東京宝塚劇場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東京宝塚劇場
Tokyo Takarazuka Theater
戦前の初代東京宝塚劇場こと宝塚会館
地図
情報
通称 宝塚会館
完成 1933年12月31日
開館 1934年1月1日
閉館 1997年12月29日
客席数 2778
延床面積 15817m²
用途 宝塚歌劇団の公演
運営 東宝株式会社
所在地 101
東京都千代田区有楽町一丁目1番3号
宝塚会館1階
位置 北緯35度40分22.8秒 東経139度45分33秒 / 北緯35.673000度 東経139.75917度 / 35.673000; 139.75917 (東京宝塚劇場)座標: 北緯35度40分22.8秒 東経139度45分33秒 / 北緯35.673000度 東経139.75917度 / 35.673000; 139.75917 (東京宝塚劇場)
最寄駅 該当項目を参照
外部リンク 宝塚歌劇団公式サイト 劇場案内
テンプレートを表示

東京宝塚劇場(とうきょうたからづかげきじょう、英語: Tokyo Takarazuka Theater)は、1934年1月1日から1997年12月29日まで東京都千代田区有楽町1-12にあった宝塚歌劇団の東京での本拠地の劇場、および東宝が保有していた映画館。別名:宝塚会館。跡地には2代目劇場を保有する東京宝塚ビルが建っている。

沿革[編集]

  • 1932年12月1日:地鎮祭挙行
  • 1933年12月29日:修祓式挙行
  • 1934年1月1日:宝塚少女歌劇の常打ち劇場として開場。
  • 1934年9月21日:5階に東宝小劇場が開場[1]
  • 1940年4月16日:4階に東宝四階劇場が開場。こけら落としは『土と兵隊』を上映[2]
  • 1944年3月1日:決戦非常措置要綱により閉鎖[3]し、陸軍本部経理部に貸借[4]
  • 1945年9月18日:終戦により劇場として復帰、「東宝芸能大会」を開催[5]
  • 1945年12月24日:GHQにより接収[5]
  • 1946年2月24日:「アーニー・パイル劇場」(第8軍専用)となり[5]、日本人は観客としての出入りが禁止される。
  • 1953年6月24日:東宝、アーニーパイル返還訴訟に勝訴するも強制使用続く[6]
  • 1955年1月27日:接収解除[7]
  • 1955年4月15日:旧名に復帰して開場。再開上演の初演は『虞美人[6]
  • 1955年7月14日:東宝四階劇場が日比谷スカラ座となる。こけら落としは『戦略空軍命令』(アンソニー・マン監督)[8]
  • 1955年8月1日:5階の旧東宝小劇場が東宝演芸場として新装開場[9]
  • 1958年2月1日:舞台効果の火が延焼して火災が発生。劇団員3人が死亡、16人が重軽傷[10]。東宝演芸場とスカラ座は類焼を免れる[11]
  • 1958年:3月29日修復再開場[11]
  • 1997年12月29日:建て替えの為一旦閉場。
  • 1998年1月18日:残った日比谷スカラ座も閉場。最後の上映作は『エアフォース・ワン』(ウォルフガング・ペーターゼン監督)[8]
  • 2000年12月16日:跡地に東京宝塚ビルがオープン。

概要[編集]

阪急電鉄小林一三が設立した株式会社東京宝塚劇場のもと、竹中工務店が設計、施工の主宰で、鷲尾九郎が平面を、石川純一郎が立面を、そして青柳貞世が構造を担当し、1年5か月という突貫工事で1933年12月31日に完成、翌日の1934年1月1日に開場、同時に宝塚少女歌劇団も東京に進出した。

東宝直営で、商業演劇、歌手芝居、ミュージカル等東宝演劇の中心地として機能しており、本来メインとなる宝塚歌劇は年数回(改築前数年間は年7か月)の公演だった。1956・57・59・61-72年はNHK紅白歌合戦の会場としても使用、またマリオ・デル=モナコティート・ゴッビの共演で知られる第2回NHKイタリア歌劇団での『オテロ』の公演もここで行われた。なお、五階の小劇場は演芸の「東宝名人会」が常時催され、戦後東宝演芸場と改称、選りすぐられた寄席芸人を一堂に揃えた、東京演芸界の殿堂であったが1980年8月に閉鎖した。代わりに日劇から日劇ミュージックホールが移転した。

「アーニー・パイル劇場」(1946年から1949年、土門拳撮影)

第二次世界大戦中は、日本劇場とともに風船爆弾工場として使用された。一方で、戦争が終わるとGHQにより接収された(1945年12月24日-1955年1月27日)。異文化の国に駐留する兵士達の慰問を目的としたアーニー・パイル劇場 (Ernie Pyle Theatre) と改称、日本人は観客としての立入が禁止された。アーニー・パイルという名前は1945年4月18日、沖縄県伊江島の戦闘で殉職した従軍記者に因んだものである。

1955年に接収が解除され、星組公演『虞美人』で公演が再開された[12]。ところが1958年2月1日東宝ミュージカル『アイヌ恋歌』の公演中に演出用の裸火が燃え移り出火、場内設備を焼失するとともに死者3名・負傷者25名を出す事態となった[11][13]

開場以来使われてきた旧劇場は、関東大震災の復興期におけるモダニズム建築の傑作のひとつに数えられていたが、老朽化のため1997年12月29日に一旦閉場し、翌1998年1月から建替え工事を開始、2001年1月1日に新築オープンした(改築中、宝塚歌劇は2か月間帝国劇場で公演を行い、その後TAKARAZUKA1000days劇場開場と共に東京通年公演を開始した)。こけら落とし公演は真琴つばさ(当時)率いる月組の『いますみれ花咲く/愛のソナタ』。

各館の特徴[編集]

宝塚会館
劇場 階数 座席数 設備
東京宝塚劇場 1階 2778→2476
日比谷スカラ座 4階 1341(1955年[8])→1197(1997年) ドルビーデジタル
東宝演芸場 5階 510→420

東京宝塚劇場[編集]

1934年1月1日に開場した本劇場のメインホール。舞台の開口部は宝塚大劇場より5尺高く作られており、当時日本最大規模のプロセニアム・アーチを持っていた[14]。客席は三層構造で、中二階に常設の投光室・調光室を設けていた。レビュー劇場として誕生した背景もあり、近代的な舞台照明を設けた初の劇場だった[15]

1934年1月1日のこけら落とし公演は月組の舞踊「宝三番叟」、オペレット「巴里のアパッシュ」、レビュウ『花詩集[16]

舞台設備[編集]

プロセニアムアーチ 高さ30尺、幅78尺、舞台奥行51尺、盆直径48尺、吊物50本、迫り3個[17]

日比谷スカラ座[編集]

日比谷スカラ座
Hibiya Scaraza
「アーニー・パイル劇場」時代の日比谷スカラ座こと宝塚会館
情報
通称 スカラ座
正式名称 日比谷スカラ座
旧名称 東宝四階劇場
完成 1933年12月31日
開館 1955年7月14日
開館公演土と兵隊
(東宝四階劇場)
戦略空軍命令
(日比谷スカラ座、アンソニー・マン監督)
閉館 1998年1月18日
最終公演エアフォース・ワン
ウォルフガング・ペーターゼン監督)
収容人員 1,197人
設備 ドルビーデジタルDTS
用途 映画上映
運営 東宝株式会社
所在地 101-0006
東京都千代田区有楽町一丁目1番3号
宝塚会館4階
テンプレートを表示

日比谷スカラ座(ひびやすからざ)は、東京都千代田区有楽町一丁目の東京宝塚劇場の4階に位置した映画館。

概要[編集]

1940年4月16日、東京宝塚劇場を擁する宝塚会館4階に開業した「東宝四階劇場」(とうほうよんかいげきじょう)がその前身。戦後、宝塚劇場は「アーニー・パイル・シアター」となり、日本人は観客としての出入りが禁止された。

接収解除から半年を経た1955年7月14日、その東宝四階劇場を発展させる形で「日比谷スカラ座」がオープン。名称は有名なイタリア・ミラノの歌劇場であるスカラ座に由来する。1,197席を誇る大劇場として数々のヒット作や大作を上映したものの、1998年1月18日に立て直しのため一旦閉鎖(閉鎖期間中は向かいに隣接していた日比谷映画(現:シアタークリエ)がチェーンマスターの代替機能を請け負っていた)、

代表作[編集]

公開年 タイトル
1955年 戦略空軍命令」(オープニング作品)
1956年
1957年 パリの恋人
1958年 愛情の花咲く樹
1959年 可愛い悪魔
1960年 5つの銅貨」、「太陽がいっぱい
1961年 ティファニーで朝食を
1962年
1963年 ローマの休日」(リバイバル)
1964年 パリで一緒に
1965年
1966年 おしゃれ泥棒
1967年 風と共に去りぬ」(リバイバル、70ミリ版)
1968年 白い恋人たち」、「チキ・チキ・バン・バン
1969年 真夜中のカーボーイ
1970年 ひまわり」、「サウンド・オブ・ミュージック」(リバイバル)
1971年 おしゃれ泥棒」(リバイバル)
1972年 風と共に去りぬ」(リバイバル、70ミリ版)
1973年 ラストタンゴ・イン・パリ
1974年 追憶」、「マイ・フェア・レディ」(リバイバル)、「個人生活」、
1975年 雨のアムステルダム」、「マイ・ウェイ
1976年 トミー」、「青い鳥」、「ロビンとマリアン」、「がんばれ!ベアーズ
1977年 ローマの休日」(リバイバル)、「マイ・フェア・レディ」(リバイバル)、「ジョーイ
1978年 愛と喝采の日々」、「サタデー・ナイト・フィーバー」、「燃える秋
1979年
1980年 フェーム」、「がんばれ!! タブチくん!! 第2弾 激闘ペナントレース
1981年 オーメン/最後の闘争」、「エンドレス・ラブ
1982年 ポルターガイスト」、「トロン」、「アニー
1983年 激動の昭和史 東京裁判」、「アウトサイダー」、「積木くずし」、「ウォー・ゲーム
1984年 愛情物語」&「メイン・テーマ」、「ロマンシング・ストーン 秘宝の谷」、「スパルタンX」、「刑事物語3 潮騒の詩
1985年 愛・旅立ち」、「2010年」、「ペンギンズ・メモリー 幸福物語」、「スペースバンパイア」、「サンタクロース
1986年 子猫物語」、「トップガン[注釈 1]
1987年 首都消失」、「クロコダイル・ダンディー」、「阿羅漢」、「キャバレー」&「彼のオートバイ、彼女の島」、「ラッコ物語」、「バトルランナー
1988年 帝都物語」、「ウォール街」、「敦煌[注釈 2]、「優駿 ORACION」、「グッドモーニング、ベトナム!」、「孔雀王
1989年 レインマン」、「ハーレム・ナイト
1990年 7月4日に生まれて」、「トレマーズ」、「レッド・オクトーバーを追え!」、「プリティ・ウーマン
1991年 ハバナ」、「ハード・ウェイ」、「ホーム・アローン」、「曼荼羅 若き日の弘法大師・空海
1992年 シティ・スリッカーズ」、「ミンボーの女」、「遥かなる大地へ」、「ブーメラン」、「プリティ・リーグ」、「永遠に美しく…
1993年 天使にラブ・ソングを…」、「スーパーマリオ 魔界帝国の女神」、「アラジン[注釈 3]、「めぐり逢えたら
1994年 シンドラーのリスト」、「フリントストーン/モダン石器時代」、「ビバリーヒルズ・コップ3」、「薔薇の素顔」、「ジュニア
1995年 ストリートファイター」(ハリウッド実写版)、「ブレイブハート」、「ショーガール
1996年 セブン」、「カジノ」、「ミッション:インポッシブル」、「デイライト
1997年 身代金」、「スピード2」、「コン・エアー」、「エアフォース・ワン」(最終上映作品)[注釈 4]

シリーズ作品

東宝演芸場[編集]

東宝演芸場(とうほうえんげいじょう)は、東京都千代田区有楽町一丁目の東京宝塚劇場の5階に位置した演芸場。東宝直営。定紋は東宝マーク。東宝名人会を公演した。

概要[編集]

1934年9月21日、東宝小劇場として開場。ダンスホールとして計画したが監督官庁が新設を認めず、椅子席の寄席(定員442人)として開設された[1]。当初は常設興行場として認められなかったため、月1回の東宝名人会の他は落語研究会(1935年〜)や講談研究会(1937年〜)等が月1回開催されていた。1938年9月、常設興行場として認可され、以降は通常の演芸場となる。これに先立ち、同年7月より一時閉鎖して改装。防音設備や冷暖房などの空調、ならびに楽屋環境を充実させ、座席も510席から420席に減らして高級演芸場が誕生した。以降、昼の部に漫才などの色物を主体とした「東宝笑和会」が設けられ、「名人会」は夜の部の興行になった。「笑和会」は「名人会」の予備軍と位置付けられ、芸人養成の場となっていた。

1938年9月23日に常設演芸場として改造落成。

1944年4月、接収のため閉鎖。1955年8月1日に漸く東宝演芸場の名で復活した。高座は横に広く、かつ両袖から前にせり出していたため、落語が演じにくいと言った演者もいた。座席は最終的には337となっていた。日本テレビの中継も入り、オフィスの多い丸の内で本格的な一流の演芸が堪能できる場として、既に都内で多くの寄席が廃業している中唯一気を吐いていたが、1970年代半ばより興行成績が下降し、1980年日劇ミュージックホールを収容するために閉鎖された。

主な出演者[編集]

東宝専属

その他、所属協会に関係なく落語家漫才師などが出演。東宝が独自に顔付けを行っていた。
(例:5代目古今亭志ん生8代目桂文楽6代目三遊亭圓生といった落語協会の人気落語家に、日本芸術協会会長の6代目春風亭柳橋が顔を揃えるなど。また、B&Bは東京進出して程なく売れ出した時に出演している)

交通アクセス[編集]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 東宝五十年史 1982, p. 156.
  2. ^ 東宝三十年史 1963, p. 307-308.
  3. ^ 東宝三十年史 1963, p. 266.
  4. ^ 東宝三十年史 1963, p. 167.
  5. ^ a b c 東宝三十年史 1963, p. 175.
  6. ^ a b 東宝三十年史 1963, p. 330.
  7. ^ 東宝三十年史 1963, p. 332.
  8. ^ a b c 前野裕一「有楽町・日比谷映画街の映画館たち『日比谷スカラ座』→『スカラ座1・2』→『TOHOシネマズスカラ座』」『キネマ旬報』第1771号、キネマ旬報社、2018年2月15日、240-241頁、2018年4月28日閲覧 
  9. ^ 東宝三十年史 1963, p. 333.
  10. ^ 日外アソシエーツ編集部編 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年、126,127頁。ISBN 9784816922749 
  11. ^ a b c 東宝五十年史 1982, p. 217.
  12. ^ 宝塚歌劇の歩み(1951年-1961年)”. 宝塚歌劇団. 2015年8月29日閲覧。
  13. ^ 泣き笑い消防記者二十八年 1981出演は越路吹雪ほか
  14. ^ 永井 2001, p. 104.
  15. ^ 永井 2001, p. 102.
  16. ^ 宝塚歌劇四十年史 1954, p. 94.
  17. ^ 東宝十年史 1944, p. 34.

注釈[編集]

  1. ^ 日劇プラザと同時上映
  2. ^ 日劇東宝と同時上映
  3. ^ 日比谷みゆき座と同時上映
  4. ^ 日本劇場からのムーブオーバー

出典[編集]

  • 『東宝十年史』東京宝塚劇場、1944年。NDLJP:1125544 
  • 東宝三十年史編纂委員会 編『東宝三十年史』東宝、1963年。NDLJP:2500160 
  • 『東宝五十年史』東宝、1982年。NDLJP:11955456 
  • 『宝塚歌劇四十年史』宝塚歌劇団出版部、1954年。NDLJP:2478913 
  • 開真 著『泣き笑い消防記者二十八年』毎日新聞社、1981年、61-68頁。NDLJP:11975849/34 
  • 永井聡子 (2001). 日本における劇場の近代化に関する研究 : 帝国劇場・築地小劇場・東京宝塚劇場を中心として. doi:10.11501/3181592. 

外部リンク[編集]