伊藤重次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊藤重次
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文19年(1550年
死没 慶長17年7月18日1612年8月14日
別名 亦一郎、新五郎、三右衛門
戒名 善鑑
主君 武田勝頼徳川家康
氏族 藤原北家秀郷流伊藤氏
父母 父:伊藤重定、母:板垣信方の娘
兄弟 重久重次
折井次昌の娘
重昌、伝五郎、藤次郎、重真重仲、伊藤源三郎室、入戸野門昌室、女子2名
テンプレートを表示

伊藤 重次(いとう しげつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将

生涯[編集]

祖父の代から甲斐武田氏に仕える。兄重久長篠の戦いで戦死したために家督を継ぐ。田中城防衛線や膳城攻撃で武功を立てた。天正10年(1582年)武田氏が滅ぶと徳川家康の傘下に入り、同年の天正壬午の乱でも北条氏直の調略を断って家康に味方した。天正12年(1584年小牧・長久手の戦いに参陣。天正13年(1585年)第一次上田合戦からは大久保忠世の配下として参戦した。天正18年(1590年小田原征伐に参戦。その後の徳川氏の関東移封に従って新たに武蔵男衾郡鉢形に移る。慶長5年(1600年)第二次上田合戦にも従った。

出典[編集]