松平定昭

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松平定昭
松平定昭
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 弘化2年11月9日1845年12月7日
死没 明治5年7月19日1872年8月22日
改名 錬五郎(幼名)、松平定昭、久松定昭
諡号 忠敏公
神号 真都栄命
墓所 東京都港区三田済海寺
官位 従四位下式部大輔侍従左近衛権少将伊予守→剥奪 維新後従五位
幕府 江戸幕府
主君 徳川慶喜明治天皇
伊予松山藩
氏族 藤堂氏久松松平家定勝流→久松氏
父母 父:藤堂高猷、母:橋本氏
養父:松平勝成、養母:松平勝善の養女・清亮院殿
兄弟 藤堂高潔黒田長知脇坂安斐定昭
松平勝成の養女・
久松定謨
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松平 定昭(まつだいら さだあき)は、江戸時代後期の大名老中伊予国松山藩の第14代藩主、知藩事。定勝系久松松平家宗家15代・17代。官位従四位下(のち従五位)・式部大輔侍従左近衛権少将伊予守明治維新後は久松 定昭(ひさまつ さだあき)を名乗った。

生涯[編集]

松平定昭肖像写真

弘化2年(1845年)11月9日、伊勢国津藩主・藤堂高猷の五男として誕生した。母は側室で橋本氏の娘。幼名は錬五郎。

安政6年(1859年)、伊予松山藩13代藩主・松平勝成の養嗣子となる。養母は正室清亮院殿(11代藩主松平定通の娘)。万延元年(1860年)、従四位下・式部大輔に叙任され、溜間詰格に任ぜられる。さらに翌年(1861年)、侍従に昇進し溜間詰に任ぜられる。慶応2年(1866年)、左近衛権少将に昇進。その間、養父勝成に従い京都の警護や長州征討に加わる。同3年(1867年)9月、家督を譲られ伊予守に転任。その直後、溜間詰上席および老中(史上最年少の22歳)に就任。御家門である定昭の老中就任は松平定信以来のことであった。1カ月後、大政奉還。願いにより溜間詰上席および老中を辞職。同4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いでは前将軍徳川慶喜に従ったとして朝敵の汚名を受け、蟄居謹慎を命ぜられる。次いですべての官位(従四位下左近衛権少将兼伊予守)を剥奪され、養父勝成が再勤する。

翌年、蟄居を免ぜられる。同年参内し明治天皇に拝謁、従五位に叙される。明治4年(1871年)、再び勝成より家督を譲られ、知藩事に任ぜられるも、半年後の廃藩置県により知藩事を免ぜられる。翌年(1872年)7月19日、嗣なく東京久松邸にて卒去。享年28。

神式を以て東京三田済海寺に土葬され、忠敏公と追諡される。遺髪が松山祝谷常信寺へ送られ埋葬される。遺言に基づき、旧旗本松平勝実の三男久松定謨が養嗣子として迎えられた。

年表[編集]

※日付=旧暦

  • 1860年万延元年)12月16日、従四位下・式部大輔に叙任。
  • 1861年文久元年)
    • 11月1日、溜間詰となる。
    • 11月11日、侍従に遷任。式部大輔兼任如元。
  • 1866年慶応2年)1月15日、左近衛権少将に転任。式部大輔兼任如元。
  • 1867年(慶応3年)
    • 9月20日、家督を相続し、松山藩主となる。
    • 9月23日、老中上座に就任。式部大輔を伊予守に兼任替え。溜間上席となる。
    • 10月19日、老中御役御免。溜間詰となる。
  • 1868年(慶応4年)
    • 1月10日、従四位下・左近衛権少将兼伊予守の官位を剥奪。
    • 5月22日、蟄居となる。
    • 7月6日、家名を久松とする。
  • 1869年明治2年)
    • 3月6日、蟄居を免ず。
    • 11月12日、従五位に叙位。
  • 1871年(明治4年)
    • 1月4日、再び家督相続し、松山藩知事となる。
    • 7月4日、廃藩により、知事を免ず。

※(参考資料)大日本近世史料「柳営補任」、児玉幸多監修「内閣文庫蔵・諸侯年表」東京堂出版、「予陽叢書」(第6巻)予陽叢書刊行会 1936年発行

系譜[編集]

関連項目[編集]

当主
先代
久松勝成
伊予松山藩久松家
久松定昭
1871年 - 1872年
次代
久松定謨
先代
松平勝成
伊予松山藩久松松平家
松平定昭
1867年 - 1868年
次代
松平勝成