大蔵卿局

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大蔵卿局 / 大蔵局(おおくらきょうのつぼね / おおくらのつぼね、生年不詳 - 慶長20年5月8日1615年6月4日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性丹後国地侍大野定長の妻。子に治長治房治胤治純

生涯[編集]

大野定長の妻で、淀殿乳母を務めた。慶長3年(1598年)の豊臣秀吉死後、正室である高台院とその侍女の孝蔵主大坂城から去ると、豊臣家中で権勢を振るったが同年に大坂城へ入った家康により子の治長と共に大坂から追放される。その後、赦されて大坂へ戻ると再び権勢を振るうようになる。

慶長19年(1614年)に起こった方広寺鐘銘事件では、駿府の大御所徳川家康の元へ使者として派遣される。その際に、家康は彼女には面会し、従前から交渉に当たっていた片桐且元とは面会せず、その後に本多正純金地院崇伝を介して、両者に徳川家に秀頼に対する隔意が無いことを示すように命じている。この時、且元が提案した三案

「秀頼の駿府と江戸への参勤」、
「淀殿を江戸詰め(人質)とする」、
「秀頼が大坂城を出て他国に移る」

に秀頼・淀殿は怒り且元を誅殺しようとしたので、且元は大坂城から退去し、一部の武将も豊臣家を見限り同じく退去した。なお、「大蔵卿局は大坂に戻る途中に且元からこの三案を聞き、先に戻りこれを秀頼・淀殿に讒言した」とされるが、当時の史料には大坂帰還後の彼女が何かしらの役割を果たしたとする記述はない。

以上は通説であるが、近年の研究によると大蔵卿局と且元は共に同じ場所で、徳川方から同じ内容を聞いていたとする説が出され、このことから徳川方による分断工作は行われていなかったとされている[1]。2人の帰坂の日程、そして2人が行った交渉からも、2人は共に帰り、駿府にて出された条件について話し合ったと考えられる[1]

慶長20年(1615年)、大坂の陣で敗れ自害した秀頼や淀殿に殉じて、子の治長と共に自害した。戒名智勝院桂宗春大禅定尼

登場する作品[編集]

テレビドラマ
映画

脚注[編集]

  1. ^ a b 草刈貴裕「方広寺大仏鐘銘事件をめぐる片桐且元と大蔵卿局の動向について」(『十六世紀史論叢』15号、2021年)