大塚山古墳 (壱岐市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大塚山古墳

墳丘(中央に横穴式石室開口部)
所在地 長崎県壱岐市芦辺町深江栄触字清水504-3[1]
位置 北緯33度46分12.17秒 東経129度45分1.19秒 / 北緯33.7700472度 東経129.7503306度 / 33.7700472; 129.7503306座標: 北緯33度46分12.17秒 東経129度45分1.19秒 / 北緯33.7700472度 東経129.7503306度 / 33.7700472; 129.7503306
形状 円墳
規模 直径14m
高さ2m
埋葬施設 竪穴系横穴式石室
出土品 鉄器・須恵器
築造時期 5世紀後半
史跡 長崎県指定史跡「大塚山古墳」
地図
大塚山古墳の位置(長崎県内)
大塚山古墳
大塚山古墳
テンプレートを表示

大塚山古墳(おおつかやまこふん)は、長崎県壱岐市芦辺町深江栄触にある古墳。形状は円墳。長崎県指定史跡に指定されている。

概要[編集]

壱岐島南西部、島内最大(長崎県内2番目)の広さの深江田原平野(ふかえたばるへいや)北端の標高74メートルの山頂に築造された古墳である[2][1]。これまでに江戸時代1855年安政2年)に地元和尚による調査が実施されているほか、考古学調査が19821986年昭和57・61年)に実施されている[1]

墳形は円形で、直径14メートル・高さ2メートルを測る[1]。埋葬施設は、墳丘を竪穴に掘り込んで構築する竪穴系の横穴式石室で、竪穴式石室から横穴式石室への過渡的様相を示す[1]。石室は南西方に開口し、前幅1.18メートル・奥幅1.28メートル・奥行3.96メートルを測る[1]。壁は玄武岩の板石の小口積みで、壁面にはベンガラが塗布される[1]。出土品としては、1855年(安政2年)調査時の須恵器ハソウのほか、1986年(昭和61年)調査時の鉄器2点が知られるのみである[1]

この大塚山古墳は、古墳時代中期の5世紀後半頃の築造と推定される[1]。島内の古墳約260基のうちでは最古に位置づけられるとともに、横穴式石室の導入・展開を考えるうえで重要視される古墳になる[1][3]原の辻遺跡一支国王都)近くに築造されるため弥生時代勢力の流れを汲む首長墓とされるが、壱岐島では原の辻遺跡の解体(古墳時代初め)から大塚山古墳築造までの約100年間は居住痕跡が見つからない「空白の1世紀」になるため、本古墳築造の背景は必ずしも詳らかでない[4]。その後、6世紀後半には壱岐島で古墳築造の全盛期を迎えるが、その頃には築造の中心地は壱岐島中央部に移動する(壱岐古墳群[4]

古墳域は1987年昭和62年)に長崎県指定史跡に指定されている[5]

遺跡歴[編集]

  • 安政2年(1855年)2月27日、安国寺の白華(びゃっけ)和尚による調査(「大塚山」も白華和尚が命名)[1]
  • 1982年昭和57年)
    • 白華和尚発見の須恵器ハソウが所有者により公開[1]
    • 8月、石室実測調査(壱岐国研究会)[1][3]
  • 1986年(昭和61年)、墳丘・石室に関する調査および保存整備工事(旧芦辺町教育委員会)[1][3]
  • 1987年(昭和62年)3月3日、長崎県指定史跡に指定[5]

文化財[編集]

長崎県指定文化財[編集]

  • 史跡
    • 大塚山古墳 - 1987年(昭和62年)3月3日指定[5]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 史跡説明板。
  2. ^ 大塚山古墳(平凡社) & 2001年.
  3. ^ a b c 大塚山古墳(続古墳) & 2002年.
  4. ^ a b 『旅する長崎学11 海の道1壱岐 邪馬台国への道 海上の王国 旅人の交差点』 長崎文献社、2009年、pp. 16-17, 22-25。
  5. ^ a b c 大塚山古墳(長崎県ホームページ「長崎県の文化財」)。

参考文献[編集]

(記事執筆に使用した文献)

  • 史跡説明板(長崎県教育委員会・壱岐市教育委員会、2007年設置)
  • 「大塚山古墳」『日本歴史地名大系 43 長崎県の地名』平凡社、2001年。ISBN 4582490433 
  • 田川肇「大塚山古墳」『日本古墳大辞典東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607 
  • 田川肇「大塚山古墳」『続 日本古墳大辞典東京堂出版、2002年。ISBN 4490105991 

関連文献[編集]

(記事執筆に使用していない関連文献)

外部リンク[編集]

  • 大塚山古墳 - 長崎県ホームページ「長崎県の文化財」
  • 大塚山古墳 - 長崎県教育庁学芸文化課「長崎県の遺跡大辞典」