロ2世 聖堂 ポーランド [40]
1979 クノック聖堂 ヨハネ・パウロ2世 聖堂 アイルランド [41]
1982 ルハンの聖母聖堂英語版 ヨハネ・パウロ2世 聖堂 アルゼンチン [42][43][44][45]
1987 カルヴァリア・ゼブジトフスカ ヨハネ・パウロ2世 聖堂 ポーランド [46]
1988 宣教の聖母の至聖所 ヨハネ・パウロ2世 聖堂 ペルー、リマ [47]
2000 ロレートの聖なる家 ヨハネ・パウロ2世 聖堂 イタリア [48]
2004 ルルドの聖母の聖地 ヨハネ・パウロ2世 聖堂 フランス [49] 二度目。
2004 聖ジョゼフ聖堂英語版 ヨハネ・パウロ2世 教会 カナダ、モントリオール

[50]

2004 サメイロの聖母の聖地英語版 ヨハネ・パウロ2世 聖堂 ポルトガル、ブラガ

[51]

2006 ヤスナ・グラの聖母(ヤスナ・グラ修道院) ベネディクト16世 聖堂 ポーランド [52]二度目。
2007 アパレシーダの聖母聖堂(新聖堂)英語版 ベネディクト16世 聖堂 ブラジル [53]
2007 マリアツェル聖堂英語版 ベネディクト16世 聖堂 オーストリア [54][55]
2008 アルテッティングの聖母巡礼聖堂英語版 ベネディクト16世 聖堂 ドイツ、アルテッティング [56]
2008 無原罪の御宿りの聖母教会英語版 ベネディクト16世 聖堂 アメリカ、ワシントン D.C. [57]
2008 ノストラ=シニョーラ・デッラ・ミゼリコルディアの聖地英語版 ベネディクト16世 聖堂 イタリア、サヴォーナ [58]
2008 ノストラ=シニョーラ・デッラ・ガルディアの巡礼聖堂英語版 ベネディクト16世 聖堂 イタリア、ジェノヴァ [58]
2008 ボナリアの聖母巡礼聖堂英語版 ベネディクト16世 聖堂 イタリア、カリャリ [58]
2008 ポンペイのロザリオの聖母の巡礼聖堂英語版 ベネディクト16世 聖堂 イタリア、ポンペイ [59]

[60]

2009 十字架の聖母の巡礼聖堂 ベネディクト16世 聖堂 イタリア、アクイラ 地震の後[61]
2009 エウローパの聖母マリア教会 ベネディクト16世 聖堂 ジブラルタル [62][63]
2009 カベサの聖母聖堂英語版 ベネディクト16世 聖堂 スペイン、ハエン [58]
2010 ヌエストラ・セニョーラ・デル・ヴァレ大聖堂英語版 ベネディクト16世 教会 アルゼンチン [45][64]
2010 タ・ピーヌ聖堂英語版 ベネディクト16世 聖堂 マルタ共和国 [65]
2010 ファティマの聖母の聖地 ベネディクト16世 聖堂 ポルトガル 二度目。[66]

[67]

2010 ヴァレーの聖母の聖地英語版 ベネディクト16世 聖堂 アルゼンチン、カタマルカ [68]
2010 ソコロの聖母スペイン語版 ベネディクト16世 聖堂 ベネズエラ、バレンシア [69]
2011 スケルペンフーフェルの聖母聖堂英語版 ベネディクト16世 聖堂 ベルギー

[70]

2012 サンチュアリオ・ナシオナル・デ・ヌエストラ・デ・ラ・カリダ英語版 ベネディクト16世 教会 キューバ、コブレ [71][72]
2013 グアダルーペの聖母聖堂 フランシスコ 聖堂 メキシコ

[73] 二度目。

出典

  •  この記事にはパブリックドメインである次の百科事典本文を含む: Herbermann, Charles, ed. (1913). Catholic Encyclopedia. New York: Robert Appleton Company. {{cite encyclopedia}}: |title=は必須です。 (説明) [10] article "Golden Rose" by PMJ Rock, 1909.
  1. ^ 雅歌 2:1
  2. ^ Laudate | キリスト教マメ知識 典礼の色
  3. ^ (Latere) レタレとも。歓喜の意。混同しやすいが「喜びの主日」は待降節の第3主日[2]
  4. ^ イザヤ 11:1
  5. ^ 本項の底本であるCatholic Encyclopedia発行当時(1909年)の500ドル
  6. ^ 本項の底本であるCatholic Encyclopedia発行当時(1909年)の800ドル
  7. ^ 本項の底本であるCatholic Encyclopedia発行当時(1909年)の1200ドル
  8. ^ 本項の底本であるCatholic Encyclopedia発行当時(1909年)の300ドル
  9. ^ 本項の底本であるCatholic Encyclopedia発行当時(1909年)の1400ドル
  10. ^ 本項の底本であるCatholic Encyclopedia発行当時(1909年)の2000ドル
  11. ^ Catholic Encyclopedia, article "Golden Rose"
  12. ^ (Theophile Raynaud、1583年11月15日 - 1663年10月31日)神学者。
  13. ^ (Catalanus, Giuseppe Catalani) 18世紀の典礼式文の権威。
  14. ^ 拝領前。パンとワインが聖変化したときの祈り。
  15. ^ Cathoric Encyclopediaでは"Laudemus in Domino"としている。
  16. ^ 仮リンク英語版では、Papal householdのPapal Chapelを参照のこと。
  17. ^ いくつかの出典において、2組の4輪のバラが適切な聖堂と、Sancta Sanctorumと呼ばれる聖堂に送られたとある。
  18. ^ http://archive.thetablet.co.uk/article/31st-january-1959/10/from-our-notebook
  19. ^ 本項目の(特に赤リンクの教会)日本語による表記名は訳者によるもので、必ずしも正確な名称を示しているものではないので注意。
  20. ^ Gaetano Moroni, "Rosa d'Oro", Dizionario di erudizione storico-ecclesiastica (Venezia: Tipografia Emiliana, 1852), LIX, 116.
  21. ^ a b c d e f g h i j k l Moroni, LIX, 125.
  22. ^ a b c d e f g Moroni, LIX, 126.
  23. ^ Treccani.it. Ludovico III Gonzaga.
  24. ^ Moroni, LIX, 130-31.
  25. ^ a b c d e f g h Moroni, LIX, 131.
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  28. ^ Moroni, LIX, 135-36.
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  33. ^ Lodovico Antonio Muratori, Annali d'Italia dal principio dell'era volgare sino all'anno 1750 (Firenze: Leonardo Marchini, 1827), XXXIII, 33.
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  38. ^ "Paul VI Starts Trip to the Holy Land", New York Times (January 4, 1964): 1.
  39. ^ "Pontiff Adjourns Vatican Council and Honors Mary", New York Times (November 22, 1964): 1.
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外部リンク